風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

送られてきた追悼集

2014-02-28 | 日常

きょう、私が定年まで働いていたM電器(現在はP社)の大先輩で、一生涯を労働組合運動で頑張られ、一年半前に亡くなられた齋藤秀吉さんの追悼集が送られてきた。

齋藤さんと知り合ったのは、斉藤さんが電機労連(電機大手労組の産別組織)の役員を降りられ、私が働いていた事業所に戻ってこられた1965年頃だった。私がちょうど二十歳頃で、労働組合運動や青年運動に興味を持ち活動し始めて2、3年の頃だった。当時、斉藤さんは労働者教育協会という、労働者が社会科学や労働組合運動の理論を学ぶ組織の講師もされていて、専門にされていた「賃金論」などの講義を受け感銘したことを思い出す。

齋藤さんは15歳ほど年上だったが、我々とも対等に話をしてくださった。時には、論争を吹きかけたりしたこともあったが、いつも理路整然にしかも優しく指導をしてくださった。また、齋藤さんは、量はそれほどでもなかったが、お酒が好きで、活動で出かけた帰り道でよく居酒屋で飲んだこともあった。
送っていただいた追悼集を読みながら添えられている写真を見ていたら、「よう、○○くん。元気にしているかい!」の斉藤さんの声が聞こえてくるような気がした。

齋藤さんのことで、去年こんなことがあった。趣味サークルの女性会員の一人が私に「○○さんはM電器の茨木(市)事業所にお勤めだったの?」と。「はい、定年まで」というと「実は、亡くなった私の主人もそこに勤めていたの」と。話しているうちに、この方の口から「齋藤秀吉さんって、知っている?」という言葉が出たのでびっくり。聞いてみると、ご主人が現役の頃に部下のみなさんを家に招待したことがあって、その中に齋藤さんがおられたというのです。
「齋藤さんの物腰が柔らかく、優しそうな人柄が今でも印象に残っています」とおっしゃるのです。そして、「あの時、みなさんが帰られた後に主人が『齋藤は仕事もできるしいいやつだから、共産党でなかったらもっと出世できるのに』とつぶやいていた」といわれたのです。

この話を齋藤さんに伝えったが、残念ながら、その時にはもう齋藤さんはこの世にはおられなかった。ぜひ、奥さんにこのことを伝えようと思っていたのだが、なかなか会う機会がなかった。
今日、追悼集を送っていただいたお礼の電話をした時に、このことを奥さんに話した。そして、「この次にお墓参りされた時には、ぜひ齋藤さんにお伝えください」と。

話の花

2014-02-28 | 日常
昨日の趣味の会でのこと。「ここ(大阪府三島郡)は大阪やね?」と京都府にお住いの方から聞かれました。
ここ三島郡は、大阪府と京都府の境にある自治体で、時々「京都府ですか」と聞かれることがあります。
「大阪府ですよ」と答えると「今度の橋下(大阪市長)の『出直し選挙』は直接関係ないんやね」といわれ、「そうですね」というと、つづいて「自分の思い通りにならないといって、あんなやり方はないわな」「彼の立ち振る舞いは政治家の前に人間として失格やな」といわれるのです。

私が「彼を改革者の旗手のように持ち上げ、カラスが鳴かない日があってもテレビに出ない日はないといわれるような報道をしてきたマスコミにも責任がありますね」というと「ほんまやね。今度の選挙で思い知らさなアカンな。こんな人物には、もう政治の舞台から身を引いてもらわなあかんわな」「大阪の人も、今度ばかりは気が付かなあかんわな」と話に花が咲きました。
「激励ありがとうございます。私は大阪市の人間とちがいますががんばります」といいました。

この方は、私より年上で、常日頃は話しぶりも穏やかで冷静沈着な方。このような方からこのような発言が出たことには少し驚きましたが、ここにも私と同じ思いの方が居られたのだとうれしく思いました。そして、何より、このような(政治の)話が、気楽にできたことがそれ以上うれしかったのです。

私は、常日頃、政治の話がフランクに話し合えない日本の民主主義の後進性に問題を感じています。
天皇制の絶対権力によって、国民が「お上にモノ言う」ことが反逆として弾圧された歴史が、いまだに引きずっているからでしょうか。
この点では、欧米の事情は日本とだいぶ違うようです。親戚や近所の方が集まったパーティーでも、パブなど、日本でいう居酒屋みたいなところでも、政治の話が酒の肴になっているといいます。
「俺はタイガースを応援している」「私はバラが好き」のような感じで、政治の話がもっと気楽にできるようになるといいですね。

季節は春ですが、日本の民主主義の春到来にはもう少し時間がかかるのでしょうか。