能楽源流考を読む 「大和猿楽考」の部分読み (pp.253-322)
今日も、ずっと読書感想文を書いていた。
なかなかまとまらないが、若干のヒントもあった。
やはりにらんだとおり、キーワードは興福寺である。
奥行きも深いが、幅も広いのである。
これでは大衆の人気があったと思うのである。
そして興福寺がなんの教義を持っていたのか。それがヒントであった。
以下にノートとしてまとめてみる。
平安時代の大和猿楽についての記録が殆ど無いということはまことに残念なことであるが、貞観時代の薬師寺猿楽については東大寺要録所載がある。
また、春日若宮時代には、当初の保延時代からすでに猿楽が参勤していたことが、若宮祭礼記に出ている。猿楽の咒師と思われる者が、長寛の頃には般若坂下に住んでいた。ここは重大なの歴史があって、咒師の起源を考える上で欠かせないことの一つである。
大和猿楽の重大な行事は、寺院の行事に出勤することであって南都諸大寺が階級者に対して絶対的な支配権を持っていたということとの関わりを無視してはならないことである。さらに、南都大寺院は、賤民猿楽者の保護者でもあった。
興福寺と春日社の猿楽は、薪猿楽であって、能勢今朝次は興福寺修二月会に参勤の咒師猿楽に源を発しているとする。(p.254)
先人の研究としては、吉田東伍博士の研究がすべての基礎である。
吉田博士は、薪能は薪宴(タキギノエン)の遺風であるとされた。朝廷献薪の風を興福寺において摸し、興福寺より河上、氷室、の両宮に上分を進め、その際に列参・歌舞をなし、これが祝祷の意を持つにいたって薪宴となるとされた。
しかし、薪宴の薪が興福寺の寺家から、河上、氷室の両鎮守に献ぜられたとするが、興福寺の西金堂の本尊は光明皇后の化身であるとすることで、吉田説には若干の不安がある。
薪の宴は朝廷の御籠木を摸したものとするのも不安がある。時日の点である。それは、朝廷の献薪はすべて正月十五日であるのに対して、興福寺のみに限って二月の三,四日なのは何故かという問題があるからである。
能勢碩学は、「薪宴は興福寺の東金堂および西金堂の修二月会に用いられる薪を迎える儀式である」とされる。(p.262)
この薪迎とは、修二月会行法に用いる薪を東西両金堂に迎える儀式である。西金堂は、河上より列参させ、東金堂は氷室より行列を立てて練り込む。用材は花山にこれを求めたものである。とすると、何故河上や氷室に集合するのかということが問題となる。それは、東西両金堂の地主神であるが故にである。つまり地主神から興福寺に納めるという形になるわけである。
薪迎は、興福寺に限って行われたものではない。東大寺も同じである。
薪猿楽は、修二月会参勤の猿楽であるとするのが吉田説であるが、薪猿楽が薪宴の風俗歌舞に起因するというのは能勢博士は間違いであるとする。(p.265)
「教訓抄」には、西金堂は基駒を謡い、東金道堂は風俗の大島を謡う。猿楽は、歌舞の代用ではないとする。
そうすると薪猿楽はなにによって発生したものであるか。※ここのところが非常に関心のあるところである。
能勢博士は「修正月会、修二月会と咒師の関係から猿楽との関係から解明できる」とする。(p.266)
修正会に咒師や散楽が参勤したとは書かれていないが、法咒師は参加しているのである。これが重要である。法咒師は僧侶であるからだ。ところが、興福寺では修二月会に咒師や散楽が参加しているのである。
ここに興福寺の大衆性を示す好例がある。
建長七年、つまり教訓抄の天福元年の二十二年後に、実に愉快な事例が書かれている。「春日若宮神主祐茂記」の同年二月六日の記に、小便を春日社でしたこと、したがってそれに対して、お祓いをしたことの記述が見える。
東西両金堂を離れて、興福寺南大門に薪猿楽が移されて、民衆がこれを見物できるようになってからで、ここのところに宗教性のさらなる拡大があったと私は思っているのだが。「興福寺諸堂伽藍記」や興福寺の「衆徒記録」をもっと精査してこれから読みたいと考えている。