(写真は綾傘鉾 2009年)
2010年度 87冊目
『踊り念仏』
五来重 著
平凡社
1998年4/15
287ページ ¥1000
五来 重 『踊り念仏』 1988 平凡社
第一章 お国かぶき
しのびおどり
小歌踊と女曲舞
踊念仏と亡霊済度
出雲大社の本願
巫女と歌念仏
伊勢音頭
第二章 うたう念仏・踊る念仏
六斎念仏との出会い
融通念仏へのアプローチ
大念仏から持斎念仏へ
山の念仏
堂僧から六斎念仏衆へ
四遍・白舞・阪東の曲
第三章 空也の踊念仏
空也僧の歓喜踊躍念仏
空也の踊念仏とは
空也僧の乱舞から地芝居へ
第四章 やすらい花
踊念仏の花傘
花傘の構造と起源
跳躍乱舞と「なまへ」
第五章 一遍の遊行と踊念仏
信濃と踊念仏
伴野館内の踊念仏
すすき念仏
第六章 白拍子と踊念仏
大輪大念仏と数え唄
大念仏と数え唄和讃
白拍子と数え唄
第七章 放下大念仏
団扇と踊念仏
放下と笹竹
禅と踊念仏
第八章 念仏剣舞
世田米の大平念仏剣舞
「さんさ時雨」と反閇
高館物怪と衣川剣舞
第九章 かんこ踊
伊勢市佐八の「かんこ踊」
「かんこ踊」と太鼓踊
「かんこ踊」と真宗高田派の大念仏
第十章 新発意と願人坊
風流はんや舞の新発意
新発意の団扇
願人坊踊と住吉踊
第十一章 盆踊
新野の盆踊
なにやとやーれ
盆踊と「くどき」
第十二章 六斎念仏と獅子舞
京都と六斎念仏
松尾明神と空也念仏
岩手の鹿踊
第十三章 棒振踊
「吉の念仏踊」とサイハラ
「はねそ踊」と花取踊
小切子踊と綾踊
第十四章 念仏狂言
普賢象とガンデンガン
念仏狂言と地獄劇
念仏狂言の世俗劇
本日三冊目は故五来 重の『踊り念仏』
『踊り念仏』は一昨日から読み始めたが、念仏野発祥その他を知る上で興味深い。
念仏は元は京都や滋賀などから広まったとされるが、京都に生まれ育ったわたしに念仏に対するなじみ屋親しみの感情はない。
ただ、
祇園祭
祇園囃子
壬生狂言
歌舞伎
能楽
獅子舞
盆踊り
などとも深い関わりがあることを考えると、知らない間に念仏は体にに染み付いているのかも知れない。
念仏には踊り念仏と歌い念仏があるそうだ。
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特に興味深かった部分を一部だけ記録しておこう。
五章131ページでは 先日からS様野ページで楽しませていただいている『サネモリさん』に触れられていた。
『平家物語』(巻七)に語られた悲運の老武者の亡魂をなぐさめるため、早くから村人による大念仏が行われており、たまたま通りかかった世阿弥は『実盛』を書いた。
北国実盛塚で「すすき念仏」を行うようになったそうだ。
念仏にはいろいろなものがあり、上での「すすき念仏」のように、聞き慣れない言葉満載。
どこかで拝見させていただいたような伝統芸能や神事ならばいざ知らず、写真説明のないものはイメージがわかず、わたしにはお手上げである。
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花笠の構造と機嫌(106)
昔は生産技術が幼稚で天候不順や作物の病虫害に対抗不可能
御霊の仕業 → 凶作から餓死
大量の死者
古戦場や落武者の塚で大念仏 → 夏の疫病を鎮める
はな、ほこ、傘 → 鎮魂されるべき霊魂を集める目印
2009年7月祇園祭 綾傘鉾の傘と棒踊り野祭に付ける面など。
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上出の棒振踊の変形(258)
『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段
源蔵(太刀)、千代(手習机)
『色彩間苅豆』(いろもようちょっとかりまめ)塁ヶ淵場
塁(刀)、与右衛門(窯)
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お盆の盆踊り
暗明の二面歳があり、寂しいからよけいはしゃぐ(141)
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最後までおつきあい下さいまして、ありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
五来 重(ごらい しげる) ウィキペディアより ▼(2010、06、13 時点)
茨城県久慈郡久慈町(現、日立市)に生まれる。水戸高等学校文科甲類を経て、1932年(昭和7年)、東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業。一旦、高野山大学助手に就任するも、史学を学ぶため京都帝国大学に再入学、1939年(昭和14年)、同大学文学部史学科国史学専攻を卒業した。以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年(昭和30年)、大谷大学文学部教授に就任。同大学を拠点として広く仏教民俗学を講じた。1962年(昭和37年)には、大谷大学に学位論文「日本仏教民俗学論攷」を提出し、文学博士の学位を取得している。
従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観にもとづく優れた考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績をのこした。
1978年(昭和53年)、大谷大学を定年退職、同名誉教授。退職以後も日本宗教民俗学研究所を主宰し研究を継続、多くの後進を育成した。