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S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

190428 「古都おどる薫風ゆれて令和かな」!!突然注目の坂本八幡宮にいく。九博「令和特別企画」

2019年04月28日 | アフターセブンティ

今、太宰府市の楠田大蔵市長はホクホク顔。民主党県議で筑紫野市在住時とはまさに天地の開きだろう。太宰府の筑陽高校が春のセンバツに出場するし、新元号「令和」の典拠となったのが大伴旅人が自宅で催した「梅花の宴」での32種の短歌の序文からとられたということが今まで閑古鳥がないていた坂本八幡宮(大伴旅人の自宅があったのではないかとされる)が一躍、大脚光をあびることになったという次第。

市長はさらに太宰府をナショナル、インターナショナルブランドにすべくあの手、この手で大忙しというわけである。

 というわけで足もとの九州国立博物館も負けじと4Fに新元号記念特別企画と銘打ち、大伴旅人が主宰した「梅花の宴」につながる「歴史」と「交流」の体系的なつながりに着目して、九博にしかできないコーナーを設置、来館者に感動してもらおうというわけだ。それに先駆けボランンティア対象に令和特別研修会があり、先日参加してきた。

 1、もともと大伴氏は九州とは縁のない大阪湾沿岸の豪族だったが大伴金村が大和政権中枢で台頭してきて527年の九州の筑紫君岩井の乱の制圧に九州に進出、反乱軍を自軍にひきいれ対朝鮮の軍事勢力を拡大、征討将軍の基盤を作り上げた

2、672年の壬申の乱ではその制圧に大功ををあげ名門士族の直系として665年大伴旅人が誕生。天皇集権の律令国家が形成されつつあり、唐、新羅から新来文化がながれこみ、太宰府が重要拠点としてできあがった。順当に出世をかさねた旅人が720年勃発した隼人の乱を鎮めるため56歳の時、九州にきた。再度727年に太宰府の長官、師(そち)として63歳のとき着任。古代都市太宰府は平城京の規模を縮小した形で立派に整備されていたことが後の発掘で軒丸瓦などから想定される。

3、新元号「令和」の典拠である「梅花の歌32首 併序」の舞台となった梅花の宴は大伴旅人邸で催されたわけだがその様子が太宰府展示館でジオラマ人形で再現されている。

4、実はその梅花の宴のルーツは4世紀、「書聖」と称される唐の王羲之が催した「蘭亭の宴」とその序文「蘭亭序」の構成と一致するということ。太宰府が中国、新羅など交流の窓口として洗練された文化をとりいれそれが梅花の宴として結実していったわけである。

その話題の地、坂本神社に出かけた。政庁跡の駐車場の道路をはさんだ対面に臨時駐車場がつくられていてそこに車をとめ、神社に向かう。9時半ごろでそれほど観光客は多くない。

4~5分で到着。令和のノボリの下で記念撮影するカップルや十数人の参拝客。

  

大伴旅人の石碑などもある。TV局も取材に来ていた。令和の額が用意され撮影用に貸与されていた。

本殿は確かにひなびた感じ。急に脚光をあびてびっくりしている感じだね。かえり政庁跡をとおって太宰府展示館に向かう。

令和などに無関心がごとき集団もいる。初めて太宰府展示館にはいる。市長が休み返上で1300年前の梅花の宴にちなみ「時の旅人プロジェクト」時空を超えて1300年のプロジェクトPRに来ておられた。

館内は撮影自由でなかなか面白い。当時の宴の食事のメニューなど興味深い。

万葉集などももちろん紹介されていた。

あらためて和の典拠。

 初春の月にして(しょしゅんのれいげつにして)

  気淑く風ぎ(きよく かぜやわらぎ)

   梅は鏡前の粉を披き(うめは きょうぜんのこをひらき)

    蘭は背後の香を薫ず(らんは はいごのこうをくんず)

平成もあと二日を残すのみとなりました・・・・・

 (背後の香りの「はい」が文字転換できませんでした。背ではありません)

コメント
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