1945年8月、広島・長崎への原爆投下によって21万人の命が奪われた。その後、1954年3月には太平洋ビキニ環礁でアメリカの水爆実験がおこなわれ、マーシャル諸島の住民と日本の多くの漁船が被災した。この頃から、「核兵器廃絶運動(その頃は原水爆禁止運動といった)が始まった。
オレが初めてこの運動に関わったのは、定時制高校で社研サークルに入っていた頃だ。毎年8月に広島と長崎で開催される原水爆禁止世界大会に向けての署名や記念バッヂの販売、代表派遣のためのカンパ活動に取り組んだ。あれから半世紀近くが経つ。
オバマ米大統領の「核兵器のない世界」を国家目標にすると宣言したプラハ演説から半年、きのう国連安全保障理事会は核兵器をめぐる問題で初めて首脳会議を開き、「核兵器のない世界」に取り組むことを全会一致で決議した。鳩山首相も「唯一の被爆国としての道義的責任」として、日本が「廃絶に向けて先頭に立つ」と表明した。
地道な草の根からの運動は続けられていたが、長年続いた核軍拡競争から核廃絶への歴史の大きな転換が、これほど早く、オレが生きてる間にやってくるとは正直思っても見なかった。
核のない世界が現実の課題になってきたとはいえ、まだ緒についたばかり。本格的な転換のためには廃絶を求める圧倒的な国際的な世論をさらに大きくし、この流れを誰も押し止めることのできないものにしなければならない。
あの青春の頃のようにはいかないが、オレももう少しこの運動に加われることをうれしく思う。
オレが初めてこの運動に関わったのは、定時制高校で社研サークルに入っていた頃だ。毎年8月に広島と長崎で開催される原水爆禁止世界大会に向けての署名や記念バッヂの販売、代表派遣のためのカンパ活動に取り組んだ。あれから半世紀近くが経つ。
オバマ米大統領の「核兵器のない世界」を国家目標にすると宣言したプラハ演説から半年、きのう国連安全保障理事会は核兵器をめぐる問題で初めて首脳会議を開き、「核兵器のない世界」に取り組むことを全会一致で決議した。鳩山首相も「唯一の被爆国としての道義的責任」として、日本が「廃絶に向けて先頭に立つ」と表明した。
地道な草の根からの運動は続けられていたが、長年続いた核軍拡競争から核廃絶への歴史の大きな転換が、これほど早く、オレが生きてる間にやってくるとは正直思っても見なかった。
核のない世界が現実の課題になってきたとはいえ、まだ緒についたばかり。本格的な転換のためには廃絶を求める圧倒的な国際的な世論をさらに大きくし、この流れを誰も押し止めることのできないものにしなければならない。
あの青春の頃のようにはいかないが、オレももう少しこの運動に加われることをうれしく思う。