夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《9》

2009-06-01 16:31:15 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
前回は、徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまり、
田園生活を始めるにあたって、色々な地を懸案した後、
千歳村・粕谷にし、引越しまで状況を氏自身の思い、そして心情を克明に描かれていた。

今回はこの続編であり、初めて千歳村・粕谷の生活を風習、飲料水などに、
戸惑いながら生活をはじめる・・。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。



     村入

引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速(さっそく)田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。
三吉は植木を植えて了うて、
「到底一年とは辛抱なさるまい」
と女中に囁(ささ)やいて帰って往った。

昨日荷車を挽(ひ)いた諸君が、今日も来て井戸を浚(さら)えてくれた。
家主の彼は、半紙2帖、貰物の干物少々持って、
近所四五軒に挨拶に廻った。

其翌日は、石山氏の息子の案内で、
一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。
臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、
両(りょう)角田君は大分離れて上祖師ヶ谷に2軒隣り合い、
石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。

何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、
富士大山から甲武連山を色々に見る原に上ったり、
霜解の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、
樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、
廻れば一里もあるかと思われた。

千歳村は以上三の字(あざ)の外、
船橋(ふなばし)、廻沢(めぐりさわ)、八幡山(はちまんやま)、烏山(からすやま)、給田(きゅうでん)の五字を有ち、
最後の二つは甲州街道に傍(そ)い、余は何れも街道の南北1里余の間にあり、
粕谷が丁度中央で、1番戸数の多いが烏山2百余戸、
一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒、
余は大抵五六十戸だと、最早(もう)そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子が教えてくれた。


期日は3月1日、1月おくれで年中行事をする此村では2月1日、
稲荷講(いなりこう)の当日である。
礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更(あらた)めて、
午後石山氏に跟(つ)いて当日の会場たる下田氏の家に往った。


其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、
小高い堤(どて)を流るゝ品川堀と云う玉川浄水の小さな分派(わかれ)に沿うて居た。
村会議員も勤むる家で、会場は蚕室(さんしつ)の階下であった。
千歳村でも戸毎に蚕(かいこ)は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。
板の間に薄べり敷いて、大きな欅の根株(ねっこ)の火鉢が出て居る。
十五六人も寄って居た。
石山氏が、
「これは今度東京から来されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某(なにがし)さんで」
と紹介する。

其尾について、彼は両手をついて鄭重にお辞儀をする。
皆が一人(ひとりひとり)来ては挨拶する。
石山氏の注意で、樽代(たるだい)壱円仲間入のシルシまでに包んだので、
皆がかわる/″\みやげの礼を云う。

粕谷は26軒しかないから、東京から来て仲間に入ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。
会衆中で唯(ただ)一人チョン髷(まげ)に結った腫(は)れぼったい瞼(まぶた)をした大きな爺さんが
「これははァ御先生様」
と挨拶した。


やがてニコ/\笑って居る恵比須顔の60許(ばかり)の爺さんが来た。
石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。
彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。

二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。
煙草の烟(けむり)。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合もある。
米の値段の話から、60近い矮(ちいさ)い真黒な剽軽(ひょうきん)な爺さんが、
若かった頃米が廉(やす)かったことを話して、
「俺(わし)と卿(おまえ)は6合の米よ、早くイッショ(一緒(いっしょ)、一升(しょう))になれば好い」
なんか歌ったもンだ、と中音(ちゅうおん)に節をつけて歌い且話して居る。


腰の腫物で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛の石山氏の注意で、
雑談会はやおら相談会に移った。
慰兵会の出金問題、此は隣字から徴兵に出る時、
此字から寸志を出す可きや否の問題である。

馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、
然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、
結局出すと云う事に決する。


其れから衛生委員の選挙、消防長の選挙がある。
テーブルが持ち出される。茶盆で集めた投票を、
咽仏の大きいジャ/\声の仁左衛門さんと、
むッつり顔の敬吉さんと立って投票の結果を披露する。

彼が組頭の爺さんが、忰は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、
皆が寄ってたかって無理やりに納得さす。


此れで事務はあらかた終った。
これからは肝心の飲食となるのだが、
新村入(しんむらいり)の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末なので、
一座に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人達に遠ながら目礼して引揚げた。

           *

日ならずして彼は原籍地・肥後国葦北郡水俣から
戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。
子供の頃、自分は士族だと威張って居た。
戸籍を見れば、平民とある。

彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。
それを知らなかったのである。
吾れから捨てぬ先きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、
魯智深(ろちしん)の髯(ひげ)ではないが、
些(ちと)惜しい気もちがせぬでもなかった。
兎に角彼は最早浪人では無い。無宿者でも無い。
天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。



     水汲み

玉川に遠いのが第一の失望で、井(いど)の水の悪いのが差当っての苦痛であった。


井は勝手口から唯6歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根が通路と井を覆うて居る。
上窄(うえすぼま)りになった桶の井筒(いづつ)、
鉄の車は少し欠けてよく綱がはずれ、釣瓶(つるべ)は一方しか無いので、
釣瓶縄の一端を屋根の柱に結わえてある。
汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨(いかり)を下ろして見たら、
渇水の折からでもあろうが、水深が一尺とはなかった。


移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚(いどさら)えをやってくれた。
鍋蓋(なべぶた)、古手拭、茶碗のかけ、色々の物が揚(あ)がって来て、
底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁(にご)り水で、
如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。

近隣の水を当座は貰って使ったが、何れも似寄(によ)った赤土水である。
墓向うの家の水を貰いに往った女中が、
井を覗(のぞ)いたら芥(ごみ)だらけ虫だらけでございます、
と顔を蹙(しか)めて帰って来た。

其向う隣の家に往ったら、其処(そこ)の息子が、
此(この)家の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、
と得意になって吹聴したが、
其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。


使い水は兎に角、飲料水だけは他に求めねばならぬ。

家から5丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水(ながれ)がある。
玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、
附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓(おしめ)の洗濯もする、肥桶も洗う。

何(な)ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、
男役に彼は水汲(みずく)む役を引受けた。
起きぬけに、手桶と大きなバケツとを両手に提げて、霜を(ふ)んで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水摩擦をやる。
日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、
面(めん)籠手(こて)かついで朝稽古から帰って来る村の若者が
「冷たいでしょう」
と挨拶することもあった。

摩擦を終って、膚(はだ)を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々(なみなみ)と水を汲み上げると、
ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。
耐(こら)えかねて下ろす。
腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七分(ぶ)に減って居る。

其れから半丁に一休(ひとやすみ)、また半丁に一憩(ひといこい)、家を目がけて幾休みして、
やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。
両腕はまさに脱(ぬ)ける様だ。

斯くして持ち込まれた水は、細君、女中によって金漿(きんしょう)玉露(ぎょくろ)と惜(おし)み/\使われる。


余り腕が痛いので、東京に出たついでに、
渋谷の道玄坂で天秤棒(てんびんぼう)を買って来た。
丁度(ちょうど)股引(ももひき)尻(しり)からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、
理想を実行すると笑止(しょうし)な顔で笑われた。

買って戻った天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けに担(にの)うて、
汐汲(しおく)みならぬ髯男の水汲と出かけた。

両手に提げるより幾何(いくら)か優(まし)だが、
使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。
天秤棒に肩を入れ、曳(えい)やっと立てば、腰がフラ/\する。
膝はぎくりと折れそうに、体は顛倒(ひっくりかえ)りそうになる。
(うん)と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、
五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。
思い切って蹌踉(ひょろひょろ)とよろけ出す。
十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷(に)を下(お)ろす。
尻餅舂(つ)く様に、捨てる様に下ろす。
下ろすのではない、荷が下りるのである。
撞(どう)と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。

下ろすのも厄介だが、また担(かつ)ぎ上げるのが骨だ。
路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。
鼻息は暴風(あらし)の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、
脊髄(せきずい)から後頭部にかけ強直症(きょうちょくしょう)にかゝった様に一種異様の熱気がさす。
眼が真暗になる。頭がぐら/\する。
勝手もとに荷を下ろした後は、失神した様に暫くは物も言われぬ。


早速右の肩が瘤(こぶ)の様に腫(は)れ上がる。
明くる日は左の肩を使う。左は勝手(かって)が悪いが、痛い右よりまだ優(まし)と、左を使う。
直ぐ左の肩が腫れる。両肩の腫瘤(こぶ)で人間の駱駝が出来る。
両方の肩に腫れられては、明日(あす)は何で担ごうやら。

夢の中にも肩が痛い。
また水汲みかと思うと、夜の明(あ)くるのが恨めしい。
妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。
天秤棒の下にはさんで出かける。
少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。

全体(ぜんたい)誰に頼まれた訳でもなく、誰誉(ほ)めてくれる訳でもなく、
何を苦しんで斯様(こんな)事をするのか、と内々愚痴をこぼしつゝ、
必要に迫られては渋面作って朝々通う。
度重(たびかさ)なれば、次第に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力(ちから)が出来(でき)、
調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。

今日は八分だ、今日は九分だ、と成績の進むが一の楽(たのしみ)になる。


然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、
一月ばかりして大仕掛(おおじかけ)に井浚(いどさらえ)をすることにした。
赤土からヘナ、ヘナから砂利と、一丈(じょう)余(よ)も掘って、
無色透明無臭而して無味の水が出た。

奇麗に浚(さら)ってしまって、井筒にもたれ、井底(せいてい)深く二つ三つの涌き口から潺々(せんせん)と清水の湧く音を聴いた時、
最早(もう)水汲みの難行苦行も後(あと)になったことを、
嬉しくもまた残惜しくも思った。

・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。


『村入』と題された章に於いて、
引越しの日は温暖な日であったが、翌日には烈しいからッ風に吹かれ、
原宿に住んでいた時によく仕事に来た善良な小男の三吉は植木を植えて貰った人であるが、
『到底一年とは・・辛抱なさるまい』
と女中に囁(ささ)やいて帰っていかれたりする。

そして昨日荷車を挽(ひ)いた諸君が、
今日も来て井戸を浚(さら)えてくれたりした後、家主の彼は、半紙2帖、貰物の干物少々持って、
近所四五軒に挨拶に廻った。

其翌日は、石山氏の息子の案内で、
一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。
臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、
両(りょう)角田君は大分離れて上祖師ヶ谷に2軒隣り合い、
石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。

何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、
富士大山から甲武連山を色々に見る原に上ったり、
霜解の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、
樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、
廻れば一里もあるかと思われた。


千歳村は上祖師ヶ谷、下祖師ヶ谷、そして粕谷以上三の字(あざ)の外、
船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、
最後の二つは甲州街道に傍(そ)い、余は何れも街道の南北1里余の間にあり、
粕谷が丁度中央で、1番戸数の多いが烏山2百余戸、
一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒、
余は大抵五六十戸だと、最早(もう)そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子が教えてくれた。

私の実家は神代村入間であったので、上祖師ヶ谷、下祖師ヶ谷、そして粕谷はもとより、
烏山、給田の地域には、
私の幼年期の昭和20年代は殆ど田畑、雑木林の広がり情景は知っている。
氏は明治後期に住まわれたが、
引越しなどの近所の挨拶回りは余り変わらないと私は感じたのである。

この後、石山氏に導かれて、村の仲間入すべく紋付羽織を着て、
村の会合に出かけたりするが、
私の幼年期の情景と余り変わらない、と思いを重ねたのである。


そして、氏はまもなく、原籍地の肥後国葦北郡水俣から戸籍をこの地に移し、
東京府北多摩郡千歳村字粕谷の平民となった。



『水汲み』の章になると、
釣瓶でくみ上げる井戸の水の悪く、止む得ず飲料水だけは、
家から5丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水から、
氏自身は、手桶と大きなバケツとを両手に提げて、水汲(みずく)みをしたのである。

最初は両手で下げてきたが、やむえず渋谷の道玄坂で天秤棒を買ってきて、
手桶とバケツとを振り分けにかついだが肩は腫れ、難行苦行の日々が続いた。

この後は、いつまで川水を汲んでばかりも居られねので、
一ヵ月後、井浚(いどさらえ)を徹底的にして、掘り下げた所、
井底(せいてい)深く二つ三つの涌き口から潺々(せんせん)と清水の湧く音を聴き、
何とか井戸の水が使えるようになったのである。


このように氏は飲料水さえ苦労された人である。
氏の住まわれた千歳村粕谷は地勢として、武蔵野台地であり、
難行苦行の末、水にめぐりあえたと感じたのである。


私の実家の神代村入間に住んでいる多くは、
この武蔵野台地のはずれに国分寺崖線と称せられた20メートル前後の崖の下に広がる田畑、雑木林の地帯である。

崖の半ばより、湧き水が多くあり、
ほぼ平坦となった地帯でも私の幼年期は、多くの湧き水を眺めたりした。

私の幼年期、実家の母屋の裏に釣瓶井戸はあったが、
台所に近い裏口に井戸を使用していた。
手押しのポンプ形式であり、飲料水はもとより、
洗面、台所、風呂、洗濯等の生活用水にも使用していた。

私の幼年期、井戸の底などを修理した人を眺めた記憶であるが、
地表の黒土が1メートル半、この下に赤土が半メートルぐらい、
その下に黒土が1メートル半、そして粘土質の土が1メートルとなり、
この下の砂利層を少し掘れば、清冽で豊かな湧き出てていた。

農業用水に関しては、付近の三百メートル先には川幅2メートル前後が川があったが、
実家の田畑の中に川幅1メートル足らずの小川が流れて折、
豊かな水量で流れ、田んぼ等を潤していた・・。
そして、昭和20年の半ば頃までは、長兄、次兄は前夜に安易な釣り針をセットしていたら、翌朝にウナギが獲れた、
と祖父、父に話したりしていた。

このように実家は、国分寺崖線と称せられた20メートル前後の崖の下に広がる田畑、雑木林であったので、
水に恵まれた地帯でもあった。


私は特に湧き水に関しては、深く哀惜するひとりであり、
このサイトにも、たびたび投稿したりしている。
【 湧き水の想いで・・♪ 】
と題し、2006年7月14日に於いて投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
東京の郊外の私の住む周辺には、昭和30年の頃までは湧き水が見られた。

昭和28年に父,翌年に祖父が亡くなるまでは、農家をしており、
程ほど広い田畑を耕していた。
田圃(たんぼ)の一帯の脇に蓮専用の田圃があり、
その付近に湧き水があった。

湧き水の周囲は、いつも小奇麗に手入れがされており、ミソハギが植えられていた。

夏のお盆になると、仏間の仏壇は閉じられ、
位牌等が座敷の一角に、四方を竹で囲み、真新しい茣蓙(ござ)の上に移行されて、
蓮の花、淡いピンクの咲いたミソハギが飾られていた。

私は湧き水を観るのが好きだった。
春の季節であっても、冬の時節に於いても
淡々と湧き出る水を不思議そうに眺め、飽きることがなかった。


小学五年生の頃、下校の途中で廻り道をしている時、
雑木林の斜面を下り立った処に池があり、その端に湧き水があった。
この家の主人と思われる老人が池を眺めていた。
私がときたま通る時、よく見かけていた・・。

『池のある処の・・お爺さん・・いつも難しそうな顔しているなぁ・・』
と私は友達に話したりしていた。

後年、私が高校に入学し、小説を読みはじめた頃、
本の中に、このお爺さんの写真があり、
武者小路実篤、と付記されていたのには、
私は驚いていたりした。

・・(略)




次回は、徳富蘆花氏は、千歳村の粕谷に少しつづ馴染み、
自宅の情景、周辺のうつろいが綴られると思ったりしている。

                          《つづく》



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限りなく情感を秘めた『水無月』を迎えて・・♪

2009-06-01 07:54:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨夜、カレンダーを一枚破り、
皐月の五月に別れを告げ、新たな水無月の6月に、
『こんにち~は・・』と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

過ぎ去った5月の私の思いは、
このサイトに余すことなく心の発露として綴っているので、
省略する。

私の住む東京郊外は、ここ5日ばかり走り梅雨で、
小雨が降ったり、止(や)んだりしてぐずついた4月下旬のような気温の日々であったが、
今朝はまばゆい陽射しで迎えた。

私は日中、久々の陽射しの中、買物と散策する予定であるが、
家内は早朝から洗濯の合間、掃除などで忙しくしている。

平年はこの6月中旬から7月の下旬の初め頃までは、
私の住む地域は、『梅雨』の時節となっているが、
こうした雨降る中、紫陽花(アジサイ)、杜若(カキツバタ)と同様に、
下草として植えている雪ノ下(ユキノシタ)が白い花を咲かせる。

この雪ノ下の白い花は、幾つかのかんざしを合わせたかのような可憐な容姿で、
葉は緑色、黄緑色といったように幼い葉は萌黄色の色合いを見せながら、
微風に揺れながらも凛(りん)した気品をたたえている。

主庭の外れに半夏生(ハンゲショウ)を10数本植えているが、
黄緑色した葉の中で、わずか先端の数枚の葉は化粧をしたように白く染めあげられたりする。

庭の樹木のたわわな葉は、淡い緑色や深緑となり雨粒でしっとりと濡れ、
地表は黒土となり、清々(すがすが)しい情景になる。


我が家では、残念ながら紫陽花(アジサイ)はないので、
買物、散策の折、小公園などに立ち寄り、享受したりしている。

淡い紫色、透きとおる青色の色合いが好みであり、
小雨が降ったり時、散策の折、偶然に見かけると、
傘を差しながらも、見惚(みと)れてしまい、しばらく独りでたたずんでいる。

この時節、忘れてならない菖蒲の一種の杜若(カキツバタ)が美の極致と、
思いを寄せたりする。

この梅雨の時節、私なりの散策をしながら、
歴然とした美を享受を受け、齢を重ねるたびに心は深まったりしている。

そして雨の降りしきる中、煙(けむ)るような木立の情景に見惚(みと)れたり、
ここ四年ばかり梅雨の時節は、私なりに秘かに心を寄せている。

この後、少しぼんやりと、水無月に相応しい茶花を思ったりした。
薊(アザミ)、杜若(カキツバタ)、がく紫陽花(ガクアジサイ)等は私好みである。
そして初夏になると、夏椿(ナツツバキ)、宗旦木槿(ソウタンムクゲ)に待ち焦がれる。


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