萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

山懐、命重―side story「陽はまた昇る」

2011-10-15 23:59:59 | 陽はまた昇るside story

重さを抱いて




山懐、命重―side story「陽はまた昇る」

いつものように、朝の巡回へと自転車で駐在所を出た。
御岳山もコースに入っている。季節柄、登山道の確認が欠かせない。
紅葉シーズンが近づいて、観光客や登山客が最近増えて来た。
登山道も整備され、東京から1~2時間。近場と言う距離感から、不用意に山へ入ってしまう者が多い。

「あまりにモラルの低い登山客が多いよ」と後藤を始め救助隊員の皆が言う。
秋になると必ず「奥多摩に登ったが夜になっても戻らない、遭難したのではないか」
こんな捜索依頼が何件かあるらしい。
そのために、急な召集に備えて救助服姿での巡回になった。

御嶽駅へ向かう地元の人たちが、挨拶を向けてくれる。
自転車で坂を漕ぎながら、英二も笑顔を返した。
「おはようございます」
本当は自転車でこの坂で、挨拶を返すのは結構きつい。

いつものようにケーブルカーの滝本駅に自転車を置かせてもらって、御岳山道に入った。
山道を登って展望食堂、ビジターセンター、ロックガーデンと全体を巡回していく。
御岳は土の道とアスファルトが入り混じったコースになる。
登山靴でのアスファルトは少し歩きにくい。それでもこの感触にも足が馴れて来た。

訓練で登った雲取山と御岳山では、雰囲気がだいぶ違う。
雲取は登山と植林の山であるのに対し、御岳は観光地化が進んでいる。
本来が神社のある、ご神体の山だからと岩崎が教えてくれた。山はこんなふうに、信仰の対象にもなる。

こうして観光地化されている山は、安易な装備が原因になる事故が多くなる。
転落による重傷者もあるが、ハイカーの疲労も多い。
御岳山でも、そんな理由の遭難事故が起きている。
奥多摩は東京の山と言う安心感から、安易に入山する者が後を絶たない。

卒配から1カ月を迎える。
この奥多摩の現実が実感されるのに伴って、よく自分が配属されたと英二は思う。

登山初心者が対応できる場所では無い。
それでも、遠野教官と後藤副隊長は自分をここへ配属してくれた。
早く応えられるようになりたい。そんなふうに思って、いつも歩く。

ロックガーデンに入ると、英二はヘルメットをかぶった。
落石注意の場所だった。けれどここは軽装備のハイカーが多い。
もう少し日が高くなれば、そうした人が増えるだろう。せめて靴だけは、きちんとして欲しいと思う。

あわい緑の濃淡がやさしい。
岩場を覆う苔が、渓流の水気を湛えて、朝の光に静かだった。
澄明な空気に、青々とした苔の香と水の飛沫が瑞々しい。

やわらかな陽射を浴びて、そっと森が息をついている。
朝を告げあう野鳥の囀りと、自分の足音が谷間に谺していく。
水音が心地いい。ここの朝が英二は好きだ。

入口の七代の滝から綾広の滝まで1.5kmほどを歩いていく。
七代の滝は落差50m、大小七段の滝が連なって、冷気がいつも心地いい。
冬になれば滑落は怖いが、冬の滝の姿が英二には楽しみだった。

けれどやはり救助隊員としては、冬期の遭難事故は警戒してしまう。
雲取山で国村が話してくれた、北斜面での遭難事故。
経験と知識の不足が招く事故が、奥多摩は多すぎる。
自身も経験と知識が不足している。せめて雪までには知識だけでも、成長できたらいい。

ときおり青い花が咲いている。
新宿で、湯原の父へ贈った花束にも、入ってた花だと思う。

なんという名前だったろう、周太なら知っているかもしれない。
昨夜も電話した。けれどもう朝から時折、あの隣の事ばかり考えている。


御岳駐在所に戻ると、岩崎が大岳山の巡回から戻っていた。
御岳山の状況を報告すると、大岳山の話を岩崎がしてくれた。
地図を広げて、位置関係を示してくれる。
御岳山は標高929m、その南西に位置する大岳山は標高1,266.5m。
そこから鋸山、御前山へと登山ルートが続く。

「鋸山は1,109m、御前山は1,405m。アップダウンのあるコースになる」

きつそうなコースだなと地図を読む。
地図からの地形把握とルート確認は、登山前の予備知識として大切だった。
岩崎の指先が、鋸山から奥多摩交番がある氷川へと下るルートを示した。
ここは人気のコースだと教えられた。

「この鋸尾根には天聖山の岩場がある、滑落事故が起きやすい」

滑落事故、ここへ来て何度と聴いた言葉だろう。
軽装備で山に入り、登山靴もはいていない。そういう遭難者もここでは多い。
英二の顔を見、そっと岩崎が言った。

「どのような遭難でも、遭難死はいつも悲しい。遺された家族の痛みは辛いよ」

自分はまだ遭難死には出会っていない、けれど吉村医師に出会った。
遭難した息子、その痛みの中で吉村は警察医になった。
息子の遭難死という現実に向き合う為に、警察医になった吉村。
父親の殉職に向き合う為に警察官になった湯原と、吉村は似ている。

天寿を全うできない死は、周りの者の心に傷を遺す。
あの縊死女性の妹は、覚悟していただろう。それでも静かな表情の底には悲しい傷があった。
自分は山ヤの警察官として、そうした傷に向き合わなくてはいけない。
そうして向き合う中で、周太の傷を分けて持つ事も、出来るのかもしれない。


岩崎の妻が用意してくれた早めの昼食を摂ってから、英二は交番表で登山計画のファイルを開いた。
今日提出されたものを再度チェックしてから、過去の記録を見てみる。
御岳山から鋸尾根へと抜けるルートも多い。
どのルートが遭難の発生頻度が高いのか、確認してみたかった。

地図と照合しながら見ていると、視界の端にランドセルが映った。

「こんにちは、宮田のお兄ちゃん」
「お、秀介か。今日は早いな」

笑いかけると、お邪魔しますと言って嬉しそうに入ってきた。
先生達の会議で授業が午前で終わり、給食を食べて来たと教えてくれる。
話しながら秀介は、ランドセルを開き始めた。英二は笑った。

「また算数だろ」
「あとね、理科も見てくれない?」

科目数がこうやって増やされるかもしれない。
そんなことを考えていると、岩崎が奥から来てくれた。

「お、塾の時間か」

そんなふうに笑って、教えてやってくれと促してくれる。
こういうところが岩崎はいいな、と思う。

奥多摩地域の駐在所には気さくな空気がある。
ここではどの駐在員も山ヤだ。山ヤの寡黙で明るい気さくな空気は、いいなと思える。

けれど、どの駐在所でもいつも、遭難事故と自殺者見分がある。
自然豊かなゆったりした空気と、人の生死を見つめる厳しさが、ここには併存していた。
そういう緊張感と穏やかさ、どちらも自分には必要だと思える。

いつものように交番前の土手に腰掛けると、秀介がノートとプリントを広げ始めた。

「今日の理科はね、近所の草花についてなんだ」
「それは俺じゃよく解らないよ。秀介の方がよく知っているだろ」

英二は笑った。
まだ御岳に来てようやく1カ月の英二に、地元ネタの質問をする秀介が可笑しかった。
そうかあと秀介は首を傾げて、考えこんでから言った。

「どれでもいいらしいんだ、御岳に生えている草なら」
「じいちゃんに聞いたらどうだ」

ああそうかと秀介が笑った。

「なんかね、最近は大岳山の入口がどうとか言ってた」

秀介の祖父は農家で、御岳の草木をよく知っている。
カメラを持っては山へ行って、草花の写真を撮っていた。
それが美しいと評判のアマチュア写真家だった。
この間も駐在所へ来て、茶を啜りながら御岳山の植物について話してくれた。

「御岳もなかなか、良いでしょう」

そう英二に言って、嬉しそうに御岳の植物の写真を見せてくれた。
受け取って目を奪われ、英二は微笑んだ。

「本当に、きれいです」

几帳面にファイル整理された写真は、美しかった。
写真に納められた草花たちに、生命の輝きが写っているように感じられる。
このひとは山を愛している、そんなふうに思えた。

英二を見ながら田中は、照れくさそうに微笑んだ。

「下手の横好きだよ。けれどね、山への気持ちを撮っている」

一度ゆっくり遊びにおいでと誘ってくれた笑顔が、気さくで温かかった。
この人も山ヤなのだなと、なんだか英二は嬉しくなった。
ゆっくり話してみたいなと考えていたら、秀介が算数のドリルを差し出した。

「じゃあこれ教えて」

見ると『3年生用』になっている。秀介はまだ1年生だった。
ページをめくってみると、何箇所かもう解いてある。
チェックすると正解だった。

「これ自分で解いたのか、秀介?」
「うん、」

にこにこ笑って、ここが解らなかったと指さしてきた。
秀介は聡明な性質らしい。
もうひとりの「しゅう」とこんな所も似ている。なんだか嬉しくて英二は微笑んだ。

30分ほど勉強した秀介が帰った後、地図と登山計画書の照合を続けた。
ノートにメモしながら、遭難の起りやすいポイントを確認していく。
捜索の時に参考になるといい、そうして一刻でも早く発見して救助できたらいい。
英二は山の経験が少ない分、知識だけでも詰め込みたかった。

ふっと意識がひかれて、静かにふってくる音に目をあげた。
入口から見えた外は、田園と森を驟雨が白く染めていく。
雨音に奥から出て来た岩崎が、夕方の巡回はレインスーツでいけよと声をかけてくれた。

「秋雨は冷たいからな、体温が奪われると危険だ」

警察学校の入校式前、雨中でのランニング。
あのとき、雨に打たれて発症した低体温が原因で、瀬尾は倒れた。

入口から、冷ややかな空気が流れ込んでくる。
濡れた体に風があたれば、体温が奪わる危険が増してしまう。風に岩崎がすこし眉を顰めた。

「こういう雨は、遭難が起きやすい」

急な雨に、雨具の準備が間に合わない事がある。
若い瀬尾でも倒れた、中高年ハイカーには尚更危険だろう。
軽装備での入山者が多い御岳の登山道が気になった。
ロックガーデンは苔も滑りやすく、滑落と落石が不安になる。

英二はファイルやノートを片付けながら、岩崎に訊いた。

「すみません、夕方の巡回に今から出てもよろしいでしょうか?御岳の登山道が気になります」

今から出れば、日暮れ前には登山道を一巡りして戻ってこられる。
午後からの入山者はまず少ないが、もしいた場合は注意と装備確認もしたい。
そうだなと岩崎は頷いてくれた。

「おう、頼むよ。俺も大岳へ行ってくる」

救助服にレインスーツを着込む。
英二は、ザックに何個かカイロとタオルを入れて、レインカバーを掛けた。

雨中を自転車で出て、ふっと秀介が気になった。
おそらく降雨前には帰宅しただろう、けれど巡回の途路に立ち寄ってみた。

秀介はちゃんと帰っていた。

「ばあちゃんの干芋、おいしいよ」

かわいい掌で、おやつの干し芋を渡してくれた。
ありがとうと受取って、遠慮なく口に入れる。あたたかい甘みが懐かしい。

「うまいな、」

微笑むと、そうでしょと秀介が嬉しそうに笑った。
玄関先で御馳走になる、秀介の母親が淹れてくれた茶が温かい。
ここは、こういうところがいい。都会で育った英二には、こんな温もりが嬉しい。

ごちそうさまでしたと湯呑を返した時、そういえばと彼女が言った。

「じいさま、まだ帰ってこないのよね」

時計は15時を過ぎている。
秀介の祖父には、早めの昼食の後に御岳山へ登る日課がある。
そして写真を撮って14時には帰宅する。
1時間も予定を過ぎるのは、几帳面な性格の田中らしくない行動だった。

そして雨が降り出した時刻が気になる、秀介の帰った後だから13時位だったろうか。
不安が胸を掠めたが、英二は笑って言った。

「御岳山で見かけたら、待っているとお伝えします」

よろしくねという彼女の笑顔を背に、田中の家を出ると無線を使った。
繋げた岩崎に報告をする。

「じいさんは心臓の持病がある、それが心配だ」

心臓病患者が、この冷たい雨にうたれたら。
早く探したほうがいい、そう判断して英二は無線に訊いた。

「巡回コースを変更して、このまま御岳山道へ向かっていいでしょうか」
「おう、頼む。俺も大岳から御岳へ回ろう」

念のため田村隊長か後藤副隊長にも連絡しておけと言って岩崎は無線を切った。
そのまま後藤に繋ぐと直ぐに出てくれた。

「俺も巡回が終わったら、そちらへ行くよ」

もし見つかったら連絡をくれと言ってくれる。
ありがたいなと思いながら、英二は御岳山へと向かった。

登山道を歩きはじめる。時計は15時半を指していた。
この時期の日没は17時、あと1時間半で暗くなる。
雨はまだ止んでいない、雲の低い山道は暗くなり始めていた。
念のため、ヘッドランプを点ける。光線が登山者に位置を教えることにもなるだろう。

雨水を含み始めた足許を慎重に運びながら、急いで道を辿り始めた。
レインスーツの体は温かいが、頬をふれる風が冷たい。気温が下がっていく。
登山経験の豊富な田中だから大丈夫だろうとも思う、けれど山では万が一が怖い。

焦りそうな心を宥めるように、英二は辺りを見回した。
黄葉の透明な梢から、冷たい雫が額を打つ。
その感触が予想以上に冷たい、冷静になろうと思えた。

英二の無線が受信になった、取ると今日は非番の国村からだった。
地元出身の国村は元々田中の家と親しい。直接連絡が来たと言って英二に訊いた。

「田中のじいさんのアルバム、最近見たかい?」
「おととい、見せてもらいました」
「その一番新しい写真は、何が写っていた?」

国村の意図が解った。
最近よく田中が行っていた場所、そこが捜索ポイントになる。
そういう推測を国村は言っている。
さっき秀介が話してくれた事を英二は思い出した。

―なんかね、最近は大岳山の入口がどうとか言ってた

捜索のヒントになるだろう。
英二の言葉を聴いた国村も、そこを見るといいと頷いた。

「自分も今から出るよ」

言って国村は無線を切った。
大岳なら今まさに岩崎が歩いている。
両方から向かえば、どちらかが田中に出会えるだろう。

七代の滝まで着いた時、日が暮れかけ始めていた。
雨は止んだが空気は秋冷に佇んでいる。
ここまで登山客と一組すれ違ったが、装備を整えた夫婦だった。
さり気なく他のハイカーを見なかったか訊いたが、自分達だけだと答えていた。

「御岳神社から七代の滝を廻って雨になったので、そこから戻りました」

ふたりは七代の滝より奥、大岳方面には行っていない。
田中は七代の滝より奥に居る可能性が高い。

途中、御岳駐在で留守番をしている岩崎の妻へと連絡をしたが、無線の向こうでも心配そうだった。
田中はまだ帰宅していない。

木の根道を歩き始めた時、不意に足が滑りかけて英二はバランスを戻した。
雨に苔が滑りやすくなっている。
ほっと肩で息をついて、焦りを宥めるが上手くいかない。

親しい山ヤが今まさに危険にあるかもしれない、その焦りが足許を崩そうとする。
山の経験不足が焦りのコントロールを妨げる、それが英二は悔しかった。
経験のない自分がここへ配属された、その重みが一挙に胸を迫り上げてくる。
悔しいー自分への焦りが掌で胸を押さえさせた。

その掌を固い感触が迎えてくれた。
グローブを外して胸ポケットを探ると、オレンジ色のパッケージを取出す。
このあいだの雲取山訓練で、下山の時に背負った負傷の少年。
彼に含ませた飴の香を思い出し、心が和んだ。

一粒取出して、英二は口に放り込んだ。
転がす甘さと香に心が凪いでくる。この飴を好きな、あの大切な隣の微笑が懐かしい。

周太に会いたい。
ここで焦って、事故に遭ったら会えなくなる。
あの隣を、孤独に置いていくのは、絶対に嫌だ。

そんな想いが、英二を冷静に引き戻していく。

見上げた梢の向こうで空は、雨雲が少しずつ流れて残照が輝き始めた。
足許はまだ見える。
英二は鉄梯子を、足裏で掴むように登り始めた。

天狗岩で赤い色彩が目に飛び込んだ。ザックの色が、薄暮に鮮やかに見える。
そっと静かに急いで歩み寄った。
岩根に蹲るように田中が呻いていた。

胸を押さえる様にうつ伏せた田中が、足音に顔を上げた。
意識はしっかりしている、英二は傍らに片膝をついた。

「田中さん!」

抱き起こした呼びかけに、苦しげに田中が微笑んだ。

「…写真にね、熱中しすぎ、てね」

抱き起こした体が、濡れている。あの冷たい雨に打たれたのだろう。

「レインスーツ…着る間もなく、この、しんぞうが、」

急な体温低下に心臓が悲鳴を上げたのだろう。
とにかく体温を保つほうがいい。英二はカイロを取出した。
田中の脇下、手首と貼っていく。血流を正常に動かし体温を上げさせたかった。

「薬は飲まれましたか」
「…ああ、」

返事に頷いて、英二は無線のスイッチを入れた。
岩崎、後藤、国村へと連絡していく。

田中の体力は時間の勝負になる、このまま背負って下山する事になった。
この10月下旬、夜間の冷込みは0度を下回る。
夜間ビバークになっては、その冷込みが田中にとって危険だった。

ザイルを取出し、田中を固定するように背へ乗せる。
発作を起こしかけた田中が、急に意識を失っても落ちないようにする必要があった。

老齢でもがっしりした体躯の田中は、重い。
けれど湯原を背負った、警察学校時代の山岳訓練に比べれば、ずっと楽だった。
あの時よりも自分は強い、その事が英二の足取りを着実にしてくれる。

「田中さん、ケーブルカー駅までもう少しですから」
「…ああ、」

話しかけながら下山していく。
こうした呼びかけが、遭難者への励ましとなって生命を救うと、岩崎が教えてくれた。

「田中さん、今日はどんな写真撮ったんですか」
「…りん、どう」

花の名前らしいが、英二には解らなかった。
それでも肩越しに微笑んで、英二は話しかけた。

「今度見せて下さい」
「…おう、」

少し田中が微笑み返してくれた。背中越しに伝わる拍動が、不規則でも伝わってくる。
きっと助かる、そう信じて英二は歩いていった。
とにかく、アスファルトの道へ出たい。
足許の安定が背中への安定にもなるだろう、田中を少しでも楽にしてやりたい。

「み、やたくん」

田中が呼びかけた時、アスファルトの参道から御岳山駅が見えた。
すこしほっとして、英二は肩越しに振向いた。

「秀介を、いつも、ありがとう」
「こちらこそ、いつも楽しいですから」

きれいに笑って英二は答えた。本当に秀介は楽しい。
利発さと笑顔で、自分の大切なひとを思い出させてくれる。
そして最初に秀介を助けた事が、ここ奥多摩で警察官として生きていく自信の起点になった。

「秀介を…頼んでいいかい」

黄昏の光の中で、田中の表情がふっと透明になった。
まさか、と心を掠める。けれど英二は微笑んで答えた。

「私こそ秀介くんに助けられています。彼の手助けが出来るなら、嬉しいです」

きれいな笑顔で田中が笑った。

「みやたくん、あり、がとう…秀介に、元気で、笑え…と」

顔のすぐ横で、田中の瞼がおりていく。

「…ありがとう、と、かぞくに…」

がくんと、英二の背中が軽くなった。


御岳山駅の駅員も駆けつけて、心肺蘇生法を行った。
心臓マッサージを行い、タオルを口に当て息を吹き込む。
心臓マッサージを15回、人工呼吸2回を繰り返す。
国村も到着して2人で繰り返した。
しばらくすると、唸るように息を吹き返すが、間もなく止まる。
3回ほど蘇生した、けれどやがて吹きこむ息も、田中の喉を振るわせるだけとなった。

「…俺に、背負わせてくれるかな」

国村が背負ってケーブルカーに乗り、下山した。
消防の救急車が来て、青梅署へと搬送される。
検案所で吉村医師が待ってくれていた。

「おだやかな心不全でした」

田中の顔を拭いながら、吉村は微笑んだ。
田中の家族が青梅署へと到着し、検案所へと案内されるのを英二は眺めていた。
秀介も母親に手をひかれて入室していく。

―御岳もなかなか、良いでしょう
 下手の横好きだよ。けれどね、山への気持ちを撮っている
 一度ゆっくり遊びにおいで

田中の言葉は、あたたかかった。
駐在所で茶を飲みながら、見せてもらった写真達は、どれも美しかった。

本当に、ゆっくり話してみたかった。
ベテランの山ヤの、美しい写真を撮れる心を語って欲しかった。
彼の「山への気持ち」を教えて欲しかった。

目の底が熱くなる、けれど今は泣いてはいけない。
警察官の自分は、遺族の前で泣いてはいけない。

―大切な人の命を奪われ、打ちひしがれた遺族の前に立たなければならない
 そこでは自分達の迷いや悩みなど一切出す事は出来ないんだ
 強くなれ

遠野教官に言われた言葉は、後藤にも岩崎にも言われた。そして吉村医師にも。
警察官として今、強くならなくてはいけない。

検案所の扉が開いて、田中の家族達が現われた。
廊下に佇む英二に、そっと頭を下げてくれる。英二も静かに頭を下げた。

「宮田のお兄ちゃん、」

秀介が英二に駆け寄った。
静かに片膝ついて、英二は秀介の顔を覗き込んだ。

「じいちゃんにね、理科の宿題…聞けなかった…」

秀介の瞳から涙が零れる。
そっと英二は小さな頭を抱きしめた。秀介、と呼びかけて英二は言った。

「元気で笑え。じいちゃんな、そう言ったよ」
「…僕に?」

そうだと呟いて、英二は秀介の顔を見た。

「りんどう、って秀介は知っているか?」
「…りんどう、花の名前だよ?」

涙をこぼしながら、秀介が答えた。
そうかと静かに微笑んで、英二は教えた。

「きっとな、じいちゃんのカメラに写っているよ」

秀介がすこしだけ、英二に微笑んだ。

「…宿題の答えになるかな?」

ああと頷いて、きれいな笑顔で英二は答えて、秀介を抱きしめた。


寮に戻って風呂を済ませると、22時だった。
携帯にメール受信のランプが光っている。
そうだといいと思って開くと、嬉しい差出人名だった。

声を聴きたい、今、あいたい。
英二は発信履歴の番号に、通話ボタンを押した。


翌日の夕方、田中の通夜が行われた。
参列する英二を見つけて、秀介が駆け寄ってくる。
片膝をついて迎えて、英二は秀介を抱きとめた。

「りんどう、写ってた」

そう言って秀介は泣いた。

―どのような遭難でも、遭難死はいつも悲しい。遺された家族の痛みは辛いよ

岩崎の言葉の通りだと思う。こんなふうに、知人ですら辛い。
幼い日の湯原の、父が殉職した夜の痛みを想った。
いま秀介を抱きしめて泣かせている、こんなふうに周太も抱きしめて、泣かせてやりたかった。

ひとしきり泣いて、秀介は顔を上げた。
さっきより少しだけ大人びた顔で、秀介は口を開いた。

「医者になるのは難しい?」

そうだなと英二が微笑むと、秀介が話しだした。

「きのう、吉村先生が言ったんだ。
 おじいさんはとても良い顔をしている。
 とても良い人生を生きた、幸せな顔だ。幸せな人生が幸せな死になるんだ。
 だから大丈夫、おじいさんは今、きっと、幸せでいるよ。こんなふうに言ってくれた。」

吉村らしいと、英二は微笑んだ。そういう吉村は素晴らしいと素直に思える。
秀介が少し笑って、言った。

「僕、嬉しかった。だから僕、吉村先生みたいになりたい」
「そうか、」

涙をこぼしながら、秀介が笑った。

「そうしたら、宮田のお兄ちゃんの事も診てあげる」
「うん、頼むよ」

きれいな笑顔で英二は笑った。
小さな掌が英二の背中を掴んで、細い泣き声が夕空へ響いた。


田中家の門前で、国村が静かに言った。

「山ヤが山で死ぬだけだ、それが山ヤの本望だ」

すこし笑って、国村が英二を見た。

「俺のね、両親が山で死んだ時、田中のじいさんがさ、そう言ってくれたんだ」
「…ご両親が」

国村の家族を聴くのは、初めてだった。そうと頷いて国村は続けた。

「俺の両親は山ヤだった。そして俺も山ヤになったよ」

軽く笑って国村が言った。

「田中のじいさん、結構いい事を言うだろ?」

じゃあ手伝いに戻るよと、国村は田中の家へと戻っていった。

―山ヤが山で死ぬだけだ、それが山ヤの本望だ

いいなと素直に英二は思った。静かに英二は、田中の家へと頭を下げた。


御嶽駅へ向かう道、何人かの喪服姿をすれ違った。田中の家へと向かうのだろう。
救助隊副隊長の後藤とも目礼を交わした。後藤の後ろ姿は、寂しげだった。
御岳に生まれて育って、御岳を愛した、ひとりの山ヤ。
普通の農家の老人だった。けれど彼は御岳を愛し、愛されていた。

もっと話したかった。
そんな想いを抱いて、英二は電車に乗った。

あの時、背負っていた背が、がくんと軽くなった。
命には重みがある事が、あの瞬間に教えられた。覚えていたいと英二は思った。



青梅署最寄の河辺駅へと電車がついた。
改札を出る。

「宮田、」

懐かしい声に、英二は顔をあげた。





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