贈与である。教育と農業は。
いろいろやっているから、アタマの切り替えが大変だ。もともと惚けているから、そうなんである。
しかしである。こういう言い方は予防線でもある。別にいじけて言っているのではない。へりくだっていると、実によく相手のことが見えるからである。人間観察には実にいい。自虐のラインを出しながら、本心は違っているからである。ある意味人が悪いとも言えるだろう。これでいいのである。愚生は、「生き延びるための智慧」だけは十分あるからである。だって還暦を過ぎたんでっせ。人柄も悪くなりますなぁ。ハハハ。
さらに、他者に、もっと言えば上司に「最近イライラしていないか?」と言われているようでは大人のすることではない。「見抜かれて」いるからである。自己のこころの状態を、他者に見抜かれているようでは、まだまだガキである。大人ではない。
このことは、メールでも、普段の会話でも気をつけられた方がよろしい。特に、メール。相手が見えないから、激烈なことを書いてしまう傾向があるからである。2チャンネルもそう。炎上とか、見ている方は楽しいが、大人の対応ではない。相手がいなければ何を書いてもいいっていうもんではない。特に相手を侮辱してはならんのである。
昨晩は塾でアルバイトをしていた。たった一コマである。英語と国語をやっていた。カネにはならん。いろいろな会話を楽しみながら、勉強をするからである。孫のようなちゅーぼーたちと話をする。中でも、ノートをワスレテきた子に、いつも使っている情報カードをあげた。ノートの代わりに使ってほしいからである。ピンクの色だから、楽しんでやっていた。こういうのが楽しいのである。
在籍校とは別の大学で、午前中授業もやっていた。教職課程である。昨日で2回目である。今年から、ケーススタディを導入したから、大学生たちと教育に関する議論を後半は展開している。このやり方は、なかなか効果的である。一方的に愚生の講義が展開されるわけではないからである。しかも、愚生の37年間にわたる教育実践者としての雑談がある。こっちの方がおもしろいのではないかと密かに思っているのだが。(^▽^)
資料も大幅に改訂して、140枚である。まだまだ改訂作業を続けながら、若い人に贈与していきたいのである。そう、経験と智慧である。知恵ではない。智慧である。
教育も農業も贈与である。本当にそう思う。あとは、贈与されたタネを大事に育てていっていただきたいと思っている。花が咲くか、それともダメになるかは本人次第である。
要は本人の自覚である。自覚しなくちゃ話にならない。なんでもそうである。やる気にならなくちゃいけない。だから教育はサービス産業ではないのである。百歩譲ってサービスだというのなら、自覚を促すサービスであるということくらいか。成果を上げられない教師は去れというのも実に乱暴な考え方である。だれでも天才になれるってか?わははである。ソクラテスの時代から、天才を作るために教育はあったのか?天才は放っておいても、天才になるのである。
生き延びるための智慧を持つ方が大事である。そもそも、知識を身につけてちょ~一流大学に入って、一流会社に就職することが、happinessなんだろうかねぇ。
古代の人間たちの方がまだまともだったと思う。あらゆる宗教が発生する前から、古代に生きる人間達は、生きるための智慧を持っていたのである。記紀神話も必要上読んでいるが、それよりも前に我々の祖先達は長い時をかけて生き延びてきたのだ。それをワスレテはならないと思うのである。
今日は寒いなぁ。昨日が暖かったから余計そう思う。しかし、これから出かけなくちゃならん。在籍校に。サービスを求めて行っているのではない。自分から行きたいから行っているのである。自分が勉強しなくちゃならないのだ。論文書くのに、先生のサービスを受けたら、誰でも書けるかということになったら、そんなのはもう教育ではない。苦しみながらやるから、教育になるのである。
そう思っている。
じゃぁ行ってきまぁす。
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