第2章 立待岬の代わりに穴澗海岸を訪れて、過ぎし日々の思いを重ね
今回、冬の函館を訪れる最初の動機は、何かと烈風の多い立待岬を観たいことでもあった・・。
このことは過ぎ去り年の2008年12月下旬の時、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るために、
『ススキノ駅』から5分前後歩いたビジネスホテル風に4泊5日で訪れた。
こうした旅路の中、『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
偶然に『北海道文学百景』とを題された一冊の本に瞬時に魅せられ、買い求めたりした。
そして滞在しているホテルで精読していたら、ひとつの詩に思わず涙を流し、
首に巻いたタオルで頬をぬぐったりした・・。
私は詩に関しては、無知であり、単なる私の感覚を頼りに読んでいる程度である。
、
無断であるが、転載をさせて頂く。
立待岬
作・三吉良太郎
ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間
ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む
塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている
(後略)
この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、と解説されていた。
この後、私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。
三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)
このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。
こうした私の心の片隅に残っているので、未知の『立待岬』を冬の時節に訪れたかったのであったが、
無念ながら、冬季は閉鎖と知り、戸惑ったりした・・。
やがて旅路の一週間に、ネットで偶然に穴澗海岸(あなま・かいがん)を学んだりした・・。
《・・函館山の「裏側」にある絶景の海岸。
GLAYのTERUさんが思い出の場所として紹介したスポットでもある。
天気のいい日には、正面に沈む美しい夕日が見られる。
「函館でとびきりの夕日を見たいならここ」と、地元通の人が絶賛する穴澗海岸。
函館山のロープウェイがあるほうの裏側、西側の崖の下あたりの岩場で、
目の前に広がる海を見ていると、時間のたつのを忘れそうになります。
気持ちよく飛んでいくカモメ、鼻をくすぐる潮の香り、波の音、行き交う船......。
天気のいい日には、海と対岸の山と空を赤く染めながら沈む夕日が見られ、運がいいとイルカの群れが横切ることもあるそうです。
知る人ぞ知る場所だったこの地ですが、函館出身のGLAYのTERUさんが生まれ育った場所で、
「一番大事な、癒される場所」と紹介したことから、足を運ぶ人も増えました。
ここに来る途中の外人墓地の一角には、GLAYのミュージックビデオにも登場する「カフェテリア モーリエ」があり、
このあたりはGLAYファンの聖地と言われています・・》
このように『函館市公式観光情報』に記載されていたので、私は魅せられて家内を誘い、訪れた。
私の現役時代のサラリーマンの時代は、音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めていた。
音楽を制作する部門でなく、管理畑で情報、経理、営業などの部署であったが、
それなりに音楽を聴く機会が多かった。
確か1994年(平成6年)の春過ぎ、私が経理畑に所属していた頃、
ロビーの掲示板に数多くのポスターが掲載されていたが、
この中のひとつが、無念ながら私には解からなかったのである。
女性のような若き男で長髪の4人が写しだされていたポスターであった。
『GLAY』と明示されていたが、私の心からは、ほど遠い存在であった。
その後、私は営業本部の片隅に異動した後、
GLAY(グレイ)を意識したのは、3枚目のアルバム『BELOVED』であり、
確か1996年(平成8年)の11月だったと思うが、
普遍的であるが感覚として私の好みの詞であり、そしてサウンドも抵抗なく溶け込めていった・・。
私が50代の前半の時であった。
その後、シングル盤の『口唇』の後に、
翌年の1997年(平成9年)の秋、べスト盤のアルバム『REVIEW』発売され、
この頃の業界として空前の500万枚を超えた売り上げとなり、私は最も勢いのあるGLAYに、
秘かに私が予測した以上に、ただ驚き、ため息をさせられたりした。
私はこの前後に『BELOVED』、『HOWEVER』、『ずっと2人で・・』、『軌跡の果て』を盛んに聴いたりした。
そして、NHKの『紅白歌合戦』に初出場され、函館に馴染みのある歌手・北島三郎さんに再紹介され、
ボーカルのTERUが、『HOWEVER』を唄いあげていた。
この年は最もCD、ビデオ等でセールスに貢献したアーティストに日本レコード協会の主催で、
翌年の1998年(平成10年)の1月に於いて、
第12回『日本ゴールドディスク大賞』のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
こうした実績を残されたので、私は年賀状を受け取った中のひとつに、
ある営業所の所長から、昨年はGLAYの年でした、と書かれていた。
その後、1998(平成10)年の4月にシングル盤の『SOUE LOVE』、『誘惑』同時発売され、
相変わらずミリオン・セラーが続き、
確か7月だったと思うが、『pure soul』のアルバムを270万枚を出荷した後、
やがて私はGLAYから離れた・・。
この当時の私は、X JAPANの数多くの曲に、遅ればせながら魅せられて、
無我夢中に熱中していたからである。
そしてこの当時の業界全体の売上げピークは1998年(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。
そして激動の1998年(平成10年)の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
その後、1999年(平成11年)の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあったが、私は物流情報会社に出向となった。
この中のひとつの職場は、音楽のCD、DVDなど商品を管理する商品センターであり、
CD、DVD販売店からの日々の受注により、出荷したり、或いは返品を受けたり、
製造会社より入荷したりする処であった。
もとより音楽商品は、それぞれ一枚一枚が激変し、多品種であり、曜日、季節の変動も加わり、
現場は多忙であった。
私はこうした商品センターに、センター長はじめ正社員4名と共に、
男性の20代の契約社員10名、パートの女性120名前後の中で、奮闘した。
しかし最初の頃は、30年近く本社に勤めていた私は、出向の身となった直後は、
まぎれなく都落ちで、失墜感が心身にあった。
この商品センターで大きな取り扱いの最初のCDは、
1999年(平成11年)2月3日発売のひとつGLAYの『Winter、again』であり、
確か数ヶ月で177万枚を出荷した。
このCDシングル盤を最後に、GLAYは私の勤めている社から契約が切れ、他社に移籍した。
そして私は商品センターのあるフロアーにある『pure soul』のアルバムの
大量な在庫を微苦笑しながら見たりした。
このことは前作のべスト盤のアルバム『REVIEW』が空前に売れて、
570万枚を超えていたので、『pure soul』のアルバムを大量にプレスした結果であった。
しかしながら、この『pure soul』のアルバム時代でも、270万枚を超えていたので、
会社の業績を影響させるビックなGLAYであったことは事実であった。
この年、5月5日ら放映された『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』
と題されたドキメンタリーの番組がNHKから放映された。
この番組はGLAYと命名したロックバンドの結成時の状況、5年後のメジャー・デビューするまでの苦節、
そしてブレイクするまでの実態、その後の4大ドームのライブ・コンサートを成功するまで、
結成から頂点に立つまでの10年間の軌跡を描いたドキメンタリーの良質作品である。
私は、この映像を幾たびか視聴するたびに、GLAYに熱中した曲と時代、
そして熱気帯びた観衆のシーンを想いだし、愛惜を重ねたりしている・・。
そして、思いだすように私はときおり、
保有しているメジャー・デビュー作品からアルバム『pure soul』までを取り出して、
聴いたり、手元の3本ばかりのビデオテープも視聴したりしている。
このようなGLAYに対しての私のささやかな想いで秘めている。
そして家内を誘い、滞在している観光ホテルの湯の川温泉より、
市電の路面電車に乗車して、函館どつく前で下車した後、雪道の坂道を上がりながら外人墓地を眺めたり、
海沿いの景観を眺めたりした・・。
そして20分ぐらい歩き穴澗海岸の近くで、閉鎖の看板を見かけて、
やむなく戻ったりした。
やがて外人墓地の一角には、GLAYのTERUさんが生まれ育った場所で、
何かと信愛している癒される場所にある「カフェテリア モーリエ」に私たち夫婦は立ち寄ったりした。
そして私たち夫婦は、店内からの眺められる景観も良く、
店内も好感し、たまたまお客さんは私たちだけであったので、
店のスタッフの若き男性と談笑したり、昼食をしたりした。
こうした談笑の中で、音楽のGLAYの話しをしたり、あの当時の時代を駆け抜けた熱気あるGLAYの情況を
私が知る限り若き男性のスタッフに私は話したりした。
そして若き男性のスタッフも、やはりGLAYに心酔し、今やバンドを結成していますので、
聴いて下さい、と若きバンドの曲が収録されたCDを私は頂いたりした。
やがて私たち夫婦は、この「カフェテリア モーリエ」に別れを告げながら、
雪道を歩きながら、音楽業界はCD販売は減少しネットが加速され、
ビックなアーティストでもCD収入とネット収入を合算しても激少している・・。
まして今後、プロを目指すアーティストは、烈風下となっている。
このような純粋にCD販売で各社が熾烈な競争できた1998(平成10)年の頃まで、
私は愛惜したり、GLAYが躍動し、熱気のあった時代を思い重ねたりした。
そして無力な私は、彼らGLAYがメジャーデビーするまで、
函館の地でバンドを結成した頃の叙景は、市の中心街にある八幡坂からの情景が相応しい、
と私は家内を誘い歩き廻ったりした。
そして協会のある地、その後に赤レンカのある地をひたすら歩き廻り、
やがて滞在している観光ホテルに帰館した。
《つづく》
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今回、冬の函館を訪れる最初の動機は、何かと烈風の多い立待岬を観たいことでもあった・・。
このことは過ぎ去り年の2008年12月下旬の時、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るために、
『ススキノ駅』から5分前後歩いたビジネスホテル風に4泊5日で訪れた。
こうした旅路の中、『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
偶然に『北海道文学百景』とを題された一冊の本に瞬時に魅せられ、買い求めたりした。
そして滞在しているホテルで精読していたら、ひとつの詩に思わず涙を流し、
首に巻いたタオルで頬をぬぐったりした・・。
私は詩に関しては、無知であり、単なる私の感覚を頼りに読んでいる程度である。
、
無断であるが、転載をさせて頂く。
立待岬
作・三吉良太郎
ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間
ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む
塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている
(後略)
この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、と解説されていた。
この後、私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。
三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)
このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。
こうした私の心の片隅に残っているので、未知の『立待岬』を冬の時節に訪れたかったのであったが、
無念ながら、冬季は閉鎖と知り、戸惑ったりした・・。
やがて旅路の一週間に、ネットで偶然に穴澗海岸(あなま・かいがん)を学んだりした・・。
《・・函館山の「裏側」にある絶景の海岸。
GLAYのTERUさんが思い出の場所として紹介したスポットでもある。
天気のいい日には、正面に沈む美しい夕日が見られる。
「函館でとびきりの夕日を見たいならここ」と、地元通の人が絶賛する穴澗海岸。
函館山のロープウェイがあるほうの裏側、西側の崖の下あたりの岩場で、
目の前に広がる海を見ていると、時間のたつのを忘れそうになります。
気持ちよく飛んでいくカモメ、鼻をくすぐる潮の香り、波の音、行き交う船......。
天気のいい日には、海と対岸の山と空を赤く染めながら沈む夕日が見られ、運がいいとイルカの群れが横切ることもあるそうです。
知る人ぞ知る場所だったこの地ですが、函館出身のGLAYのTERUさんが生まれ育った場所で、
「一番大事な、癒される場所」と紹介したことから、足を運ぶ人も増えました。
ここに来る途中の外人墓地の一角には、GLAYのミュージックビデオにも登場する「カフェテリア モーリエ」があり、
このあたりはGLAYファンの聖地と言われています・・》
このように『函館市公式観光情報』に記載されていたので、私は魅せられて家内を誘い、訪れた。
私の現役時代のサラリーマンの時代は、音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めていた。
音楽を制作する部門でなく、管理畑で情報、経理、営業などの部署であったが、
それなりに音楽を聴く機会が多かった。
確か1994年(平成6年)の春過ぎ、私が経理畑に所属していた頃、
ロビーの掲示板に数多くのポスターが掲載されていたが、
この中のひとつが、無念ながら私には解からなかったのである。
女性のような若き男で長髪の4人が写しだされていたポスターであった。
『GLAY』と明示されていたが、私の心からは、ほど遠い存在であった。
その後、私は営業本部の片隅に異動した後、
GLAY(グレイ)を意識したのは、3枚目のアルバム『BELOVED』であり、
確か1996年(平成8年)の11月だったと思うが、
普遍的であるが感覚として私の好みの詞であり、そしてサウンドも抵抗なく溶け込めていった・・。
私が50代の前半の時であった。
その後、シングル盤の『口唇』の後に、
翌年の1997年(平成9年)の秋、べスト盤のアルバム『REVIEW』発売され、
この頃の業界として空前の500万枚を超えた売り上げとなり、私は最も勢いのあるGLAYに、
秘かに私が予測した以上に、ただ驚き、ため息をさせられたりした。
私はこの前後に『BELOVED』、『HOWEVER』、『ずっと2人で・・』、『軌跡の果て』を盛んに聴いたりした。
そして、NHKの『紅白歌合戦』に初出場され、函館に馴染みのある歌手・北島三郎さんに再紹介され、
ボーカルのTERUが、『HOWEVER』を唄いあげていた。
この年は最もCD、ビデオ等でセールスに貢献したアーティストに日本レコード協会の主催で、
翌年の1998年(平成10年)の1月に於いて、
第12回『日本ゴールドディスク大賞』のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
こうした実績を残されたので、私は年賀状を受け取った中のひとつに、
ある営業所の所長から、昨年はGLAYの年でした、と書かれていた。
その後、1998(平成10)年の4月にシングル盤の『SOUE LOVE』、『誘惑』同時発売され、
相変わらずミリオン・セラーが続き、
確か7月だったと思うが、『pure soul』のアルバムを270万枚を出荷した後、
やがて私はGLAYから離れた・・。
この当時の私は、X JAPANの数多くの曲に、遅ればせながら魅せられて、
無我夢中に熱中していたからである。
そしてこの当時の業界全体の売上げピークは1998年(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。
そして激動の1998年(平成10年)の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
その後、1999年(平成11年)の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあったが、私は物流情報会社に出向となった。
この中のひとつの職場は、音楽のCD、DVDなど商品を管理する商品センターであり、
CD、DVD販売店からの日々の受注により、出荷したり、或いは返品を受けたり、
製造会社より入荷したりする処であった。
もとより音楽商品は、それぞれ一枚一枚が激変し、多品種であり、曜日、季節の変動も加わり、
現場は多忙であった。
私はこうした商品センターに、センター長はじめ正社員4名と共に、
男性の20代の契約社員10名、パートの女性120名前後の中で、奮闘した。
しかし最初の頃は、30年近く本社に勤めていた私は、出向の身となった直後は、
まぎれなく都落ちで、失墜感が心身にあった。
この商品センターで大きな取り扱いの最初のCDは、
1999年(平成11年)2月3日発売のひとつGLAYの『Winter、again』であり、
確か数ヶ月で177万枚を出荷した。
このCDシングル盤を最後に、GLAYは私の勤めている社から契約が切れ、他社に移籍した。
そして私は商品センターのあるフロアーにある『pure soul』のアルバムの
大量な在庫を微苦笑しながら見たりした。
このことは前作のべスト盤のアルバム『REVIEW』が空前に売れて、
570万枚を超えていたので、『pure soul』のアルバムを大量にプレスした結果であった。
しかしながら、この『pure soul』のアルバム時代でも、270万枚を超えていたので、
会社の業績を影響させるビックなGLAYであったことは事実であった。
この年、5月5日ら放映された『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』
と題されたドキメンタリーの番組がNHKから放映された。
この番組はGLAYと命名したロックバンドの結成時の状況、5年後のメジャー・デビューするまでの苦節、
そしてブレイクするまでの実態、その後の4大ドームのライブ・コンサートを成功するまで、
結成から頂点に立つまでの10年間の軌跡を描いたドキメンタリーの良質作品である。
私は、この映像を幾たびか視聴するたびに、GLAYに熱中した曲と時代、
そして熱気帯びた観衆のシーンを想いだし、愛惜を重ねたりしている・・。
そして、思いだすように私はときおり、
保有しているメジャー・デビュー作品からアルバム『pure soul』までを取り出して、
聴いたり、手元の3本ばかりのビデオテープも視聴したりしている。
このようなGLAYに対しての私のささやかな想いで秘めている。
そして家内を誘い、滞在している観光ホテルの湯の川温泉より、
市電の路面電車に乗車して、函館どつく前で下車した後、雪道の坂道を上がりながら外人墓地を眺めたり、
海沿いの景観を眺めたりした・・。
そして20分ぐらい歩き穴澗海岸の近くで、閉鎖の看板を見かけて、
やむなく戻ったりした。
やがて外人墓地の一角には、GLAYのTERUさんが生まれ育った場所で、
何かと信愛している癒される場所にある「カフェテリア モーリエ」に私たち夫婦は立ち寄ったりした。
そして私たち夫婦は、店内からの眺められる景観も良く、
店内も好感し、たまたまお客さんは私たちだけであったので、
店のスタッフの若き男性と談笑したり、昼食をしたりした。
こうした談笑の中で、音楽のGLAYの話しをしたり、あの当時の時代を駆け抜けた熱気あるGLAYの情況を
私が知る限り若き男性のスタッフに私は話したりした。
そして若き男性のスタッフも、やはりGLAYに心酔し、今やバンドを結成していますので、
聴いて下さい、と若きバンドの曲が収録されたCDを私は頂いたりした。
やがて私たち夫婦は、この「カフェテリア モーリエ」に別れを告げながら、
雪道を歩きながら、音楽業界はCD販売は減少しネットが加速され、
ビックなアーティストでもCD収入とネット収入を合算しても激少している・・。
まして今後、プロを目指すアーティストは、烈風下となっている。
このような純粋にCD販売で各社が熾烈な競争できた1998(平成10)年の頃まで、
私は愛惜したり、GLAYが躍動し、熱気のあった時代を思い重ねたりした。
そして無力な私は、彼らGLAYがメジャーデビーするまで、
函館の地でバンドを結成した頃の叙景は、市の中心街にある八幡坂からの情景が相応しい、
と私は家内を誘い歩き廻ったりした。
そして協会のある地、その後に赤レンカのある地をひたすら歩き廻り、
やがて滞在している観光ホテルに帰館した。
《つづく》
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