萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

文月七夕、青罌粟―caelum

2022-07-08 12:13:00 | 創作短篇:日花物語
乞巧奠、天涯に花織らせ
7月7日誕生花ブルーポピー青罌粟


文月七夕、青罌粟―caelum

青い背表紙、あなたの背中だ。

「すごいね…ほんとに、」

声こぼれた正午の窓、テレビ画像が君を映す。
サングラスごし瞳きらめく、切れ長い美しい、あなたの眼。

「―無事の登頂は下山こそですから、これから本番とも言えますが、」

銀嶺おりなす青い蒼い空、あなたの言葉は硬くて明るい。
そして、涯まで徹る。

「―ただ気持ちいいです、今は、」

低いくせ徹る、美しい声。
やわらかいけれど硬い、穏やかだけれど厳しい君の声だ。
この声が好きだ、ずっと近くに聴いて、けれど今こんなに遠い。

「ね…標高八千メートルは、どんな世界?…」

テレビ越し問いかけて、声そっと消えてゆく。
それでも画面の笑顔きららかに輝いて、まぶしくて、熱一滴こぼれた。

「とおい、ね…」

想い零れて唇つたう、熱一滴あわく鹹い。
滲みだす熱ゆるく視界をおおう、瞬いて、あなたの笑顔が見える。
いつも見ていた隣の笑顔、それなのに今あなたは八千メートルの高みにいる。

「もっと遠くに行くんだね、これから…」

零れだす声に軋みだす、遠くて。
はるかな高みに登るひと、それは単純に「山」という問題じゃない。
だって既に遠くへ登っているひと、あんなに近くにいたのに、隣にいたひとなのに。

『世界中の山に登ってみたいんだ、どこより高い空を見たい、』

ほら記憶の笑顔まぶしい、今より幼かった。
あの笑顔ただ好きだった、ずっと応援すると約束したのは自分。
あの笑顔ただ好きで、だから夢に笑ってほしいと願って、こんなに遠いなんて知らなかった。

「遠く…違う世界のひとに、」

零れた声に痛い、軋みあげられる。
ふかく深く心臓が軋む、瞳の底ふかく熱こぼれだす。
ずっと、ずっと近くで、いちばん近くで隣で笑ってくれると思っていた。

かたん、

ソファ立ちあがって、けれど離れられない。
もう脚は立ちあがって、けれど視線どうしても見つめてしまう。

「―雲海が広いですね、高さの分だけ広くて、」

真青ひろやかな空、白銀つらなる稜線、まぶしい横顔。
穏やかな低い徹る声、シャープな輪郭なめらかな頬、雪焼け健やかに凛烈まばゆい。

「―ここに来られて幸せです、」

銀嶺はるかなる雄渾の空、穏やかな笑顔ほころぶ。
天涯すこやかな長身ただ輝いて、登山ジャケットあざやかに青が光る。

「きれいだね…」

そっと笑って、瞬き密やかに綴じこめる。
瞑らせた瞼ひっそり青くて、ゆるく目を開けて書架あおいだ。

「ん、」

手を伸ばして、見つめた背表紙をつかむ。
ふれた指先なじむ硬さ、掌ゆるやかな重みとページ開いた。

「…あった、」

見つめるページ、綴られる詞たち瞼を染める。
テレビ越し見つめた青と白銀、それからサングラスも透かす眩しい眼。
それは映像ごしの現実で、現実のくせ夢より遠くて、それでも綴られる詞に近くなる。

「…空、大気に風、はるかなる野と…山、」

詞に織られる想いたち、今、この瞼あざやかに青が光る。
空の青、雲翳の蒼、それから登山ジャケット艶めく色。

「空よ、風よ…遠くにいても君が響いて…離れられない、」

見つめる詞つづられる想い、遠く離れても離れらない。
はるか八千メートルの空、天涯の笑顔、こんなに離れても追いかけてしまう。
光あふれる雪稜、雲馳せる青、登山ジャケット眩しい美しい笑顔。

「空よ…花よ、あのひとに…」

銀嶺おりなす蒼穹の涯、今、君が笑っている。
そして、風の香が。
【引用詩文:ピエール・ド・ロンサール「カサンドラへのソネット」第57番「空よ 風よ」自訳抜粋】


青罌粟:ブルーポピー、花言葉「神秘的、底知れぬ魅力、果てない魅力をたたえる、深い魅力を湛えた、恋の予感、憩い」

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