GHQって何?
GHQの目的は?
GHQはどのような占領政策を行なったの?
GHQによる日本統治の仕組み
GHQによる日本統治には大きく2つのポイントがありました。
そのポイントというのが、「間接統治かんせつとうち」と「アメリカによる統治」です。
もぐたろう
どちらもGHQによる日本統治を理解する上で重要な部分になります。
それぞれ、詳しく紹介しておくね!
ポイント1:間接統治
GHQによる日本統治は、間接統治という仕組みで行われました。
間接統治っていうのは、GHQが直接日本を統治するのではなく、
GHQが日本政府にさまざまな命令・指示を送って、国の統治自体は日本政府に任せる方法のことを言います。
図解するとこんな感じです。
直接統治と間接統治の違い
GHQはポツダム勅令と呼ばれる命令を出すことで、日本政府に対してさまざまな命令・指示を出しました。
※ポツダム勅令は、当時の憲法(大日本帝国憲法)を超越するものであり、もし日本政府がポツダム勅令の命令に逆らうようなことがあれば、GHQには直接日本の政治に介入する権限まで与えられていました。
GHQが日本を間接統治した理由
GHQは当初、日本を直接統治することを考えていました。
※日本より前に降伏したドイツでは、アメリカ・ソ連・イギリス・フランスの4国による直接統治が行われていて、ドイツ政府(ナチス)は解体されていました。
しかし、GHQの最高司令官ダグラス=マッカーサーが、日本の社会・文化に精通した人物だったこともあり、日本政府を残しておいた方が統治がやりやすくなる・・・という話になり、間接統治が採用されることになりました。
マッカーサー
日本人は、政府に重い負担を強いられ戦争に敗北したにもかかわらず、今もなお政府の最高責任者である天皇に崇敬すいけいの念を抱いている。
敗戦後であるのに社会に秩序が保たれているのも、国民の多くが天皇を信じているからだ。
直接統治を行なって日本政府を解体すれば、それは天皇を否定することに意味する。それならば日本政府を残したまま、GHQ→日本政府→国民と命令・指示を出した方が、国民もスムーズにGHQの言うことに従ってくれるだろう。
ポイント2:アメリカによる統治
もう1つのポイントは、「日本は連合軍の占領下に置かれた。」と言いながら、実際に日本の占領政策について決定権を持っていたのはアメリカだけだったという点です。
太平洋戦争は、日本VS連合軍による戦争でしたが、その戦いのほとんどが日本VSアメリカによるタイマン勝負でした。
そこで、日本との戦いに一番貢献したアメリカが日本統治に関して主導権を持つようになったのです。
阻止されたソ連による北海道占領
日本が敗戦した当初、ソ連は日本の分割統治を提案していて、北海道の一部をソ連の占領下に置くようアメリカと交渉をしていました。
※ソ連は、終戦直前に日本に攻め込み(ソ連対日参戦)、北方領土や樺太を制圧した実績があるので、その見返りとして北海道を占領することを望んだのです。
しかし、アメリカはソ連の勢力拡大を恐れ、ソ連の意見を拒否。日本をGHQによる間接統治下に置きました。
もぐたろう
もし日本がドイツみたいに分割統治されていたら、今ごろ北海道はロシアの領土になっていたかもしれません。
実際、ソ連に実効支配されていた北方領土は今もなお、ロシアの支配下に置かれたままです。
GHQの組織図
日本政府に直接命令を下すのはGHQでしたが、そのGHQが政策を決定するため、GHQの背後にはいくつかの組織が設立されていました。
GHQによる日本統治の仕組みは図解するとこんな感じになります。
GHQによる占領統治の仕組み
もぐたろう
新しく登場した「極東委員会きょくとういいんかい」と「対日理事会たいにちりじかい」について、それぞれ詳しく紹介して起きます。どちらもGHQに関連してよく出題されるワードです!
極東委員会
日本の占領政策を決める最高意思決定機関。
1945年12月に設置され、11カ国(後に13カ国)で構成されていました。
日本の占領政策は極東委員会によって決まり、それを実行するのがアメリカ&GHQでした。
極東委員会の決定は、参加国による多数決・話し合いによって決まりました。
・・・が、アメリカにだけは特権が与えられていて、
緊急時には極東委員会の決定を待つことなく、アメリカの独断で決定を下してOK
というルールが設けられていました。
※極東委員会の決定を待たずにアメリカが決定を下せる特権のことを「中間指令権」と言います。
もぐたろう
極東委員会は形式上は最高の意思決定機関だったけど、アメリカが中間司令権を持っているせいで、実際はほとんどの政策がアメリカの意向によって決まりました。
対日理事会
アメリカ・イギリス・ソ連・中国の4カ国で構成されるGHQの諮問しもん機関。
諮問とは?
諮問っていうのは、『意見を求めること』を堅苦しく表現したもの。
今回の場合は、GHQが占領政策について諮問をして、GHQの諮問に対して意見を出す組織が対日理事会ってことになります。
対日理事会は、あくまで意見を出す場であり、何かを決める権限は持っておらず、さらにGHQが対日理事会に意見を聞かずに政策を決めてしまうこともあったので、対日理事会の影響はごく一部に限られました。
GHQによる占領政策
繰り返しになりますが、GHQのミッションは日本の非軍事化と民主化です。
それぞれの具体的な政策をまとめておきます。
治安維持法・特別高等警察の廃止
政府に逆らうものを問答無用で弾圧して、日本の軍国主義の原動力にもなっていた治安維持法ちあんいじほう・特別高等警察とくべつこうとうけいさつが廃止されました。
特別高等警察は、1910年に起きた大逆事件をきっかけに共産主義者を取り締まるための組織。
治安維持法は、1925年に制定された普通選挙法によって共産主義が広まることを防ぐために作られた法律。
いずれも、もともとは共産主義者を弾圧するための制度でしたが、次第に拡大解釈され、政府に逆らう者にまで対象が広がっていきました。
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人権指令
GHQは、治安維持法などによって捕らえられていた共産主義者などの政治犯を即時釈放するよう日本政府に命令しました。
この命令のことを人権指令じんけんしれいと言います。
もぐたろう
日本の民主化を進めるためにも、思想弾圧によって虐げられていた人々(その多くが共産主義者)を解放する必要があったんだ。
プレスコード
GHQは、思想・言論の自由を日本に広めるために人権指令を出しました・・・が、GHQに対する批判は禁止しました。
GHQはプレスコード(新聞発行綱領)を出して、新聞などの出版物を事前に検閲し、GHQへの批判が含まれていないか厳しく監視しました。
公職追放と東京裁判
解放された人々がいる一方、戦争に関与した人々には重い処分が下されました。
■公職追放こうしょくついほう
1946年1月、GHQは日本の民主化に相応しくない人物を公職から追放するよう日本政府に命令を出しました。
「民主化に相応しくない人物」には
戦争犯罪者
陸海軍人
国家主義団体の有力者
大政翼賛会関係者
などが挙げられ、1948年までに約21万人が公職追放の対象となりました。
■東京裁判とうきょうさいばん
東京裁判の様子
1946年5月、日本の戦争犯罪者を裁く国際裁判が行われました。(東京裁判)
被告人は犯罪の重さに応じてA・B・Cの3ランクに分けられ、東京裁判ではそのうち最も罪が重いA級戦犯が裁かれました。
28人がA級戦犯として東京裁判で裁かれ、そのうち7名が死刑となりました。
もぐたろう
A級戦犯の中には、元首相だった東條英機とうじょうひでき・広田弘毅ひろたこうき・平沼騏一郎ひらぬまきいちろうの姿もあったよ。
昭和天皇の人間宣言
昭和天皇は日本の君主であったにも関わらず、東京裁判の対象とはなりませんでした。
その代わりとして、昭和天皇は人間宣言なる宣言を発表して、自らの神格性を否定しました。天皇というだけで超越的な権力を持っているわけではないことを世間に示したのです。
※人間宣言は、後に日本国憲法に定められる象徴天皇制の布石となりました。
五大改革
GHQは、日本の民主化を進めるために5つの大改革を日本政府に対して命令しました。
五大改革の内容
女性にも参政権を与えること
労働者保護のため、労働組合の結成を世に広めること
教育制度の民主化
秘密警察などの廃止
経済の民主化
もぐたろう
五大改革の内容はここでは説明しきれないので、別の記事でまとめる予定です!
日本国憲法の制定
1945年10月、GHQは、日本政府に対して民主的な憲法を制定するよう命令を下しました。
・・・しかし、日本政府の憲法案は天皇の統治権を認めたものであり、民主化の前提となる国民主権にはなっていませんでした。
そこで1946年2月、GHQは自ら憲法案(マッカーサー草案)を作成。
マッカーサー草案に若干の修正が加えられ、1946年11月、日本国憲法が公布されました。
GHQの方針転換
1948年、GHQはこれまでの民主化方針を大きく転換します。
方針転換の背景には、中国で起きていた内戦で中国共産党が有利に展開を進めていた・・・という事情がありました。
中国の国共内戦
中国では、日本がアメリカに敗北して日中戦争が終わると、1946年から内戦が始まっていました。
孫文が掲げた三民主義を目指す中国国民党
VS
共産主義を目指す中国共産党
内戦の結果は、中国共産党の勝利。
中国共産党は、1949年に中華人民共和国(今の中国)を建国しました。
アメリカ
・・・ヤバい。中国とソ連に挟まれている日本なんて、放っておいたらあっという間に共産主義の波に飲み込まれてしまうだろう。
共産主義は、自由主義のアメリカにとっては敵だ。敵に日本を渡すわけにはいかない!!
こうして、アメリカは日本の占領方針を大きく転換しました。
方針転換その1:公職追放の解除とレッドパージ
GHQの命令によって、戦争に関与した多くの人々が公職追放されましたが、その空いたポストに共産主義者が就いてしまうことを恐れたGHQは、公職追放を解除しました。
その代わりとしてGHQは、共産主義思想を持つ者を公職から追放する方針を示します。
方針転換後の一連の共産主義者の公職追放のことをレッド=パージと言います。
方針転換その2:労働運動の規制
GHQは当初、日本に対して労働組合を世間に普及させることを求めました。
・・・が、過去の歴史から労働組合は共産主義者の温床となっていたため、公務員に限って労働組合から労働争議権を剥奪しました。
※労働争議権については、次の記事で詳しく解説しているのであわせてどうぞ!
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方針転換その3:経済民主化よりも経済復興!
GHQは当初、財閥ざいばつによって支配されていた日本経済の民主化を目指してました。
しかし、東アジアが共産主義に飲み込まれ始めると、GHQは経済の民主化よりも日本の経済復興を優先するようになります。
進んでいた財閥の解体は中断され、さらに日本の経済復興・安定化のためドッジ=ラインと呼ばれる新たな経済政策がスタートしました。
GHQによる占領統治の終わり【サンフランシスコ平和条約】
サンフランシスコ平和条約の様子
さらにアメリカは、日本を一刻も早く独立させ、中国・ソ連に対抗できる資本主義国家に成長させようと考えるようになります。
1951年、日本とサンフランシスコ平和条約を結び、そして1952年、7年間に及ぶGHQによる占領統治は終焉を迎えました。
アメリカ
日本を早く独立させて、立派な資本主義国家に成長してもらおう!
もぐたろう
アメリカの目論見は成功して、その後日本はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となり、中国・ソ連に対抗しうる大国に成長していきました。
※ただし1990年ころのバブル崩壊から日本経済は停滞し、現在は中国に抜かれて世界第3位となっています(2023年5月時点)
GHQの占領政策まとめ
ここまでの話を整理しておきます。
GHQの主に目的
日本の非軍事化
日本の民主化
GHQによる日本統治の仕組み
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