夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『おひとりさま』の特別演習、ぐうだらな69歳の私が、9日ばかり過ぎる中で・・。

2014-06-03 10:06:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であるが、
家内は過ぎし5月25日より独り住まいとなっている家内の母宅に10泊11日で行っている。

このような理由は、5月29日に於いて、
『ときには『おひとりさま』の生活、愚図の私は奮闘しても、あえなく敗退・・。』
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/6eb5ed9700de6fd869aabf4e64b7dd97
と題して投稿している。

今回も初夏に備えて、家内は家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の生活となり、のんびりと気ままな独り住まいをしている。
               
平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と何と社交辞令を頂いている私たちでも、
いずれのどちらかは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
今回たまたま『おひとりさま』の生活となった私は、特別演習かしら、と思ったりしている。
          

平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、殆ど毎日のように買物も歩いて行ったり、
その後は遊歩道、公園などをひたすら歩き廻ったりしている。

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、4年前の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行、そして友人や会社関係の懇親会以外は、
5日に一度ぐらいは自宅で呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と私は現役サラリーマンの50代の初めの頃から確信を深めてきた。
          

こうした中で私が平素何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
         
或いはいつの日にか身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化する中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。

やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。
そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

このように70代か80代のいつの日にか末期となると思われるが、
こうした私の念願は、果たして・・どのようになるか、今の所は漠然としている。

そして家内より先にあの世に行くと思っている私は、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で困窮しないように程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。
          
            
しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだねられているし、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
一年に何回かは、家内に先立だれ『独りぼっち』になってしまうことを考えたりしている。

私は家内と日頃から、子供がいない一代限りの為か、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行うと思われるが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりしている。
                                   
今回、たまたま『おひとりさま』となっている中、きまぐれに食事、掃除、洗濯をしてきたが、
何かと簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素の日常生活から落第生だ、と苦笑したりしている。

『おひとりさま』についての実態として、定年後の年金生活の中で、書物としては、
上野千鶴子(うえの・ちずこ)著作の『男おひとりさま道』で概要を学び、
愛妻を亡くされた倉嶋 厚(くらしま・あつし)著作の『やまない雨はない』、
徳岡孝夫(とくおか・たかお)著作の『妻の肖像』、
垣添忠生(かきぞえ・ただお)著作の『妻を看取る日』、
川本三郎(かわもと・さぶろう)著作の『いまも、君を想う』、
新藤兼人(しんどう・かねと)著作の『愛妻記』、
それぞれの各氏の愛妻の終末の病状、そして告別の死、その後の『おひとりさま』の生活状況を多々教示されてきた。

或いは私は、定年後まもなくして『ブログ』の世界を知り、
私もブログのサイトを開き、身過ぎ世過ぎの年金生活の中で、感じてきたことや思索していることを
あふれる思いを真摯に、ときには楽しく投稿文を重ねてきた。

そして数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けてきた・・。
               
こうした中で、『おひとりさま』の男性、女性の投稿文を精読する時がある。

そして私が感じるには、何かと残された男性は弱く、女性は強い、と私は確信を深めたりしている。
          

多くの男性は、一家の主(あるじ)として、家計の収入に長らく責務を果たしながら奮戦し、
妻は料理、洗濯、掃除はもとより、育児、やがて子供の学業などの支援など、
あらゆる面の後方支援となり、家庭の専守防衛長官を果たしてきた人が多い。

そして定年退職後、男性は単身赴任の経験のない多くの人は、
日常の肝要な買物、料理、洗濯、掃除などに関して、未経験の分野で戸惑う方が多く、
妻に何かと頼る状況が多い、と知人からも聞いたりしている。

こうした高齢者65歳以上の男性が、思いもかけずに愛妻に死去された後、
『おひとりさま』の生活は・・何かと楽観視のぐうだらな私でも、考えさせられるのである。
             
その上、妻との苦楽の過ぎ去り日々の出来事などはもとより、
或いは青年期から何人かの交際してきた女性たちで、やむなく結婚に至らず別れた人に、
いまどうしているのかしら、ときおり振り返ったりする男性も多い、と私は学んだりしてきた。

何かしら女性の多くは、くよくよと苦悶した後、その後は現在の状況に精進し、
多くの方が生き生きと生活をしている、と学んだりしてきた。
          

こうして『おひとりさま』の男性、女性を考察させて頂くと、女の人は強いよねぇ、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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