平成二十年度一学期の始業式にあたり、「教養」について話をしたいと思う。
私たちは生身の人間であって、そのままこの世の中を生きている。そして、「あれかこれか」と迷いながら生きてもいる。迷いながら、選びながら生きていると言ってもいいだろう。その中でも、正邪を選択せざるを得ないようなときに、何を基準に行動を選ぶのであろうか。
邪の方に行かないということが一番の解決法であろう。しかし、それすら決断がつかず、不正を押しのける力さえないという人間もいる。
そうなってはならない。そのために、過去から現在まで、そして将来も学び、知性と感性を磨き、力をつけ、頭脳と体力と徳性を訓練し続ける必要がある。
しかし、あれもこれもどっちも正しいような気がするときに、私たちは大いに迷う。いわゆるジレンマの葛藤だ。
ゲーテは、「人間は努力する限り迷う」(ファウスト 序曲)と言っている。
正しい選択肢の中でのジレンマの時こそ、実は私たちの今まで培ってきた様々な力量が総動員される。自他の生の充実を図って生きていく「術」と「能力」を身につけた者でなければ、決断と行動をすることはできない。
だから学問をしなければならないし、読書は普段から必要だし、文武の部活動も意義がある。それが教養重視の教育である。学問の伝統的教育だ。哲学や数学の起源はこれだったろうし、科挙の類もそうだったろう。しかし、言い過ぎかも知れないが、教育が趣味、四書五経の暗記力程度で行われたら近代国家はもたない。県立銚子は、生まれ変わった。この学校で学ぶことの意義は、まさにそこにある。
その「教養」を支えるものは、「習慣」である。
習慣を変えること。フランスのアミエルという哲学者は、「アミエルの日記」で「生活とは習慣のおりなす営み」というようなことを言っているが、至言である。
学校生活全般にわたって、言い得ることではないか。
勉強然り。
いや、勉強ほど、習慣の大切さを実感できるものはない。
毎朝、二時間ほどやってみる。夜はもっとやってみる。昨日よりもすこしだけやってみる。あるいは、一日に必ず問題集を五ページ解いてみる。いろいろな試みができるはず。
具体的には、本校の各先生がたに聞いてみること。先生方は、すさまじい努力をしてこられたのだから。きっと役立つアドバイスをいただけると思う。
新年度、ますますの努力をお願いしたい。