徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に越した年の春過ぎに、
近所のお方から方からポインタァ種の小犬を一疋を貰い、
愚な鈍な上、気弱な白い犬を『白(しろ)』と名付けて、
この後、一年半近く徳冨蘆花夫妻が飼われた・・。
今回は、この犬を巡って、蘆花氏は『白』と題して綴られている。
毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
【・・
白
一
彼の前生は多分(たぶん)犬(いぬ)であった。
人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程可愛(かあい)いものを知らぬ。
子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、
裾は喰いさかれ、其様(そん)なに着物を汚すならわたしは知らぬと母に叱られても、
また走り出ては犬と狂うた。
犬の為には好きな甘(うま)い物も分けてやり、
小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半にも起きて見た。
明治十年の西郷戦争に、彼の郷里の熊本は兵戈(へいか)の中心となったので、
家を挙げて田舎に避難したが、
オブチと云う飼犬のみは如何しても家を守って去らないので、
近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。
三月程して熊本城の包囲が解け、
薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、
オブチは彼の家に陣(じん)どった薩摩健男(さつまたけお)に喰われてしまって、
頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。
彼の絶望と落胆は際限が無かった。
久しぶりに家に還って、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯哭(なげ)いた。
南洲の死も八千の子弟の運命も彼には何(なん)の交渉もなく、
西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。
村入して間もなく、ある夜先家主(せんやぬし)の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。
二子の渡(わたし)の近所から貰って来たと云う。
鼻尖(はなさき)から右の眼にかけ茶褐色の斑(ぶち)がある外は真白で、
四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前(きまえ)鷹揚(おうよう)に、
坊ちゃんと云った様な小犬である。
既に近所からもらった黒い小犬もあるので、
二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、
到頭貰うことにした。
今まで畳の上に居たそうな。
早速(さっそく)畳に放尿(いばり)して、
其晩は大きな塊(かたまり)の糞を板の間にした。
新来の白(しろ)に見かえられて、間もなく黒(くろ)は死に、
白の独天下となった。
畳から地へ下ろされ、麦飯味噌汁で大きくなり、
美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。
雄(おす)であったが、雌(めす)の様な雄であった。
主夫妻(あるじふさい)が東京に出ると屹度跟(つ)いて来る。
甲州街道を新宿へ行く間には、
大きな犬、強い犬、暴(あら)い犬、意地悪い犬が沢山居る。
而してそれを嗾(け)しかけて、弱いもの窘(いじ)めを楽む子供もあれば、
馬鹿な成人(おとな)もある。
弱い白は屹度咬(か)まれる。
其れがいやさに隠れて出る様にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。
而して咬まれる。
悲鳴をあげる。
二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥(む)き出す。
己れより小さな犬にすら尾を低(た)れて恐れ入る。
果ては犬の影され見れば、己(われ)ところんで、最初から負けてかゝる。
それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。
最早(もう)懲(こ)りたろうと思うて居ると、
今度出る時は、又候(またぞろ)跟いて来る。
而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫(かし)の木の下にぐったり寝ながら、
夢中で走るかの様に四肢(しし)を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。
弱くても雄は雄である。
交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。
てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、
村内唯一の牝犬の許(もと)に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、
床の下に三日潜(もぐ)り込んで居たのであった。
武智十次郎ならねども、美しい白が血だらけになって、蹌踉(よろよろ)と帰って来る姿を見ると、
生殖の苦を負(お)う動物の運命を憐まずには居られなかった。
一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。
美しいポインタァ種の黒犬で、
家の人が見廻りして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲を巡視し、
夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。
其犬がぶらりと遊びに来た。
而して主人に愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。
あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸(すえくび)で、甚(はなはだ)固くなって居た。
牝犬はやがて往きかけた。
白は纏綿(てんめん)として後になり先きになり、
果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、
媒妁(なかだち)して下さいと云い貌(がお)にクンクン鳴いたが、
主人はもとより如何ともすることが出来なかった。
其秋白の主人は、死んだ黒のかわりに彼(かの)牝犬の子の一疋をもらって来て矢張(やはり)其(そ)れを黒と名づけた。
白は甚(はなはだ)不平であった。
黒を向うに置いて、走りかゝって撞(どう)と体当りをくれて衝倒(つきたお)したりした。
小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由に動けぬ処にもぐり込んで、
其処(そこ)から白に敵対して吠えた。
然し両雄(りょうゆう)並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。
而(しか)して再(ふたた)び白の独天下になった。
可愛がられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、鈍(どん)の性質はいよ/\鈍になった。
よく寝惚けて主人に吠えた。
主人と知ると、恐れ入って、
膝行頓首(しっこうとんしゅ)、亀の様に平太張りつゝすり寄って詫びた。
わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭して恐る/\すり寄って来る。
頭を撫でると、其手を軽く啣(くわ)えて、
衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息をついた。
二
死んだ黒(くろ)の兄が矢張黒と云った。
遊びに来ると、白(しろ)が烈しく妬(ねた)んだ。
主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日(しゅうじつ)影を見せぬことがあった。
甲州街道に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。
坊ちゃんの白を一方(ひとかた)ならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐ咬んだ。
ある時、裏の方で烈(はげ)しい犬の噛み合う声がするので、出て見ると、
黒と白とが彼天狗(てんぐ)犬を散々咬んで居た。
元来平和な白は、卿(おまえ)が意地悪だからと云わんばかり恨めしげな情なげな泣き声をあげて、
黒と共に天狗犬に向うて居る。
聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立てゝ、
甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送った。
其後白と黒との間に如何(どん)な黙契が出来たのか、
白はあまり黒の来遊(らいゆう)を拒まなくなった。
白を貰って来てくれた大工が、牛乳車(ぐるま)の空箱を白の寝床に買うて来てくれた。
其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうって納(おさ)まって居ることもあった。
界隈(かいわい)に野犬が居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻(いなずま)強盗の如く横行し、
夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。
ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。
雨戸引きあけると、何ものか影の如く走せ去った。
白は後援を得てやっと威厳を恢復し、二足三足あと追かけて叱る様に吠えた。
野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。
其様な事が二三度もつゞいた。
其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。
一夜(いちや)庭先で大騒ぎが起った。
飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆(きたい)であった。
白と黒は大の仲好になって、始終共に遊んだ。
ある日近所の与右衛門(よえもん)さんが、一盃機嫌で談判に来た。
内の白と彼(かの)黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎が畑の大豆を散々踏み荒したと云うのである。
如何して呉(く)れるかと云う。
仕方が無いから損害を二円払うた。
其後黒の姿はこっきり見えなくなった。
通りかゝりの武太(ぶた)さんに問うたら、
与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さん家では余儀なく作男に黒を殺させ、
作男が殺して煮て食うたと答えた。
うまかったそうです、と武太さんは紅い齦(はぐき)を出してニタ/\笑った。
ある日見知らぬかみさんが来て、
此方(こちら)の犬に食われましたと云って、
汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏(しゃも)の頭と足を二本出して見せた。
内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、
確に此方の犬と認めたのかときいたら、
かみさんは白い犬だった、
聞けば粕谷(かすや)に悪イ犬が居るちゅう事だから、其(そ)れで来たと云うのだ。
折よく白が来た。
かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。
然し新参者の弱身で、
感情を傷(そこな)わぬ為兎(と)に角(かく)軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。
彼(かれ)は斯様な出金を東京税と名づけた。
彼等はしば/\東京税を払うた。
白の頭上には何時となく呪咀(のろい)の雲がかゝった。
黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪の天狗犬と交る様になった。
天狗犬に嗾(そそのか)されて、色々の悪戯も覚えた。
多くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。
遅鈍な白(しろ)は、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、
其着物(きもの)の著(いちじる)しい為に認められたのかも知れなかった。
其内村の収入役の家で、係蹄(わな)にかけて豚とりに来た犬を捕ったら、
其れは黒い犬だったそうで、
さし当(あた)り白の冤は霽(は)れた様(よう)なものゝ、
要するに白の上に凶(あし)き運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗い翳を作った。
到頭白の運命の決する日が来た。
隣家の主人が来て、数日来猫が居なくなった、
不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。
貴家(おうち)の白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、
死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。
同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。
最早詮方は無い。
此まゝにして置けば、隣家は宥(ゆる)してくれもしようが、
必(かならず)何処(どこ)かで殺さるゝに違いない。
折も好し、甲州の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。
白の主人は夏の朝早く起きて、
赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪の停車場まで牽(ひ)いて往った。
千歳村に越した年の春もろうて来て、
この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。
主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。
田圃を通って、雑木山に入る岐(わか)れ道まで来た時、
主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙(はるか)に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。
白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟(つ)いて来た。
停車場前の茶屋で、駄菓子を買うてやったが、
白は食おうともしなかった。
貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、
ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。
三
最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。
第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家から約四里甲府(こうふ)の停車場まで帰路を探がしたと云う事を報じた。
然(しか)し甲府からは汽車である。
甲府から東へは帰り様がなかった。
赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。
眼尻が少し下って、口をあんとあいたところは、贔屓目(ひいきめ)にも怜悧な犬ではなかった。
然し赤沢君の村は、他(ほか)に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。
*
白が甲州に養われて丁度一年目の夏、旧主人夫妻は赤沢君を訪ねた。
其(その)家に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。
喫驚(びっくり)する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。
「白」と声をかくるより早く、土足で座敷に飛び上り、膝行(しっこう)匍匐(ほふく)して、
忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。
其日は始終跟(つ)いてあるき、翌朝山の上の小舎にまだ寝て居ると、
白は戸の開くや否飛び込んで来て、蚊帳越しにずうと頭をさし寄せた。
帰りには、予め白を繋(つな)いであった。
別(わかれ)に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。
而(しか)して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋(とうりんきょう)の辺まで、
白(しろ)は彼等の足跡を嗅いで廻って、大騒ぎしたと云うことであった。
翌年の春、夫妻は二たび赤沢君を訪うた。
白は喜のあまり浮かれて隣家の鶏を追廻し、
到頭一羽を絶息させ、而(しか)して旧主人にまた損害を払わせた。
其(その)後(のち)白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。
笛吹川未曾有(みそう)の出水で桃林橋が落ちた。
防水護岸の為一村(いっそん)の男総出で堤防に群がって居ると、
川向うの堤に白いものゝ影が見えた。
其は隣郡に遊びに往って居た白であった。
白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、
白は向うの堤を川上へ凡(およそ)二丁ばかり上ると、
身を跳(おど)らしてざんぶとばかり濁流、箭の如(ごと)き笛吹川に飛び込んだ。
あれよ/\と罵(ののし)り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、
斜に洪水の川を游(およ)ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉(いっせい)に喝采の声をあげた。
弱い彼にも猟犬即(すなわ)ち武士の血が流れて居たのである。
白に関する最近の消息は斯(こ)うであった。
昨春(さくしゅん)当時の皇太子殿下今日の今上陛下が甲州御出の時、
演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。
其(その)時(とき)吠(ほ)えたりして貴顕に失礼があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。
主人が拘束されなかったのはまだしもであった。
四
白の旧主の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、
其息子が甘藷売りに往った帰りに
神田の青物問屋からテリアル種(しゅ)の鼠(ねずみ)程(ほど)な可愛い牝犬をもらって来てくれた。
ピンと名をつけて、五年来(ごねんらい)飼うて居る。
其子孫も大分界隈(かいわい)に蕃殖した。
一昨年から押入婿(おしいりむこ)のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。
昨秋からは追うても捨てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来(ふうらい)の牝犬も居る。
然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。
白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。
甲州に往って十年です。
村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。
「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。
「白」は幸福な犬です。
大正十二年二月九日追記
・・】
このように愚な鈍な上、気弱な白い犬であり、
近くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられたり、
幾度も鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになったりしたので、
やむえず遠方の甲州に住む友人に預けたのである。
その後、夫妻が甲州に住む友人を訪れた折、この愛犬は喜びのしぐさを現したり
する。
この間、夫妻は別の犬を飼ったりするが、
然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである、
と綴りは結ぶのである。
私の生家は昭和20年代、私の幼年期の頃は犬を飼うことはなく、
父、祖父が死去され、家が没落しはじめた頃、
妹たちが子犬を飼いはじめていたが、
私は申(さる)年の生まれのせいか、古来より犬猿の仲のことわざ通り、
犬には興味はないのである。
《つづく》
a href="http://www.blogmura.com/">
初めて千歳村・粕谷に越した年の春過ぎに、
近所のお方から方からポインタァ種の小犬を一疋を貰い、
愚な鈍な上、気弱な白い犬を『白(しろ)』と名付けて、
この後、一年半近く徳冨蘆花夫妻が飼われた・・。
今回は、この犬を巡って、蘆花氏は『白』と題して綴られている。
毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。
注)原文に対し、あえて改行を多くした。
【・・
白
一
彼の前生は多分(たぶん)犬(いぬ)であった。
人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程可愛(かあい)いものを知らぬ。
子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、
裾は喰いさかれ、其様(そん)なに着物を汚すならわたしは知らぬと母に叱られても、
また走り出ては犬と狂うた。
犬の為には好きな甘(うま)い物も分けてやり、
小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半にも起きて見た。
明治十年の西郷戦争に、彼の郷里の熊本は兵戈(へいか)の中心となったので、
家を挙げて田舎に避難したが、
オブチと云う飼犬のみは如何しても家を守って去らないので、
近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。
三月程して熊本城の包囲が解け、
薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、
オブチは彼の家に陣(じん)どった薩摩健男(さつまたけお)に喰われてしまって、
頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。
彼の絶望と落胆は際限が無かった。
久しぶりに家に還って、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯哭(なげ)いた。
南洲の死も八千の子弟の運命も彼には何(なん)の交渉もなく、
西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。
村入して間もなく、ある夜先家主(せんやぬし)の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。
二子の渡(わたし)の近所から貰って来たと云う。
鼻尖(はなさき)から右の眼にかけ茶褐色の斑(ぶち)がある外は真白で、
四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前(きまえ)鷹揚(おうよう)に、
坊ちゃんと云った様な小犬である。
既に近所からもらった黒い小犬もあるので、
二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、
到頭貰うことにした。
今まで畳の上に居たそうな。
早速(さっそく)畳に放尿(いばり)して、
其晩は大きな塊(かたまり)の糞を板の間にした。
新来の白(しろ)に見かえられて、間もなく黒(くろ)は死に、
白の独天下となった。
畳から地へ下ろされ、麦飯味噌汁で大きくなり、
美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。
雄(おす)であったが、雌(めす)の様な雄であった。
主夫妻(あるじふさい)が東京に出ると屹度跟(つ)いて来る。
甲州街道を新宿へ行く間には、
大きな犬、強い犬、暴(あら)い犬、意地悪い犬が沢山居る。
而してそれを嗾(け)しかけて、弱いもの窘(いじ)めを楽む子供もあれば、
馬鹿な成人(おとな)もある。
弱い白は屹度咬(か)まれる。
其れがいやさに隠れて出る様にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。
而して咬まれる。
悲鳴をあげる。
二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥(む)き出す。
己れより小さな犬にすら尾を低(た)れて恐れ入る。
果ては犬の影され見れば、己(われ)ところんで、最初から負けてかゝる。
それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。
最早(もう)懲(こ)りたろうと思うて居ると、
今度出る時は、又候(またぞろ)跟いて来る。
而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫(かし)の木の下にぐったり寝ながら、
夢中で走るかの様に四肢(しし)を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。
弱くても雄は雄である。
交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。
てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、
村内唯一の牝犬の許(もと)に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、
床の下に三日潜(もぐ)り込んで居たのであった。
武智十次郎ならねども、美しい白が血だらけになって、蹌踉(よろよろ)と帰って来る姿を見ると、
生殖の苦を負(お)う動物の運命を憐まずには居られなかった。
一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。
美しいポインタァ種の黒犬で、
家の人が見廻りして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲を巡視し、
夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。
其犬がぶらりと遊びに来た。
而して主人に愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。
あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸(すえくび)で、甚(はなはだ)固くなって居た。
牝犬はやがて往きかけた。
白は纏綿(てんめん)として後になり先きになり、
果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、
媒妁(なかだち)して下さいと云い貌(がお)にクンクン鳴いたが、
主人はもとより如何ともすることが出来なかった。
其秋白の主人は、死んだ黒のかわりに彼(かの)牝犬の子の一疋をもらって来て矢張(やはり)其(そ)れを黒と名づけた。
白は甚(はなはだ)不平であった。
黒を向うに置いて、走りかゝって撞(どう)と体当りをくれて衝倒(つきたお)したりした。
小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由に動けぬ処にもぐり込んで、
其処(そこ)から白に敵対して吠えた。
然し両雄(りょうゆう)並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。
而(しか)して再(ふたた)び白の独天下になった。
可愛がられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、鈍(どん)の性質はいよ/\鈍になった。
よく寝惚けて主人に吠えた。
主人と知ると、恐れ入って、
膝行頓首(しっこうとんしゅ)、亀の様に平太張りつゝすり寄って詫びた。
わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭して恐る/\すり寄って来る。
頭を撫でると、其手を軽く啣(くわ)えて、
衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息をついた。
二
死んだ黒(くろ)の兄が矢張黒と云った。
遊びに来ると、白(しろ)が烈しく妬(ねた)んだ。
主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日(しゅうじつ)影を見せぬことがあった。
甲州街道に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。
坊ちゃんの白を一方(ひとかた)ならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐ咬んだ。
ある時、裏の方で烈(はげ)しい犬の噛み合う声がするので、出て見ると、
黒と白とが彼天狗(てんぐ)犬を散々咬んで居た。
元来平和な白は、卿(おまえ)が意地悪だからと云わんばかり恨めしげな情なげな泣き声をあげて、
黒と共に天狗犬に向うて居る。
聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立てゝ、
甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送った。
其後白と黒との間に如何(どん)な黙契が出来たのか、
白はあまり黒の来遊(らいゆう)を拒まなくなった。
白を貰って来てくれた大工が、牛乳車(ぐるま)の空箱を白の寝床に買うて来てくれた。
其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうって納(おさ)まって居ることもあった。
界隈(かいわい)に野犬が居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻(いなずま)強盗の如く横行し、
夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。
ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。
雨戸引きあけると、何ものか影の如く走せ去った。
白は後援を得てやっと威厳を恢復し、二足三足あと追かけて叱る様に吠えた。
野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。
其様な事が二三度もつゞいた。
其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。
一夜(いちや)庭先で大騒ぎが起った。
飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆(きたい)であった。
白と黒は大の仲好になって、始終共に遊んだ。
ある日近所の与右衛門(よえもん)さんが、一盃機嫌で談判に来た。
内の白と彼(かの)黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎が畑の大豆を散々踏み荒したと云うのである。
如何して呉(く)れるかと云う。
仕方が無いから損害を二円払うた。
其後黒の姿はこっきり見えなくなった。
通りかゝりの武太(ぶた)さんに問うたら、
与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さん家では余儀なく作男に黒を殺させ、
作男が殺して煮て食うたと答えた。
うまかったそうです、と武太さんは紅い齦(はぐき)を出してニタ/\笑った。
ある日見知らぬかみさんが来て、
此方(こちら)の犬に食われましたと云って、
汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏(しゃも)の頭と足を二本出して見せた。
内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、
確に此方の犬と認めたのかときいたら、
かみさんは白い犬だった、
聞けば粕谷(かすや)に悪イ犬が居るちゅう事だから、其(そ)れで来たと云うのだ。
折よく白が来た。
かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。
然し新参者の弱身で、
感情を傷(そこな)わぬ為兎(と)に角(かく)軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。
彼(かれ)は斯様な出金を東京税と名づけた。
彼等はしば/\東京税を払うた。
白の頭上には何時となく呪咀(のろい)の雲がかゝった。
黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪の天狗犬と交る様になった。
天狗犬に嗾(そそのか)されて、色々の悪戯も覚えた。
多くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。
遅鈍な白(しろ)は、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、
其着物(きもの)の著(いちじる)しい為に認められたのかも知れなかった。
其内村の収入役の家で、係蹄(わな)にかけて豚とりに来た犬を捕ったら、
其れは黒い犬だったそうで、
さし当(あた)り白の冤は霽(は)れた様(よう)なものゝ、
要するに白の上に凶(あし)き運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗い翳を作った。
到頭白の運命の決する日が来た。
隣家の主人が来て、数日来猫が居なくなった、
不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。
貴家(おうち)の白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、
死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。
同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。
最早詮方は無い。
此まゝにして置けば、隣家は宥(ゆる)してくれもしようが、
必(かならず)何処(どこ)かで殺さるゝに違いない。
折も好し、甲州の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。
白の主人は夏の朝早く起きて、
赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪の停車場まで牽(ひ)いて往った。
千歳村に越した年の春もろうて来て、
この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。
主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。
田圃を通って、雑木山に入る岐(わか)れ道まで来た時、
主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙(はるか)に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。
白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟(つ)いて来た。
停車場前の茶屋で、駄菓子を買うてやったが、
白は食おうともしなかった。
貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、
ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。
三
最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。
第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家から約四里甲府(こうふ)の停車場まで帰路を探がしたと云う事を報じた。
然(しか)し甲府からは汽車である。
甲府から東へは帰り様がなかった。
赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。
眼尻が少し下って、口をあんとあいたところは、贔屓目(ひいきめ)にも怜悧な犬ではなかった。
然し赤沢君の村は、他(ほか)に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。
*
白が甲州に養われて丁度一年目の夏、旧主人夫妻は赤沢君を訪ねた。
其(その)家に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。
喫驚(びっくり)する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。
「白」と声をかくるより早く、土足で座敷に飛び上り、膝行(しっこう)匍匐(ほふく)して、
忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。
其日は始終跟(つ)いてあるき、翌朝山の上の小舎にまだ寝て居ると、
白は戸の開くや否飛び込んで来て、蚊帳越しにずうと頭をさし寄せた。
帰りには、予め白を繋(つな)いであった。
別(わかれ)に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。
而(しか)して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋(とうりんきょう)の辺まで、
白(しろ)は彼等の足跡を嗅いで廻って、大騒ぎしたと云うことであった。
翌年の春、夫妻は二たび赤沢君を訪うた。
白は喜のあまり浮かれて隣家の鶏を追廻し、
到頭一羽を絶息させ、而(しか)して旧主人にまた損害を払わせた。
其(その)後(のち)白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。
笛吹川未曾有(みそう)の出水で桃林橋が落ちた。
防水護岸の為一村(いっそん)の男総出で堤防に群がって居ると、
川向うの堤に白いものゝ影が見えた。
其は隣郡に遊びに往って居た白であった。
白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、
白は向うの堤を川上へ凡(およそ)二丁ばかり上ると、
身を跳(おど)らしてざんぶとばかり濁流、箭の如(ごと)き笛吹川に飛び込んだ。
あれよ/\と罵(ののし)り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、
斜に洪水の川を游(およ)ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉(いっせい)に喝采の声をあげた。
弱い彼にも猟犬即(すなわ)ち武士の血が流れて居たのである。
白に関する最近の消息は斯(こ)うであった。
昨春(さくしゅん)当時の皇太子殿下今日の今上陛下が甲州御出の時、
演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。
其(その)時(とき)吠(ほ)えたりして貴顕に失礼があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。
主人が拘束されなかったのはまだしもであった。
四
白の旧主の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、
其息子が甘藷売りに往った帰りに
神田の青物問屋からテリアル種(しゅ)の鼠(ねずみ)程(ほど)な可愛い牝犬をもらって来てくれた。
ピンと名をつけて、五年来(ごねんらい)飼うて居る。
其子孫も大分界隈(かいわい)に蕃殖した。
一昨年から押入婿(おしいりむこ)のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。
昨秋からは追うても捨てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来(ふうらい)の牝犬も居る。
然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。
白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。
甲州に往って十年です。
村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。
「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。
「白」は幸福な犬です。
大正十二年二月九日追記
・・】
このように愚な鈍な上、気弱な白い犬であり、
近くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられたり、
幾度も鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになったりしたので、
やむえず遠方の甲州に住む友人に預けたのである。
その後、夫妻が甲州に住む友人を訪れた折、この愛犬は喜びのしぐさを現したり
する。
この間、夫妻は別の犬を飼ったりするが、
然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである、
と綴りは結ぶのである。
私の生家は昭和20年代、私の幼年期の頃は犬を飼うことはなく、
父、祖父が死去され、家が没落しはじめた頃、
妹たちが子犬を飼いはじめていたが、
私は申(さる)年の生まれのせいか、古来より犬猿の仲のことわざ通り、
犬には興味はないのである。
《つづく》
a href="http://www.blogmura.com/">