と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

昔は良かったと思うようでは

2012年11月29日 13時45分48秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

昔は良かったと言ったり、そういう感慨にひたるときは、要注意である。

現在が不幸だからそう感じるのである。

友人達と、「オレも昔は、こんな仕事をして、成果を上げて、おかげで出世して」とか「オレは優秀だったから、某一流大学を出て、おかげで順風なサラリーマン生活をして・・・・」とか、居酒屋で聞くこともあった。愚生は「」の中のような台詞を吐ける経験はまったくしていないので、一言も言ったことは無い。

今は、その居酒屋にも出没できない経済状況になったから、行かない。ついでに言えば、今の愚生は忘年会も全くない。アルコールと香水の匂いがするところに行くと、吐き気がするんである。(ホントか?)

忘年会をやらんから、新年会をやるつもりである。拙宅である。夫婦単位で、10人くらいでやる。それが唯一の楽しみである。未来のことを話するのである。忘れたいような哀しい話はお断りである。

つまり、人間、絶好調の時は、現在に生きているから、過去なんて思い出すヒマもないのである。どうせ死ぬまでは生きているのである。ぐちぐちと現在のことを、周囲に触れ回るというのは、もう止めた方がよろしい。現在の不満を、過去のことを愚痴ることによってバランスをとっているという可能性もあるから、これ以上は書かない。

映画の3丁目の夕日というのも、過去を懐かしむということでバランスをとっているのであろう。だから、愚生は見ない。昭和30年代のことは、覚えていない。第一、記憶力が甚だしく悪い。劣等生だったから(今でもそうだよん)、思い出したくもない。恩師の先生達にご迷惑をおかけしたし。暴れん坊だったし。

だから、愚生は「現在が絶好調」なんである。

これまでも、これからもである。

来年どうなっても、「現在が絶好調」なんである。こだわらないのである。本学を退学になっても、次の手を考えてある。あの手この手である。たびたび書いているが、ライセンスを取得できなくても、それはそれ。だって、それは他人が評価するものであって、自分で決めるものではないからである。

いろいろと外部にて、論文を書かせていただいたり、話をさせていただいたり、暴れていればそれで満足・マンゾクである。

「現在に生きることができる」からである。

 

公園のベンチに座って、亡くなった親を、あるいは過去を思い出して涙にくれる。・・・そんな生き方は愚生には似合わない。過去を思い出しそうになったら、危険ゾーンに入ったと思うことにしている。

だから、定年後に家に閉じこもっていてはいけないのである。体を鍛えるのもいい。スポーツジムで汗を流して、若い人たちのいききとした姿を見るだけでもいい。レオタード姿の若い女性なんぞは、実に目の保養になるから。

(^-^)/

 

働き場所が無かったら散歩してみてもいい。くたくたになるまで、動いてみることである。

あくびをして、オレにはもうすることがないんだと言っていてはならないのである。

「オレには、まだまだすることがいっぺぇあるんだ!」と、息巻いているほうがうんといいでっせ。

愚生のように。

 

(^_-)-☆

 

 

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