私は東京郊外に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨年の11月中旬に、家内と駅前に買物に行った時、たまたま旅行代理店の前で、
店頭に置いてある一通の旅行バンフレットを頂いた・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代の頃から国内の旅を重ねてきた。
そして冬の時節は北の雪舞い降る山里を歩いたり、街並みを歩き、その地の風土、文化を多々学んだりしてきた。
たまたま昨年の1月下旬には、北海道の帯広市の郊外にある幕別温泉の観光ホテルに5泊6日で滞在して、
周辺をひたすら歩き廻り遊学したりした。
一昨年の一月中旬に於いては、福島県の裏磐梯の檜原湖に近い観光ホテルに3泊4日の旅路をした後、
下旬から2月初めに、札幌市の郊外にある観光ホテルに6泊7日で滞在して、
市内、郊外の支笏湖などを周遊したりし、
私たち夫婦は雪恋し、と歩き廻ったりしてきた。
こうした心情を秘めてきた私たち夫婦は、新年の一月の旅先はどの地を旅をしょうかと、
漠然と思案してきたのである・・。
この一通の旅行バンフレットは、北海道の函館地方のであるが、
この冬の時節には未知の世界であり、帰宅後にパンフレットを見ながら、
冬の函館も良き所が多く観て見たい、と私は家内を誘ったりした。
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私が初めて北海道に行ったのは、
高校時代の修学旅行で確か1962年(昭和37)年の6月の頃だったと記憶している。
上野駅から夜行列車で青森駅に着いた朝、そして青函連絡船に乗船し、
函館から12泊13日間の概要一周であったが、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、
車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。
この時の周遊は定かでないが、今でも鮮明に覚えているのは、
夕方に上野駅から夜行列車に乗車し、普通座席に座りながら、
少し眠っただけで翌朝に青森駅に着いた後、長い通路を歩いた後、青函連絡船に乗船した。
やがて津軽海峡の波は荒く、蒼い波間を見たり、船は少し揺られたりしていたが、
初めての大きな船に乗船した高揚した心情の為か、船酔いのことも忘れ、
友人たちとデッキから海を見ながら、談笑を重ねたりしていた。
確か乗船時間は4時間ぐらいであったと思われるが、
彼方に北海道の函館の街が観えた時、北海道だ、やっと着いた、
と私たちは勝手に言葉を重ねたりして、歓声を上げたりした。
この当時は高校生が、北海道の修学旅行の場合は、
都心から夕方に夜行列車に乗車して、普通座席に座り、翌朝に青森駅に到着し、
青函連絡船に乗船して、昼前後に北海道の道南の函館港に到着するのが、
普通のケースであったと思われる。
その後、10数年後には航空機の時代となり、やがて青函連絡船の定期航路も廃路となった。
そして殆どの方は、航空機で北海道の旅となったので、
私たちの訪れた時代は、遠い北国の北海道が実感できた時代でもあった・・。
私は家内と結婚した1976年〈昭和51年〉の春を過ぎた後、
長野県、北陸地方、東北地方などを主体として旅行をしていたが、
1981年〈昭和56年〉の夏、私の会社の夏季休暇で利用し、
夫婦として初めての北海道は道南コースを周遊した。
この当時、大手の航空会社が観光地にあるホテルに宿泊して、各観光地を専用バスで周遊させるプランがあり、
私たち夫婦は新千歳空港から札幌の『東急ホテル』に宿泊した後、
専用バスで移動して大沼の『プリンスホテル』に宿泊した後、
そして函館の『国際ホテル』宿泊する3泊4日の全日空が主催するフリー周遊プランであった。
この時、私たちは初めての大型旅客機に乗り、更にエコノミーの航空券なのに、
ファースト・クラスに座るように客室乗務員から言われ、破格のサービスを受けたりした。
初めてづくしの為か、札幌、函館の市内めぐりも、無知で解らず、ただ舞い上がる中、
ハイヤーで周遊観光をしたりし、帰宅後は我が家の貯金がわずかとなったりしてしまったが、
それなりに思いで深い旅となった。
今回、冬の函館を訪れる私の根底のひとつとしては、何かと烈風の多い立待岬を観たいことであった・・。
過ぎ去り年の2008年12月下旬の時、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るために、
『ススキノ駅』から5分前後歩いたビジネスホテル風に4泊5日で訪れた。
こうした旅路の中、『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私は家内を誘い、地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。
公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。
私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
この本は北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。
私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。
こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信を深めたりした。
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この本を滞在先のホテルで、たまたま私は、布団の中で読んでいたのであるが、
ひとつの詩を読みながら、思わず涙を流し、首に巻いたタオルで頬をぬぐったりした・・。
私は詩に関しては、無知であり、単なる私の感覚を頼りに読んでいる程度である。
無断であるが、転載をさせて頂く。
立待岬
作・三吉良太郎
ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間
ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む
塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている
(後略)
この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、と解説されていた。
私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。
三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)
このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。
こうした私の心の片隅に残っているので、未知の『立待岬』を冬の時節に訪れたかったのであった。
http://map.yahoo.co.jp/maps?q=%E5%87%BD%E9%A4%A8&p=%E7%AB%8B%E5%BE%85%E5%B2%AC&ei=UTF-8&fa=as&type=scroll&pop=on
☆【YAHOO! JAPAN】<==『地図』検索
<==『函館市 立待岬』周辺☆
そして昨年の12月の始め、ある有力な通販の旅行会社から、
月刊誌が自宅に郵送された中で、格安の『フリープラン ザ・湯の川温泉5日間』が掲載され、
これだったならば年金生活の私たち夫婦でも気軽に行ける、と私は微笑んだりした。
そして今回、本日の13日より4泊5日で、函館市に隣接している湯の川温泉の観光ホテルに滞在し、
幾たびか市内の名所などを歩き廻る予定である。
しかしながら冬の函館を調べたりすると、『立待岬』は冬の間は閉鎖、と明記されて折、
東京の田舎者の私は戸惑いながら、周辺の地から遠方の立待岬を眺めるのかょ、
と複雑に思いで、溜息を重ねたりしている。
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昨年の11月中旬に、家内と駅前に買物に行った時、たまたま旅行代理店の前で、
店頭に置いてある一通の旅行バンフレットを頂いた・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代の頃から国内の旅を重ねてきた。
そして冬の時節は北の雪舞い降る山里を歩いたり、街並みを歩き、その地の風土、文化を多々学んだりしてきた。
たまたま昨年の1月下旬には、北海道の帯広市の郊外にある幕別温泉の観光ホテルに5泊6日で滞在して、
周辺をひたすら歩き廻り遊学したりした。
一昨年の一月中旬に於いては、福島県の裏磐梯の檜原湖に近い観光ホテルに3泊4日の旅路をした後、
下旬から2月初めに、札幌市の郊外にある観光ホテルに6泊7日で滞在して、
市内、郊外の支笏湖などを周遊したりし、
私たち夫婦は雪恋し、と歩き廻ったりしてきた。
こうした心情を秘めてきた私たち夫婦は、新年の一月の旅先はどの地を旅をしょうかと、
漠然と思案してきたのである・・。
この一通の旅行バンフレットは、北海道の函館地方のであるが、
この冬の時節には未知の世界であり、帰宅後にパンフレットを見ながら、
冬の函館も良き所が多く観て見たい、と私は家内を誘ったりした。
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私が初めて北海道に行ったのは、
高校時代の修学旅行で確か1962年(昭和37)年の6月の頃だったと記憶している。
上野駅から夜行列車で青森駅に着いた朝、そして青函連絡船に乗船し、
函館から12泊13日間の概要一周であったが、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、
車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。
この時の周遊は定かでないが、今でも鮮明に覚えているのは、
夕方に上野駅から夜行列車に乗車し、普通座席に座りながら、
少し眠っただけで翌朝に青森駅に着いた後、長い通路を歩いた後、青函連絡船に乗船した。
やがて津軽海峡の波は荒く、蒼い波間を見たり、船は少し揺られたりしていたが、
初めての大きな船に乗船した高揚した心情の為か、船酔いのことも忘れ、
友人たちとデッキから海を見ながら、談笑を重ねたりしていた。
確か乗船時間は4時間ぐらいであったと思われるが、
彼方に北海道の函館の街が観えた時、北海道だ、やっと着いた、
と私たちは勝手に言葉を重ねたりして、歓声を上げたりした。
この当時は高校生が、北海道の修学旅行の場合は、
都心から夕方に夜行列車に乗車して、普通座席に座り、翌朝に青森駅に到着し、
青函連絡船に乗船して、昼前後に北海道の道南の函館港に到着するのが、
普通のケースであったと思われる。
その後、10数年後には航空機の時代となり、やがて青函連絡船の定期航路も廃路となった。
そして殆どの方は、航空機で北海道の旅となったので、
私たちの訪れた時代は、遠い北国の北海道が実感できた時代でもあった・・。
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私は家内と結婚した1976年〈昭和51年〉の春を過ぎた後、
長野県、北陸地方、東北地方などを主体として旅行をしていたが、
1981年〈昭和56年〉の夏、私の会社の夏季休暇で利用し、
夫婦として初めての北海道は道南コースを周遊した。
この当時、大手の航空会社が観光地にあるホテルに宿泊して、各観光地を専用バスで周遊させるプランがあり、
私たち夫婦は新千歳空港から札幌の『東急ホテル』に宿泊した後、
専用バスで移動して大沼の『プリンスホテル』に宿泊した後、
そして函館の『国際ホテル』宿泊する3泊4日の全日空が主催するフリー周遊プランであった。
この時、私たちは初めての大型旅客機に乗り、更にエコノミーの航空券なのに、
ファースト・クラスに座るように客室乗務員から言われ、破格のサービスを受けたりした。
初めてづくしの為か、札幌、函館の市内めぐりも、無知で解らず、ただ舞い上がる中、
ハイヤーで周遊観光をしたりし、帰宅後は我が家の貯金がわずかとなったりしてしまったが、
それなりに思いで深い旅となった。
今回、冬の函館を訪れる私の根底のひとつとしては、何かと烈風の多い立待岬を観たいことであった・・。
過ぎ去り年の2008年12月下旬の時、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るために、
『ススキノ駅』から5分前後歩いたビジネスホテル風に4泊5日で訪れた。
こうした旅路の中、『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私は家内を誘い、地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。
公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。
私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
この本は北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。
私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。
こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信を深めたりした。
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この本を滞在先のホテルで、たまたま私は、布団の中で読んでいたのであるが、
ひとつの詩を読みながら、思わず涙を流し、首に巻いたタオルで頬をぬぐったりした・・。
私は詩に関しては、無知であり、単なる私の感覚を頼りに読んでいる程度である。
無断であるが、転載をさせて頂く。
立待岬
作・三吉良太郎
ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間
ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む
塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている
(後略)
この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、と解説されていた。
私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。
三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)
このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。
こうした私の心の片隅に残っているので、未知の『立待岬』を冬の時節に訪れたかったのであった。
http://map.yahoo.co.jp/maps?q=%E5%87%BD%E9%A4%A8&p=%E7%AB%8B%E5%BE%85%E5%B2%AC&ei=UTF-8&fa=as&type=scroll&pop=on
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<==『函館市 立待岬』周辺☆
そして昨年の12月の始め、ある有力な通販の旅行会社から、
月刊誌が自宅に郵送された中で、格安の『フリープラン ザ・湯の川温泉5日間』が掲載され、
これだったならば年金生活の私たち夫婦でも気軽に行ける、と私は微笑んだりした。
そして今回、本日の13日より4泊5日で、函館市に隣接している湯の川温泉の観光ホテルに滞在し、
幾たびか市内の名所などを歩き廻る予定である。
しかしながら冬の函館を調べたりすると、『立待岬』は冬の間は閉鎖、と明記されて折、
東京の田舎者の私は戸惑いながら、周辺の地から遠方の立待岬を眺めるのかょ、
と複雑に思いで、溜息を重ねたりしている。
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