2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。
日常の大半は読書をすることが多く、退職後は特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、
曽野綾子、阿川弘之、各氏の作品を中核に、単行本、新書本、文庫本を購読している。
こうした中で、女優、その後はエッセイを綴られた高峰秀子さんは、
一昨年の2010〈平成22〉の年末に高峰秀子さんの死去が公表されが、
私も生前の高峰秀子さんのエッセイを買い求めて、殆ど愛読しているひとりである。
私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画の脚本家になりたくて、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。
そして戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの戦前の昭和20年までの名作を観ることが出来た。
この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。
私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。
そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。
私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。
子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。
その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていた。
その後の私は映画青年の真似事、やがて文學青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく民間会社に中途入社し、サラリーマンの身となった。
私は松山善三さんと高峰秀子さんのご夫婦に関しては、
もとより知人でもなく、敬愛を重ねてきたひとりである。
たまたま2日前、高峰秀子、松山善三の両氏に寄る共作の『旅は道づれツタンカーメン』(中公文庫)を読み終わり、
私は松山善三さんの思考、そして表現力に私は圧倒され、
数多くの小説家の達人ても動顚される、と確信を深めたりしてきた。
本書は、おしどり夫婦として名高いご夫婦が、
50代の時にエジプトに旅行をされた時の紀行文であるが、
この中に時折、それぞれの人生の思い、ご夫婦の日常の思いを綴られていると思いにながら、
読んだりしてきたが、
松山善三さんの底知れぬ心の深淵までの思考力、そして表現力に私は圧倒され、
今でも虚(うつ)ろな心境である・・。
私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。
読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれ、数多くの本を読んできたので、50年は過ぎている。
今回、時代を超越した破格な文章を綴られた松山善三さんに、
私は改めて敬意を重ねると同時に、創作者をめざす人には、ぜひ学んで欲しいと思い、
引用させて頂く。
エジプトのアブ・シンベル神殿を観た時の中で、ひとつの思いを発露している。
《・・
ラムセス二世やネフェルタリ王妃を刻んだ名もなき石工たちは、
はじめ鞭や酷使に泣いたかも知れない。
しかし、やがて、彼らは自らが刻んだ美に酔いはじめる。
美は、美を生み、完結を求める。
歓びは深まり、その頂点で信仰と重なる。
その時、彼らが刻むのはラムセスやネフェルタリの像ではなく、
彼らの胸中に、形なくして存在した筈の神々である。
そこに現れた形はラムセス二世でありネフェルタリ王妃であっても、
刻まれたものは「永生」を願い、それを約束してくれる彼らの神々であった。
・・》
注)本書の122ページの一部より引用し、原文をあえて改行を多くした。
この後、しばらくしてアブ・シンベル神殿を観ながら、
新王朝時代に思いを馳せ、ひとつの時代の思いを発露している。
《・・
新王朝時代には、偉人、賢人、英雄が続出する。
ハトシュプストを、世界最古の女王であり、ウーマン・リブのはしりだとすれば、
あとに続くアメノフィス四世、アクナトンは、世界で最初に一神教を信奉した個人であり、
モーゼの一神教にも大きな影響を与えた人物だとも言われる。
アクナトンは、偶像を廃し、太陽神のみをあがめ、無知と迷信と我欲を捨てよと説いた。
アクナトンの説く太陽神は、鷹頭人身の偶像ではなく、姿も形もない。
それは、己れの心の中にあった。
仮に指させば、太陽の光そのものであって、
万物に生命を与える神の「意志」とでも言うべきものだった。
そのような教えが、何千年もの間、偶像を拝んできた人民に受け入れられる筈はなかった。
人民は、形なきものを信じない。
おまけに、社会の中枢にあった祭司たちの反抗にあい、アクナトンの宗教革命は一代で終った。
けれども、彼こそが、人類の歴史で「平等」を説いた最初の男である。
アクナトンの死後、国政も社会も大ゆれに揺れ、
一神教はもとの偶像崇拝へ逆もどりした。
(略)
・・》
注)本書の122、123ページの一部より引用し、原文をあえて改行を多くした。
このように私は圧倒的に感銘させられた代表的な部分を引用させて頂いた。
昨年の12月初旬に、私は久々に『芸術新潮』の12月号を買い求めた。
そして特集記事に《没後一周年特集》として、
《高峰秀子の旅と本棚》と題された記事を私は精読した。
この特集記事のひとつに、養女となられた作家・斎藤明美さんが、
『ハワイの攻守』と題した寄稿文の中で、松山善三さんの写真が掲載されていた。
お齢を召された表情で、私は驚いたりしたが、86歳のご高齢であるので、了解させられた。
この二葉の写真を私は思い浮かべ、今回たまたま引用させて頂いた本書は、
氏が当時50代で綴られ、この引用部分でも数多くの小説家の達人と称される人さえも震撼させられる、
と私は深く思い、改めて松山善三さんに敬意を重ねている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
散文 ブログランキングへ