徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。
今回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
この中の『百草園』と題した綴りである。
都心より友人が訪ねて来て、氏と友人が遠方の『百草園』に行き、
この後、氏自身が独りで帰路した時、激しい雷雨に遭われながらも帰宅するまでを描いている。
千歳村・粕谷の自宅よりも『百草園』までの往復路の情景は、
私でも明確に想像できるが、それにしてもよく歩かれた、
と読みながら深く思ったのである・・。
毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
【・・
百草園
田の畔(くろ)に赭(あか)い百合(ゆり)めいた萱草(かんぞう)の花が咲く頃の事。
ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。
暫く話して、百草園(もぐさえん)にでも往って見ようか、と主人は云い出した。
百草園は府中から遠くないと聞いて居る。
府中まではざッと四里、これは熟路(じゅくろ)である。
時計を見れば十一時、ちと晩(おそ)いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、
行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。
大麦小麦はとくに刈られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑ならぬ処もない。
其緑の中を一条(ひとすじ)白く西へ西へ山へ山へと這(は)って行く甲州街道を、
二人は話しながらさッさと歩いた。
太田君は紺絣(こんがすり)の単衣、足駄ばきで古い洋傘(こうもり)を手挾(たばさ)んで居る。
主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅(いっちょうら)に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、
麦藁の海水帽をかぶり、素足(すあし)に萎(な)えくたれた茶の運動靴をはいて居る。
二人はさッさと歩いた。
太田君は以前社会主義者として、主義(しゅぎ)宣伝の為、
平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、
中々健脚である。
主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。
一日に十里も歩けば、二日目は骨である。
二人は大胯(おおまた)に歩いた。
蒸暑(むしあつ)い日で、二人はしば/\額の汗を拭(ぬぐ)うた。
府中に来た。
千年の銀杏(いちょう)、欅(けやき)、杉など欝々蒼々(うつうつそうそう)と茂った大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川(たまがわ)の磧(かわら)に出た。
此辺を分倍河原(ぶばいかわら)と云って、
新田義貞大に鎌倉(かまくら)北条勢(ほうじょうぜい)を破った古戦場である。
玉川の渡(わたし)を渡って、
また十丁ばかり、長堤(ちょうてい)を築いた様に
川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た。
もと松蓮寺の寺跡(じせき)で、今は横浜の某氏が別墅(べっしょ)になって居る。
境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。
茶屋からまた一段堆丘(たいきゅう)を上って、
大樹に日をよけた恰好の観望台がある。
二人は其処の素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁(は)せた。
東京近在で展望無双と云わるゝも譌(うそ)ではなかった。
生憎(あいにく)野末の空少し薄曇(うすぐも)りして、
筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが、
つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から
「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、
磧(かわら)と人の手のあとの道路や家屋を示す些(ちと)の灰色とをもて描(えが)かれた大きな鳥瞰画(ちょうかんが)は、
手に取る様に二人が眼下に展(ひろ)げられた。
「好(い)い喃(なあ)」
二人はかわる/″\景(けい)を讃(ほ)めた。
やゝ眺めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳(かげ)った。
時計をもたぬ二人は最早(もう)暮(く)るゝのかと思うた。
蒸暑かった日は何時(いつ)しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。
唯(と)見ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨(いんき)色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然(そう)、降るかも知れんですな」
二人は茶菓の代(しろ)を置いて、山を下りた。
太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。
日野までは一里強である。
山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」
人家の珊瑚木(さんごのき)の生籬(いけがき)を廻って太田君の後姿(うしろすがた)は消えた。
残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡(わたし)の方へ歩いて行った。
川上(かわかみ)の空に湧いて見えた黒雲は、
玉川(たまがわ)の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
彼の一足毎に空はヨリ黯(くら)くなった。
彼は足を早めた。
然し彼の足より雲の脚は尚早かった。
一(いち)の宮(みや)の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で殷々々(ごろごろ)雷が攻太鼓をうち出した。
農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。
府中の方から来る肥料車(こやしぐるま)も、あと押しをつけて、
曳々声(えいえいごえ)して家の方へ急いで居る。
「太田君は何(ど)の辺まで往ったろう?」
彼は一瞬時(またたくま)斯く思うた。
而して今にも泣き出しそうな四囲(あたり)の中を、黙って急いだ。
府中へ来ると、煤色(すすいろ)に暮れた。
時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点(とも)して居る。
早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。
此処(ここ)で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、
こゝに何時(いつ)霽(は)れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家(うち)に急いで居た。
彼は一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭(てぬぐい)をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。
而して最早大分硬(こわ)ばって来た脛(すね)を踏張(ふんば)って、急速に歩み出した。
府中の町を出はなれたかと思うと、追かけて来た黒雲が彼の頭上で破裂した。
突然(だしぬけ)に天の水槽(たんく)の底がぬけたかとばかり、
雨とは云わず瀑布落(たきおと)しに撞々(どうどう)と落ちて来た。
紫色の光がぱッと射す。
直(す)ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇(はげ)しい雷(らい)が鳴った。
彼はぐっと息(いき)が詰(つま)った。
本能的に彼は奔(はし)り出したが、
所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。
此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。
人通りも絶え果てた。
彼は唯一人であった。
雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあドウと漲(みなぎ)り落ちた。
彼の頬被りした海水帽から四方に小さな瀑が落ちた。
糸経(いとだて)を被った甲斐もなく総身濡れ浸(ひた)りポケットにも靴にも一ぱい水が溜(たま)った。
彼は水中を泳ぐ様に歩いた。
紫色や桃色の電(いなずま)がぱっ/\と一しきり闇に降る細引(ほそびき)の様(よう)な太い雨を見せて光った。
ごろ/\/\雷(かみなり)がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、
夥(おびただ)しい爆竹(ばくちく)を一度に点火した様に、
ぱち/\/\彼の頭上に砕(くだ)けた。
長大(ちょうだい)な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。
其(その)度(たび)に彼は思わず立竦(たちすく)んだ。
如何(どう)しても落ちずには済(す)まぬ雷(らい)の鳴り様である。
何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、
屹度(きっと)落ちると覚期(かくご)せねばならなかった。
屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。
此(この)街道(かいどう)の此部分で、今動いて居る生類(しょうるい)は彼一人である。
雷が生(い)き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。
雷にうたれて死(し)ぬ運命の人間が、
地の此部分にあるなら、其は取りも直(なお)さず彼でなくてはならぬ。
彼は是非なく死を覚期した。
彼は生命が惜しくなった。
今此処から三里隔(へだ)てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。
彼は電光の如く自己(じこ)の生涯を省みた。
其れは美しくない半生であった。
妻に対する負債の数々も、緋の文字(もじ)をもて書いた様に顕れた。
彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。
「一人(ひとり)はとられ一人は残さるべし」
と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭(あたま)に閃(ひらめ)いた。
彼は反抗した。
然し其反抗の無益なるを知った。
雷はます/\劇(はげ)しく鳴った。
最早(もう)今度は落ちた、と彼は毎々(たびたび)観念した。
而して彼の心は却て落ついた。
彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類(しょうるい)に対する憐愍(あわれ)に満された。
彼の眼鏡(めがね)は雨の故ならずして曇(くも)った。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降(こぶ)りになり、やがて止んだ。
暮れたと思うた日は、生白(なまじろ)い夕明(ゆうあかり)になった。
調布の町では、道の真中(まんなか)に五六人立って何かガヤ/\云いながら地(ち)を見て居る。
雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。
戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出(で)りゃあの雷だね、
わたしゃ薪小屋(まきごや)に逃げ込んだきり、
出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
雷雨が過ぎて、最早大丈夫(だいじょうぶ)と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。
濡(ぬ)れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。
足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。
滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。
雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
家へ六七丁の辺(へん)まで辿(たど)り着くと、白いものが立って居る。
それは妻(つま)であった。
家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。
あまり晩(おそ)いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。
*
翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川(たまがわ)の少し下流で、
雷が小舟に落ち、舳(へさき)に居た男はうたれて即死、
而して艫(とも)に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。
・・】
徳富蘆花氏が千歳村・粕谷に引っ越されたのは、明治40年2月27日であり、
付近の甲州街道はあり、並行したように京王線はあるが、
大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されているので、
この頃は開通以前であり、百草園まで徒歩で行かれたのである。
氏自身は府中まで4里の道のりは土地の登記などで行ったりしているので、
熟路と称し、 百草園は府中から遠くないと聞いて居たので、
夏の日、友人に百草園に行こうと誘ったのが、午前11時過ぎである。
そして、早めの昼食を頂いた後、氏は友人と自宅の千歳村・粕谷を出たのである。
緑の中を一条(ひとすじ)白い中、甲州街道を2人は談笑しながら歩き、
府中から大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、多摩川の磧(かわら)に出た。
そして、新田義貞の軍勢と北条勢軍団が激突した分倍河原の古戦場を通り、
多摩川の玉川の渡(わたし)を渡って、
しばらくすると、低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た、
と綴られている。
この後、2人は大樹に日をよけた恰好の観望台で、
素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら、付近の展望を褒め称えた。
そして、友人はこれから一里ばかり歩いた後、
日野の停車場に出て、汽車で帰京するので、山の下で二人は手を分った。
蘆花氏は、足早に歩いたが、川上の空に湧いて見えた黒雲は、
多摩川の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
そして、一の宮の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で雷鳴が響いたのである。
府中へ来ると、空は暗く、早くもぽつぽつと降りだしてきた。
そして夕立をやり過ごすかな、と迷ったが、
結果として自宅までの四里を道のりを急いだのである。
そして一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。
府中の町を出はなれたかと思うと、
落雷と激しい豪雨の中を歩いたのであるが、この状況を克明に描かれている。
この後は、死を覚期したりするが、
半生を思い浮かべたり、妻に対する負債の数々も、緋の文字をもて書いた様に顕れたり、
此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えたりする。
やがて落雷に観念しながら、心は却て落つき、
心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類に対する憐愍(あわれ)に満され、。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた、
と綴られている。
そして調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降りになり、やがて止んだ。
雷雨が過ぎ、急に激しく疲労を覚えながらも
何とか自宅にたどり着いたのである。
徳富蘆花氏は雷鳴、そして付近に落雷と共に豪雨の中、
自身の心の動きを克明に描いて折、読みながら臨場感が感じてくるのである。
《つづく》
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初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。
今回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
この中の『百草園』と題した綴りである。
都心より友人が訪ねて来て、氏と友人が遠方の『百草園』に行き、
この後、氏自身が独りで帰路した時、激しい雷雨に遭われながらも帰宅するまでを描いている。
千歳村・粕谷の自宅よりも『百草園』までの往復路の情景は、
私でも明確に想像できるが、それにしてもよく歩かれた、
と読みながら深く思ったのである・・。
毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
【・・
百草園
田の畔(くろ)に赭(あか)い百合(ゆり)めいた萱草(かんぞう)の花が咲く頃の事。
ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。
暫く話して、百草園(もぐさえん)にでも往って見ようか、と主人は云い出した。
百草園は府中から遠くないと聞いて居る。
府中まではざッと四里、これは熟路(じゅくろ)である。
時計を見れば十一時、ちと晩(おそ)いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、
行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。
大麦小麦はとくに刈られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑ならぬ処もない。
其緑の中を一条(ひとすじ)白く西へ西へ山へ山へと這(は)って行く甲州街道を、
二人は話しながらさッさと歩いた。
太田君は紺絣(こんがすり)の単衣、足駄ばきで古い洋傘(こうもり)を手挾(たばさ)んで居る。
主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅(いっちょうら)に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、
麦藁の海水帽をかぶり、素足(すあし)に萎(な)えくたれた茶の運動靴をはいて居る。
二人はさッさと歩いた。
太田君は以前社会主義者として、主義(しゅぎ)宣伝の為、
平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、
中々健脚である。
主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。
一日に十里も歩けば、二日目は骨である。
二人は大胯(おおまた)に歩いた。
蒸暑(むしあつ)い日で、二人はしば/\額の汗を拭(ぬぐ)うた。
府中に来た。
千年の銀杏(いちょう)、欅(けやき)、杉など欝々蒼々(うつうつそうそう)と茂った大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川(たまがわ)の磧(かわら)に出た。
此辺を分倍河原(ぶばいかわら)と云って、
新田義貞大に鎌倉(かまくら)北条勢(ほうじょうぜい)を破った古戦場である。
玉川の渡(わたし)を渡って、
また十丁ばかり、長堤(ちょうてい)を築いた様に
川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た。
もと松蓮寺の寺跡(じせき)で、今は横浜の某氏が別墅(べっしょ)になって居る。
境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。
茶屋からまた一段堆丘(たいきゅう)を上って、
大樹に日をよけた恰好の観望台がある。
二人は其処の素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁(は)せた。
東京近在で展望無双と云わるゝも譌(うそ)ではなかった。
生憎(あいにく)野末の空少し薄曇(うすぐも)りして、
筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが、
つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から
「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、
磧(かわら)と人の手のあとの道路や家屋を示す些(ちと)の灰色とをもて描(えが)かれた大きな鳥瞰画(ちょうかんが)は、
手に取る様に二人が眼下に展(ひろ)げられた。
「好(い)い喃(なあ)」
二人はかわる/″\景(けい)を讃(ほ)めた。
やゝ眺めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳(かげ)った。
時計をもたぬ二人は最早(もう)暮(く)るゝのかと思うた。
蒸暑かった日は何時(いつ)しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。
唯(と)見ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨(いんき)色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然(そう)、降るかも知れんですな」
二人は茶菓の代(しろ)を置いて、山を下りた。
太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。
日野までは一里強である。
山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」
人家の珊瑚木(さんごのき)の生籬(いけがき)を廻って太田君の後姿(うしろすがた)は消えた。
残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡(わたし)の方へ歩いて行った。
川上(かわかみ)の空に湧いて見えた黒雲は、
玉川(たまがわ)の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
彼の一足毎に空はヨリ黯(くら)くなった。
彼は足を早めた。
然し彼の足より雲の脚は尚早かった。
一(いち)の宮(みや)の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で殷々々(ごろごろ)雷が攻太鼓をうち出した。
農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。
府中の方から来る肥料車(こやしぐるま)も、あと押しをつけて、
曳々声(えいえいごえ)して家の方へ急いで居る。
「太田君は何(ど)の辺まで往ったろう?」
彼は一瞬時(またたくま)斯く思うた。
而して今にも泣き出しそうな四囲(あたり)の中を、黙って急いだ。
府中へ来ると、煤色(すすいろ)に暮れた。
時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点(とも)して居る。
早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。
此処(ここ)で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、
こゝに何時(いつ)霽(は)れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家(うち)に急いで居た。
彼は一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭(てぬぐい)をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。
而して最早大分硬(こわ)ばって来た脛(すね)を踏張(ふんば)って、急速に歩み出した。
府中の町を出はなれたかと思うと、追かけて来た黒雲が彼の頭上で破裂した。
突然(だしぬけ)に天の水槽(たんく)の底がぬけたかとばかり、
雨とは云わず瀑布落(たきおと)しに撞々(どうどう)と落ちて来た。
紫色の光がぱッと射す。
直(す)ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇(はげ)しい雷(らい)が鳴った。
彼はぐっと息(いき)が詰(つま)った。
本能的に彼は奔(はし)り出したが、
所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。
此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。
人通りも絶え果てた。
彼は唯一人であった。
雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあドウと漲(みなぎ)り落ちた。
彼の頬被りした海水帽から四方に小さな瀑が落ちた。
糸経(いとだて)を被った甲斐もなく総身濡れ浸(ひた)りポケットにも靴にも一ぱい水が溜(たま)った。
彼は水中を泳ぐ様に歩いた。
紫色や桃色の電(いなずま)がぱっ/\と一しきり闇に降る細引(ほそびき)の様(よう)な太い雨を見せて光った。
ごろ/\/\雷(かみなり)がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、
夥(おびただ)しい爆竹(ばくちく)を一度に点火した様に、
ぱち/\/\彼の頭上に砕(くだ)けた。
長大(ちょうだい)な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。
其(その)度(たび)に彼は思わず立竦(たちすく)んだ。
如何(どう)しても落ちずには済(す)まぬ雷(らい)の鳴り様である。
何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、
屹度(きっと)落ちると覚期(かくご)せねばならなかった。
屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。
此(この)街道(かいどう)の此部分で、今動いて居る生類(しょうるい)は彼一人である。
雷が生(い)き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。
雷にうたれて死(し)ぬ運命の人間が、
地の此部分にあるなら、其は取りも直(なお)さず彼でなくてはならぬ。
彼は是非なく死を覚期した。
彼は生命が惜しくなった。
今此処から三里隔(へだ)てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。
彼は電光の如く自己(じこ)の生涯を省みた。
其れは美しくない半生であった。
妻に対する負債の数々も、緋の文字(もじ)をもて書いた様に顕れた。
彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。
「一人(ひとり)はとられ一人は残さるべし」
と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭(あたま)に閃(ひらめ)いた。
彼は反抗した。
然し其反抗の無益なるを知った。
雷はます/\劇(はげ)しく鳴った。
最早(もう)今度は落ちた、と彼は毎々(たびたび)観念した。
而して彼の心は却て落ついた。
彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類(しょうるい)に対する憐愍(あわれ)に満された。
彼の眼鏡(めがね)は雨の故ならずして曇(くも)った。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降(こぶ)りになり、やがて止んだ。
暮れたと思うた日は、生白(なまじろ)い夕明(ゆうあかり)になった。
調布の町では、道の真中(まんなか)に五六人立って何かガヤ/\云いながら地(ち)を見て居る。
雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。
戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出(で)りゃあの雷だね、
わたしゃ薪小屋(まきごや)に逃げ込んだきり、
出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
雷雨が過ぎて、最早大丈夫(だいじょうぶ)と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。
濡(ぬ)れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。
足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。
滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。
雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
家へ六七丁の辺(へん)まで辿(たど)り着くと、白いものが立って居る。
それは妻(つま)であった。
家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。
あまり晩(おそ)いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。
*
翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川(たまがわ)の少し下流で、
雷が小舟に落ち、舳(へさき)に居た男はうたれて即死、
而して艫(とも)に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。
・・】
徳富蘆花氏が千歳村・粕谷に引っ越されたのは、明治40年2月27日であり、
付近の甲州街道はあり、並行したように京王線はあるが、
大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されているので、
この頃は開通以前であり、百草園まで徒歩で行かれたのである。
氏自身は府中まで4里の道のりは土地の登記などで行ったりしているので、
熟路と称し、 百草園は府中から遠くないと聞いて居たので、
夏の日、友人に百草園に行こうと誘ったのが、午前11時過ぎである。
そして、早めの昼食を頂いた後、氏は友人と自宅の千歳村・粕谷を出たのである。
緑の中を一条(ひとすじ)白い中、甲州街道を2人は談笑しながら歩き、
府中から大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、多摩川の磧(かわら)に出た。
そして、新田義貞の軍勢と北条勢軍団が激突した分倍河原の古戦場を通り、
多摩川の玉川の渡(わたし)を渡って、
しばらくすると、低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た、
と綴られている。
この後、2人は大樹に日をよけた恰好の観望台で、
素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら、付近の展望を褒め称えた。
そして、友人はこれから一里ばかり歩いた後、
日野の停車場に出て、汽車で帰京するので、山の下で二人は手を分った。
蘆花氏は、足早に歩いたが、川上の空に湧いて見えた黒雲は、
多摩川の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
そして、一の宮の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で雷鳴が響いたのである。
府中へ来ると、空は暗く、早くもぽつぽつと降りだしてきた。
そして夕立をやり過ごすかな、と迷ったが、
結果として自宅までの四里を道のりを急いだのである。
そして一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。
府中の町を出はなれたかと思うと、
落雷と激しい豪雨の中を歩いたのであるが、この状況を克明に描かれている。
この後は、死を覚期したりするが、
半生を思い浮かべたり、妻に対する負債の数々も、緋の文字をもて書いた様に顕れたり、
此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えたりする。
やがて落雷に観念しながら、心は却て落つき、
心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類に対する憐愍(あわれ)に満され、。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた、
と綴られている。
そして調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降りになり、やがて止んだ。
雷雨が過ぎ、急に激しく疲労を覚えながらも
何とか自宅にたどり着いたのである。
徳富蘆花氏は雷鳴、そして付近に落雷と共に豪雨の中、
自身の心の動きを克明に描いて折、読みながら臨場感が感じてくるのである。
《つづく》
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