常に遺された時に、どうするかということを意識している
長年の習慣というのは恐ろしいものである。つまり、家事一般ができないということである。否、させていだけなかったというのが正解なのかもしれない。配偶者がきちんとしていると、ボキなんかクチを挟む余地がないからだ。だらしないからである。だらしないことにかけては天下一品である。ボキの場合は。
だから非常に反省しているのだが、もう遅い。でも、これからもし遺されたことを考えると慄然とする。自分のことくらい自分でやれないとアカン。
江藤淳という有名な方がいた。文芸評論家であった。奥様にネクタイまで締めてもらっていた典型的な奥様依存症の旦那であった。なにもできない。そして、奥様が自分より早く亡くなってから、自殺してしまったのである。ボキは、江藤淳ほどではないが、恐ろしいことだ。こんな風になっちまったらアカンではないか。
このことを昨日はふと思ったのである。慄然としてしまったというのは、それである。思い出したのである。
ボキも変わらんではないか。情けない。もっともボキは、かなりの部分自分でできる。しかし、長年の習慣で家事、特に料理にはクチを出さないでやってきてしまった。ボキの配偶者は、料理教室のセンセもやっているくらいで言わば専門家であるからだ。専門家にアレコレ指示を出していたら、罵倒されてしまうではないか。
こりゃぁ、郷土史の会でもそうである。ボキはなにをやっても素人である。だから、郷土史の会では、まったく発言できない。やったらアカン。素人がなにを言っているのかと罵倒される。ま、周囲の方々はやさしいからそんなことはなされないが。
常に遺された時に、どうするかということを意識していることである。そう気がついたのである。昨日。それもまた生涯学習ごっこの成果である。
わあっははははははっはははっははは