私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の67歳の身であるが、
今朝ぼんやりと、我家の台所の壁際に掲げている風物詩に富んだカレンダーを見ていると、
何故かしら1月15日は『苺(イチゴ)の日』とイチゴの絵も描かれて、可愛らしく表示されていた。
私はイチゴの生産か販売に携(たずさ)わる方たちが、
イチゴの消費拡大を目的として、この日はたまたま15日であり、
【一五(いちご)】の語呂(ごろ)あわせ、健気(けなげ)に制定した、
と何かの本で読んだことがあった。
そして私は、イチゴかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
つたない私でも少しばかり思いがあり、ささやかな想いも秘めているので綴る。
私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
自主的に日常の買い物を担当しているので、
もとよりスーパーの生鮮野菜コーナー、果物コーナーなどを見たりしている。
この時節、イチゴの赤く成熟した大粒が並んでいる。
家内は好きな果物のひとつであるので、買い求めたりしている。
1951(昭和26)年の頃、小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で、小作人だった人たちのご協力を得ながら、程々広い田畑を耕していた。
父の妹のひとりは20歳で未婚だったので、私はこの叔母に何かと懐(なつ)いたりしていた。
この叔母は陽当たりの良い畑の一角で、草花を植えたり、イチゴなどの果物を植え込んでいた。
草花は仏様、お墓の墓前に供えたり、或いは室内の花瓶に生けたりしていた。
イチゴは5月頃になると、白い花をつけた後、結実し、初夏の頃に赤み帯びて成熟する。
私は幼年期であり、イチゴを見つめながら、
『まだ駄目・・!?』
と私は叔母に懇願するように言ったりした。
『まだ白さがあるでしょう・・もう少し・・待ってからねぇ・・』
と叔母は言いながら、2坪ぐらいの広さのイチゴ畑の中で、
少し赤く色づい実を捜して、ひとつぶを私の口に入れてくれた。
私は口の中で噛み砕いているうちに、甘み拡がってきた・・。
1975(昭和50)年、家内と交際をはじめ、婚約した後、1月の下旬だったと思うが、
東京駅で待ち合わせ、新幹線の『こだま』で清水駅まで利用し、
日本平付近の丘陵のイチゴ園に行った。
陽当たりの良い丘陵の中、ビニールハウスの中で養育されていた。
入り口でカップに入れたミルクを頂き、ハウス内のイチゴを捥(も)で食べる方法であったが、
途中で家内に私のミルクを手渡して、私は外に出た。
ハウスの入り口から少し離れた所で、
私は煙草を喫いながら海上の光る浪間を観たりしていたが、ときたま微風を受けると寒さが感じられた。
そして私は3粒を頂いたが、初夏の果物がどうして・・と思ったりした。
1960(昭和35)年の高校生になると、季節を問わずショート・ケーキの上にイチゴが載せられたり、
日本の各地でビニールハウスの情景が見られたりした。
私は民間会社に中途入社した1970(昭和45)年を過ぎる頃、
会社の部署旅行で2月に旅先で、イチゴ園に寄ったりした。
このように私は露地栽培の初夏、実がまばらな小粒で、淡い甘さが幼年期の想いでのためか、
昨今のイチゴには、殆ど一年の大半にイチゴを見かけたりすると、
季節感がなくなった、と戸惑いを覚えたりしている。
そして、私は日本酒の辛口、ビールなどのお酒大好きな呑兵衛の男であるので、
イチゴは女性、そして女の子、男の子らの婦女子の果物のひとつであると確信し、30数年過ぎている。
家内がこの時節も愛食しているが、
私は1年に2粒ぐらいお付き合いしている程度である。
このようなイチゴに、ささやかな思いがあるので、
昨今は、コンビニなどでも、イチゴのスイーツのおしゃれな食べ物を見かけたりし、
高齢者の私には無縁かしら、と微苦笑したりしている。
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今朝ぼんやりと、我家の台所の壁際に掲げている風物詩に富んだカレンダーを見ていると、
何故かしら1月15日は『苺(イチゴ)の日』とイチゴの絵も描かれて、可愛らしく表示されていた。
私はイチゴの生産か販売に携(たずさ)わる方たちが、
イチゴの消費拡大を目的として、この日はたまたま15日であり、
【一五(いちご)】の語呂(ごろ)あわせ、健気(けなげ)に制定した、
と何かの本で読んだことがあった。
そして私は、イチゴかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
つたない私でも少しばかり思いがあり、ささやかな想いも秘めているので綴る。
私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
自主的に日常の買い物を担当しているので、
もとよりスーパーの生鮮野菜コーナー、果物コーナーなどを見たりしている。
この時節、イチゴの赤く成熟した大粒が並んでいる。
家内は好きな果物のひとつであるので、買い求めたりしている。
1951(昭和26)年の頃、小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で、小作人だった人たちのご協力を得ながら、程々広い田畑を耕していた。
父の妹のひとりは20歳で未婚だったので、私はこの叔母に何かと懐(なつ)いたりしていた。
この叔母は陽当たりの良い畑の一角で、草花を植えたり、イチゴなどの果物を植え込んでいた。
草花は仏様、お墓の墓前に供えたり、或いは室内の花瓶に生けたりしていた。
イチゴは5月頃になると、白い花をつけた後、結実し、初夏の頃に赤み帯びて成熟する。
私は幼年期であり、イチゴを見つめながら、
『まだ駄目・・!?』
と私は叔母に懇願するように言ったりした。
『まだ白さがあるでしょう・・もう少し・・待ってからねぇ・・』
と叔母は言いながら、2坪ぐらいの広さのイチゴ畑の中で、
少し赤く色づい実を捜して、ひとつぶを私の口に入れてくれた。
私は口の中で噛み砕いているうちに、甘み拡がってきた・・。
1975(昭和50)年、家内と交際をはじめ、婚約した後、1月の下旬だったと思うが、
東京駅で待ち合わせ、新幹線の『こだま』で清水駅まで利用し、
日本平付近の丘陵のイチゴ園に行った。
陽当たりの良い丘陵の中、ビニールハウスの中で養育されていた。
入り口でカップに入れたミルクを頂き、ハウス内のイチゴを捥(も)で食べる方法であったが、
途中で家内に私のミルクを手渡して、私は外に出た。
ハウスの入り口から少し離れた所で、
私は煙草を喫いながら海上の光る浪間を観たりしていたが、ときたま微風を受けると寒さが感じられた。
そして私は3粒を頂いたが、初夏の果物がどうして・・と思ったりした。
1960(昭和35)年の高校生になると、季節を問わずショート・ケーキの上にイチゴが載せられたり、
日本の各地でビニールハウスの情景が見られたりした。
私は民間会社に中途入社した1970(昭和45)年を過ぎる頃、
会社の部署旅行で2月に旅先で、イチゴ園に寄ったりした。
このように私は露地栽培の初夏、実がまばらな小粒で、淡い甘さが幼年期の想いでのためか、
昨今のイチゴには、殆ど一年の大半にイチゴを見かけたりすると、
季節感がなくなった、と戸惑いを覚えたりしている。
そして、私は日本酒の辛口、ビールなどのお酒大好きな呑兵衛の男であるので、
イチゴは女性、そして女の子、男の子らの婦女子の果物のひとつであると確信し、30数年過ぎている。
家内がこの時節も愛食しているが、
私は1年に2粒ぐらいお付き合いしている程度である。
このようなイチゴに、ささやかな思いがあるので、
昨今は、コンビニなどでも、イチゴのスイーツのおしゃれな食べ物を見かけたりし、
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