夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が故郷、亡き徳冨蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《19》

2009-06-25 13:28:49 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
千歳村・粕谷で田園生活の『美的百姓』をめざし過ごされている時、
日常のさりげない色彩について綴られている。

詩のそれぞれの色合いを綴られ、
かって敬愛するトルストイを訪ねた時、ロシアの大地、
或いは復路のシベリア鉄道の車窓の情景、
そして結びとして、深い思いを重ねながら千歳村・粕谷で観られた情景を綴られている。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・

       碧色の花

色彩の中で何色(なにいろ)を好むか、と人に問われ、
色彩について極めて多情な彼(かれ)は答に迷うた。


吾墓の色にす可き鼠色(ねずみいろ)、
外套に欲しい冬の杉の色、
十四五の少年を思わす落葉松の若緑(わかみどり)、
春雨を十分に吸うた紫(むらさき)がかった土の黒、
乙女の頬(ほお)に匂(にお)う桜色、
枇杷バナナの暖かい黄、
檸檬(れもん)月見草(つきみそう)の冷たい黄、
銀色の翅(つばさ)を閃かして飛魚の飛ぶ熱帯(ねったい)の海のサッファイヤ、
ある時は其面に紅葉を泛(うか)べ
或時は底深く日影金糸を垂(た)るゝ山川の明るい淵(ふち)の練(ね)った様な緑玉(エメラルド)、
盛り上り揺(ゆ)り下ぐる岩蔭の波の下(した)に咲く海アネモネの褪紅(たいこう)、
緋天鵞絨(ひびろうど)を欺く緋薔薇(ひばら)緋芥子(ひげし)の緋紅、
北風吹きまくる霜枯の野の狐色(きつねいろ)、
春の伶人(れいじん)の鶯が着る鶯茶、
平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠(はとはねずみ)、
高山の夕にも亦やんごとない僧(そう)の衣にもある水晶にも宿(やど)る紫、
波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも
大理石にも樺(かば)の膚(はだ)にも極北の熊の衣にもなるさま/″\の白(しろ)、
数え立つれば際限(きり)は無い。

色と云う色、皆(みな)好きである。


然しながら必其一を択(えら)まねばならぬとなれば、
彼は種として碧色を、度(ど)として濃碧(のうへき)を択ぼうと思う。

碧色――三尺の春の野川の面(おも)に宿るあるか無きかの浅碧(あさみどり)から、
深山の谿(たに)に黙(もだ)す日蔭の淵の紺碧(こんぺき)に到るまで、
あらゆる階級の碧色――其碧色の中でも殊(こと)に鮮(あざ)やかに煮え返える様な濃碧は、
彼を震いつかす程の力を有(も)って居る。


高山植物の花については、彼は呶々(どど)する資格が無い。
園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。
西洋草花にはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。

春竜胆(はるりんどう)、勿忘草(わすれなぐさ)の瑠璃草も可憐な花である。
紫陽花(あじさい)、ある種の渓(あやめ)、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。
秋には竜胆(りんどう)がある。
牧師の着物を被た或詩人は、嘗(かつ)て彼の村に遊びに来て、
路に竜胆の花を摘(つ)み、熟々(つくづく)見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。

露の乾(ひ)ぬ間(ま)の朝顔は、云う迄もなく碧色を要素とする。
それから夏の草花には矢車草がある。
舶来種のまだ我(わが)邦土には何処やら居馴染(いなじ)まぬ花だが、
はらりとした形も、深い空色も、涼しげな夏の花である。

これは園内に見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑の黄(き)ばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。

七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗って
トルストイ翁(おう)のヤスナヤ、ポリヤナに赴(おもむ)く時、
朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、
苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。
睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮とで熱病患者の様であった彼の眼にも、
花の空色は不思議に深い安息(いこい)を与えた。


夏には更に千鳥草(ちどりそう)の花がある。
千鳥草、又の名は飛燕草。
葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様な状(さま)をして居る。
園養(えんよう)のものには、白、桃色、また桃色に紫の縞(しま)のもあるが、
野生の其(そ)れは濃碧色(のうへきしょく)に限られて居る様だ。
濃碧が褪(うつろ)えば、菫色(すみれいろ)になり、紫になる。
千鳥草と云えば、直ぐチタの高原が眼に浮ぶ。

其れは明治三十九年露西亜の帰途(かえり)だった。
七月下旬、莫斯科(もすくわ)を立って、イルクツクで東清鉄道の客車に乗換え、
莫斯科を立って十日目にチタを過ぎた。
故国を去って唯四ヶ月、然しウラルを東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。

イルクツクで乗換えた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。
イルクツクから一駅毎に支那人を多く見た。
チタでは殊(こと)に支那人が多く、満洲近い気もち十分(じゅうぶん)であった。
バイカル湖から一路上って来た汽車は、チタから少し下りになった。
下り坂の速力早く、好い気もちになって窓から覗(のぞ)いて居ると、
空にはあらぬ地の上の濃い碧色(へきしょく)がさっと眼に映(うつ)った。
野生千鳥草の花である。

彼は頭を突出して見まわした。
鉄路の左右、人気も無い荒寥(こうりょう)を極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧(のうへき)の其花が、
今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いて紫(むらさき)がかったり、まだ蕾(つぼ)んだり、
何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。
窓に凭(もた)れた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。


然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れに優(ま)した美しい碧色を知らぬ。
つゆ草、又の名はつき草、螢草(ほたるぐさ)、鴨跖草(おうせきそう)なぞ云って、草姿(そうし)は見るに足らず、
唯二弁より成る花は、全き花と云うよりも、
いたずら子に(むし)られたあまりの花の断片か、
小さな小さな碧色の蝶(ちょう)の唯(ただ)かりそめに草にとまったかとも思われる。
寿命も短くて、本当に露の間である。
然も金粉を浮べた花蕊(かずい)の黄(き)に映発(えいはつ)して
惜気もなく咲き出でた花の透(す)き徹(とお)る様な鮮(あざ)やかな純碧色は、
何ものも比(くら)ぶべきものがないかと思うまでに美しい。

つゆ草を花と思うは誤りである。
花では無い、あれは色に出た露の精(せい)である。
姿脆(もろ)く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那(せつな)の天の消息でなければならぬ。
里のはずれ、耳無地蔵の足下などに、
さま/″\の他の無名草(ななしぐさ)醜草(しこぐさ)まじり朝露を浴びて眼がさむる様(よう)に咲いたつゆ草の花を見れば、
竜胆(りんどう)を讃(ほ)めた詩人の言を此にも仮(か)りて、
青空の気(こうき)滴(したた)り落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地に甦(よみがえ)らせるつゆ草よ、
地に咲く天の花よと讃(たた)えずには居られぬ。

「ガリラヤ人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」
吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬ間(ま)に蹂(ふ)みにじる。

碧色の草花として、つゆ草は粋(すい)である。

・・】

こうように徳冨蘆花氏は、深い思いで日常生活を深めている。


日本の大地は、春夏秋冬と四季折々に移ろう情景は、
それぞれの人が幼児期、未成年、そして成人、やがて老年となるまでの生活を過ごされる中、
幾重かのさりげない情景に思いでも重ねて、
誰しもその人なりの色合いを心のなかで秘めている。


私も四季折々うつろう情景に限りなく心を寄せて過ごしたりしているので、
このサイトでも数多くを綴ったりしている。

こうした中で、明確な色彩について投稿したひとつで、
【 確かな伝統美を感じる『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』・・。 】と題し、
本年の4月9日に投稿しているが、今回、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
古惚けた一軒屋に家内と2人だけで日々を過ごしている。

陽春に恵まれた日中、主庭のテラスに下り立ち,
常緑樹の新芽、落葉樹の芽吹き、幼葉などを眺めながら、
煙草を喫ったりし、季節のうつろいに深く心をよせたりしている。

私は読書も好きであるので、居間のソファに座りながら、
その日の心情に応じた本を開いたりしている・・。

昨日、昼下がりのひととき、一冊の本を本棚から抜き取った。

『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』(朝日新聞社)という本であるが、
私が本屋で昭和62(1987)年晩秋の頃、
偶然に目にとまり、数ページ捲(めく)ったりして、瞬時に魅了され本であった。


巻頭詩として、『色の息遣い』と題されて、
詩人の谷川俊太郎氏が、『色』、『白』、『黒』、『赤』、『青』、『黄』、
『緑』、『茶』と詩を寄せられ、
写真家の山崎博氏がこの詩に託(たく)した思いの写真が掲載されている。

そして、詩人の大岡信氏が、『詩歌にみる日本の色』と題されて、
古来からの昨今までの歌人、俳人の詠まれた句に心を託して、
綴られている。

本題の『色の歳時記』としては、
春には抽象水墨画家・篠田桃紅、随筆家・岡部伊都子、造形作家・多田美波、
夏には英文学者・外山滋比古、随筆家・白州正子、女優・村松英子、
秋には俳人・金子兜太、歌人・前 登志夫、歌人・馬場あき子、
冬には詩人・吉原幸子、作家・高橋 治、作家・丸山健二、
各氏が『私の好きな色』の命題のもとで、随筆が投稿されている。
そして、これらの随筆の横には、季節感あふれる美麗な情景の写真が
幾重にも掲載されている。


或いは『日本の伝統色』と題し
伝統色名解説として福田邦夫、素材にあらわれた日本の色の解説される岡村吉右衛門、
この両氏に寄る日本古来からの色合い、色彩の詳細な区分けはもとより、
江戸時代の染見本帳、狂言の衣装、江戸末期の朱塗りの薬箪笥、
縄文時代の壺、黒塗りに朱色の蒔絵をほどこした室町期の酒器、
江戸時代のいなせな火消しの装束など、ほぼ余すことなく百点前後に及び、
紹介されているのである。

『色の文化史』に於いては、
京都国立博物館・切畑 健氏が、歴史を彩る色として、
奈良時代以降から江戸時代を正倉院御物の三彩磁鉢、
西本願寺の雁の間の襖絵として名高い金碧障壁画など十二点を掲載しながら、
具現的に解説されている。

この後は、『色彩の百科』と題され、暮らしに役立てたい色彩の知識、としたの中で、
女子美術大学助教授・近江源太郎氏が『色のイメージと意味』として、
『赤』、『ピンク』、『オレンジ』、『茶』、『黄』、『緑』、『青』、『紫』などを、
現代の人々の心情に重ねながら、さりげなく特色を綴られている。


『配色の基礎知識』としては、日本色彩研究所・企画管理室部長の福田邦夫氏により、
《配色の形式は文化によってきまる》、
《情に棹(さお)させば流される》
などと明示しながら綴られれば、私は思わず微笑みながら読んでしまう。


最後の特集として、『和菓子』、『和紙』、『組紐』、『染』、『織』が提示されて、
掲載された写真を見ながら、解説文を読んだりすると、
それぞれのほのかな匂いも感じられるようである。


そして最後のページに『誕生色』と題されたページが、
さりげなく掲載されて折、私は読みながら、思わず襟を正してしまう。

北越の染めと織物の街・十日町の織物工業共同組合が、
情緒豊かな日本の伝統色を参考にとして、十二ヶ月の色を選定していたのである。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

【・・
『誕生色』と命名して現代の暮らしに相応しい《きもの》づくりを行っている。
『誕生石』にもあやかって興味深い試みである。


1月
おもいくれない『想紅』

初春の寒椿の深い紅。
雪の中で強く咲き誇っている姿に華やぎ。


2月
こいまちつぼみ『恋待蕾』

浅い春に土を割る蕗のとう。
若芽のソフトな黄緑が春を告げる。


3月
ゆめよいざくら『夢宵桜』

春のおぼろ、山桜の可憐な色。
桜、それは心躍る春の盛りを彩る。


4月
はなまいこえだ『花舞小枝』

春風に揺れる花を支える小枝。
土筆(つくし)もまた息吹いている。


5月
はつこいあざみ『初恋薊』

風薫る季節の薊の深い紫。
5月の野には菖蒲も咲き、目をなごます。


六月
あこがれかずら『憧葛』

さみだれが葛を濡らして輝く緑。
蓬、青梅・・緑たちの競演がいま。


7月
さきそめこふじ『咲初小藤』

夏近し、紫露草のうすい紫。
きらきらと夏の光の中で、緑の中で。


8月
ゆめみひるがお『夢見昼顔』

夏の涼しさに朝顔、昼顔。
庭に野に夏には欠かせない風物の彩り。


9月
こいじいざよい『恋路十六夜』

月冴えるころ朝露に身を洗う山葡萄の深い紺。
十六夜の色にも似て。


10月
おもわれしおん『想紫苑』

風立ちて、目もあやに秋の七草。
野に咲き乱れる桔梗と紫苑の色。


11月
こいそめもみじ『恋染紅葉』

秋の野の残り陽に照る紅葉の赤。
心にしみ入るぬくもりのかたち。


12月
わすれなすみれ『勿忘菫』

淡雪のほのかな思い。
菫が咲き、小雪が舞う季(とき)の色。やすらぎの感覚。

・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


私はこうした美しい言葉、綴りに接すると、
その季節に思いを馳せながら、その地の風土を想い、
心にひびき、香り、そして匂いまで伝わったくる。

日本風土の古来からの人々の営みの積み重ねの日常生活から、
さりげなくただよってくる色あいの結晶は、
まぎれない日本文化のそれぞれの伝統美でもある。


この本は、昭和58(1983)年に発刊されているので、
稀なほど優れた執筆陣でありながら、
現在は無念ながら故人となられた人が多いのである。

こうした遺(のこ)された随筆などを、改めて読んだりすると、
日本風土と文化に限りなく愛惜されているので、
日本文化を愛する人たちへの遺書のひとつかしら、
とも思ったりしている。

・・】

このように私なりに綴っている。



                           《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《18》

2009-06-25 10:56:10 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に越した翌年の晩秋、
新嘗祭の祝日の時、二子多摩川に行楽をして帰宅後、
突然に見知らぬ若い夫婦の来訪し、戸惑いながら宿泊させたりするが、
この若き夫婦の物語である。

徳冨蘆花氏は随筆形態で綴っているが、まぎれない珠玉のような短編小説となっている。
題して『ほうずき)』と名付けて、哀切ある物語である。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・

             ほおずき

       一

其頃は女中も居ず、門にしまりもなかった。
一家(いっか)総出の時は、大戸を鎖(さ)して、ぬれ縁の柱に郵便箱をぶら下げ、

○○行
夕方(若くは明午○)帰る
御用の御方は北隣(きたどなり)△△氏へ御申残しあれ
小包も同断
  月日  氏名


斯く張札(はりふだ)して置いた。
稀には飼犬を縁先(えんさ)きの樫の木に繋(つな)いで置くこともあったが、
多くは郵便箱に留守をさした。

帰って見ると、郵便箱には郵便物の外、色々な名刺や鉛筆書きが入れてあったり、
主人が穿(は)きふるした薩摩下駄を物数寄(ものずき)にまだ真新しいのに穿きかえて行く人なぞもあった。
ノートを引きちぎって、斯様なものを書いたのもあった。

君を尋ねて草鞋(わらぢ)で来れば
君は在(いま)さず唯犬ばかり
縁に腰かけ大きなあくび
中で時計が五時をうつ


明治四十一年の新嘗祭の日であった。
東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、
玉川に遊びに往った。

子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児(むすめ)と共に、
つい其前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車(しょうにぐるま)を押して、
星光を踏みつゝ野路を二里くたびれ果てゝ帰宅した。


隣家の女児と門口で別れて、まだ大戸も開けぬ内、
二三人の足音と車の響が門口に止まった。
車夫が提灯の光に、丈高い男がぬっと入って来た。
つゞいて女が入って来た。
「僕が滝沢です、手紙を上げて置きましたが……」


其様(そん)な手紙は未だ見なかったのである。
来意を聞けば、信州の者で、一晩(ひとばん)御厄介になりたいと云うのだ。
主人は疲れて大にいやであったが、遠方から来たものを、
と勉強して兎に角戸をあけて内に請(しょう)じた。
吉祥寺から来たと云う車夫は、柳行李(やなぎごうり)を置いて帰った。

       二

ランプの明りで見れば、男は五分刈(ごぶがり)頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。
女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷(まるまげ)に結って居る。

主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物を取出し主人夫妻の前にならべた。
葡萄液一瓶(ひとびん)、
「醗酵(はっこう)しない真の葡萄汁(ぶどうしる)です」
と男が註を入れた。

杏(あんず)の缶詰が二個。
「此はお嬢様に」
と婦人が取出したのは、
十七八ずつも実(な)った丹波酸漿(たんばほおずき)が二本。
いずれも紅(あか)いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。

「まあ見事(みごと)な」
と主婦が歎美の声を放つ。

「私の乳母が丹精(たんせい)して大事に大事に育てたのです」
と婦人が誇り貌(が)に口を添えた。

二つ三つ語を交(か)わす内に、男は信州、女は甲州の人で、
共に耶蘇信者(やそしんじゃ)、外川先生の門弟、
此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。

畑の仕事でも明日は少し御手伝しましょうと男が云えば、
台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。


兎に角飯(めし)を食うた。
飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。
「そう、余程痛みますか」
と女が憂(うれ)わしそうにきく。

「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好(いけな)かった」
と男が云う。

此大きな無遠慮な吾儘坊(わがままぼっ)ちゃんのお客様の為に、
主婦は懐炉(かいろ)を入れてやった。
大分(だいぶ)落(おち)ついたと云う。
晩(おそ)くなって風呂が沸(わ)いた。
まあお客様からと請(しょう)じたら、
「私も一緒に御免蒙りましょう」
と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。

寝ると云っても六畳二室の家、
唐紙一重に主人組は此方(こち)、客は彼方(あち)と頭(あたま)突(つ)き合わせである。
無い蒲団を都合して二つ敷いてやったら、
御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。

       三

明くる日、男は、
「私共は二食で、朝飯を十時にやります。あなた方はお構(かま)いなく」
と何方(どち)が主やら客やら分からぬ事を云う。

其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、
主人は男を連れて出た。


畠仕事をして居る百姓の働き振を見ては、
まるで遊んでる様ですな、と云う。
彼は生活の闘烈しい雪の山国に生れ、
彼自身も烈しい戦の人であった。
彼は小学教員であった。

耶蘇を信ずる為に、父から勘当同様の身となった。
学校でも迫害を受けた。

ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、
生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖(さしづえ)を取ると、
突然(いきなり)劇(はげ)しく先生たる彼の背(せなか)を殴った。

彼は徐(しずか)に顧みて何を為(す)ると問うた。
其(その)生徒は杖を捨てゝ涙を流し、
御免下(ごめんくだ)さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、
先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、
と跪(ひざまず)いて詫びた。

彼は其生徒を賞(ほ)めて、辞退するのを無理に筆を三本褒美(ほうび)にやった。


斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。
落花生が炙(い)れて居る。
「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」
と云うて女が炙ったのそうな。
主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。


女は甲州の釜無川の西に当る、ある村の豪家の女(むすめ)であった。
家では銀行などもやって居た。
親類内に嫁に往ったが、弟が年若(としわか)なので、父は彼女夫妻を呼んで家(うち)の後見をさした。

結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、
彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目(よそめ)には模範的夫婦と見られた。

良人(おっと)はやさしい人で、耶蘇(やそ)教信者で、
外川先生の雑誌の読者であった。
彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州の一男子の文章を読んで、
其熱烈な意気は彼女の心を撼(うご)かした。

其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。
何時(いつ)となく彼女と彼の間に無線電信がかゝった。
手紙の往復がはじまった。

其内良人は病気になって死んだ。
死ぬる前、妻(つま)に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。
一年程過ぎた。
彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。
而して彼女の家では、父死し、弟は年若(としわか)ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、
彼女は到頭(とうとう)家(うち)を脱け出して信州の彼が許(もと)に奔(はし)ったのである。

           *

朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、
近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内(みちしるべ)かた/″\柳行李を負(お)わせてやることにした。


彼は尻をからげて、莫大小(めりやす)の股引(ももひき)白足袋(しろたび)に高足駄をはき、
彼女は洋傘(こうもり)を杖(つえ)について海松色(みるいろ)の絹天(きぬてん)の肩掛(かたかけ)をかけ、主婦に向うて、
「何卒(どうぞ)覚えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。
主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

       四

一年程過ぎた。

此世から消え失せたかの様に、二人の消息(しょうそく)ははたと絶えた。
「如何(どう)したろう。はがき位はよこしそうなものだな」
主人夫妻は憶(おも)い出す毎(たび)に斯く云い合った。


丁度(ちょうど)満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、
珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。
其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。

消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日一夜(いちや)を忘れなかった、と書いてある。


吁(ああ)彼女は死んだのか。
友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言を言葉通り実行して
恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、
決して百花園中(ひゃっかえんちゅう)のそゞろあるきではあるまい、
とは期(ご)して居たが、彼女は早くも死んだの乎。


聞(き)きたいのは、沈黙の其一年の消息である。
知りたいのは、其(その)死(し)の状(さま)である。

           *

あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から
彼女に関する消息の一端を知ることを得た。


彼等夫妻は千曲川の滸(ほとり)に家をもち、養鶏(ようけい)などやって居た。
而して去年の秋の暮、胃病とやらで服薬して居たが、
ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。
彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加(つけくわ)えた。

           *

某氏はまた斯様(こん)な話をした。
亡くなった彼女は、思い切った女であった。
人の為に金でも出す時は己が着類(きるい)を質入れしたり売り払ったりしても出す女であった。

彼女の前夫(ぜんふ)は親類仲で、慶応義塾出の男であった。
最初は貨殖を努めたが、耶蘇(やそ)を信じて外川先生の門人となるに及んで、
聖書の教を文句通(もんくどお)り実行して、決して貸した金の催促をしなかった。

其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸(ならずもの)等が借金に押しかけ、
数千円は斯くして還らぬ金となった。
彼の家には精神病の血があった。
彼も到頭遺伝病に犯された。
其為彼の妻は彼と別居した。

彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者の家(うち)に時々来ては、
妻を呼び出してもろうて逢うた。
彼の臨終の場にも、妻は居なかった。
此時彼女の魂はとく信州にあったのである。

彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。
実家の母が瞋(いか)ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。
然し其前彼女は実家に居る時から追々(おいおい)に金を信州へ送り、
千曲川の辺の家(うち)も其れで建てたと云うことであった。

           *

彼夜彼女が持て来てくれたほおずきは、
あまり見事(みごと)なので、子供にもやらず、小箪笥(こだんす)の抽斗(ひきだし)に大切にしまって置いたら、
鼠が何時の間にか其(その)小箪笥を背(うしろ)から噛破って喰ったと見え、
年の暮(くれ)に抽斗をあけて見たら、中実(なかみ)無しのカラばかりであった。


年々(ねんねん)酸漿(ほおずき)が紅くなる頃になると、
主婦はしみ/″\彼女を憶(おも)い出すと云うて居る。

・・】

突然に見知らぬ若き夫婦の来訪を徳冨蘆花夫妻は受け、
その晩、戸惑いながらやむえず宿泊させたのであるが、
蘆花氏の知人の耶蘇信者の外川先生の門弟のひとりであり、
男は信州、女は甲州の人で、このたび結婚して新生涯の門出に、
徳冨蘆花夫妻の生活ぶりを見に寄ったというのである。


そして女は甲州のある村の豪家の娘で、親類内に嫁いだが、
弟が若かったので、実父は彼女夫妻を実家の後見をさせ、住まわせた。

そして主人はやさしい人で、耶蘇教信者で、外川先生の雑誌の読者であり、
女はその雑誌に時々所感を寄する一男子の文章を読んで、
その熱烈な意気は彼女の心をうごかした。

この信州の男子は主人の友達のひとりで、
ときおり信州から主人を訪ねて来ることがあった。
そして、いつとなく彼女と彼の間に無線電信をまじえて、手紙の往復がはじまった。

まもなくして、主人は病死するが、
死ぬる前、妻に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。
そして、一年程過ぎ、彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。

この後、彼女の家では、父死し、弟は年若ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、
彼女は家を脱け出して、信州の彼の家に奔(はし)った。

こうしたことを若き女は蘆花氏の奥様に話し、
蘆花宅を辞するとき、
「何卒(どうぞ)覚えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。


この後、二人の消息が絶え、一年の新嘗祭も過ぎた頃、
彼の妻の死を報ずるはがきであった。

・・

蘆花氏はまぎれなく作家であると感じるのは、この後の綴りである。

【・・
聞(き)きたいのは、沈黙の其一年の消息である。
知りたいのは、其(その)死(し)の状(さま)である
・・】

この後、この女の死ぬまでの軌跡を知り、綴られる。


私はこの若き夫婦の話しとは別で、
この前章に綴られている徳冨蘆花夫妻の日常生活を思いを寄せられたのである。

千歳村・粕谷に越した翌年の晩秋の新嘗祭の祝日の時、
都心から親類の子供が遊びに来たので、
隣家の女の子と共に、前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車を押して、
二子多摩川の8キロの野路を往復されたことである。

そして、三歳の女児は、蘆花自身がたえまない確執ある実兄・蘇峰であるが、
蘆花夫妻は子供に恵まれず、蘇峰の末女である鶴子を養女に迎えたりしたのである。

或いは、この物語の若き夫妻が一夜宿泊させた翌朝も
川越の方へ行くと云うので、
近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内(みちしるべ)かた/″\柳行李を負(お)わせてやることにした、
と綴られている。

千歳村・粕谷から荻窪までは、北に少なからず3キロはあるので、
この当時の人は、よく歩かれた。

もとより蘆花ご夫妻は、新宿、渋谷までの道よりは、
たびたび歩かれている、と幾度も綴られているので、
あの当時は利便性がなかったとしても、私は感心を重ねるばかりである。


                           《つづく》


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