友人に葬儀屋がいる。当地で交通事故死した遺体を青森の遺族のもとへ搬送する。夜中にひとりで運転して・・・・怖くないかと訊ねると、「死体は何もしない、生きている人間の方がずっと怖い」と言う。 児童を狙った犯罪があとを絶たない。やったのは近所のおばさん、顔見知りの優しいおにいさん。防犯ベルを携え、子供たちは大人に眼を合わせないようそそくさとすれ違う。声を掛けられても返事をしてはいけないと厳しく教え込まれ、学校から戻っても外に出ない。人を信じてはいけない、人はとても怖いもの。そう教えられた子供たちの未来は・・・・。
久しぶりに髪を切る。床屋ではなく知り合いの美容院に行く。大鏡に映る自分を見たくないので、3ヶ月に一度しか行かない。肩から白い布に覆われ、椅子の上にちょこんと乗っている僕の頭部は「さらし首」そのもの。きまり悪そうに神妙そうに、自分に見つめられることの困惑が映っている。だから眠くはないけれど目をつぶって寝たふりをしてしまう。細かな注文はつけない。仕上がりに不満があっても何も言わない。自宅に戻って洗いなおせばいい。あきらかに美容師の仕事の跡が残っているようでは駄目なのだ。
我が家の前の公民館で大勢の子供たちがゲームを愉しんでいる。育成会主催の行事の一つ。用意された遊具を使って子供たちがはしゃいでいる。周りを大人たちがぐるっと囲んで見守っている。何も気づいていないが、子供たちはもう自分では遊びを見つけられない。創造性を欠いたまま、用意された枠の内でしか動けないのだ。しつけ放棄の一方では過剰とも思われるこの管理・・・・どこかが狂ってしまった。
友人との教育論議の中で、教育の原点は家庭にある、その家庭が躾を放棄して学校や社会に責任を転嫁するなんてとんでもない!人格形成の90パーセントは家庭にある。学校と社会はあとの10パーセントでしかない・・・・と 僕が語気を荒げるものだから 「リベラリストの君がいったいどうした?」と 友人が顔を覗き込む。リベラリストというのはなんでもかんでも中庸だと思い込んでいるらしい。そこでまた語気を荒げて「事と次第によっては鷹にも鳩にもなるし、右にも左にもなる。それこそがほんとうのリベラリストというものだ!」 友人はそれっきり沈黙。さっき高校生たちと会ってから僕のイライラがはじまったのを察してくれたようだ。欺瞞と欲望のうずまくこの時代に生まれてきた彼らこそ、実は被害者なのだ。 6月15日 16:00
今日15日は栃木県民の日。地元高校生たちと町内の清掃運動に加わる。開始を前に全校生のセレモニーのなんとも奇妙な光景に出くわす。全員校庭にしゃがんで先生たちの話を聞くのだが、あちこち勝手な方を向いてお喋り、話など聴いてはいない。名を呼ばれても返事はなく、だらっと立ち上がリ靴を引きずりながら進む。咀嚼しないので顎が退化してしまったのか、発言はもやもやと聞き取れない。先生は注意しない、ただ自分の時間を消化しているという感じ。昔と比べて、どの子も皆目鼻立ちが整い、スタイルが良くなっているというのに、色白で無表情。体温や感情が伝わってこない。まるで人の姿をした爬虫類、なにやら寒いものを背中に感じた。