1月2日(木)、雲多し、だが1点の日差し。
今日は世間並みに、仕事はお休みです。
代わりに、小生が34歳で「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げたときのことを、会報の合本を見ながら述べることにします。
写真は、会報の創刊号。左は表紙。内容は手書きで8ページ、右はその一部です。
表紙の玉将は「無双」からピックアップしてデザインしました。
1ページは「駒づくりを楽しむ会」の発足に当たっての方針や活動について呼びかけています。日付は32年前、昭和52年元旦です。
小生の駒づくりは49年に始めました。独学です。初作は盛り上げ駒。文字は「水無瀬」辺りを参考にしての小生オリジナルです。
それを南口繁一先生の計らいで、中原誠名人と加藤一二三九段の記念対局(京都新聞70周年記念?)で使用され、「無双」という銘を頂きました。
これが以後、現在まで駒づくりを続けているきっかけにもなっています。
この年は、雲の上の大山十五世名人との出会いもありました。京都代表の花園稔さんがアマ名人を獲得し、大山十五世名人との記念対局があって、そのときも小生何作目かの駒を使っていただいたことで、知己を得ました。
それからと言うもの、大山名人が大阪に来られると、弟の勇さんの事務所(大山データーサービス)に行き、お会いするのが楽しみでした。
当時、アマチュアが駒を作るのは大変珍しことでした。
今から思うと、おそらく全国に5人くらい居られたようですが、本格的な駒を目指している人は一人か二人程度でした。
一方、名人といわれた宮松影水さんは既に亡く、残る高級駒づくりでは木村文俊さんと、金井静山さんは70歳を過ぎての高齢者でした。後は、新潟の竹風さんのところぐらい。天童では、旧態依然として安い量産品が幅を利かしていて、高級駒というイメージはありませんでした。
「このままだと、高級駒の作り手が居なくなる」そんな思いがありました。
そんな時、近代将棋の永井社長から「駒づくりについて書きませんか」という呼びかけを貰いました。
声をかけていただいたのは光栄。やれそうなものはやる。そんな思いで「少し考えさせてください」と、返事をしたように思います。
近代将棋誌に駒づくりの話を書くだけでなく、「この指止まれと」駒づくりの実践を皆に呼びかけようと思いつきました。
これからは、食ううに困らないアマチュアの駒づくりに限る。アマチュアなら、じっくり時間をかけても困らない。いいものが作れるだろう。その中から一人でも二人でもとびっきりいい駒が作れる人が生まれるだろう。そういう思いでした。
当時、駒づくりは秘密とされていました。秘密の理由は、駒づくりはそう難しくは無いと言うことの裏返しなのです。やる気と根気さえあれば誰にでも簡単に作れるからです。
ですから、天童では昔から、木地作りは木地づくりだけ、彫る人は彫るのみ。書くひとは書くのみ、と決まっていました。それを一貫してやらせるとなると、独立する者が出て、親方がオマンマの食い上げになるからです。
「この指止まれ」と、アマチュアの駒づくりを募り奨励することは、駒づくりのノウハウがオープンになり、天童のその人たちにも大きな影響があるはず。そして、小生にとっても「自分のライバルを育てる」ことになるのです。
そんな思いもありましたが、将棋界にとって、益の方が大きいとの思いが強かったわけです。
「この指止まれ」を呼びかける前にしておかなければならないこともあります。
それを含め、サラリーマンの小生がやり通せるかどうか、じっくり考えました。
集まった人が、駒づくりが出来る環境を準備する。
具体的にはテキストを作り、駒形になったツゲ木地も提供する。みんなが使う木地は、当方が自作して用意すると言うことです。
道具の頒布。会報をどうするか。会の名前をどうするか。などなど、詰めるところは詰めてから、okの返事をしました。
その結果、昭和52年2月号の近代将棋誌に「駒の話」と「駒づくりを楽しむ会」への呼びかけが載り、この創刊号が出来上がりました。
今日は世間並みに、仕事はお休みです。
代わりに、小生が34歳で「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げたときのことを、会報の合本を見ながら述べることにします。
写真は、会報の創刊号。左は表紙。内容は手書きで8ページ、右はその一部です。
表紙の玉将は「無双」からピックアップしてデザインしました。
1ページは「駒づくりを楽しむ会」の発足に当たっての方針や活動について呼びかけています。日付は32年前、昭和52年元旦です。
小生の駒づくりは49年に始めました。独学です。初作は盛り上げ駒。文字は「水無瀬」辺りを参考にしての小生オリジナルです。
それを南口繁一先生の計らいで、中原誠名人と加藤一二三九段の記念対局(京都新聞70周年記念?)で使用され、「無双」という銘を頂きました。
これが以後、現在まで駒づくりを続けているきっかけにもなっています。
この年は、雲の上の大山十五世名人との出会いもありました。京都代表の花園稔さんがアマ名人を獲得し、大山十五世名人との記念対局があって、そのときも小生何作目かの駒を使っていただいたことで、知己を得ました。
それからと言うもの、大山名人が大阪に来られると、弟の勇さんの事務所(大山データーサービス)に行き、お会いするのが楽しみでした。
当時、アマチュアが駒を作るのは大変珍しことでした。
今から思うと、おそらく全国に5人くらい居られたようですが、本格的な駒を目指している人は一人か二人程度でした。
一方、名人といわれた宮松影水さんは既に亡く、残る高級駒づくりでは木村文俊さんと、金井静山さんは70歳を過ぎての高齢者でした。後は、新潟の竹風さんのところぐらい。天童では、旧態依然として安い量産品が幅を利かしていて、高級駒というイメージはありませんでした。
「このままだと、高級駒の作り手が居なくなる」そんな思いがありました。
そんな時、近代将棋の永井社長から「駒づくりについて書きませんか」という呼びかけを貰いました。
声をかけていただいたのは光栄。やれそうなものはやる。そんな思いで「少し考えさせてください」と、返事をしたように思います。
近代将棋誌に駒づくりの話を書くだけでなく、「この指止まれと」駒づくりの実践を皆に呼びかけようと思いつきました。
これからは、食ううに困らないアマチュアの駒づくりに限る。アマチュアなら、じっくり時間をかけても困らない。いいものが作れるだろう。その中から一人でも二人でもとびっきりいい駒が作れる人が生まれるだろう。そういう思いでした。
当時、駒づくりは秘密とされていました。秘密の理由は、駒づくりはそう難しくは無いと言うことの裏返しなのです。やる気と根気さえあれば誰にでも簡単に作れるからです。
ですから、天童では昔から、木地作りは木地づくりだけ、彫る人は彫るのみ。書くひとは書くのみ、と決まっていました。それを一貫してやらせるとなると、独立する者が出て、親方がオマンマの食い上げになるからです。
「この指止まれ」と、アマチュアの駒づくりを募り奨励することは、駒づくりのノウハウがオープンになり、天童のその人たちにも大きな影響があるはず。そして、小生にとっても「自分のライバルを育てる」ことになるのです。
そんな思いもありましたが、将棋界にとって、益の方が大きいとの思いが強かったわけです。
「この指止まれ」を呼びかける前にしておかなければならないこともあります。
それを含め、サラリーマンの小生がやり通せるかどうか、じっくり考えました。
集まった人が、駒づくりが出来る環境を準備する。
具体的にはテキストを作り、駒形になったツゲ木地も提供する。みんなが使う木地は、当方が自作して用意すると言うことです。
道具の頒布。会報をどうするか。会の名前をどうするか。などなど、詰めるところは詰めてから、okの返事をしました。
その結果、昭和52年2月号の近代将棋誌に「駒の話」と「駒づくりを楽しむ会」への呼びかけが載り、この創刊号が出来上がりました。
駒の写真集
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