最終章 旅の終わりは、風花の中の雪路の五稜郭公園・・。
私たち夫婦は市電の『函館駅前』駅から乗車した後、『五稜郭公園前』駅で下車し、
10分ばかり歩き、五稜郭タワーが聳える地に着いた。
そして教科書のように五稜郭タワーの最上階の展望フロアーに於いて、
東西南北を見渡すことのできる光景を視たりした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/82/03ce09683541812401e7efa683ce8e2c.jpg)
そして見下ろせば五稜郭も観えたが、私は何かしら満足できずにいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/81/e6f730aa8d5470476f2f8f73ef2f57a4.jpg)
こうした心情の根底には、タワーのような高台の展望から眺めるのが好きになれず、
同じ高台であったならば、たとえば東京の郊外に600メートル足らず高尾山の山頂近くから、
彼方の郊外の街並み、そして新宿の都心を眺めるのは好感でき、
何かしら足元が地べたに着いていないと、落ち着く困惑することが多いのである。
やがて私は家内に、あの地上は確か公園になっているので、散策しょう、
と誘ったりした・・。
そして館内の2階で昼食をした後、私たち夫婦は雪の小道を歩きだした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/39/3ef68a96d754f6c9865322279514703c.jpg)
やがて箱館奉行所らしき建物を眺めたりして、記念写真として撮ったりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/a5/27e5fd1601e57d01f4289140e56fe995.jpg)
そして奥に進むと風もない青空の中、予告もなく花びらのような雪が舞いながら落ちてくる風花(かざはな)に、
私は魅了されて心を寄せたりした・・。
もとより風花は、周辺に観える山で降っている雪が、ときより強く風が吹くと、
私は市街のはずれの路、海辺の路、そして街の片隅を歩いたり、
青空の中、白き雪が花びらのように見え、舞いながらはかなく消える情景である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/c9/e7ea104f27232f4e0308927c7d70386a.jpg)
そして函館は小山に囲まれ、坂が多く風光明媚の地であり、
その上に晴天に恵まれることも多く、この時節の函館は、私は風花の街、と命名したりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/99/15dadcb6631f187b1127b7fa177de7a3.jpg)
こうした情景に私は圧倒的に魅せられて、10枚ぐらいの写真を撮ったりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/b2/abfc22efaad27c745240b2af7b3a63b1.jpg)
私は幼年期は東京郊外の農家の児として育ち、遥か60年前の頃は、この冬の時節に30センチ前後の雪が降っていた。、
1951年〈昭和26年〉の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。
ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。
家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。
そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。
小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、薪(まき)が燃やされていた。
私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。
下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。
このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/3e/16074dbf188d8413ebd10711dd7d116a.jpg)
その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。
やがて1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/80/dab8a82c6c46bc5280e9861c87138438.jpg)
このような心情を秘めてきた私は、愛惜感が増して、こうした雪路を歩くのが好きで、
今回の旅路も多くの観光客が訪れる名所よりも、素朴な景観のある所を歩くことに魅せられている。
やがて五稜郭公園に別れを告げて、『北洋資料館』に立ち寄った後、
路線バスで函館空港を目指した・・。
そしてこの時節の函館は、風花の街、と私なりに思いを深めたりした。
《終わり》
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私たち夫婦は市電の『函館駅前』駅から乗車した後、『五稜郭公園前』駅で下車し、
10分ばかり歩き、五稜郭タワーが聳える地に着いた。
そして教科書のように五稜郭タワーの最上階の展望フロアーに於いて、
東西南北を見渡すことのできる光景を視たりした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/82/03ce09683541812401e7efa683ce8e2c.jpg)
そして見下ろせば五稜郭も観えたが、私は何かしら満足できずにいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/81/e6f730aa8d5470476f2f8f73ef2f57a4.jpg)
こうした心情の根底には、タワーのような高台の展望から眺めるのが好きになれず、
同じ高台であったならば、たとえば東京の郊外に600メートル足らず高尾山の山頂近くから、
彼方の郊外の街並み、そして新宿の都心を眺めるのは好感でき、
何かしら足元が地べたに着いていないと、落ち着く困惑することが多いのである。
やがて私は家内に、あの地上は確か公園になっているので、散策しょう、
と誘ったりした・・。
そして館内の2階で昼食をした後、私たち夫婦は雪の小道を歩きだした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/39/3ef68a96d754f6c9865322279514703c.jpg)
やがて箱館奉行所らしき建物を眺めたりして、記念写真として撮ったりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/a5/27e5fd1601e57d01f4289140e56fe995.jpg)
そして奥に進むと風もない青空の中、予告もなく花びらのような雪が舞いながら落ちてくる風花(かざはな)に、
私は魅了されて心を寄せたりした・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/d5/9bb2a0ab3459c3083fd66376cffc7ef2.jpg)
もとより風花は、周辺に観える山で降っている雪が、ときより強く風が吹くと、
私は市街のはずれの路、海辺の路、そして街の片隅を歩いたり、
青空の中、白き雪が花びらのように見え、舞いながらはかなく消える情景である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/c9/e7ea104f27232f4e0308927c7d70386a.jpg)
そして函館は小山に囲まれ、坂が多く風光明媚の地であり、
その上に晴天に恵まれることも多く、この時節の函館は、私は風花の街、と命名したりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/99/15dadcb6631f187b1127b7fa177de7a3.jpg)
こうした情景に私は圧倒的に魅せられて、10枚ぐらいの写真を撮ったりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/b2/abfc22efaad27c745240b2af7b3a63b1.jpg)
私は幼年期は東京郊外の農家の児として育ち、遥か60年前の頃は、この冬の時節に30センチ前後の雪が降っていた。、
1951年〈昭和26年〉の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。
ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。
家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。
そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。
小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、薪(まき)が燃やされていた。
私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。
下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。
このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/3e/16074dbf188d8413ebd10711dd7d116a.jpg)
その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。
やがて1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/80/dab8a82c6c46bc5280e9861c87138438.jpg)
このような心情を秘めてきた私は、愛惜感が増して、こうした雪路を歩くのが好きで、
今回の旅路も多くの観光客が訪れる名所よりも、素朴な景観のある所を歩くことに魅せられている。
やがて五稜郭公園に別れを告げて、『北洋資料館』に立ち寄った後、
路線バスで函館空港を目指した・・。
そしてこの時節の函館は、風花の街、と私なりに思いを深めたりした。
《終わり》
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