と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

おしめで生まれて、おしめで死んでいくのに、責任転嫁型ではいかがなものか

2015年10月22日 09時22分34秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

トラブルは、責任を人になすりつけることから始まるのだと思うけど

 

 

生きていると色々なトラブルを抱えることがある。

そういう事例を見聞する事が多々あったからである。仕事をしている現役時代は、トラブルの解決役を主な仕事にしていたからである。クレーマー然りであったし。当然矢面に立たなくちゃならないからであった。なにが起きても、私の責任になるのだから、しょうがなかった。ある意味、諦めが肝心である。仕方ない。耐えて生きるしかない。そう思って37年間働いてきた。感謝はしているけど。こんな私でも、定年まで勤め上げることができたのだから。

ま、これくらいにする。守秘義務があるからである。

それと、トラブルの範囲というのは、私的な生活も含まれる。離婚然り、借金然り。人生生きているとロクなことはない。トラブル連続でもって生きているのが、私も含めて庶民の一般的な生活であろうとしみじみ思う。

だから、「蟻とキリギリス」ではないが、「蟻」のごとく地道に堅実に生きているのがいい。

一時の華やかな生活だけが、憧憬の的であっていいのだろうかと疑問に思うからである。

しかもである。

トラブルを抱えている方は、殆ど全部「相手が悪い」と言いつのり、「当事者の自分が悪い」とは絶体に言わない。これが大きな特徴であろう。クレーマーは、まるっきりこのタイプである。100%である。

だから、トラブルのである。

責任転嫁型である。

なんでもかんでも、「誰かが悪い」「アレが悪い」「コレも悪い」・・・という思考法である。これには困る。いつまでたっても、「原因追及」だけであるからだ。原因を追及して、対策を立てるというのは、それはそれで効果があるだろう。しかし、いつまでも他者転嫁型の思考法では、解決はない。

問題を抱えているオノレ自体を変えなくちゃ、なにも解決しないからである。

そういうところに気がつくか、気がつかないかということである。

マスコミも悪い。

政治問題でも、経済問題でも、なんでもかんでも全部原因追求型である。そして、いつも政府の責任追求型でもって論理が展開されていく。

もう呆れているのだ。こっちは。

問題を抱えている当事者自体が完全無欠なんだろうか?と思うからである。そんなことは無いはずである。個人としての立場というと難しいのが「感情」の問題でもあるということは、むろん前提になっている。

しかしである。

「感情」というものは、実に怪しい。怪しいこと限りなし。好き嫌いの感情もそうである。表現方法が悪いから、相手のことが大嫌いだということもある。例外無しにある。私はそれでいつも損をしてきた。好印象を与えられないからである。悪漢のような顔と、だみ声である。良い印象なんてあるわけない。だから、「感情」ほど当てにならないものはないと体験上知っているからである。

「自分は」「アタシは」「かわいそうだ」という論法も実に怪しい。自分だけが、不幸のドン底にいて、生涯その境遇に甘んじなくてはならないと思っているのも、いかがなものか。結局同情をひきたいというだけであって、かわいそうなのは「自分だけ」なのである。

要するに、オノレのことしか考えていないのだ。これは早速改めた方がよろしい。

こういうのが、カウンセリングの基本にあると思うのだがいかがか。

フムフム・ハァハァと聞いているだけが、カウンセリングではないと思う。一時的には、積極的に相手を説得するのもあり得る。そういうのもあっていい。

登校拒否だって、あまりにも親が心配するから、当事者である子どもはシメシメと喜んでいる可能性もある。家に子どもがいるんだったら、両親共々旅行にでも行ってしまえばいいというのが、アドラー心理学の医者が書いた本にあったが、さもありなん。

結局は、自立ができればいいと思う。

ま、人生は自立への道をたどっているだけであるのかもしれない。他者依存ばかりだといつまでたっても、独り立ちできない。しかもそんなのが、立派に子どもをこさえて親になっているからさらに始末に負えない。親になることは誰でもできる。問題は、その後である。どうやって育てるかということである。それもある時期までは親の責任であろう。しかし、どっかで、自立を目指さないと人生を狂わせる。道を誤る。子どもは、親の言うとおりにはならないからである。むしろ、親のようになりたくないというのが正解であろう。それでいいのである。それで。親とそっくりのコピーができても、気持ち悪いだけである。ある程度の影響はあるだろう。それも限定つきの。だからなにも完全コピーでなくてもいいのである。

それでも、最後は他人のお世話になって死んでいく。結局ジタバタしたって、100%死んで行くのである。

 

綾小路きみまろではないが、「おしめで生まれて、おしめで死んでいく」のが人間である。

 

自立できるうちは、自立したジジイでありたい。

そんなことを今朝は思った次第である。

 

今日と明日は、塾が無い。お休みである。塾が。あちこちとまた彷徨するつもりである。カメラでも持って。

 

生きているうちが花でございますよん。

 

じゃぁね~。

 

(ToT)/~~~

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