今日、2月1日は日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」が発刊されて85年目の記念日。改めて、「赤旗」との出会いを思い返してみた。
昼休みの人気のない更衣室、職場の先輩Hさんから広告紙に小さく包まれた「物」をそーと渡された。Hさんは小声で「アカハタ新聞や。読んでおいて」といった。周りを見渡し、誰もいないことを確認してから「ふん」と小さくうなずいてさっと受け取りすぐに作業服の中にしまい込んだ。俺の胸はドキドキしていた。これが、しんぶん赤旗との最初の出会いだった。昭和37年、小生若干16歳の春のこと。
あれ以来、赤旗との付き合いはもう51年になる。特に44年11か月の職場生活ではほんとうにいろんなことがあり、時には挫けそうになったことも一度や二度ではなかった(これらについては今後、当ブログの「生い立ちの景色」で綴っていく予定)。それらに耐えて、ここまでこれたのは、支えてくれた家族であったし、励ましてくれた職場の仲間であった。そしてもう一つ、生きる勇気を与えてくれた「しんぶん赤旗」であった。
昨今の、権力批判・監視という本来の役割を放棄した大手マスコミ報道の垂れ流しのなか、政治や社会の真実を見抜くために、これからも「しんぶん赤旗」はなくてはならない貴重な存在だと思う。
インターネットの発達でメディアの環境は大きく変化してきているが、これからも、私にとって〝生きる友〟としての存在には変わることがないだろう。
昼休みの人気のない更衣室、職場の先輩Hさんから広告紙に小さく包まれた「物」をそーと渡された。Hさんは小声で「アカハタ新聞や。読んでおいて」といった。周りを見渡し、誰もいないことを確認してから「ふん」と小さくうなずいてさっと受け取りすぐに作業服の中にしまい込んだ。俺の胸はドキドキしていた。これが、しんぶん赤旗との最初の出会いだった。昭和37年、小生若干16歳の春のこと。
あれ以来、赤旗との付き合いはもう51年になる。特に44年11か月の職場生活ではほんとうにいろんなことがあり、時には挫けそうになったことも一度や二度ではなかった(これらについては今後、当ブログの「生い立ちの景色」で綴っていく予定)。それらに耐えて、ここまでこれたのは、支えてくれた家族であったし、励ましてくれた職場の仲間であった。そしてもう一つ、生きる勇気を与えてくれた「しんぶん赤旗」であった。
昨今の、権力批判・監視という本来の役割を放棄した大手マスコミ報道の垂れ流しのなか、政治や社会の真実を見抜くために、これからも「しんぶん赤旗」はなくてはならない貴重な存在だと思う。
インターネットの発達でメディアの環境は大きく変化してきているが、これからも、私にとって〝生きる友〟としての存在には変わることがないだろう。