風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

生い立ちの景色(29) 新聞配達

2011-11-28 | 生い立ちの景色
1959年4月…13歳の春。

中学生活二年目。勉強もそこそこで特にクラブ活動もなにもしない普通の毎日を送っていた。
そんな俺が、「毎日新聞」を配達していた隣村に住む丸山というおっちゃんに「オレも新聞配達させてもらえませんか」といった。丸山さんは「ええよ。夕刊だけもやってもらえると助かるわ。明日、学校が終わったら販売所に来て」といった。

晩ごはんの時にそのことをいったら、親父もお母ァも何もいわなかったのに、キョウ子姉ちゃんだけは「そんなことをしなアカンほど家は貧乏なんか。そんな恥ずかしいことはやめて!」と猛烈に反対した。

が結局、俺は3つくらいの村の50部くらいの夕刊配達をやることになった。俺のクラスには、Hという1年生の時から配達をしているやつがおった。Hは「おれは100部くらいしているが、雨の日が大変やで」といった。

それからは、毎日授業が終わったら家には帰らずにまっすぐ販売所に向かった。一日も休みがなかったので、日曜日でも3時くらいになると遊びから抜け出して配達に行く生活になった。村と村が少し離れていることもあり、自転車でも配達には2時間くらいかかった。

慣れるまでは、配達の時に知っている同級生に顔を合わすのが嫌だった。一番嫌だったのは俺の村の配達の時だった。家の前に人がいるときは、そこを後回しにして、できるだけ顔を合わさんようにした。それでも、新聞受けに入れようとした時に、表戸が開いて出てきたおばちゃんにバッタリ、「○○ちゃんやないの?」などといわれたときは最悪だった。

雨の日はやっぱり嫌だった。新聞を包む分厚い布の上からナイロンの風呂敷みたいなもので二重に包んだ。
体は濡れても新聞だけは濡らすわけにはいかない。少しくらいの降りの時は濡れながらか傘を差してやったが、きつい降りの時は親父の野良仕事用の合羽を借りた。

月末、「配達手当1700円」と書いた封筒を受け取った。うれしかった。働いて初めての金儲けだったから。
その晩に「今月はこんだけやった」と、おっ母ァの前に千円札と五百円札と百円札2枚を差し出した。
おっ母ァは「無理してやらんでもええんやで」といった。

九州場所の残したもの

2011-11-28 | 社会

今年いろいろあった大相撲、全勝優勝はならなかったが白鵬の独走で九州場所を終えた。
今場所も「満員御礼」は14日目と千秋楽の2日間だけで、6場所連続で「不入り場所」になった。

「満員御礼」の出た2日間も、実際は13日目に白鵬の優勝が決まったこともあって、前売り券を買ったが観に行かなかった人が多くテレビに映る観客席には空白が目立った。
今場所の残した話題が稀勢の里の大関昇進くらいしかないというのも寂しいかぎりだ。

そうそう、もう一つ寂しいニュースがある。
白鵬の優勝が決まり、国技館の天井近くの周りに飾られている32枚の優勝額から日本人力士が消えることになったのだ。
優勝の額は東京場所ごとに2枚ずつ入れ替えがされるが、来年の初場所前に2006年初場所で優勝した栃東の額が外され、白鵬20枚、朝青龍9、日馬富士2枚、琴欧洲1枚とすべて外国人力士になる。

テレビのないガキの頃、ラジオから流れてくるアナウンサーんの実況の声に合わせて取り口を真似していたくらいの相撲好きだった。近所でも学校でも地面に丸く溝を掘り土俵つくり、15番対戦して番付けを競っていた。

大相撲はいつになったら暗いトンネルの先に明かりが見えるのか…。