昨日は、またまた東京の紀尾井町というところにある本学のキャンパスで、平家物語講座を拝聴させていただいていた。ほんとうに毎回、毎回のことであるが、無知を自覚させられる。こんなことになるんだったら、高校時代にもっともっと古典や漢文の授業に身を入れておけばよかったという慚愧の思いになる。所詮、愚鈍の固まり「と~ま君」である。後悔は後から後から沸いて出てくる。
しかしである。平家物語を読んでいると、まったく今の政治状況と変わらんなぁと思う。なんだか今日もきな臭い。どうなるんだか。千葉県選出の首相だからという論理では相当おかしいのはわかっているけど、なんとなく期待していたし。
ま、このなんとなくというのは、愚生のような一般ピープルには特性なんでしょう。日本語しか話せないし、米を食べて健やかに成長させていただいたし、原発がおかしくなっても、津波が来ても、どこにも逃げていくあてもないんだし。この狭い日本という土地にずっと住まわせていただきたいんである。だから、これから日本はどうなるかについて興味を持っていきたいと思っているのだケド。あくまで、戦争だけは避けたいもんであると心から思っているんだが。なんだか、きな臭いでありますなぁ。よくわかんないですがね。政治のことは。
講座の後、横山紘一先生の「唯識・仏教辞典」を神田の書泉グランデで購入した。大枚、一万円である。わぁお~とめがねがずり落ちるほどのショック。でも、買うしかない。年金生活者になってから、書籍購入の金額ががくんと落ちた。かなりの低レベルである。サンスクリットの説明もされていて、これまたすばらしい。さすが東大の印度哲学はものが違います。
高校の時に倫理社会で東大の印度哲学を出られたU先生に出会わなかったら、愚生は、ここまでのめり込むことはなかった。歌手の小椋佳さんも、東大法学部から、文学部、大学院修士で印哲をやっておられる。モノが違うけど。とんまのと~ま君とは。
そういえば、この間、退職の挨拶ということで、高校時代の同級生でT女子大の教授をやっているのに℡したら、「まだそんなことをやっているんか」と言われた。(^0^)/ウフフ
そうなんです。真実一路。真実かどうかは別として、一路であることは間違いがない。これしかできなんだしねぇ。
昨日は小侍従のことを平家物語講座でいろいろ教えていただいていた。こんなに詳しく教えていただいたのは、初めてであった。そして、小侍従と和歌のやりとりをしていた藤原隆信との話は、実に興味深いモノがあった。老いのわびしさのごときものが書いてあったからである。なにしろ、小侍従と言えば、モテた女性である。だからなんだと言えば言えるのだが、アタシャそういう話には先天的にダメなんである。だって、まったくご縁がございませんから。平家物語に登場するとしたら、野蛮な比叡山の僧兵で、クチのききかたも知らないという暴徒でしかないんでしょうからね。
だから、雅な京都風というのにかえって憧れてしまうんですかねぇ。まったく少年のように、京都の美しい庭で、琴とか茶を点てておられるニョショウを拝見すると、感動してしまうのだ。やはり、日本的な趣向には和服が似合う。まかり間違っても、妙ちくりんなミニスカートとか、足底30センチもあるようなぽっくり的サンダルではない。このあたりについては、かなり現代女性に対して文句があるんだけれど、書かない。どっかで叩かれたらしょうもないので。
今は、ひたすら静寂の境地を生きておりまするので。(ホントか?)
今日はまたまた隠棲室で、唯識の情報カードを作成していく。さらに、能の源流を探っていく。能勢先生と林屋先生の両巨頭の書籍を読み上げなくてはならん。かなり遅れている。そもそも亀のような歩みであるから、遅いワケだが。
もっとある。日本語の特性について、オノレはどう考えるのかというA4で2枚のレポートも仕上げなくちゃならん。一枚40行という指定であるから、その2倍の80行だ。仕込みはしてある。あとはさくさく書くだけだ。もっとも、ブログのように書くといかんから、そのあたりは配慮するけれども。
家のゴミ出しも終わった。草取りも終わった。11:15分の電車でのろのろと、またまた出かけるのである。楽しみである.実に楽しみ。ただし、京都とは違って、和服を着ている人はまったくいないが。
今日も一日爽快に過ごさせていただきます。
ありがとうございます、であります。