私はパソコン専門量販店に修理を6月3日に依頼した翌日は、
日中の7時間ばかり玄関庭、主庭の草むしりに専念した。
5日の金曜日は、小雨の降る一日であり、
私は身体も疲れた為、読書の一日となった。
私が中断していた塩野七生・著の『ローマ人の物語 第32巻~第34巻 ~混迷する帝国~』(新潮文庫)を読んだ後、
作家・新田次郎氏の奥様である藤原てい・著の『旅路』(中公文庫)、
そして元総理の小渕恵三氏を描いた佐野眞一・著の『凡宰伝』(文春文庫)、
五冊ばかり文庫本を精読しながら、15時間を過ごしたのである。
6日の土曜日は、午前中は小雨、午後に曇りとなり、
昼下がりから快晴となった。
私は居間で、映画を観ようと思い、ビデオ・DVDを収容している三つのラックより、
映画の作品を選定した。
パソコンのない日常の不安げな心情を反映した為か、
『ザ・ロック』(1996年)、そして『グラディエーター』(2000年)
を観賞した。
7日の日曜日は、初夏のような暑さの中、スーパーを2店ばかり廻り買物を済ませた後、
作務衣の軽装に着替え、居間のソファーに座り、
『レッド・オクトーバーを追え!』(1990年)、そして『アンチャタッブル』(1987年)を観賞した。
いずれもショーン・コネリーが主演しているが、
前日に観た『ザ・ロック』(1996年)のショーン・コネリーの余韻である。
私は男優としては、ロバート・デ・ニーロと共にショーン・コネリーを敬愛しているひとりである。
そしてショーン・コネリーの作品は20数本を観た限りであるが、
この『アンチャタッブル』(1987年)の助演が最も好感している。
8日の日曜日は、深夜のひととき、
WBのテレビ用の作品で『FALL SAFE 未知への飛行』(2002年)
を観賞。
アメリカの核を積載した戦闘機部隊が誤ってソ連の首都に核爆撃するまでの過程を描き、
この間にモスクワまでの飛行への間、アメリカ大統領とソ連首相との電話会議を重ねながらも、
モスクワに核投下の結果、謝罪としてアメリカ大統領は自国の首都ワシントンに、
核を投下させる冷厳なドラマである。
この作品は、CBS放送で放映したのを改めて、再編集したと思われが、
テレビ用の作品としては優作である。
8日の日中は曇り空の一日であったが、
佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社)を再読する。
この単行本は、昨年の初夏に於いて読んでいたが、旅行も重なり、
中断しながら読んだので、こうしたパソコンの不在の折、
一心に読む決意で再読したのである。
私はこの作品に関しては、昨年の6月14日に於いて、
【 今、読んで見たい佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』】と題して、
投稿していたが、再掲載をする。
【・・
過日、読売新聞の『新潮社の最新刊』の広告として、
私はひとつの本の広告を見ていた・・。
佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』であり、
【
炙り出される「負の近現代史」
”従来の甘粕像”をことごとく覆す、
衝撃の大河ノンフィクション!
】
と明示されていた。
私は著作者の佐野眞一氏の愛読者のひとりであるが、
近いうちに駅前に出た時に、買い求める一冊であった。
先程、【YOMIURI】のサイトの文化欄を見ていたら、
偶然に著作者の今回の新刊に寄せる思いが、
少し紹介されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080604bk01.htm
私は著作者の数々の作品より、人の底知れる情念を学び、
怜悧までに真摯な徹底した取材、
そして行間に温かみのある著作者の主人公への思いを、
いつも感じ取りながら、読んだりしている。
現世に数多くのノンフィクション・ライターは存在しているが、
私の知る限り最も力量のある優れた作家と確信している。
・・】
このような投稿していたが、昼食時を忘れるくらい、
熱中したりした。
夜のひととき、『夢伝説・世界の主役たち ション・コネリー』を視聴する。
この作品はNHK衛星放送で2000年8月27日で放映された番組で、
私は魅了される番組でも収録する癖があるので、
たぶん三回目と思われるが、ション・コネリー自身のしぐさ、メッセージを聴きたく観賞したのである。
9日の火曜日は快晴となり、最寄駅のひとつ喜多見の本屋『BOOKS GORO』に行く。
川沿いの遊歩道を散策したのであったが、
樹木の新緑は深緑に染められ中、下草や草花を眺め、この時節の移ろいを甘受した。
講談社MOOKと称せられた『現代プレミア』という雑誌の中で、
『ノンフィクションと教養』を購入する。
この本を買い求めに本屋に来たのであったが、
この本の置いてある付近に季刊雑誌の『文藝春秋 SPECIAL』があり、
今回は《 映画が人生を教えてくれた 》と副題が明記されていたので、
心の中で小躍りしながら買い求めたのである。
そして、店内の一角にパソコン系の棚に行き、
ひとつの雑誌を買い求めたのである。
『日経ベストPC+デジタル 2009年夏号』であり、
パソコンを主体に関連デジタル機種を優しく解説してくれる雑誌であり、
私はバソコン環境に混迷した時に、購入する雑誌である。
今回はパソコンが修理中なので、次期に購入する時の基礎資料と思い、
帰宅後、読んだりしたが、いったいどこまで進化するの、
と思いながら、ため息をついたりしたのである。
10日の水曜日は曇り空の中、散髪屋(理髪店)に寄った後、
2店ばかりスーパーで買物をして、帰宅の途中でコンビニで月刊雑誌の『文藝春秋』を買い求めて帰宅。
午後の大半は、昨日の大半の続きとして、
『ノンフィクションと教養』、そして『文藝春秋 SPECIAL ~映画が人生を教えてくれた~』を読んだり、
今月号の『文藝春秋』もあり、楽しげな優先度でもあった。
夜のひととき、ビデオ棚から『ガンジー』(1982年)を取り出して観賞。
そして、深夜の一時過ぎに、ガンジーが存在していた頃のインド史を読む。
歴史学者のA.L.サッチャー著作で、大谷堅志郎・訳に寄る
『燃え続けた20世紀 第二巻~殺戮の世界史~』(詳伝社黄金文庫)であり、
この中の第5章『インドの目覚め』、第15章『流血の印パ分裂』を読み、
改めてガンジーの時代のインド大陸の混迷を教示されたのである。
11日の木曜日は雨の降る朝であったが、午後より快晴となった。
私は買い求めた雑誌を読んだりしていたが、
夜のひととき、ビデオ棚より『壬生義士伝』(2003年)を観賞した後、
プロレスのビデオを取り出したのである。
『決闘! 巌流島 ~究極の格闘技伝説』と題されたアントニオ猪木VSマサ斉藤の戦いのドキュメント・ビデオである。
私は1970年代は、ときおりプロレスのテレビ観戦をしたことがあったが、
その後、私はプロレスを視聴しなくなったが、風の便りとして、
1987年秋にデスマッチとして、この戦いを聞いたりしていた。
後年、この血戦のビデオを知り、購入したのである。
私は齢を重ねても男の子のひとりであるので、3年に一回ぐらいは、観てしまうのである。
12日の金曜日は快晴となり、いつものように買物を終えた後は、
雑誌を読みふけっていたが、
夜のひととき、ビデオ棚より『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年)を観賞する。
恥ずかしながら初めて観る映画であったが、期待が大きかった為か、
佳作と感じた程度であった。
13日の土曜日は快晴となり、買物を終えた後は、
書棚から一冊の文庫本を取り出した。
宮崎市定・著の『大唐帝国 ~中国の中世~』(中公文庫)であり、
西暦184年の『黄巾の乱』~三国時代、この後は唐の長き七百年の統治、
そして滅亡まで描いた本書である。
私は中国史はうつろ覚えであるので、少しつづ教示を受けたのである。
夜のひととき、習慣となってしまったが、
ビデオ棚より『ジャイアンツ』(1956年)を観賞する。
この作品は、テキサスの20世紀の初めより、1950年頃までを描いた作品である。
私は中学生の初め、渋谷の二流の映画館に於いて、
満員で立見となったが、ジェームス・ディーンが扮した役柄の男に惚れ込んだのである。
牧童の男は卑屈になったり、ときには横柄となったりし、やがて財を築くが、
いじけた内面があり、最後は破滅になる、
こうした男に魅せられたのである。
この作品も私は3年に一回ぐらいは観賞している。
14日の日曜日は、日中の大半は宮崎市定・著の『大唐帝国 ~中国の中世~』(中公文庫)を読む。
そして、夜はビデオ棚より『追想』(1956年)を観賞する。
イングリット・バークマンが扮するアナスタシアが、
ヘレン・ヘイズが扮した大皇妃との初対面のシーンが観たくて、
私は10数回ぐらいは観賞している。
それにしてもアメリカ映画界は、女優バークマンを復帰させるには、
最適な役柄を提供できる力を秘めた時代でもあった、
といつも感心させられる作品である。
15日の月曜日は、日中の大半はビデオ棚より『ゴットファーザー』(1972年)を観賞した後、
『ゴットファーザー PARTⅡ』(1975年)を観る。
16日の火曜日は、日中の大半はビデオ棚より『ゴットファーザー PARTⅢ』(1991年)を観賞した後、
『プラトーン』(1986年)を観る。
このようパソコンは不在となった14泊15日間となった折、
ふしだらな生活を過ごしてきたのである。
定年後の旅行で最長は、沖縄本島の8泊9日であったが、
それにしても17日の水曜日に修理済みのパソコンを受領した時、
長かったというのは本音である。
何より最初の数日間は、予告もなく突然に投稿せず、
お読み頂いている方たちも、申し訳ない心情であった・・。
パソコンのない日常生活の自身のふるまいを改めて知ったりしたが、
残された人生で私は散文を綴り、自身を高めていくのが本来の生き方なので、
やはり長きにわたり投稿文を綴らないと、確実に筆力は衰える、
と実感して戸惑っている。
《終り》
a href="http://www.blogmura.com/">
日中の7時間ばかり玄関庭、主庭の草むしりに専念した。
5日の金曜日は、小雨の降る一日であり、
私は身体も疲れた為、読書の一日となった。
私が中断していた塩野七生・著の『ローマ人の物語 第32巻~第34巻 ~混迷する帝国~』(新潮文庫)を読んだ後、
作家・新田次郎氏の奥様である藤原てい・著の『旅路』(中公文庫)、
そして元総理の小渕恵三氏を描いた佐野眞一・著の『凡宰伝』(文春文庫)、
五冊ばかり文庫本を精読しながら、15時間を過ごしたのである。
6日の土曜日は、午前中は小雨、午後に曇りとなり、
昼下がりから快晴となった。
私は居間で、映画を観ようと思い、ビデオ・DVDを収容している三つのラックより、
映画の作品を選定した。
パソコンのない日常の不安げな心情を反映した為か、
『ザ・ロック』(1996年)、そして『グラディエーター』(2000年)
を観賞した。
7日の日曜日は、初夏のような暑さの中、スーパーを2店ばかり廻り買物を済ませた後、
作務衣の軽装に着替え、居間のソファーに座り、
『レッド・オクトーバーを追え!』(1990年)、そして『アンチャタッブル』(1987年)を観賞した。
いずれもショーン・コネリーが主演しているが、
前日に観た『ザ・ロック』(1996年)のショーン・コネリーの余韻である。
私は男優としては、ロバート・デ・ニーロと共にショーン・コネリーを敬愛しているひとりである。
そしてショーン・コネリーの作品は20数本を観た限りであるが、
この『アンチャタッブル』(1987年)の助演が最も好感している。
8日の日曜日は、深夜のひととき、
WBのテレビ用の作品で『FALL SAFE 未知への飛行』(2002年)
を観賞。
アメリカの核を積載した戦闘機部隊が誤ってソ連の首都に核爆撃するまでの過程を描き、
この間にモスクワまでの飛行への間、アメリカ大統領とソ連首相との電話会議を重ねながらも、
モスクワに核投下の結果、謝罪としてアメリカ大統領は自国の首都ワシントンに、
核を投下させる冷厳なドラマである。
この作品は、CBS放送で放映したのを改めて、再編集したと思われが、
テレビ用の作品としては優作である。
8日の日中は曇り空の一日であったが、
佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社)を再読する。
この単行本は、昨年の初夏に於いて読んでいたが、旅行も重なり、
中断しながら読んだので、こうしたパソコンの不在の折、
一心に読む決意で再読したのである。
私はこの作品に関しては、昨年の6月14日に於いて、
【 今、読んで見たい佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』】と題して、
投稿していたが、再掲載をする。
【・・
過日、読売新聞の『新潮社の最新刊』の広告として、
私はひとつの本の広告を見ていた・・。
佐野眞一・著の『甘粕正彦 乱心の曠野』であり、
【
炙り出される「負の近現代史」
”従来の甘粕像”をことごとく覆す、
衝撃の大河ノンフィクション!
】
と明示されていた。
私は著作者の佐野眞一氏の愛読者のひとりであるが、
近いうちに駅前に出た時に、買い求める一冊であった。
先程、【YOMIURI】のサイトの文化欄を見ていたら、
偶然に著作者の今回の新刊に寄せる思いが、
少し紹介されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080604bk01.htm
私は著作者の数々の作品より、人の底知れる情念を学び、
怜悧までに真摯な徹底した取材、
そして行間に温かみのある著作者の主人公への思いを、
いつも感じ取りながら、読んだりしている。
現世に数多くのノンフィクション・ライターは存在しているが、
私の知る限り最も力量のある優れた作家と確信している。
・・】
このような投稿していたが、昼食時を忘れるくらい、
熱中したりした。
夜のひととき、『夢伝説・世界の主役たち ション・コネリー』を視聴する。
この作品はNHK衛星放送で2000年8月27日で放映された番組で、
私は魅了される番組でも収録する癖があるので、
たぶん三回目と思われるが、ション・コネリー自身のしぐさ、メッセージを聴きたく観賞したのである。
9日の火曜日は快晴となり、最寄駅のひとつ喜多見の本屋『BOOKS GORO』に行く。
川沿いの遊歩道を散策したのであったが、
樹木の新緑は深緑に染められ中、下草や草花を眺め、この時節の移ろいを甘受した。
講談社MOOKと称せられた『現代プレミア』という雑誌の中で、
『ノンフィクションと教養』を購入する。
この本を買い求めに本屋に来たのであったが、
この本の置いてある付近に季刊雑誌の『文藝春秋 SPECIAL』があり、
今回は《 映画が人生を教えてくれた 》と副題が明記されていたので、
心の中で小躍りしながら買い求めたのである。
そして、店内の一角にパソコン系の棚に行き、
ひとつの雑誌を買い求めたのである。
『日経ベストPC+デジタル 2009年夏号』であり、
パソコンを主体に関連デジタル機種を優しく解説してくれる雑誌であり、
私はバソコン環境に混迷した時に、購入する雑誌である。
今回はパソコンが修理中なので、次期に購入する時の基礎資料と思い、
帰宅後、読んだりしたが、いったいどこまで進化するの、
と思いながら、ため息をついたりしたのである。
10日の水曜日は曇り空の中、散髪屋(理髪店)に寄った後、
2店ばかりスーパーで買物をして、帰宅の途中でコンビニで月刊雑誌の『文藝春秋』を買い求めて帰宅。
午後の大半は、昨日の大半の続きとして、
『ノンフィクションと教養』、そして『文藝春秋 SPECIAL ~映画が人生を教えてくれた~』を読んだり、
今月号の『文藝春秋』もあり、楽しげな優先度でもあった。
夜のひととき、ビデオ棚から『ガンジー』(1982年)を取り出して観賞。
そして、深夜の一時過ぎに、ガンジーが存在していた頃のインド史を読む。
歴史学者のA.L.サッチャー著作で、大谷堅志郎・訳に寄る
『燃え続けた20世紀 第二巻~殺戮の世界史~』(詳伝社黄金文庫)であり、
この中の第5章『インドの目覚め』、第15章『流血の印パ分裂』を読み、
改めてガンジーの時代のインド大陸の混迷を教示されたのである。
11日の木曜日は雨の降る朝であったが、午後より快晴となった。
私は買い求めた雑誌を読んだりしていたが、
夜のひととき、ビデオ棚より『壬生義士伝』(2003年)を観賞した後、
プロレスのビデオを取り出したのである。
『決闘! 巌流島 ~究極の格闘技伝説』と題されたアントニオ猪木VSマサ斉藤の戦いのドキュメント・ビデオである。
私は1970年代は、ときおりプロレスのテレビ観戦をしたことがあったが、
その後、私はプロレスを視聴しなくなったが、風の便りとして、
1987年秋にデスマッチとして、この戦いを聞いたりしていた。
後年、この血戦のビデオを知り、購入したのである。
私は齢を重ねても男の子のひとりであるので、3年に一回ぐらいは、観てしまうのである。
12日の金曜日は快晴となり、いつものように買物を終えた後は、
雑誌を読みふけっていたが、
夜のひととき、ビデオ棚より『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年)を観賞する。
恥ずかしながら初めて観る映画であったが、期待が大きかった為か、
佳作と感じた程度であった。
13日の土曜日は快晴となり、買物を終えた後は、
書棚から一冊の文庫本を取り出した。
宮崎市定・著の『大唐帝国 ~中国の中世~』(中公文庫)であり、
西暦184年の『黄巾の乱』~三国時代、この後は唐の長き七百年の統治、
そして滅亡まで描いた本書である。
私は中国史はうつろ覚えであるので、少しつづ教示を受けたのである。
夜のひととき、習慣となってしまったが、
ビデオ棚より『ジャイアンツ』(1956年)を観賞する。
この作品は、テキサスの20世紀の初めより、1950年頃までを描いた作品である。
私は中学生の初め、渋谷の二流の映画館に於いて、
満員で立見となったが、ジェームス・ディーンが扮した役柄の男に惚れ込んだのである。
牧童の男は卑屈になったり、ときには横柄となったりし、やがて財を築くが、
いじけた内面があり、最後は破滅になる、
こうした男に魅せられたのである。
この作品も私は3年に一回ぐらいは観賞している。
14日の日曜日は、日中の大半は宮崎市定・著の『大唐帝国 ~中国の中世~』(中公文庫)を読む。
そして、夜はビデオ棚より『追想』(1956年)を観賞する。
イングリット・バークマンが扮するアナスタシアが、
ヘレン・ヘイズが扮した大皇妃との初対面のシーンが観たくて、
私は10数回ぐらいは観賞している。
それにしてもアメリカ映画界は、女優バークマンを復帰させるには、
最適な役柄を提供できる力を秘めた時代でもあった、
といつも感心させられる作品である。
15日の月曜日は、日中の大半はビデオ棚より『ゴットファーザー』(1972年)を観賞した後、
『ゴットファーザー PARTⅡ』(1975年)を観る。
16日の火曜日は、日中の大半はビデオ棚より『ゴットファーザー PARTⅢ』(1991年)を観賞した後、
『プラトーン』(1986年)を観る。
このようパソコンは不在となった14泊15日間となった折、
ふしだらな生活を過ごしてきたのである。
定年後の旅行で最長は、沖縄本島の8泊9日であったが、
それにしても17日の水曜日に修理済みのパソコンを受領した時、
長かったというのは本音である。
何より最初の数日間は、予告もなく突然に投稿せず、
お読み頂いている方たちも、申し訳ない心情であった・・。
パソコンのない日常生活の自身のふるまいを改めて知ったりしたが、
残された人生で私は散文を綴り、自身を高めていくのが本来の生き方なので、
やはり長きにわたり投稿文を綴らないと、確実に筆力は衰える、
と実感して戸惑っている。
《終り》
a href="http://www.blogmura.com/">