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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《16》

2009-06-22 17:38:30 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれ6年を迎える頃は、村人の慣習に馴染み、
鎮守八幡の集会、式典などに参加されている。

こうした中、雪の降る日中、ひとりの友人が来宅し、
宿泊した翌朝も雪が降る中、友人を見送る・・。

今回は、『わかれの杉』と題して、秘められた愛惜感ある綴りとなっている。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・
        わかれの杉

彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡(ちんじゅはちまん)である。
型の通りの草葺の小宮(こみや)で、田圃(たんぼ)を見下ろして東向きに立って居る。


月の朔(ついたち)には、太鼓が鳴って人を寄せ、
神官が来て祝詞(のりと)を上げ、氏子(うじこ)の神々達が拝殿に寄って、
メチールアルコールの沢山(たくさん)入った神酒を聞召し、
酔って紅くなり給う。

春の雹祭(ひょうまつり)、秋の風祭(かざまつり)は毎年の例である。
彼が村の人になって六年間に、
此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽(ひるかぐら)が一度あった。

入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事(よりあいごと)があれば、
天候季節の許す限りは此処の拝殿(はいでん)でしたものだ。

乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、
つい昨年になって拝殿に格子戸(こうしど)を立て、締(しま)りをつけた。

内務省のお世話が届き過ぎて、
神社合併が兎(と)の、風致林(ふうちりん)が角(こう)のと、面倒な事だ。

先頃も雑木(ぞうき)を売払って、あとには杉か檜苗(ひのきなえ)を植えることに決し、
雑木を切ったあとを望の者に開墾(かいこん)させ、
一時豌豆や里芋を作らして置いたら、
神社の林地なら早々(そうそう)木を植えろ、
畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、
其筋から脅(おど)されたので、村は遽(あわ)てゝ総出で其部分に檜苗を植えた。


粕谷八幡はさして古くもないので、大木と云う程の大木は無い。
御神木と云うのは梢(うら)の枯れた杉の木で、
此は社(やしろ)の背(うしろ)で高処だけに諸方から目標(めじるし)になる。
烏がよく其枯れた木末(こずえ)にとまる。


宮から阪の石壇(いしだん)を下りて石鳥居を出た処に、
また一本百年あまりの杉がある。
此杉の下から横長い田圃(たんぼ)がよく見晴される。
田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。
一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、
直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋(いしばし)を渡り、
東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干(らんかん)無しの石橋を渡り、
やがて二つに分岐(ぶんき)して、直な方は人家の木立の間を村に隠(かく)れ、
一は人家の檜林に傍(そ)うて北に折れ、林にそい、桑畑(くわばたけ)にそい、二丁ばかり往って、
雑木山の端(はし)からまた東に折れ、北に折れて、
六七丁往って終に甲州街道に出る。

此雑木山の曲(まが)り角(かど)に、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。


村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下(した)に立って色々の人を送った。
彼(かの)田圃を渡(わた)り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで
目送(もくそう)した人も少くはなかった。
中には生別(せいべつ)即(そく)死別となった人も一二に止まらない。
生きては居ても、再び逢(あ)うや否疑問の人も少くない。

此杉は彼にとりて見送(みおくり)の杉、さては別れの杉である。
就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。


其は小説寄生木(やどりぎ)の原著者篠原良平の小笠原(おがさわら)善平(ぜんぺい)である。
明治四十一年の三月十日は、奉天決勝(ほうてんけっしょう)の三週年。
彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、
三年前の前々日(ぜんぜんじつ)であった。

三月十日は朝からちら/\雪が降って、寒い寂(さび)しい日であった。
突然彼小笠原は来訪した。
一年前、此家の主人(あるじ)は彼小笠原に剣を抛(なげう)つ可く熱心(ねっしん)勧告(かんこく)したが、
一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙(えこ)情実に愛想(あいそう)をつかし
疳癪(かんしゃく)を起して休職願を出し、
北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語(ろご)をやろうと云って居た。
陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。

雪は終日降り、夜すがら降った。
主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反覆(はんぷく)討論した。
而して共に六畳に枕(まくら)を並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。


明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。
まだ綿の様(よう)な雪がぼったり/\降って居る。
此辺では珍らしい雪で、一尺の上(うえ)積(つも)った。
彼小笠原は外套の頭巾(ずきん)をすっぽりかぶって、
薩摩下駄をぽっくり/\雪に踏(ふ)み込みながら家(うち)を出(で)て往った。
主は高足駄を穿(は)き、番傘(ばんがさ)をさして、
八幡下別れの杉まで送って往った。
「じゃァ、しっかりやり玉(たま)え」
「色々お世話でした」


傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、
また一しきり烈(はげ)しく北から吹きつくる吹雪(ふぶき)の中を、
黒い外套姿が少し前俛(まえこご)みになって、一足ぬきに歩いて行く。

第一の石橋を渡る。やゝあって第二の石橋を渡る。檜林について曲る。
段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、
一本檜の処まで来ると、見かえりもせず東へ折(お)れて、
到頭(とうとう)見えなくなってしもうた。


半歳(はんとし)の後、彼は郷里の南部(なんぶ)で死んだ。
 漢人の詩に、

   歩出(ほしていづ)城東門(じやうとうのもん)、
   遙望(はるかにのぞむ)江南路(こうなんのみち)、
   前日(ぜんじつ)風雪中(ふうせつのうち)、     
   故人(こじん)従此去(これよりさる)、


別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、
吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。

・・】


この当時の神社、鎮守八幡などが国の内務省が管理下され、
その地に住む村人たちの心情が伝わってくる。
私が幼児、子供の昭和20年代の終わりの頃まで、
近くの神社で初詣、秋のお祭りなどで巡業する芝居劇団などの
ありふれた舞台劇を観賞したりしたひとりである。

氏はひとりの友人が来宅し、
歓待しながら平和問題、信仰問題等を討論し、
翌朝、雪が舞い降る中、友人を見送る愛惜感のある情景を描いている。


                           《つづく》




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《15》

2009-06-22 16:01:14 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、
村人の状況がわかるにつれて、今回は『腫物』と題して、
村人の一部の方に恥部のような実態を克明に綴られている・・。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     腫物

       一

人声が賑(にぎ)やかなので、往って見ると、
久(ひさ)さんの家は何時(いつ)の間にか解き崩されて、
煤(すす)けた梁や虫喰った柱、黒光りする大黒柱、
屋根裏の煤竹(すすたけ)、それ/″\類(るい)を分って積まれてある。

近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。
件(くだん)の古家を買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、
其(そ)れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。

一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。
時々壁土が撞(どう)と落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。
汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、
庭木や境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、
其処らじゅう明るくガランとして居る。


家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳を敷いて、
眼の少し下って肥え脂ぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、
おはぐろの剥(は)げた歯を桃色の齦(はぐき)まで見せて、
買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。

頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出したまゝ、吾不関焉と云う顔をして、
コト/\藁(わら)を打って居る。
婆さんや唖の巳代吉(みよきち)は本家へ帰ったとか。
末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。


一切の人と物との上に泣く様な糠雨(ぬかあめ)が落ちて居る。

あゝ此(この)家も到頭潰れるのだ。


       二


今は二十何年の昔、村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。
弟は一人前なかったので婿養子をしたが、
婿と舅の折合が悪い為に、老夫婦は息子を連れて新家に出た。

今解き崩されて片々(ばらばら)に売られつゝある家が即ち其れなのである。
己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、
老夫婦は家財道具万端好いものは皆(みな)引たくる様にして持って出た。
よく実る柿の木まで掘って持って往った。


痴(おろか)な息子も年頃になったので、
調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。
名をお広(ひろ)と云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。

婿入の時、肝腎の婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、
皆ドッと笑い出した。
久太郎が彼の名であった。


久さんに一人の義弟があった。
久さんが生れて間もなく、村の櫟林(くぬぎばやし)に棄児があった。
農村には人手が宝である。

石山の爺さんが右の棄児を引受けて育てた。
棄児は大きくなって、名を稲次郎(いねじろう)と云った。
彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子が行(ゆ)く/\の力にもなれと、
稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。


ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くと家を出たきり行方不明になった。
探がし探がした結果、彼は吉祥寺、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。
彼は酒が好きだった。
年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死んだのを物取りが来て剥いだか、
それとも追剥(おいはぎ)が殺して着物を剥いだか、
死骸は何も告げなかった。
彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。


主翁(おやじ)が死んで、石山の新家は(よめ)の天下になった。
誰も久(ひさ)さんの家とは云わず、宮前のお広さんの家と云った。
宮前は八幡前を謂うたのである。
外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。
彼女は相応に久さんを可愛がって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。
一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、
義弟(ぎてい)稲次郎の子を二人まで生んだ。
其子は兄が唖で弟が盲であった。

罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。
其内、稲次郎は此辺で所謂即座師(そくざし)、繭買をして失敗し、
田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子(おうじ)で首を縊(くく)って死んだ。

其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字(となりあざ)の大工が妾の住家となった。
私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。

       三

背後は雑木林、前は田圃、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人の辰(たつ)爺さんの家、
それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事には誂向(あつらえむ)きの場所だった。
石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。

唖と盲は稲次郎の胤(たね)と分ったが、彼(あの)二人は久さんのであろ、
とある人が云うたら、否、否、あれは何某(なにがし)の子でさ、
とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑した。
Husband-in-Law の子で無い子は、次第に殖えた。

殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。
新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。

本家から持ち出したものは、少しずつ本家へ還って往った。
新家は博徒破落戸(ならずもの)の遊び所になった。
博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を己(わ)が不断の住家にした。

眼のぎろりとした、胡麻塩髯の短い、二度も監獄の飯を食った、
丈の高い六十爺の彼は、
村内に己が家はありながら婿夫婦を其家に住まして、
自身は久さんの家を隠れ家にした。
昼は炉辺(ろべた)の主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕を並べた。

久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵で早飯食わして、
僕(ぼく)かなんぞの様に仕事に追い立て、
あとでゆる/\鰹節かいて甘(うま)い汁をこさえて、
九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。
親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。

「俺(おら)ァ嬶(かか)とられちゃった」
と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。
戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。

久さんのおかみは「良人(やど)が正直だから、良人が正直だから」
と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。
東隣のおとなしい媼(ばあ)さんも
「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」
などからかった。

久さんは怪訝(けげん)な眼を上げて、
「え?」
と頓狂(とんきょう)な声を出す。
「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜(まくわ)を食ってたて事よ、ふ」
と媼さんは笑った。

久さんの家には、久さんの老母があった。
然し婆さんはの乱行家の乱脈に対して手も口も出すことが出来なかった。
若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、
八十近くなって眼液(めしる)たらして竈(へっつい)の下を焚(た)いたり、
海老の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃いたり、
杖にすがって(よめ)の命のまに/\使(つか)いあるきをしたり、
其(そ)れでも其(その)無能の子を見すてゝ本家に帰ることを得(え)為(せ)なかった。

それに婆さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。
本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。
久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。
白髪頭の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。

彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、
七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。
尻切草履突かけて竹杖にすがって行く婆さんの背(うしろ)から、
鍬(くわ)をかついだ四十男の久さんが、
婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。

酒でも飲んだ時は、に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、
人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、
「お広(ひろ)、断わるがいゝ」
と啖呵を切った。

       四

死んだ棄児の稲次郎が古巣に、
大工の妾と入れ代りに東京から書(ほん)を読む夫婦の者が越して来た。

地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。
東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、
櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。
買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其韮(にら)や野菜菊は内で作ったの、
其炉縁(ろぶち)は自分のだの、と物毎に争うた。

稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。
地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。
地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。
おかみは義兄と其値(ね)を争うた。
買主は戯談に
「無代(ただ)でもいゝさ」
と云うた。

おかみはムキになって
「あなたも耶蘇教信者じゃありませんか。
信者が其様(そん)な事を云うてようござンすか」
とやり込めた。
彼女に恐ろしいものは無かった。

ある時義兄が其素行(そこう)について少し云々したら、
泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹(きっ)と向き直り、
あべこべに義兄に喰ってかゝり、
老人と正直者を任せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、
慾張ってばかり居るのと、いきり立った。

彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。
「本家の兄が、本家の兄が」
が彼女の口癖であった。
彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。
相手かまわず問わず語(がた)りの勢込んでまくしかけ、
「如何(いか)に兄が本が読めるからって、
村会議員だからって、信者だって、理(り)に二つは無いからね、
わたしは云ってやりましたのサ」
と口癖の様に云うた。

人が話をすれば、
「(うん)、(うん)、ふん、ふん」
と鼻を鳴らして聞いた。
彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、
彼女も村では正札附の莫連者(ばくれんもの)で、堅い婦人達は相手にしなかった。

村に武太(ぶた)さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。
かみさんは藪睨(やぶにらみ)で、気が少し変である。
ピイ/\声(ごえ)で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。
彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。
「子供ははァ背に負(おぶ)っとる事ですよ。
背からおろしといたばかしで、女(むすめ)もなくなっただァ」
と云いかけて、斜視(やぶ)の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。

また誰に向っても、
「萩原(はぎわら)の武太郎は、五宿へ往って女郎買ばかしするやくざ者で」
と其亭主の事を訴える。
武太さんは村で折紙つきのヤクザ者である。
武太さんに同情する者は、久(ひさ)さんのおかみばかりである。
「彼様な女房持ってるンだもの」
と、武太さんを人が悪く言う毎(ごと)に武太さんを弁護する。

然し武太さんの同情者が乏しい様に、
久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。

唯村の天理教信者のおかず媼(ばあ)さんばかりは、
久さんのおかみを済度(さいど)す可く彼女に近しくした。


稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、
隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。
彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。
此方からも麦扱(むぎこ)きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆(えんどう)や里芋を売ってもらったりした。

おかみも小金(こがね)を借りに来たり張板を借りに来たりした。
其子供もよく遊びに来た。
蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、
顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。

彼女の家に集う博徒の若者が、
夏の夜帰りによく新村入の畑に踏み込んで水瓜を打割って食ったりした。

新村入は用があって久さんの家に往く毎に胸を悪くして帰った。
障子は破れたきり張ろうとはせず、畳は腸(はらわた)が出たまゝ、壁は崩れたまゝ、
煤(すす)と埃(ほこり)とあらゆる不潔に盈(みた)された家の内は、
言語道断の汚なさであった。

おかみはよく此(この)中で蚕に桑をくれたり、
大肌(おおはだ)ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、
破れ障子の内でギッチョンと響(おと)をさせて木綿機を織ったり、
大きな眼鏡をかけて縁先で襤褸(ぼろ)を繕(つくろ)ったりして居た。

       五

新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。
一は久さんの家で、今一つは品川堀の側にある店であった。

其店には賭博をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、
白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。
其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰れ、
目ざす家は久さんの家だけになった。

己(わ)が住む家の歴史を知るにつけ、
新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩(わずろ)うた。
色々の「我」が寄って形成して居る彼家は、云わば大きな腫物(はれもの)である。

彼は眼の前に臭い膿(うみ)のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。
然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。


ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。
彼の眼の前には蝙蝠色(こうもりいろ)の夕闇が広がって居た。
其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧(わ)いた様に黒い影がすうと寄って来た。
ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。
彼は畳の上に退(しざ)り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。

それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀で殺害した事を、
彼女は何処(どこ)からか聞いたのである。
「余りだと思います」
と彼女は剃刀の刃を己(わ)が肉にうけたかの様に切ない声で云った。


聞く彼の胸はドキリとした。
今だ、とある声が囁(ささや)いた。
彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊いた。

おかみは、巳代が三歳(みっつ)までよく口をきいて居たら、
ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」
と云うたを最後の一言(いちごん)にして、
医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。

何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、
其頃飼った牛を不親切からつい殺してしまいました、
其牛の祟(たた)りだと人が申すので、
色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。

巳代公ばかりじゃ無い、亥之公(いのこう)が盲になったのは如何したものだ、
と彼は肉迫した。
而して彼はさし俯(うつむ)くおかみに向うて、
此(この)家の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届の数々を烈しく責めた。
彼女は終まで俯いて居た。


それから二三日経(た)つと、彼は屋敷下を通る頬冠の丈高い姿を認めた。
其れが博徒の親分であることを知った彼は、
声をかけて無理に縁側に引張(ひっぱ)った。

満地の日光を樫の影が黒く染めぬいて、あたりには人の影もなかった。
彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒(ふらち)を責め
最早(もう)六十にもなって余生幾何もない其身、改心して死花を咲かせろと勧めた。
親分は其稼業の苦しい事を話し、ぎろりとした眼から涙の様なものを落して居た。

       六

然しながら彼(かの)癌腫(がんしゅ)の様な家の運命は、
往く所まで往かねばならなかった。


己が生んだ子は己が処置しなければならぬので、
おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩(あんま)の弟子にした。
家に居る頃から、盲目ながら他の子供と足場の悪い田舎道を下駄ばきでかけ廻(まわ)った勝気の亥之吉は、
按摩の弟子になってめき/\上達し、追々一人前の稼ぎをする様になった。
おかみは行々(ゆくゆく)彼をかゝり子にする心算(つもり)であった。
それから自身によく肖(に)た太々(ふてぶて)しい容子をした小娘のお銀を、
おかみは実家近くの機屋(はたや)に年季奉公に入れた。


二人の兄の唖の巳代吉(みよきち)は最早若者の数に入った。
彼は其父方の血を示して、口こそ利けね怜悧な器用な華美(はで)な職人風のイナセな若者であった。
彼は吾家に入り浸(びた)る博徒の親分を睨(にら)んだ。
両手を組んでぴたりと云わして、親分とおっかあが斯様(こんな)だと眼色を変えて人に訴えた。
親分とおかみは巳代吉を邪魔にし出した。

ある時巳代公は親分の財布を盗んで銀時計を買った。
母を窃(ぬす)む者の財布を盗むは何でもないと思ったのであろう。
親分は是れ幸と巡査を頼んで巳代公を告訴し、巳代公を監獄に入れようとした。

巳代公を入れるより彼(あの)二人を入れろ、と村の者は罵った。
巳代吉は本家から願下げて、
監獄に入れる親分とおかみの計画は徒労になった。

然し親分は中々其居馴れた久さんの家の炉の座を動こうともしなかった。
親分と唖の巳代吉の間はいよ/\睨合(にらみあい)の姿となった。
或日巳代吉は手頃の棒を押取って親分に打ってかゝった。
親分も麺棒をもって渡り合った。
然し血気の怒に任(まか)する巳代吉の勢鋭く、
親分は右の手首を打折(うちお)られ、加之(しかも)棒に出て居た釘で右手の肉をかき裂(さ)かれ、
大分の痛手を負うた。

隣家の婆さんが駈(か)けつけて巳代吉を宥(なだ)めなかったら、
親分は手疵に止まらなかったかも知れぬ。
繃帯(ほうたい)して右手を頸(くび)から釣って、
左の手で不精鎌を持って麦畑の草など親分が掻いて居るのを見たのは二月も後(あと)の事だった。

喧嘩の仲入に駈けつけた隣の婆さんは、
側杖(そばづえ)喰(く)って右の手を痛めた。
久さんのおかみは、詫び心に婆さん宅の竈(へっつい)の下など焚(た)きながら、
喧嘩の折節近くに居合わせながら看過した隣村の甲乙を思うさま罵って居た。

       七

田畑は勿論(もちろん)宅地もとくに抵当に入り、
一家中日傭(ひやとい)に出たり、おかみ自身手織の木綿物を負って売りあるいたこともあったが、
要するに石山新家の没落は眼の前に見えて来た。
「お広さん、大層(たいそう)精(せい)が出ますね」
久さんが挽く肥車の後押して行くおかみを目がけて人が声をかけると、
「天狗様(てんごうさま)の様に働くのさ」
とおかみが答えたりしたのは、昔の事になった。

おかみは一切稼ぎを廃(よ)した。
而して時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装(なり)をして親分と東京に往った。
家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前を見せて素手では帰さなかった。
彼女は癌腫の様な石山新家を内から吹き飛ばすべき使命を帯びて居るかの様に不敵(ふてき)であった。

           *

到頭腫物(しゅもつ)が潰れる時が来た。

おかみは独で肝煎(きもい)って、家を近在の人に、
立木を隣字の大工に売り、抵当に入れた宅地を取戻して隣の辰爺さんに売り、
大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後、
一人残った腫れぼったい瞼(まぶた)をした末の息子を近村の人に頼み、
唯一つ残った木小屋を売り飛ばし、
而して最早師匠の手を離れて独立して居る按摩の亥之吉(いのきち)と間借りして住む可く東京へ往って了うた。


酒好きの老母と唖の巳代吉は、家が売れる頃は最早本家へ帰って居た。

嬶(かか)に置去られ、家になくなられ、地面に逃げられ、置いてきぼりを喰って一人木小屋に踏み留まった久さんも、
是非なく其姉と義兄の世話になるべく、
頬冠の頭をうな垂れて草履ぼと/\懐手して本家に帰った。

屋敷のあとは鋤(す)きかえされて、今は陸稲(おかぼ)が緑々(あおあお)と茂って居る。
・・】



千歳村は引越しされた明治40年に於いては、
粕谷はもとより下祖師ヶ谷、上祖師ヶ谷と三の字(あざ)の外、
船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、
1番戸数の多いが烏山2百余戸、一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒・・
と記載されていた。

このようなそれぞれ集落の於いては、何軒かは外部の方に知られたくない
村民がいると思われる。
氏は新参者として、乱行家の乱脈、不衛生きわまりない状況などを克明に描いて折、
地元の住民にとっては余り公(おおやけ)にして欲しくない面もあるので、
百年後の今日でも、蘆花は偏屈な男で好ましくない、
と風の噂で私も聞いたりすることもある。

あの当時は、漁村、山村、この地の里村に於いても、
都心のように隠し通せる場所でなく、ともすれば赤裸々になることが多い。

私の幼児だった昭和20年代の前半さえ、
神代村を含めた集落に於いては、ある地主は妾とその子供も宅地にある物置小屋を改造した処に住居させたり、
乳児が病死し、座布団をふたつ折にして背中にしょつて、
毎夕さまよい歩く若い婦人を見かけていたりしていた・・。

そして都心の有数な財力のある跡取りの若い男は、
大正時代の半ば、結婚前に芸者遊びをして、子供が出来き、結果として里子に出したのである。
私の祖父が引き取り、父の妹たちと共に育てられ、
やがて父と結婚したのが私の母であった。

この人生、生き様を裁断するのは、どの時代でも安易であるが、
ひとり人が懸命に生きている状況には、ただ私は頭(こうべ)をたれる・・。


                            《つづく》

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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《14》

2009-06-22 10:59:03 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

前回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
『百草園』と題し、都心より友人が訪ねて来て、氏と友人が遠方の『百草園』に行き、
この後、氏自身が独りで帰路した時、激しい雷雨に遭われながらも帰宅するまでを描いている。

今回は『月見草』と題して、多摩川から採ってきた月見草が氏の自宅の庭で、
増えた情景を観ながら、
氏は幼年期の故郷での出来事を回想する。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     月見草

村の人になった年(とし)、玉川の磧(かわら)からぬいて来た一本の月見草が、
今はぬいて捨てる程に殖(ふ)えた。
此頃は十数株、少(すくな)くも七八十輪宵毎(よいごと)に咲いて、
黄昏(たそがれ)の庭に月が落ちたかと疑われる。


月見草は人好きのする花では無い。
殊(こと)に日間(ひるま)は昨夜の花が赭(あか)く凋萎(しお)たれて、
如何にも思切りわるくだらりと幹(みき)に付いた態(ざま)は、見られたものではない。
然し墨染(すみぞめ)の夕に咲いて、尼(あま)の様に冷たく澄んだ色の黄、其(その)香(か)も幽に冷たくて、
夏の夕にふさわしい。
花弁(はなびら)の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。
独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、
はからず眼を見合わす時、誰か心跳(こころおど)らずに居られようぞ。
月見草も亦心浅からぬ花である。


八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家(うち)から、
川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。
途中、一方が古来(こらい)の死刑場(しおきば)、一方が墓地の其中間(ちゅうかん)を通らねばならぬ処があった。

死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む小屋があって、
夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳(こふん)新墳(しんふん)累々(るいるい)と立並ぶ墓場の砂地には、
初夏の頃から沢山月見草が咲いた。

日間(ひるま)通る時、彼は毎(つね)に赭くうな垂(だ)れた昨宵(ゆうべ)の花の死骸を見た。
学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗(のぞ)く花を見た。
斯(か)くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。


其墓場の一端には、彼が甥(おい)の墓もあった。
甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父(おじ)甥は常に共に遊んだ。
ある時叔父は筆の軸(じく)を甥に与えて、犬の如く啣(くわ)えて振れと命じた。
従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。
叔父はまた振れと迫った。
甥はもういやだと頭を掉(ふ)った。
憎さげに甥を睨(にら)んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬(ほお)をぐっと突いた。

甥は声を立てゝ泣いた。
其甥は腹膜炎にかゝって、明(あ)くる年の正月元日病院で死んだ。
屠蘇(とそ)を祝うて居る席に死のたよりが届(とど)いた。
叔父の彼は異な気もちになった。
彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。


墓地は一方大川に面(めん)し、一方は其大川の分流に接して居た。
甥は其分流近く葬(ほうむ)られた。
甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、
ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。

自分の甥の墓があると誇り貌(が)に告げて、
彼は友達を引張って、甥の墓に詣(まい)った。
而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪(ひざまず)いて、
凋(しお)れた月見草の花を折って、墓前の砂に插(さ)した。


彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。

・・】


徳冨蘆花が千歳村・粕谷に住みはじめた初めての年、
多摩川の川べりからたった一本の月見草を抜いて持ち帰り、
自宅の庭に植えたならば、たちまち増え続けて、
宵には少なくとも70輪以上は黄色い花が咲いている、と綴られている。


そして月見草は日中に於いては、
昨夜の花が赭(あか)く凋萎(しお)たれ、だらりと幹に付いた態(ざま)は、見られたものではない、
と断言したりしている。

しかし、墨染(すみぞめ)の夕に咲いて、
尼の様に冷たく澄んだ色の黄、その香(か)も幽に冷たくて、
夏の夕にふさわしい。
そして花弁(はなびら)の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。
独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、
はからず眼を見合わす時、誰か心跳(こころおど)らずに居られようぞ、
と愛(いと)おしい心情で褒めたたえている・・。

氏の幼年期の故郷と想像するが、
城下の郊外の家から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う途中、
一方が古来の死刑場、一方が墓地の中を通らねばならぬ処があり、
死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、
今も乞食が住む小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、
一方の古墳、新墳が数多くある墓場の砂地には、
初夏の頃からたわわに月見草が咲いた、
と氏は思い出されている。


そして昼間通り過ぎる時、
いつも赭くうな垂(だ)れた昨宵(ゆうべ)の花の死骸を見たり、
下校が遅い時は、薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗(のぞ)く花を見たりしたので、
月見草は、彼にとって早く死の花であった、
と心情されている。

氏の心情の奥底には、甥(おい)の墓もあり、
ひとつ齢下の甥っ子とは遊んだり、ときにはいたずらで泣かせたりしたが、
腹膜炎にかゝって、明(あ)くる年の正月元日病院で死んで、
屠蘇(とそ)を祝うて居る席に死のたよりが届(とど)き、
氏自身は、初めてかすかな悔恨を感じたりするのである。

その後、数年後の夏の日、友人と小川で泳ぎ終わった時、
甥の小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪(ひざまず)いて、
凋(しお)れた月見草の花を折って、墓前の砂に插(さ)した、
と綴られている。

氏の現在は、見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る、
と綴りを終えている。


私の幼年期、父の妹である叔母たちは、草花が好きで、
宅地の外れに育て、少なくとも仏花はまかなえていた。
無念ながら、私は月見草には記憶がなく、見果てぬ草花のひとつとなっている。

次兄が小学二年生の時、学校の学芸会の児童劇に於いて、
月見草のある劇で、主役に選ばれたよ、
と母に自慢げに話していたのが、私はかすかに記憶がある程度である。

したがって、私にとっては月見草は幻の草花である。


                            《つづく》


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