無宿者タローが今日もやって来る。これはもう彼の日課になっているようだ。三箇所に分けてある猫たちのものまできれいに舐めて・・・・。帰りがけ門のところで立ち止まっては、何度も僕の方を振り返る。まるで礼を伝えているような穏やかな眼だ。部屋の中から僕は手を振ってやる。丸一日やって来ない日があると、妻は気が気でないらしい。誰かに通報されて野犬狩りに遭ったのではないか、車に撥ねられて怪我しているのではないか・・・と。昨日は、犬猫大好きの妻の友人が15キロものドックフードを届けてくれた。その人は里山に住んでいて、熊よけの為に大きなセパードを飼っている。警察犬訓練から外れたもので頭が悪く、しつけに難儀している。
深夜、東北自動車道路を走っていてラジオをかけると、念仏唄(御詠歌)が流れてきた。陰々と心に沁みるその唄を聴きながら母を想い出していた。あの時も近所の婆たちが集まって念仏唄をやってくれた。意味はよく判らないが、その響きに少年ながら不思議な安息を覚えた。今、そのときの思いが蘇えってくる。深く深く沈んでいくような韻律に、なにやらとてもありがたい気持ちにさせられて、車のスピードを緩める。やがて長い曲が終りDJの語りになるが、なんと!今の曲はノルウエーの漁師たちの民謡であった。
友人が訪ねてきた。五時間もお喋りがつづいたので、ブログに書くものが無くなってしまった。蓄えてあったものを吐き出して頭のなかは空っぽ。人間は一日三万語喋らないとストレスが溜るそうだ。だから昔からあった「井戸端会議」は必要なことで、内容はどうでも言葉を発散することで健康のバランスが保たれていた。今、向う三軒両隣りの感覚が希薄になってしまい、井戸端会議の様子も見られなくなった。そうしたコミニュケーション不在による主婦たちのストレスが増大している。人間は単独では生きられないもの。群れの中にいて安心していられる。鬱積したものを吐き出した後の軽い疲労感と爽快感、お喋りこそ現代に必要な精神安定剤である。
ブランデンブルグ広場を埋め尽くした7万人のサポーター。手に手に国旗を振りかざし歓声を上げるその光景が、昔のニュースの場面と重なってくる。ひとりの狂気にハーケンクロイツが犇めき、広場を軍靴の音で埋め尽くされたあの光景・・・・。一つに熱中する群集のエネルギーは怖い。せいぜい川に飛び込む程度の興奮で抑えてくれればと思う。とは言え僕も衆愚の中の一人、18日の日本対クロアチア戦では夢中で怒鳴っていた。
午後は鍼灸。月に3回、もう5年目になるが未だに緊張する。そんなに痛くはないのだがやはり怖い。小学生の時、学校で行なうツベルクリン注射が厭で逃げ帰ってきた。すると校医さんが家までやってくる。我が儘は認められないと、母と共謀して僕を取り押さえようとする。捉まったらアウト、家の周りをぐるぐる逃げる。何かのゲームかと、尻尾ふりながらチロまで追いかけてくる。僕は拷問にはあっさり白状してしまうだろう。注射針やメスをちらつかされただけで、有ることない事全部喋ってしまうだろう。ほんとうに僕は注射が怖い。黙ってさっさとやってしまえばいいものを、「それじゃぁさしますよ」なんて大げさに迫ってくるものだから、よけい緊張してしまう。鍼灸が終わっても、背中に一・二本抜き忘れたのがあるような気がしてならないのだ。