「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・04・20

2006-04-20 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、萩原朔太郎(1886-1942)の詩集「氷島」より「漂泊者の歌」と題した詩一篇。

  漂泊者の歌

   日は断崖の上に登り
   憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
   無限に遠き空の彼方
   続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に
   一つの寂しき影は漂ふ。

   ああ汝 漂泊者!
   過去より来りて未来を過ぎ
   久遠の郷愁を追ひ行くもの。
   いかなれば蹌爾(さうじ)として
   時計の如くに憂ひ歩むぞ。
   石もて蛇を殺すごとく
   一つの輪廻を断絶して
   意志なき寂寥を踏み切れかし。

   ああ 悪魔よりも孤独にして
   汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
   かつて何物をも信ずることなく
   汝の信ずるところに憤怒を知れり。
   かつて欲情の否定を知らず
   汝の欲情するものを弾劾せり。
   いかなればまた愁ひ疲れて
   やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に帰らん。
   かつて何物をも汝は愛せず
   何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

   ああ汝 寂寥の人
   悲しき落日の坂を登りて
   意志なき断崖を漂泊(さまよ)ひ行けど
   いづこに家郷はあらざるべし。
   汝の家郷は有らざるべし!


   (河上徹太郎編 「萩原朔太郎詩集」 新潮文庫 所収)
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2006・04・19

2006-04-19 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、萩原朔太郎(1886-1942)の詩集「月に吠える」から「竹」と題した詩一篇。

  竹

   ますぐなるもの地面に生え、
   するどき青きもの地面に生え、
   凍れる冬をつらぬきて、
   そのみどり葉光る朝の空路に、
   なみだたれ、
   なみだをたれ、
   いまはや懺悔をはれる肩の上より、
   けぶれる竹の根はひろごり、
   するどき青きもの地面に生え。


   (河上徹太郎編 「萩原朔太郎詩集」 新潮文庫 所収)
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2006・04・18

2006-04-18 06:25:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、中原中也(1907-1937)の詩一篇と短歌二首。

  詩人は辛い

  
   私はもう歌なぞ歌はない
   誰が歌なぞ歌ふものか

   みんな歌なぞ聴いてはゐない
   聴いてるやうなふりだけはする

   みんなたゞ冷たい心を持つてゐて
   歌なぞどうだつたつてかまはないのだ

   それなのに聴いてるやうなふりはする
   そして盛んに拍手を送る

   拍手を送るからもう一つ歌はうとすると
   もう沢山といつた顔

   私はもう歌なぞ歌はない
   こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない



 命なき石の悲しさよければころがりまた止まるのみ

 怒りたるあとの怒よ仁丹の二三十個をカリカリと噛む


  (角川春樹事務所刊 「中原中也詩集」 所収)


  
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2006・04・17

2006-04-17 07:45:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、藤原正彦さんの「国語教育絶対論」から、「祖国とは国語である」という見出しの付いた小文の一節で、昨日の続きです。

 「一般国民にとって、ナショナリズムは不必要であり危険でもあるが、祖国愛は絶対不可欠である。わが国語にこの二つの峻別がなかったため、戦後、極めて遺憾なことに諸共捨てられてしまった。悔まれる軽挙であった。現在の政治・経済・外交における困難の大半は、祖国愛の欠如に帰着する、と言ってさして過言でない。
 祖国愛は国際人となるための障害と考える向きもあるが、誤解である。国際社会はオーケストラのごときものである。オーケストラに「チェロとビオラとバイオリンを混ぜた音を出す楽器で参加したい」と言っても、拒否されるだけである。オーケストラはそのような音を必要としていない。バイオリンがバイオリンのように鳴って、はじめてオーケストラに融和する。国際社会では、日本人としてのルーツをしっかり備えている日本人が、もっとも輝き、歓迎されるのである。根無し草はだめである。
 祖国愛や郷土愛の涵養は戦争抑止のための有力な手立てでもある。自国の文化や伝統を心から愛し、故郷の山、谷、空、雲、光、そよ風、石ころ、土くれに至るまでを思い涙する人は、他国の人々の同じ思いをもよく理解することができる。このような人はどんな侵略にも反対するだろう。
 ここ数十年、小中高における国語の授業時間数は漸減してきたが、それに呼応するように、祖国愛も低下してきている。祖国の文化、伝統、情緒などは文学にもっともよく表れている。国語を大事にする、ということを教育の中軸に据えなければならないのである。」


   (藤原正彦著 「祖国とは国語」 新潮文庫 所収)
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2006・04・16

2006-04-16 09:05:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、藤原正彦さんの「国語教育絶対論」から、「祖国とは国語である」という見出しの付いた小文の一節です。

 「これはもともとフランスのシオランという人の言葉らしい。確かに祖国とは血でない。どの民族も混じり合っていて、純粋な血などというものは存在しない。祖国とは国土でもない。ユーラシア大陸の国々は、日本とは異なり、有史以来戦争ばかりしていて、そのたびに占領したりされたりしている。にもかかわらずドイツもフランスもポーランドもなくならない。
 祖国とは国語である。」

 「祖国とは国語であるのは、国語の中に祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されているからである。血でも国土でもないとしたら、これ以外に祖国の最終的アイデンティティーとなるものがない。」

 「グローバリズム、ボーダーレス社会と、世界の一様化が急速に進んでいる。一様化された世界は、何をするにも便利で、とりわけ経済繁栄には都合よいかも知れないが、実に味気ない。世界中の花がチューリップ一色になるようなものである。住むに値しない世界である。各国、各民族、各地方の人々は、その地に咲いた美しい文化や伝統を守るため、よほどしっかりと自らのアイデンティティーを確立しておかないと、一様化世界の中に埋没してしまう。
 国の単位で言えば、アイデンティティーとは祖国であり、祖国愛である。祖国愛は(中略)祖国の文化、伝統、自然などをこよなく愛すという意味である。愛国心に近いものだが、愛国心は歴史的経緯もあり、偏狭なナショナリズムをも含む場合があるから、私は祖国愛という語を用いる。
 英語では、自国の国益ばかりを追求する主義はナショナリズムといい、ここでいう祖国愛、パトリオティズムと峻別されている。ナショナリズムは邪であり祖国愛は善である。邪とはいえ、政治家がある程度のナショナリズムを持つというのは必要なことと思う。世界中の政治家がそれで凝り固まっている、というのが現実であり、自国の国益は自分でしか守れないからである。」


  (藤原正彦著 「祖国とは国語」 新潮文庫 所収)
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桜 2006・04・15

2006-04-15 07:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、萩原朔太郎(1886-1942)の「純情小曲集」の「愛憐詩篇」の中から一篇。


   桜

    
   桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
   なにをして遊ぶならむ。
   われも桜の木の下に立ちてみたれども
   わがこころはつめたくして
   花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
   いとほしや
   いま春の日のまひるどき
   あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。


   (河上徹太郎編「萩原朔太郎詩集」新潮文庫 所収)
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2006・04・14

2006-04-14 07:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、中原中也(1907-1937)の詩一篇。

 月夜の浜辺

 
 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちてゐた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思つたわけでもないが
 なぜだかそれを捨てるに忍びず
 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちてゐた。

 それを拾って、役立てようと
 僕は思つたわけでもないが
     月に向かつてそれは抛(はふ)れず
     波に向かつてそれは抛れず
 僕はそれを、袂に入れた。

 月夜の晩に、拾つたボタンは
 指先に沁み、心に沁みた。

 月夜の晩に、拾つたボタンは
 どうしてそれが、捨てられようか? 

  (角川春樹事務所刊「中原中也詩集」所収)
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2006・04・13

2006-04-13 06:25:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日引用した「蝉しぐれ 子の誕生日なりしかな 敦」と題した平成十年初出のコラムの続きです。

 「やがて久保田万太郎が死んで、安住はそのあとを継いで旧に倍する結社に育てた。『安住敦百句』『古暦』など句集が出るたびに贈ってくれた。

 しぐるるや駅に西口東口

『田園調布』という前書がある。この駅なら東京名物である。昭和十六年初めて私はこの駅に降りた。若年の編集者として岡鬼太郎翁に原稿を頼みに行ったのである。翁は名だたる劇評家で、画家の岡鹿之助の父君である。昭和初年には枯枝みたいだった(ろう)銀杏並木は既に大木になっていた。

 春昼や魔法のきかぬ魔法壜
 うぐひすや母は亡くとも母の家

 共に百句のなかの秀句である。春燈同人には鈴木真砂女がある、渋沢秀雄がある。真砂女は安房鴨川の旅館の女あるじで、思ってはならぬ男を思い思われて家を捨てて東京に出た。やがて男と別れ、帰る家はなし銀座のはずれに『卯波』という小料理屋を開いて四十年になる。卯波は卯月のころ立つ波だという。故郷忘じがたく貧しい店にこの美しい名をつけた。『あるときは船より高き卯波かな』。

 渋沢秀雄は渋沢栄一の晩年の子で、まかされて田園調布の都市計画に当った。実業家より文人で春燈同人の一人で『年賀状来る数減りし今年かな』(今年で九十歳になる)という句なら以前この欄に紹介したことがある。」


   (山本夏彦著「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)
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2006・04・12

2006-04-12 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「『春燈』という雑誌は久保田万太郎が安住敦(あずみあつし)・大町糺(ただす)の力をかりて主宰した俳句雑誌で昭和二十一年一月に出た。敗戦直後の食うや食わずのころで俳諧どころではなかったのに、ながく店頭に置かれて『春燈』ここにありとその存在をひろく知らしめた。
 なぜこんなことをおぼえているかというと、縁あってこの雑誌が全く無名の私の短文を載せてくれたからである。タイトルのつけようがなくやむなく『日常茶飯事』と題したが『私は時々犬になる』『もと美人は残念に思っている』のたぐいがどうしてこの雑誌に似合うだろうとやがて私は打ちきったが、その縁で安住敦が死ぬまでこの雑誌の寄贈を受けていた。

 夏帽や反吐(へど)のでるほどへりくだり

『安住敦百句』のなかの句である。俳句では食べられない、今にして思えばこのころが安住が最も苦しい時代だったのだろう。そんなこととは知らず私は平気で原稿料をもらっていた。
 金がないということはどういうことか、私も一文なしではあったが、金利生活者の子だったから金は銀行にある、ただいま無いだけだと思っていた。それでもさぞ安住は反吐のでるほどへりくだったことだろうことは察するに余りある。」


   (山本夏彦著「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)
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2006・04・11

2006-04-11 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、和漢朗詠集から。

 「年々歳々花あひ似たり
  歳々年々人同じからず  宋之問」
       〔現代語訳〕毎年毎年花は色香もかわらず同じように咲きます。
         けれども人はそうではありません。
         去年いた人はもう今年はなく、毎年毎年同じだというわけにはいかないのです。


 「蝸牛の角の上に何事をか争ふ
  石火の光の中に此の身を寄せたり  白」
       〔現代語訳〕かたつむりの角の上で戦争をするといいます。
         彼らはいったい何をなんのために争うのでしょうか。
         ――人間の争いとはつまりはそうしたものに過ぎないのです。
         石を打った時に一瞬の火花の光に身を寄せるといいます。
         ――人生とはつまりそうした短い時間の中に生きているのです。


  「朝に紅顔あつて世路に誇れども
  暮に白骨となつて郊原に朽ちぬ  義孝少将」

       〔現代語訳〕朝には少年の紅顔もはなやかに、浮き世を我がものがおに誇らしげでありましても、夕には白骨となって、野外の塚に埋もれ朽ちるかもしれません。
人生はつねに無常(mortal)であることです。


  (川口久雄全訳註「和漢朗詠集」講談社学術文庫 所収) 
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