私は1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
東京オリンピックが開催されて1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退し、
ある民間会社に何とか中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であった。
職場で共にした多くは、新卒の団塊の世代であり、妹のふたり、そして家内もこの世代の人である。
そして私たちの先輩たちは、1960年(昭和35年)の前後から、日本の高度成長と共に、
猛烈に社内外で奮戦して、一家の収入の責務を負っていた。
そして多くの妻は専業主婦となり、子供の育児などを含めて、家庭内の専守防衛に徹して、
夫の後方支援を果たしてきた。
このような先輩たちを学びながら、私達の世代、そして団塊の世代も邁進した・・。
敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、
誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。
私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の主要国の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を
努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、やがて団塊の世代も奮闘してきた。
こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。
そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。
その上、経済地域の大都市と地方の格差はあるが、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
こうした中で1960年(昭和35年)の頃から、日本の高度成長と共に、
一家の主(あるじ)が懸命に働ければ、年収は確実に上昇し、
専守防衛の専業主婦に収入を渡すことができ、そして共に喜びが共有てきた時代であった。
何よりも明日に希望を託すことの出来た時代であった・・。
こうした中で、ささやかながら電話を家に、そして白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機など、
その後は自動車、クーラー、カラーテレビなどの耐久商品を少しつづ購入してきた。
そして住宅を一生の高い買物と思いながら、ローン返済に奮闘したり、
子供の教育にも自分たちの夫婦より、少しでも高いレベルと思いながら、捻出して、
家族それぞれが悦びを共に享受できた時代であった。
やがて1989年(平成元年)11月初旬に東ドイツが市民に寄る『ベルリンの壁』が崩壊した後、
やがて米ソの冷戦構造が終結され、
世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済そして社会が一変した・・。
世界は社会共産経済も消滅し、世界の主要国は自由経済となり、
日本は東ヨーロッバ、アジアの諸国などの経済競争力に巻き込まれて、経済は低下した。
こうした中で、日本に於いては、1991年(平成3年)にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社の多くは自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。
そして民間会社の多くは、社員に家族を養う分の給与を支払う余裕もなりなり、
やがて『昭和妻』と称せられた専業主婦の家庭も激減し、
数多くの家庭も共稼ぎ時代となったのは、まぎれなく20年近い実態となっている・・。
私は中小業の民間会社に勤めた身であったので、
まともに大波を受けたりし、多くの先輩、同僚たちと別れ、
そして残された私たちは困苦の時期を過ごした体験もある。
この間、数多くの民間会社のサラリーマンはもとより、多くの国民が困惑した時期を送られた、
と私は確信を深めたりした。
そして周知の通り、失われた20年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、安住できない時代となってきた・・。
こうした過酷の中で働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、
このように熾烈な状況の中で奮戦している。
このように無力な年金生活の私は、時代に翻弄され、明日に希望を託せない閉塞の現世に、
ときおり思い馳せたりすると、涙を浮かべたりする時もある。
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東京オリンピックが開催されて1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退し、
ある民間会社に何とか中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であった。
職場で共にした多くは、新卒の団塊の世代であり、妹のふたり、そして家内もこの世代の人である。
そして私たちの先輩たちは、1960年(昭和35年)の前後から、日本の高度成長と共に、
猛烈に社内外で奮戦して、一家の収入の責務を負っていた。
そして多くの妻は専業主婦となり、子供の育児などを含めて、家庭内の専守防衛に徹して、
夫の後方支援を果たしてきた。
このような先輩たちを学びながら、私達の世代、そして団塊の世代も邁進した・・。
敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、
誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。
私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の主要国の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を
努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、やがて団塊の世代も奮闘してきた。
こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。
そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。
その上、経済地域の大都市と地方の格差はあるが、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
こうした中で1960年(昭和35年)の頃から、日本の高度成長と共に、
一家の主(あるじ)が懸命に働ければ、年収は確実に上昇し、
専守防衛の専業主婦に収入を渡すことができ、そして共に喜びが共有てきた時代であった。
何よりも明日に希望を託すことの出来た時代であった・・。
こうした中で、ささやかながら電話を家に、そして白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機など、
その後は自動車、クーラー、カラーテレビなどの耐久商品を少しつづ購入してきた。
そして住宅を一生の高い買物と思いながら、ローン返済に奮闘したり、
子供の教育にも自分たちの夫婦より、少しでも高いレベルと思いながら、捻出して、
家族それぞれが悦びを共に享受できた時代であった。
やがて1989年(平成元年)11月初旬に東ドイツが市民に寄る『ベルリンの壁』が崩壊した後、
やがて米ソの冷戦構造が終結され、
世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済そして社会が一変した・・。
世界は社会共産経済も消滅し、世界の主要国は自由経済となり、
日本は東ヨーロッバ、アジアの諸国などの経済競争力に巻き込まれて、経済は低下した。
こうした中で、日本に於いては、1991年(平成3年)にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社の多くは自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。
そして民間会社の多くは、社員に家族を養う分の給与を支払う余裕もなりなり、
やがて『昭和妻』と称せられた専業主婦の家庭も激減し、
数多くの家庭も共稼ぎ時代となったのは、まぎれなく20年近い実態となっている・・。
私は中小業の民間会社に勤めた身であったので、
まともに大波を受けたりし、多くの先輩、同僚たちと別れ、
そして残された私たちは困苦の時期を過ごした体験もある。
この間、数多くの民間会社のサラリーマンはもとより、多くの国民が困惑した時期を送られた、
と私は確信を深めたりした。
そして周知の通り、失われた20年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、安住できない時代となってきた・・。
こうした過酷の中で働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、
このように熾烈な状況の中で奮戦している。
このように無力な年金生活の私は、時代に翻弄され、明日に希望を託せない閉塞の現世に、
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