夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

函館、冬の時節に本日より初めて訪れることとなり、東京の田舎者の私は戸惑いながら・・。

2014-01-13 04:34:16 | 旅のあれこれ
私は東京郊外に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨年の11月中旬に、家内と駅前に買物に行った時、たまたま旅行代理店の前で、
店頭に置いてある一通の旅行バンフレットを頂いた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代の頃から国内の旅を重ねてきた。
そして冬の時節は北の雪舞い降る山里を歩いたり、街並みを歩き、その地の風土、文化を多々学んだりしてきた。
たまたま昨年の1月下旬には、北海道の帯広市の郊外にある幕別温泉の観光ホテルに5泊6日で滞在して、
周辺をひたすら歩き廻り遊学したりした。

一昨年の一月中旬に於いては、福島県の裏磐梯の檜原湖に近い観光ホテルに3泊4日の旅路をした後、
下旬から2月初めに、札幌市の郊外にある観光ホテルに6泊7日で滞在して、
市内、郊外の支笏湖などを周遊したりし、
私たち夫婦は雪恋し、と歩き廻ったりしてきた。

こうした心情を秘めてきた私たち夫婦は、新年の一月の旅先はどの地を旅をしょうかと、
漠然と思案してきたのである・・。

この一通の旅行バンフレットは、北海道の函館地方のであるが、
この冬の時節には未知の世界であり、帰宅後にパンフレットを見ながら、
冬の函館も良き所が多く観て見たい、と私は家内を誘ったりした。
            

私が初めて北海道に行ったのは、
高校時代の修学旅行で確か1962年(昭和37)年の6月の頃だったと記憶している。

上野駅から夜行列車で青森駅に着いた朝、そして青函連絡船に乗船し、
函館から12泊13日間の概要一周であったが、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、
車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。

この時の周遊は定かでないが、今でも鮮明に覚えているのは、
夕方に上野駅から夜行列車に乗車し、普通座席に座りながら、
少し眠っただけで翌朝に青森駅に着いた後、長い通路を歩いた後、青函連絡船に乗船した。

やがて津軽海峡の波は荒く、蒼い波間を見たり、船は少し揺られたりしていたが、
初めての大きな船に乗船した高揚した心情の為か、船酔いのことも忘れ、
友人たちとデッキから海を見ながら、談笑を重ねたりしていた。

確か乗船時間は4時間ぐらいであったと思われるが、
彼方に北海道の函館の街が観えた時、北海道だ、やっと着いた、
と私たちは勝手に言葉を重ねたりして、歓声を上げたりした。

この当時は高校生が、北海道の修学旅行の場合は、
都心から夕方に夜行列車に乗車して、普通座席に座り、翌朝に青森駅に到着し、
青函連絡船に乗船して、昼前後に北海道の道南の函館港に到着するのが、
普通のケースであったと思われる。

その後、10数年後には航空機の時代となり、やがて青函連絡船の定期航路も廃路となった。

そして殆どの方は、航空機で北海道の旅となったので、
私たちの訪れた時代は、遠い北国の北海道が実感できた時代でもあった・・。
          

私は家内と結婚した1976年〈昭和51年〉の春を過ぎた後、
長野県、北陸地方、東北地方などを主体として旅行をしていたが、
1981年〈昭和56年〉の夏、私の会社の夏季休暇で利用し、
夫婦として初めての北海道は道南コースを周遊した。

この当時、大手の航空会社が観光地にあるホテルに宿泊して、各観光地を専用バスで周遊させるプランがあり、
私たち夫婦は新千歳空港から札幌の『東急ホテル』に宿泊した後、
専用バスで移動して大沼の『プリンスホテル』に宿泊した後、
そして函館の『国際ホテル』宿泊する3泊4日の全日空が主催するフリー周遊プランであった。

この時、私たちは初めての大型旅客機に乗り、更にエコノミーの航空券なのに、
ファースト・クラスに座るように客室乗務員から言われ、破格のサービスを受けたりした。
初めてづくしの為か、札幌、函館の市内めぐりも、無知で解らず、ただ舞い上がる中、
ハイヤーで周遊観光をしたりし、帰宅後は我が家の貯金がわずかとなったりしてしまったが、
それなりに思いで深い旅となった。


今回、冬の函館を訪れる私の根底のひとつとしては、何かと烈風の多い立待岬を観たいことであった・・。
過ぎ去り年の2008年12月下旬の時、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るために、
『ススキノ駅』から5分前後歩いたビジネスホテル風に4泊5日で訪れた。

こうした旅路の中、『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私は家内を誘い、地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。

公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。

私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。

この本は北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。

私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。

こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信を深めたりした。
          
この本を滞在先のホテルで、たまたま私は、布団の中で読んでいたのであるが、
ひとつの詩を読みながら、思わず涙を流し、首に巻いたタオルで頬をぬぐったりした・・。

私は詩に関しては、無知であり、単なる私の感覚を頼りに読んでいる程度である。

無断であるが、転載をさせて頂く。

     立待岬               
                      作・三吉良太郎

ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間

ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む

塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている

(後略)

この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、と解説されていた。

私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。

三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)

このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。

こうした私の心の片隅に残っているので、未知の『立待岬』を冬の時節に訪れたかったのであった。
http://map.yahoo.co.jp/maps?q=%E5%87%BD%E9%A4%A8&p=%E7%AB%8B%E5%BE%85%E5%B2%AC&ei=UTF-8&fa=as&type=scroll&pop=on
☆【YAHOO! JAPAN】<==『地図』検索
                     <==『函館市 立待岬』周辺☆

そして昨年の12月の始め、ある有力な通販の旅行会社から、
月刊誌が自宅に郵送された中で、格安の『フリープラン ザ・湯の川温泉5日間』が掲載され、
これだったならば年金生活の私たち夫婦でも気軽に行ける、と私は微笑んだりした。

そして今回、本日の13日より4泊5日で、函館市に隣接している湯の川温泉の観光ホテルに滞在し、
幾たびか市内の名所などを歩き廻る予定である。

しかしながら冬の函館を調べたりすると、『立待岬』は冬の間は閉鎖、と明記されて折、
東京の田舎者の私は戸惑いながら、周辺の地から遠方の立待岬を眺めるのかょ、
と複雑に思いで、溜息を重ねたりしている。

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