夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《13》

2009-06-21 17:23:55 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

今回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
この中の『百草園』と題した綴りである。

都心より友人が訪ねて来て、氏と友人が遠方の『百草園』に行き、
この後、氏自身が独りで帰路した時、激しい雷雨に遭われながらも帰宅するまでを描いている。

千歳村・粕谷の自宅よりも『百草園』までの往復路の情景は、
私でも明確に想像できるが、それにしてもよく歩かれた、
と読みながら深く思ったのである・・。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     百草園

田の畔(くろ)に赭(あか)い百合(ゆり)めいた萱草(かんぞう)の花が咲く頃の事。
ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。
暫く話して、百草園(もぐさえん)にでも往って見ようか、と主人は云い出した。

百草園は府中から遠くないと聞いて居る。
府中まではざッと四里、これは熟路(じゅくろ)である。
時計を見れば十一時、ちと晩(おそ)いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、
行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。


大麦小麦はとくに刈られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑ならぬ処もない。
其緑の中を一条(ひとすじ)白く西へ西へ山へ山へと這(は)って行く甲州街道を、
二人は話しながらさッさと歩いた。

太田君は紺絣(こんがすり)の単衣、足駄ばきで古い洋傘(こうもり)を手挾(たばさ)んで居る。
主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅(いっちょうら)に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、
麦藁の海水帽をかぶり、素足(すあし)に萎(な)えくたれた茶の運動靴をはいて居る。
二人はさッさと歩いた。

太田君は以前社会主義者として、主義(しゅぎ)宣伝の為、
平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、
中々健脚である。

主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。
一日に十里も歩けば、二日目は骨である。
二人は大胯(おおまた)に歩いた。

蒸暑(むしあつ)い日で、二人はしば/\額の汗を拭(ぬぐ)うた。


府中に来た。
千年の銀杏(いちょう)、欅(けやき)、杉など欝々蒼々(うつうつそうそう)と茂った大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川(たまがわ)の磧(かわら)に出た。

此辺を分倍河原(ぶばいかわら)と云って、
新田義貞大に鎌倉(かまくら)北条勢(ほうじょうぜい)を破った古戦場である。

玉川の渡(わたし)を渡って、
また十丁ばかり、長堤(ちょうてい)を築いた様に
川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た。
もと松蓮寺の寺跡(じせき)で、今は横浜の某氏が別墅(べっしょ)になって居る。

境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。
茶屋からまた一段堆丘(たいきゅう)を上って、
大樹に日をよけた恰好の観望台がある。
二人は其処の素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁(は)せた。


東京近在で展望無双と云わるゝも譌(うそ)ではなかった。
生憎(あいにく)野末の空少し薄曇(うすぐも)りして、
筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが、
つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から
「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、
磧(かわら)と人の手のあとの道路や家屋を示す些(ちと)の灰色とをもて描(えが)かれた大きな鳥瞰画(ちょうかんが)は、
手に取る様に二人が眼下に展(ひろ)げられた。

「好(い)い喃(なあ)」
二人はかわる/″\景(けい)を讃(ほ)めた。


やゝ眺めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳(かげ)った。
時計をもたぬ二人は最早(もう)暮(く)るゝのかと思うた。
蒸暑かった日は何時(いつ)しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。
唯(と)見ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨(いんき)色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然(そう)、降るかも知れんですな」


二人は茶菓の代(しろ)を置いて、山を下りた。
太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。
日野までは一里強である。
山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」


人家の珊瑚木(さんごのき)の生籬(いけがき)を廻って太田君の後姿(うしろすがた)は消えた。
残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡(わたし)の方へ歩いて行った。
川上(かわかみ)の空に湧いて見えた黒雲は、
玉川(たまがわ)の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
彼の一足毎に空はヨリ黯(くら)くなった。
彼は足を早めた。
然し彼の足より雲の脚は尚早かった。
一(いち)の宮(みや)の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で殷々々(ごろごろ)雷が攻太鼓をうち出した。

農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。
府中の方から来る肥料車(こやしぐるま)も、あと押しをつけて、
曳々声(えいえいごえ)して家の方へ急いで居る。
「太田君は何(ど)の辺まで往ったろう?」


彼は一瞬時(またたくま)斯く思うた。
而して今にも泣き出しそうな四囲(あたり)の中を、黙って急いだ。


府中へ来ると、煤色(すすいろ)に暮れた。
時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点(とも)して居る。
早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。

此処(ここ)で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、
こゝに何時(いつ)霽(は)れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家(うち)に急いで居た。
彼は一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭(てぬぐい)をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。
而して最早大分硬(こわ)ばって来た脛(すね)を踏張(ふんば)って、急速に歩み出した。


府中の町を出はなれたかと思うと、追かけて来た黒雲が彼の頭上で破裂した。
突然(だしぬけ)に天の水槽(たんく)の底がぬけたかとばかり、
雨とは云わず瀑布落(たきおと)しに撞々(どうどう)と落ちて来た。
紫色の光がぱッと射す。
直(す)ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇(はげ)しい雷(らい)が鳴った。

彼はぐっと息(いき)が詰(つま)った。
本能的に彼は奔(はし)り出したが、
所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。
此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。
人通りも絶え果てた。
彼は唯一人であった。
雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあドウと漲(みなぎ)り落ちた。
彼の頬被りした海水帽から四方に小さな瀑が落ちた。
糸経(いとだて)を被った甲斐もなく総身濡れ浸(ひた)りポケットにも靴にも一ぱい水が溜(たま)った。

彼は水中を泳ぐ様に歩いた。
紫色や桃色の電(いなずま)がぱっ/\と一しきり闇に降る細引(ほそびき)の様(よう)な太い雨を見せて光った。
ごろ/\/\雷(かみなり)がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、
夥(おびただ)しい爆竹(ばくちく)を一度に点火した様に、
ぱち/\/\彼の頭上に砕(くだ)けた。

長大(ちょうだい)な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。
其(その)度(たび)に彼は思わず立竦(たちすく)んだ。
如何(どう)しても落ちずには済(す)まぬ雷(らい)の鳴り様である。

何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、
屹度(きっと)落ちると覚期(かくご)せねばならなかった。
屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。
此(この)街道(かいどう)の此部分で、今動いて居る生類(しょうるい)は彼一人である。
雷が生(い)き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。
雷にうたれて死(し)ぬ運命の人間が、
地の此部分にあるなら、其は取りも直(なお)さず彼でなくてはならぬ。

彼は是非なく死を覚期した。
彼は生命が惜しくなった。
今此処から三里隔(へだ)てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。
彼は電光の如く自己(じこ)の生涯を省みた。
其れは美しくない半生であった。
妻に対する負債の数々も、緋の文字(もじ)をもて書いた様に顕れた。

彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。
「一人(ひとり)はとられ一人は残さるべし」
と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭(あたま)に閃(ひらめ)いた。
彼は反抗した。
然し其反抗の無益なるを知った。
雷はます/\劇(はげ)しく鳴った。

最早(もう)今度は落ちた、と彼は毎々(たびたび)観念した。
而して彼の心は却て落ついた。
彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類(しょうるい)に対する憐愍(あわれ)に満された。
彼の眼鏡(めがね)は雨の故ならずして曇(くも)った。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。


調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降(こぶ)りになり、やがて止んだ。
暮れたと思うた日は、生白(なまじろ)い夕明(ゆうあかり)になった。
調布の町では、道の真中(まんなか)に五六人立って何かガヤ/\云いながら地(ち)を見て居る。
雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。

戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出(で)りゃあの雷だね、
わたしゃ薪小屋(まきごや)に逃げ込んだきり、
出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。


雷雨が過ぎて、最早大丈夫(だいじょうぶ)と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。
濡(ぬ)れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。
足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。
滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。
雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。


家へ六七丁の辺(へん)まで辿(たど)り着くと、白いものが立って居る。
それは妻(つま)であった。
家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。
あまり晩(おそ)いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

           *

翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川(たまがわ)の少し下流で、
雷が小舟に落ち、舳(へさき)に居た男はうたれて即死、
而して艫(とも)に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。

・・】



徳富蘆花氏が千歳村・粕谷に引っ越されたのは、明治40年2月27日であり、
付近の甲州街道はあり、並行したように京王線はあるが、
大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されているので、
この頃は開通以前であり、百草園まで徒歩で行かれたのである。

氏自身は府中まで4里の道のりは土地の登記などで行ったりしているので、
熟路と称し、 百草園は府中から遠くないと聞いて居たので、
夏の日、友人に百草園に行こうと誘ったのが、午前11時過ぎである。

そして、早めの昼食を頂いた後、氏は友人と自宅の千歳村・粕谷を出たのである。


緑の中を一条(ひとすじ)白い中、甲州街道を2人は談笑しながら歩き、
府中から大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、多摩川の磧(かわら)に出た。

そして、新田義貞の軍勢と北条勢軍団が激突した分倍河原の古戦場を通り、
多摩川の玉川の渡(わたし)を渡って、
しばらくすると、低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た、
と綴られている。

この後、2人は大樹に日をよけた恰好の観望台で、
素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら、付近の展望を褒め称えた。

そして、友人はこれから一里ばかり歩いた後、
日野の停車場に出て、汽車で帰京するので、山の下で二人は手を分った。

蘆花氏は、足早に歩いたが、川上の空に湧いて見えた黒雲は、
多摩川の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
そして、一の宮の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で雷鳴が響いたのである。

府中へ来ると、空は暗く、早くもぽつぽつと降りだしてきた。
そして夕立をやり過ごすかな、と迷ったが、
結果として自宅までの四里を道のりを急いだのである。

そして一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。

府中の町を出はなれたかと思うと、
落雷と激しい豪雨の中を歩いたのであるが、この状況を克明に描かれている。

この後は、死を覚期したりするが、
半生を思い浮かべたり、妻に対する負債の数々も、緋の文字をもて書いた様に顕れたり、
此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えたりする。

やがて落雷に観念しながら、心は却て落つき、
心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類に対する憐愍(あわれ)に満され、。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた、
と綴られている。


そして調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降りになり、やがて止んだ。

雷雨が過ぎ、急に激しく疲労を覚えながらも
何とか自宅にたどり着いたのである。

徳富蘆花氏は雷鳴、そして付近に落雷と共に豪雨の中、
自身の心の動きを克明に描いて折、読みながら臨場感が感じてくるのである。



                         《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《12》

2009-06-21 14:23:52 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】の前回に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

今回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
この中の『二百円』と題した綴りである。

氏が千歳村・粕谷に住まわれて、
ある日、見知らぬ男が突然に来宅し、その男の話であり、
直接には千歳村の生活とは関係はないが、この当時の社会状況に於いて、
このような男もいたと当時の社会実態を知る上、
あえて転記させて頂く。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
   草葉のささやき

     二百円

樫(かし)の実が一つぽとりと落ちた。
其幽(かすか)な響が消えぬうちに、突(つ)と入って縁先に立った者がある。
小鼻(こばな)に疵痕(きずあと)の白く光った三十未満の男。
駒下駄に縞物(しまもの)ずくめの小商人(こあきんど)と云う服装(なり)。
眉から眼にかけて、夕立(ゆうだち)の空の様な真闇(まっくら)い顔をして居る。
「私(わたし)は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻(かない)に不幸な者でして……斯(こう)申上げると最早(もう)御分かりになりましょうが」


最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈(み)ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。


彼は埼玉(さいたま)の者、養子であった。
繭(まゆ)商法に失敗して、養家の身代を殆(ほと)んど耗(す)ってしまい、
其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。

こゝで妻子を呼び迎えて、暫(しばらく)暮らして居たが、
思わしい事もないので、大連(だいれん)に移った。
日露戦争の翌年の秋である。
大連に来て好い仕事もなく、満人臭(まんざくさ)い裏町にころがって居る内に、子供を亡(な)くしてしまった。

「可愛いやつでした。五歳(いつつ)でした、女児(おんなのこ)でしたがね、
其(そ)れはよく私になずいて居ました。
国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻(かない)は無愛想でしても、女児(やつ)が阿爺(とうさん)、
阿爺と歓迎して、帽子(ぼうし)をしまったり、其(そ)れはよくするのです。
私も全(まった)く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。
病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。
其内息を引きとってしまったンです。
医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様(そん)な事をしたものでしょう。
尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分が曾(かつ)て斯々の事をした、
それで斯様(かよう)な罰を受けたと懺悔(ざんげ)したそうですがね」


彼は暫く眼をつぶって居た。
「それから?」
「それから何時まで遊んでも居られませんから、
夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、
其会社のまあ大将ですね、其大将の家(うち)に奉公に住み込みました。
何(なに)しろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、
生活なンかそりゃ贅沢(ぜいたく)なもンです。
召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。
奥さんは好(い)い方で、私共によく眼をかけてくれました。
其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。
奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何(どう)も妻の容子(ようす)が変(かわ)って来ました。
――妻ですか、何、美人なもンですか、些(ちっと)も好くはないのです」
と彼は吐き出す様に云った。

「妻の容子がドウも変(へん)になりました。
私も気をつけて見て居ると、腑(ふ)に落ちぬ事がいくらもあるのです。
主人が馬車で帰って来ます。
二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒(びいる)を盆にのせて持て行くのです。
私は階段下に居ます。
妻が傍眼(わきめ)に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。
一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。
私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、
窃(そっ)と主人の書斎の扉(どあ)の外に抜足(ぬきあし)してじいッと聴いたり、
鍵(かぎ)の穴からも覗(のぞ)いて見ました。
が、厚い厚い扉(どあ)です。
中は寂然(ひっそり)して何を為(し)て居るか分かりません。私は実に――」


彼は泣き声になった。
一つに寄(よ)った真黒(まっくろ)い彼の眉はビリ/\動いた。
唇(くちびる)は顫(ふる)えた。

「妻の眼色(めいろ)を読もうとしても、主人の貌色(かおいろ)に気をつけても、
唯(ただ)疑念(ぎねん)ばかりで証拠を押えることが出来ません。
斯様(こん)な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。
また其様(そう)妻に云ったことも一度や二度じゃありません。
けれども妻は其度に腹を立てます。
斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、
其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出(いで)なさい、
何処ぞへ仕事を探がしに御出(おいで)なさい、
と突慳貪(つっけんどん)に云うンです。
最早(もう)私も堪忍出来なくなりました」

「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。
誰も居ない川原(かわら)です。
種々と妻を詰問しましたが、如何(どう)しても実を吐(は)きません。
其れから懐中して居た短刀をぬいて、
白状(はくじょう)するなら宥(ゆる)す、嘘(うそ)を吐(つ)くなら命を貰(もら)うからそう思え、とかゝりますと、
妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。
嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責(せ)めつけると、
到頭(とうとう)悉皆(すっかり)白状してしまいました」


彼はホウッと長い息をついた。
「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。
すると翌日主人が私を書斎に呼びまして
『ドウも実に済まぬ事をした。
主人の俺(わし)が斯(こ)う手をついてあやまるから、何卒(どうぞ)内済(ないさい)にしてくれ。
其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。
屹度(きっと)成功さす。
これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、
二百円、左様、手の切れる様(よう)な十円札(さつ)でした、
二百円呉れました」

「君は其二百円を貰ったンだね、
何故(なぜ)其(その)短刀で其男を刺殺さなかった?」


彼は俯(うつむ)いた。
「それから?」
「それから一旦(いったん)内地に帰って、また大連に行きました。
最早(もう)主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」
「而(そう)して今は?」
「今は東京の場末(ばすえ)に、小さな小間物屋を出して居ます」
「細君(さいくん)は?」
「妻は一緒に居るのです」
 話は暫く絶えた。

「一緒に居ますが、面白くなくて/\、胸(むね)がむしゃくしゃして仕様(しよう)がないものですから、
それで今日(こんにち)は――」

           *

忽然(こつぜん)と風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。

・・】



徳富蘆花氏は会話体の形態で、
ひとりの零落した30代の男のいままでの人生の軌跡を描いているが、
あの当時の社会情勢を還りみると、このような男もある程度は在た、
と苦渋しながら私は読み終えたのである。


                          
                              《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《11》

2009-06-21 13:08:35 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】の前回に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。
前半の第二章まで掲載させて頂いたが、
今回のこの後半とした。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
     憶出のかず/\

      3

東京へはよく出た。
最初1年が間は、甲州街道に人力車があることすら知らなかった。
調布新宿間の馬車に乗るすら稀であった。
彼等が千歳村に越して間もなく、
玉川電鉄は渋谷から玉川まで開通したが、
彼等は其れすら利用することが稀であった。

田舎者は田舎者らしく徒歩主義を執らねばならぬと考えた。
彼も妻も低い下駄、草鞋(わらじ)、ある時は高足駄をはいて3里の路を往復した。
しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、
ブラ提灯を便りに夜(よる)晩(おそ)く帰ったりした。

丸の内三菱が原で、大きな煉瓦の建物を前に、
草原に足投げ出して、悠々(ゆうゆう)と握飯食った時、
彼は実際好い気もちであった。
彼は好んで田舎を東京にひけらかした。

何時(いつ)も着のみ着のまゝで東京に出た。
一貫目余の筍(たけのこ)を二本担(にな)って往ったり、
よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄(はなすすき)を道々折っては、
親類へのみやげにした。

親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷(いも)を洗ったり、外竈(そとへっつい)を焚いて見たり、
実地の飯事(ままごと)を面白がったが、
然し東京の玄関(げんかん)から下駄ばきで尻からげ、
やっとこさに荷物脊負(せお)うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、
都の子女として至って平民的な彼等も流石に羞(はず)かしそうな笑止(しょうし)な顔をした。


彼は田舎を都にひけらかすと共に、
東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。
彼は一切の角(つの)を隠して、周囲に同化す可く努(つと)めた。

彼はあらゆる村の集会に出た。
諸君が廉酒を飲む時、彼は肴(さかな)の沢庵をつまんだ。
葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。
月番になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、
自身役場に持参した。

村の耶蘇教会にも日曜毎に参詣して、
彼が村入して程なく招かれて来た耳の遠い牧師の説教を聴いた。
荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、
椎蕈ムロを拵(こしら)えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。

都の客に剣突(けんつく)喫(く)わすことはある共、
田舎の客に相手にならぬことはなかった。誰(たれ)にでもヒョコ/\頭を下げ、
いざとなれば尻軽に走り廻った。

牛にひかれた妻も、外竈(そとへっつい)の前に炭俵を敷いて座りながら、
かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして
「大分(だいぶ)話(はな)せる」
と良人にほめられた。


玉川に遠いのが毎(いつ)も繰り返えされる失望であったが、
井水が清(す)んだのでいさゝか慰めた。
農家は毎夜風呂を立てる。
彼等も成る可く立てた。
最初寒い内は土間に立てた。
水をかい込むのが面倒で、1週間も沸かしては入り沸かしては入りした。
5日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、
風呂の底がぬる/\になった。
それでも入らぬよりましと笑って、我慢して入った。
夏になってから外で立てた。
井(いど)も近くなったので、水は日毎に新にした。

青天井の下の風呂は全く爽々(せいせい)して好い。
「行水(ぎょうずい)の捨て処なし虫の声」虫の音(ね)に囲まれて、
月を見ながら悠々と風呂に浸(つか)る時、彼等は田園生活を祝した。

時々雨が降り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。
夏休に逗留に来て居る娘なども、
キャッ/\笑い興(きょう)じて傘風呂(からかさぶろ)に入った。

       4

彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、
赤裸な雑木林の梢(こずえ)から真白な富士を見て居た武蔵野は、
裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、
移り変る自然の面影は、其日其月の趣を、
初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた。

彼等は周囲(あたり)の自然と人とに次第に親しみつゝ、
一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。
東と北に一間の下屋(げや)をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、
外に小さな浴室を建て、井筒(いづつ)も栗の木の四角な井桁(いげた)に更(か)えることにした。

畑も1反4畝程買いたした。
観賞樹木も家不相応に植え込んだ。
夏から秋の暮にかけて、間歇的(かんけつてき)だが、小婢(こおんな)も来た。

10月の末、86の父と79の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、
其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、
心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。

而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の10月25日に浴室の使用初(つかいぞめ)をして、
「日々新」と父が其(その)板壁に書いてくれた。


斯くて千歳村の1年は、
馬車馬の走る様(よう)に、さっさと過ぎた。
今更の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。
幸福は心の貧しきにある。
感謝は物の乏しきにある。
例令(たとえ)此(この)創業の1年が、
稚気乃至多少の衒気(げんき)を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁(からさわ)ぎの1年であったとするも、
彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。


彼は生年40にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。

・・】


徳富蘆花氏は初めて千歳村・粕谷に住まわれて、
ご夫妻で過ごした一年を綴られている・・。


甲州街道に調布と新宿の間の馬車、人力車、
或いは千歳村に越して間もなく玉川電鉄は渋谷と玉川までの間は開通したが、
稀に利用する程度であり、殆ど徒歩で都心に行き来していた。

夫妻共々、低い下駄、或いは草鞋(わらじ)をはいたりし、
ときには高足駄をはいて、3里の長い路を往復したのである。
そして、暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便りに夜(よる)晩(おそ)く帰ったりした、
と綴られている。

そして氏自身は村のあらゆる集会に参列し、
葬式の折などには、「諸行無常」の旗持をしたり、
月番の時は、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身で役場に持参した。


こうした中で、赤裸な雑木林の梢(こずえ)から真白な富士を見て居た武蔵野は、
裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、
移り変る自然の面影は、其日其月の趣を、
初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた、
と季節の移ろいを表現している。


私は徳富蘆花氏の綴られたこの随筆を読みながら、
氏自身この地の千歳村の粕谷に住まわれる以前は、
都心の外れの何かと利便性のある青山・高樹町で借家住まいであり、
余りにも環境の違う所で果たして大丈夫かしら、と幾度も考えさせられたのである。
住居はもとより、無知な畑作業、周囲の住民、風習などで克服することが余りにも多く、
都心に出るのにも徒歩主義を貫いている。

氏は柔軟な言動で、自身の描いた田園生活を過ごされたのは、
あの当時を思い浮かべても、強靭な志を持つお人であったと感じるのである。

そして、氏自身が一年を過ぎた時、
彼は生年40にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである、
とさりげなく宣言されのであるが、
この一年のたゆまぬ努力の結晶と思いながら、私なりに感動をさせられるのである・・。

                        《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《10》

2009-06-21 09:16:30 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
これまでは『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまり、
田園生活を始めるにあたって、色々な地を懸案した後、
千歳村・粕谷にし、引越しまで状況を氏自身の思い、そして心情を克明に描かれていた。

そして前回は、初めて千歳村・粕谷の生活を風習、飲料水などに、
戸惑いながら生活をはじめる・・。

こうした中で、今回は千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況、
氏自身の思いが克明に綴られている・・。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
     憶出のかず/\

       1

跟(つ)いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。
あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。


意気地の無い亭主に連添うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯は可なり持馴れた。
自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。
唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方(ひとかた)ならず悩まされた。
一番近い隣が墓地に雑木林、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。

引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母は
「若い女なぞ、一人で留守(るす)は出来ない所ですねえ」と云った。
それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。

墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣があって、破落戸漢(ならずもの)が多く出入した。
一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、
雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。
「今晩は」と彼が答えた。
雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、
先刻(さっき)帰ったことを知らなかったのである。
大にドキマギした容子(ようす)であったが、
調子を更えて「宮前(みやまえ)のお広さん処へは如何(どう)参るのです?」と胡魔化した。
宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸(びた)る其賭博(とばく)の巣なのである。

主の彼は可笑しさを堪(こら)え、素知らぬ振して、
宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍(そ)うて、ずッと往(い)って、
と馬鹿叮嚀(ばかていねい)に教えてやった。
「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。

門戸(もんこ)あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。
ある時彼が縁に背向(そむ)けて読書して居ると、
後(うしろ)に撞(どう)と物が落ちた。
彼はふりかえって大きな青大将(あおだいしょう)を見た。
葺(ふ)きっぱなしの屋根裏の竹に絡(から)んで衣(から)を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。
今一尺縁へ出て居たら、正(まさ)しく彼が頭上に蛇が降るところであった。


人烟稀薄な武蔵野は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。
中塗(なかぬり)もせぬ荒壁は恣(ほしいまま)に崩れ落ち、
床の下は吹き通し、唐紙障子(からかみしょうじ)も足らぬがちの家の内は、
火鉢の火位で寒さは防げなかった。

農家の冬は大きな炉が命である。
農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。
炉の焚火、自在(じざい)の鍋は、彼が田園生活の重(おも)なる誘因であった。
然し彼が吾有にした15坪の此草舎には、
小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、
周囲(あたり)が狭(せま)くて3人とは座れなかった。

加之(しかも)其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、
熾(さかん)な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。
彼は一月(ひとつき)ばかりして面白くない此(この)型(かた)ばかりの炉を見捨てた。

先家主の大工や他の人に頼み、
代々木新町の古道具屋(ふるどうぐや)で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、
肥車(こえぐるま)の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。

次の6畳の天井は、煤埃(すすほこり)にまみれた古葭簀(ふるよしず)で、
腐(くさ)れ屋根から雨が漏(も)ると、黄ろい雫(しずく)がぼて/\畳に落ちた。
屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、
盥(たらい)やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。

驚いたのは風である。
3本の大きなはりがねで家を樫(かし)の木にしばりつけてあるので、
風当りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。
西南は右の樫以外1本の木もない吹きはらしなので、
南風西風は用捨(ようしゃ)もなくウナリをうってぶつかる。
はりがねに縛(しば)られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。
富士川の瀬を越す舟底の様に床が跳(おど)る。

それに樫の直ぐ下まで一面の麦畑である。
武蔵野固有の文言通(もんごんどお)り吹けば飛ぶ軽い土が、
それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。
彼は前年蘇士(スエズ)運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。
武蔵野の土あらしも、やわか劣る可き。

遠方から見れば火事の煙。
寄って来る日は、眼鼻口はもとより、
押入、箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)の中まで会釈もなく舞い込み、
歩けば畳に白く足跡がつく。
取りも直さず畑が家内(やうち)に引越すのである。


都をば塵の都と厭(いと)ひしに
    田舎も土の田舎なりけり


あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。
風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴(さ)える、水が荒い。
四拍子揃(そろ)って、妻の手足は直ぐ皸(ひび)、霜やけ、あかぎれに飾られる。
オリーヴ油やリスリンを塗(ぬ)った位では、血が止まらぬ。
主人の足裏も鯊(さめ)の顋(あご)の様に幾重も襞(ひだ)をなして口をあいた。

あまり手荒い攻撃に、
虎伏す野辺までもと跟(つ)いて来た糟糠(そうこう)の御台所(みだいどころ)も、
ぽろ/\涙をこぼす日があった。

以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留に来て見ては、
零落と思ったのであろ、
台所の隅で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。

       2

主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。
何よりも先ず宮益(みやます)の興農園から柄(え)の長い作切鍬、手斧鍬(ちょうなぐわ)、ホー、
ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌(しばかりがま)など百姓の武器と、
園芸書類の六韜三略(りくとうさんりゃく)と、種子と苗とを仕入れた。

1反5畝の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、
大麦小麦が一ぱいで、空地と云っては畑の中程に瘠せこけた桑樹と
枯れ茅、枯れ草の生えたわずか1畝に足らぬ位のものであった。
彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、
重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝(うね)を作って、
原肥無し季節御構いなしの人蔘(にんじん)二十日大根(はつかだいこん)など蒔(ま)くのを、
近所の若い者は東京流の百姓は彼様(ああ)するのかと眼を瞠(みは)って眺めて居た。

作ってある麦は、墓の向うの所謂(いわゆる)賭博の宿の麦であった。
彼は其一部を買って、邪魔になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、
果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。
通りかゝりの百姓衆に、棕櫚縄(しゅろなわ)を蠅頭(はえがしら)に結ぶ事を教わって、畑中に透籬(すいがき)を結い、
風よけの生籬(いけがき)にす可く之に傍(そ)うて杉苗を植えた。

無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役(ぞうえき)をした。
あらゆる不便と労力とを歓迎した。
家から十丁程はなれた塚戸(つかど)の米屋が新村入を聞きつけて、
半紙一帖持って御用聞(ごようき)きに来た時、
彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚(はなはだ)不興気(ふきょうげ)な顔をした。


手脚を少し動かすと一廉(いっかど)勉強した様で、
汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、
酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。

東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、
村入しては好んで肥桶を担(かつ)いだ。
最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革(あずきかわ)の帯をしめた。
斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、
短銃其ものは明治38年の12月日露戦役果て、
満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、
今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、
庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破(うちこわ)してしまったが、
帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。

洋服にも履歴がある。
そも此洋服は、明治36年日蔭町で7円で買った白っぽい綿セルの背広で、
北海道にも此れで行き、富士(ふじ)で死にかけた時も此れで上り、
パレスチナから露西亜(ろしあ)へも此れで往って、
トルストイの家でも持参の袷(あわせ)と此洋服を更代(こうたい)に着たものだ。

西伯利亜鉄道(シベリアてつどう)の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、
流石(さすが)無頓着な同室の露西亜の大尉も技師も、
眼を円(まる)く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物である。

此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹で担いで帰って来ると、
八幡様に寄合をして居た村の衆がドッと笑った。

引越後間(ま)もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。
其帰りにあまり路が悪いので、
矢張此洋服で甲州街道まで車の後押しをして行くと、
小供が見つけてわい/\囃(はや)し立てた。
よく笑わるゝ洋服である。

此洋服で、鍔広(つばびろ)の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢(す)を買いに往ったら、
小学校中(じゅう)の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。
彼の好物の中に、雪花菜汁(おからじる)がある。
此洋服着て、味噌漉(みそこし)持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、
流石剛(ごう)の者も髯と眼鏡と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。

引越し当座は、村の者も東京人珍(めず)らしいので、
妻なぞ出かけると、女子供が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾(めかけ)の居た家(うち)に越して来た
東京のおかみさんが通るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚(わめ)き立てゝ大騒(おおさわ)ぎしたものだ。


東京客が沢山来た。
新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取りに来た。
遠足半分の学生も来た。
演説依頼の紳士も来た。

労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。
村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶でもすると、
彼はます/\得意であった。
彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突(けんつく)を喰(く)わした。
芝居気(しばいげ)も衒気(げんき)も彼には沢山にあった。
華美(はで)の中に華美を得為(せ)ぬ彼は渋い中に華美をやった。

彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、
抑(そもそ)もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。
小さな草屋のぬれ縁(えん)に立って、田圃(たんぼ)を見渡す時、
彼は本郷座(ほんごうざ)の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、
ふッと噴(ふ)き出す事さえもあった。
彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。
趣味から道楽から百姓をする彼は、
自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾(しゅゆ)も忘れ得なかった。

彼の家から西へ4里、府中町へ買った地所と家作の登記に往った帰途、
同伴の石山氏が彼を誘うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。

爺さんが出て来て種々雑談の末、
石山氏が彼を紹介して今度村の者になったと云うたら、
爺さん熟々(つくづく)彼の顔を見て、田舎住居も好いが、
さァ如何(どう)して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多に欠員があるじゃなし、
要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。

そこで彼はぐっと癪(しゃく)に障(さわ)り、
斯(こ)う見えても憚りながら文字の社会では些(ちっと)は名を知られた男だ、
其様な喰詰(くいつ)め者と同じには見て貰うまい、
と腹の中では大(おおい)に啖呵(たんか)を切ったが、虫を殺して彼は俯(うつむ)いて居た。

家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、
休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。
妻が女児の一人に其(その)家(うち)をきいたら、
小さな彼女は胸を突出し傲然(ごうぜん)として
「大尽(だいじん)さんの家(うち)だよゥ」と答えた。

要するに彼等は辛(かろ)うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。
実際彼等は如何様(どんな)に威張っても、東京の喰詰者であった。

但(ただ)字を書く事は重宝がられて、
彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵の二三本、小松菜の一二把(わ)礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。

彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。
妻は裁縫の師匠をやれと勧められた。
自身(じしん)上州の糸屋から此村の農家に嫁いで来た媼(ばあ)さんは、
己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、
種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕(ようさん)をしろの、
何の角のと親切に世話をやいた。

・・】


15坪ばかり草舎のような家で徳富蘆花夫婦は生活を始められたが、
近所の家は遠く離れ、付近には賭博場もあり、おかしな人物も寄ったりした。
家の中の壁ははがれ、屋根裏に蛇がいたり、
暖を取る肝要の炉も小さく、天上も低く、止む得ず炉を改ためたりする。
その上、風は強く吹くと、家は船のように揺れ、
土ぼこりは容赦もなく室内に舞い込む・・。

こうした中で、氏は白っぽい綿セルの背広で畑作業を始めるのである。
原肥はなく、季節御構いなしの人蔘(にんじん)二十日大根(はつかだいこん)など蒔(ま)いたり、
ときには肥桶を担(かつ)いだりして、付近の農家の人々を唖然とさせるのである。
そして、近所の子供たちも蘆花夫妻の容姿に驚き、囃し立てたりするのである。


私はこうした状況を読みながら、苦笑した。
私の覚えている神代村入間の昭和20年代の中頃さえ、
農家は野良着で田畑を耕し、普段着の和服で家の中で過ごしり、
冠婚葬祭などの場合は、紋付の羽織で祖父、父は出かけていた。
まして背広の姿は、祖父が村の役員をしていたので、
この会議に出かける時に見かける程度であった。

蘆花氏の明治の後期の頃は、映画の『二十四の瞳』の島内の村人の親、子と容姿と同様と、
私は思い浮かべるのである、

こうした時代に、千歳村・粕谷で、
白っぽい綿セルの背広で、草を抜き、原肥もほどこすことなく、
季節もいとわず、人蔘(ニンジン)、二十日大根(ハツカ・ダイコン)など蒔(ま)いたり、
ときには肥桶を担(かつ)いだりすれば、
地元の人々は、ただ驚き、唖然としたのは私は理解できる。

氏の住まわれた千歳村・粕谷は畑と雑木林、
私の生家の神代村・入間は田畑、雑木林が多かったのであるが、
家の宅地で風の強い方面には、防風林として大木を、
そして周囲は雑木林として、田畑と分離していた。

氏の場合は、家の周囲は麦畑が広がり、
無知であったが、ひたすら畑作業をし、村人に教えられながら、
村人の日常生活にとけこもう、と真摯な言動が私にも理解できた。

そして買った地所と家作の登記に『府中』まで西へ4里往った、
と明記されているが、
今でも私の住む調布市は、土地、建物の登記などの東京法務局の管轄地は府中支局であり、
税務署は府中にある武蔵野府中税務署となっているので、
百年前とは余り変わらないと、私は教示されたのである。

尚、あの当時の千歳村・粕谷は、現在は世田谷区の管轄地なので、
都内の東京法務局の支局扱いとなっている。



                           《つづく》


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