序 章
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、思わず微笑んだのである。
読売新聞の週間として、『Youmiuri Entertanment News』と特集の1ページ記事があるが、
《 円熟のステージが、
いよいよ幕を開ける。》
と大きな文字が明記されて、この下段に、
《 中島みゆき「夜会」VOL.16 ~夜物語~ 本家・今晩屋 》
と表示されていた。
私は中島みゆき女史のファンのひとりなので、取材と文を綴られた藤井徹貫氏の記事を精読した。
無断であるが、転記させて頂く。
《・・
夜会。その試みは、1989年に始まった。
コンセプトは言葉の実験劇場。
コンサートでも、演劇でも、ミージュカルでもない舞台。
あれから20年。
それは試みの域を抜け、円熟へ。
音楽劇のようでも、オペラのようでも、シアトリカルなコンサートのようでもある。
今回で16回目となるが、
常に中島みゆき自身が構成・演出・作詞作曲・主演を務める。
「でも、いまだに演技は素人ですから、
演出の中島が主演の中島に言っております、余計な芝居をするなと(笑)。
だから、今回の台詞はすべて七五調にしました。
そうすると、台詞をしゃべるのではなく、詠うことができるから」
今年は、昨年の再演。
森鴎外の「山椒大夫」に端を発する物語。
つまり、安寿と厨子王、その悲しき姉弟の物語が原作。
「忘れるんです、私。
千秋楽が終わると、歌詞もすべて、きれいさっぱり。
だから、再演が決まり、台本や歌詞を読み直すと、
ここはもっとわかりやすいほうがいいなとか、客観的に見られます。
で、中島は今ここで原作に対して何が言いたいのかってところを、
前回より明確にお見せできる内容となっています。
逆に、初演のときは、わかりやすさを考え、
極力一番だけを歌うようにしていた歌詞も、
せっかくの再演なので、二番も三番も歌う場面が出てくると思います」
それが『本家・今晩屋』。
昨年は『元祖・今晩屋』。
本家と元祖の差を味にたとえるなら、
口に含んだ瞬間の印象と飲み込んでからの余韻の違いだろうか。
いや、百聞は一見にしかず。観ないことには・・。
「ただ、何年やっても、何回やっても、
初日が迫ると、海外逃亡したくなりますけれど(笑)」
その『今晩屋』の劇中歌を含む、ニューアルバム『DRAMA!』11月18日発売。
「突き詰めると、自分はシンガーソングライターですから、
曲を書くときはいつも、いずれは己で歌うことを前提にしています。
場面や映像の助けを借りず、ステージの上に一人立って歌えるもの以外は書けませんね。
アルバムでも、舞台や物語から独立した一曲としても聞いてもらえるように歌っています」
(略)
・・》
注)記事の原文をあえて改行を多くした。
私はこの後、今回の「夜会」VOL.16 ~夜物語~ 本家・今晩屋に伴う、
中島みゆき女史のメッセージも深く精読した。
第一章
誰しも本、映画、音楽等で、ふとしたきっかけで、その作者にのめり込むことがあると思う。
私も音楽に於いて、ひとりのアーティストの出会いもそのような形であった。
私はあるレコード会社に勤め、この当時は情報畑に所属し、
平成元年の初め、昭和天皇が崩御された後、昭和から平成と年号の変換、
そして四月から消費税の対応で睡眠時間を削りながら奮闘していた。
1月のある日曜日、昼過ぎまで寝過してしまい、パジャマ姿でぐったりしていた。
日曜日の夕方、疲れきった私は、パジャマ姿で家内が買物に行くのを見送った。
そして足早に過ぎていく、夕陽を見ていた・・。
お茶を淹れた後、カセット・テープをラジカセに何気なしかけた。
そして、何曲目から、
人の尊厳を問うかのように、流れ聴こえてきた・・。
♪エレーン
生きていてもいいですかと 誰も問いたい
エレーン
その答を誰もが知っているから 誰も問えない
【『エレーン』 作詞、作曲・中島みゆき 】
私は聴きなが感極まって、目頭が熱くなり、涙があふれ出たのである・・。
このカセットテープは、私の勤務する会社から発売され、
試聴用として頂いたのを、初めて聴いたのであった。
倉本聰(くらもと・そう)・監督・脚本の『時計』オリジナル・サウンドトラックである。
この映画に使用された音楽は、
金子由香利の『時は過ぎてゆく』、
五輪真弓の『恋人よ』、
中島みゆきの『エレーン』、
浜田麻里の『ハート・ライン』、
高橋真梨子の『モノローグの九月』、
北原ミレイの『石狩挽歌』、
森昌子の『越冬つばめ』
等であった。
このように各レコード会社の所属する有数な歌手を使用したので、
発売先が問題があったが、テーマ曲が金子由香利さんであり、私の勤務先の会社で決まった、
と上司から聞いている。
私は初めて中島みゆきさんを心に留めたのは、この曲からである。
中島みゆきさんは他社に所属していたが、
勤務先の関係より、中島みゆきさんの名と曲ぐらいは、制作に直接に関係のない情報畑でも、
私の務め先でアイドル歌手用に、何曲か作詞・作曲をして頂き、ヒットした中には、
♪記念にください ボタンをひとつ
青い空に捨てます
【『春なのに』 作詞、作曲・中島みゆき 】
私からみれば、感性のあるシンガーソングライタのひとり程度だった・・。
そして『時代』、『わかれのうた』、『悪女』にしても、
当然知っていたが、何事もなく私の心は通りすぎて行ったのであったが、
心の中に溶け込んできたのは、この『エレーン』をきっかけとなった。
私は今でも、人生のめぐり合わせは改めて不思議な作用だ、と思ったりしていた。
私は脚本家の倉本聰氏の作品に初めて触れたのは、昭和50年1月過ぎであった。
脚本家橋本忍(はしもと・しのぶ)さんらの『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。
その中に、脚本家の倉本聰・作の東芝日曜劇場『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と印象が残った。
そして、この雑誌には、『テレビ事件簿』の特集があり、
倉本聰氏が『テレビドラマに思うこと』を寄稿していたので、深い心に残っていた人であった。
そして偶然に、
この『時計』が金子由香利さんの曲をテーマに選定した倉本聰氏のお陰で、
私は中島みゆきさんの歌を知り得たのである。
この後の私は、倉本聰氏のシナリオ、随筆・映画と、
そして中島みゆきさんの音楽に、熱中時代する時代が少なくとも平成5年まで続くのである・・。
第二章
多くの方が魅了されたアーティストに対し、
初期作品から聴いてみたいと思うように、私の場合も同様だった。
中島みゆきさんのデビューアルバムの『私の声が聴こえますか』から『回帰熱』までのアルバムは、
私はまたたくまに購入した。
そして、多岐にわたる分野を書き分ける才能の豊かさには、圧倒された。
今、思い出しても、百回以上聴いた曲は、
『アザミのララバイ』
『歌をあなたに』
『時代』
『冬を待つ季節』
『忘れるものならば』
『ホームにて』
『時はながれて』
『玲子』
『おまえの家』
『世情』
『根雪』
『小石のように』
『エレーン』
『異国』
『夜曲』
『肩に降る雨』
『HALF』
『白鳥の歌が聴こえる』
『クリスマスソングを唄うように』
『ローリング』
『黄砂に吹かれて』
『群集』
『儀式(セレモニー)』
随筆集も求めて精読したが、文体は軽く、随所とらえる感覚が鋭いところがある程度だったが、
意識的に、読みやすく工夫をしている、と解釈した。
放送は、わずかしか聴いていなかったが、随筆と同様と判断した。
そして、中島みゆきさんに関しての評論本も購入して読んだりした。
こうした結果として、中島みゆきさんの生命線は、やはり作詞・作曲、そして歌につきる、と深く思いながら、
コンサートを観る機会を待ち焦(こ)がれたのである。
第三章
コンサートまでの道のりは、遠かった・・。
この間、平成元年(1989)11月5日にアルバム『回帰熱』が発売された。
新譜商品は前日の夕方より、店頭に並べられるので、
退社後、勤務先に最も近い六本木のWAVEに駆けつけた。
残念ながら、休館日だったので、その後に渋谷の山野楽器に行ったのである。
そして新譜の発売日の特典として、購入者の一部の方に、と分厚い歌詞集を頂けたので、
私の心は少年のように舞い上がったのであった。
好感ある女性とデートした二十代の頃を思い浮かべ、
ひとりの中年の男を夢中にさせる魔力は、まぎれなく恋と同じだ、と感じた。
帰宅のなかば、心の中でスキップしているもう一人の自分に戸惑いながら、
家内の待つ自宅に急いだ。
このアルバムの中から、一枚の写真が出てきた。
アルバムのイメージを彷彿させるかのように、時代を見据えた《中島みゆき》が忽然と立ちすくんでいる、
ように感じた写真だった。
この後、定期券の革ケースにこの写真を入れて、大切に持ち歩いた。
ある日、イギリスから来日したシステムの最高責任者と打ち合わせが終わった後、
懇親会を兼ねて、寿司屋のカウンター席でこの写真を見せながら、
『マイ・ワイフ・・』
と私は平然と云ったのである・・。
もっとも後日、解ってしまい、大笑いだった。
この年の11月、業界の注目の中で、『夜会』が公演された。
公演場所は、渋谷の東急文化村のシスターコクーンに於いて、
音楽と演劇を融合した形で行なわれると発表されていたので、
業界の内外の各専門家の間にも、無視できないような空気につつまれていた。
前売りの予約は好調だと聞いたりしていた。
私は予約も取れず、キャンセル待ちをわずかな望みを託して、退社後、渋谷に行く。
文化村に近づくと、花屋から『歌姫』が流れて聴こえてきた。
♪握りこぶしの中にあるように見せた夢を
もう2年 もう10年 忘れすてるまで
【『歌姫』作詞、作曲・中島みゆき 】
路上では、高校生らしい女の子の三人が、『黄砂に吹かれて』を大きな声で歌っていた・・。
♪黄砂に吹かれて 聴こえる歌は
忘れたくて忘れた 失くしたくて失くした
【『黄砂に吹かれて』作詞、作曲・中島みゆき 】
この周囲の街は、中島みゆき、に染まっていた・・。
私はやはり『夜会』の人気は凄いと感じながら、
シスターコクーン等のキップ売り場の窓口で、
『この公演の最終日まで完売でして、キャンセル待ちをされても、
ダメだと思いますが・・』
と云われて、やはりね、と無念ながら公演場所を後にした。
そして、まもなく30ぐらい男と女の二人に囲まれた。
『兄さん、キップ欲しいだろう・・』
『いくら・・』
と私は、乾いた声で答えた。
私は倍額程度まで覚悟していたが、相手方は三倍を超す値段だった。
『こんな公演にしたら、安いよ。
考えている場合じゃねえょ・・
兄さんさぁ、うかうかしていると、公演が始まっちゃうよ・・』
と追い討ちをかけてきた。
私はあきらめた・・。
歩き始めると、背後から声がした。
『お買い得だょ!!』
振り向くと、若い二十代の男女のふたりが購入していた。
私は肩を落とし、『歌姫』の聴こえてくる街を抜け、渋谷の駅に向かった。
私は悔(くや)しさも隠し切れず、だけど中年は何かとお金がいるし・・家に帰って酒を呑もう、と思った。
第四章
翌年、平成2年はコンサートのキップを手に入れる方法を模索した。
雑誌『ぴあ』等で検討した結果、ファンクラブに入会した。
確か10月頃だった、と思う。
第2回の『夜会』を申し込んだ。
抽選の結果、念願のキップを手に入れた。
そして最近は、行いが良かった、と思い、ときおり独り微笑んだのである。
公演日は。平成2年11月29日の木曜日だった。
開場は7時15分、そして開演は8時だった。
会社の業務スケジュールは、出来る限り前倒した後、午後は半休とした。
私はせっかくの機会であるので、ゆったりとした気持ちで観賞致したく、3時過ぎに文化村に着いた。
蕎麦屋に入り、ざるそばを軽食代わりとした。
そして開場した後、建物の中の一角にレストランがあり、
ボンジレーヌーボのボスターが見えたので呑んだ。
これがワインの新酒か、と思いながら、フルーティな味であり、
ちょっと失望したが、心は高揚していたのである・・。
私はときたまワインを呑む時は、辛口で深い味の方が好きであったが、
昨年の惨めさを思い浮かべ、
やはり仕事と同様に、何事も事前準備だ、
とひとり幸せをかみ締めながら、もう一杯を注文したのである。
公演は、船のデッキから始まった・・。
ステージと客の距離が近くて、最初は戸惑ったが、演出全般は予想以上だった。
それぞれの一流の方達が繰り広げる展開は、官能性もある、と思った。
曲目は、
『二隻の舟』
『彼女によろしく』
『ミルク』
『流浪の歌』
『窓ガラス』
『うそつきは好きよ』
『元気ですか』
『クレンジング クリーム』
『月の赤ん坊』
『断崖~親愛なる者へ』
『孤独の肖像』
『強がりはよせヨ』
『北の国の習い』
『ショウ・タイム』
『Maybe』
『ふたりは』
個人的には、『ふたりは』は、相当に聴き込んだ名曲であり、
『Maybe』は、大好きな曲のひとつで、働く女性の応援歌・・
初めて聴いた時、そんな思いがしたのであった。
開演前に豪華なパンフレットを購入し、帰りに記念として、『夜会』の美麗なテレフォンカードを買い求めたりしたが、
やはり中島みゆきさんの情念は凄いと感銘を受けたので、
足取りは軽く、駅に向かったのであった。
第五章
第2回の『夜会』の観賞後、アルバムが発売されるたびに購入した。
今度のアルバムは・・この曲は・・と真摯に思考したり、模索したりした。
この中で最低限に於いて、百回以上聴き込んだ曲を羅列する。
平成元年から平成5年頃まで、45歳前後の中年男が、
中島みゆき女史に熱っぽく夢中になった時代であった。
定年退職後の今でも、ときたま聴いたりしている。
やはり『HALF』、『エレーン』は、私がひとり音楽ファンとして、
数多(あまた)の1万5千曲ばかり聴いて中でも、十本指に選定する名曲である。
そして、『回帰熱』のアルバムの後からは、百回以上聴き込んだ曲は、
『あした』
『ふたりは』
『with』
『おだやかな時代』
『Maybe』
『永久欠番』
『南三条』
『地上の星』
『ヘッドライト・テールライト』
このような思いで、私が熱中した時代は時代は終り、
平熱として、音楽のCDアルパムは発売された中で、2枚を除き保有している。
先程、音楽棚を見て、中島みゆき女史の一連のカセット、CDを眺めていたのであるが、
この中に、定年退職の数年前、音楽ソフトの販売店で、
VOL.10『夜会~『海嘯』~』(1998公演)の収録されたDVDを見かけ、
購入した作品もあった。
私はたった一回のVOL.2『夜会』を観た限りあるが、
熱愛していた20年前の頃に思いを馳せたりしたのである。
尚、私が中島みゆきさんの敬称として、女史と明示したのは、
このサイトで過日の7日に於いて、
【 『女史』という敬称の言葉は・・。】
と題してして投稿しているので、誤解のないよう再掲載をする。
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
シンガー・ソングライターの中島みゆきさんの歌に人生のなかばで、
たびたび救われたので、このサイトでときおり女史と敬称を使用していたのである。
一部のお方から、誤解されますから、おやめになった方がよろしいですわ、
とさりげなくコメントされたことがある。
私はそうかしらと思いながら、パソコンの横に置いている辞書を見たりしたのである。
愛用している久松潜一氏が監修された『新潮国語辞典 ~現代語・古語』(新潮社、発行・昭和40年11月)に於いては、
①昔、シナで、記録をつかさどった女官。
②昔、文書をつかさどった女官。
③知名の婦人・女流芸術家に対する敬称。
このように明記されていたのである。
この後、私は最新の辞書はと思いながら、ネットで調べたら、
【kotobank デジタル大辞泉】に於いては、
《昔、中国で、記録の事務を扱った女官の称から》
1 社会的地位や名声のある女性を敬意を込めていう語。また、その女性の名前に添えて敬意を表す語。
2 昔、文書の事務を扱った女官。
出典:小学館 監修:松村明
このように明示されたので私は微笑んだのである。
私はもとより女性の中で、特に私が深く感銘を受けた社会的地位や名声のある女性に対し、敬愛をこめて、
女史という敬称を使用している。
たとえば、中島みゆき氏では、何かしら固苦しく、他人行儀のようであるし、
中島みゆきさんでは、敬愛していても何かしらおかしく、
まして私より齢下のお方であるので、中島みゆきちゃん・・馴れ馴れしく失礼であるし、
中島みゆき、などと呼び捨てにするのは論外と思ってきたのである。
止む得ず、中島みゆき様と照れ隠しのように綴ったりする時ある。
このような思いで、中島みゆき女史、私の心からしてびつたりと確信したのである。
昨今の一部に於き、気性の勝った女性をからかい気味に言う時にも用いられる、
と何かの本で読んだことがあるが、
こうした解釈をされる方は、特に平成の初めの頃から社会が劣化した風潮の中で、
薄まった文化しか学んだことのない人である。
ときおり私は女史という敬称をしている人は、中島みゆき(なかじま・みゆき)女史の他に、
思い続けるままに明記すると、
作家の塩野七生(しおの・ななみ)女史、評論家の櫻井よし子(さくらい・よしこ)女史、
随筆家の呉善花(お・そんふぁ)女史・・私はこの世を去るまで敬愛する人である。
そして、ここ5年前頃から作家の対談の名手である阿川佐和子(あがわ・さわこ)さんも、
女史と敬称するか迷ったりしている。
・・】
このような敬愛しているからである。
エピローグ
中島みゆき女史のファンクラブに入会して間もない頃、
会員として特典として、抽選の結果、頂いたキー・ホルダーが気に入った。
《miss M》と朱色に書かれていて、程ほどの重さがあり、身に付けた。
この後、会社で台湾旅行に行った時、旅行バックにアクセントとして付けた。
帰路の台北で出国手続きが終わった後、このキー・ホルダーが無くなっていたのであった。
台湾の中島みゆき女史の熱烈なファンの方が盗ったのか、
或いは珍しいキー・ホルダーであったので、これとばかり盗ったかは、いまだ不明なのである。
a href="http://www.blogmura.com/">
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、思わず微笑んだのである。
読売新聞の週間として、『Youmiuri Entertanment News』と特集の1ページ記事があるが、
《 円熟のステージが、
いよいよ幕を開ける。》
と大きな文字が明記されて、この下段に、
《 中島みゆき「夜会」VOL.16 ~夜物語~ 本家・今晩屋 》
と表示されていた。
私は中島みゆき女史のファンのひとりなので、取材と文を綴られた藤井徹貫氏の記事を精読した。
無断であるが、転記させて頂く。
《・・
夜会。その試みは、1989年に始まった。
コンセプトは言葉の実験劇場。
コンサートでも、演劇でも、ミージュカルでもない舞台。
あれから20年。
それは試みの域を抜け、円熟へ。
音楽劇のようでも、オペラのようでも、シアトリカルなコンサートのようでもある。
今回で16回目となるが、
常に中島みゆき自身が構成・演出・作詞作曲・主演を務める。
「でも、いまだに演技は素人ですから、
演出の中島が主演の中島に言っております、余計な芝居をするなと(笑)。
だから、今回の台詞はすべて七五調にしました。
そうすると、台詞をしゃべるのではなく、詠うことができるから」
今年は、昨年の再演。
森鴎外の「山椒大夫」に端を発する物語。
つまり、安寿と厨子王、その悲しき姉弟の物語が原作。
「忘れるんです、私。
千秋楽が終わると、歌詞もすべて、きれいさっぱり。
だから、再演が決まり、台本や歌詞を読み直すと、
ここはもっとわかりやすいほうがいいなとか、客観的に見られます。
で、中島は今ここで原作に対して何が言いたいのかってところを、
前回より明確にお見せできる内容となっています。
逆に、初演のときは、わかりやすさを考え、
極力一番だけを歌うようにしていた歌詞も、
せっかくの再演なので、二番も三番も歌う場面が出てくると思います」
それが『本家・今晩屋』。
昨年は『元祖・今晩屋』。
本家と元祖の差を味にたとえるなら、
口に含んだ瞬間の印象と飲み込んでからの余韻の違いだろうか。
いや、百聞は一見にしかず。観ないことには・・。
「ただ、何年やっても、何回やっても、
初日が迫ると、海外逃亡したくなりますけれど(笑)」
その『今晩屋』の劇中歌を含む、ニューアルバム『DRAMA!』11月18日発売。
「突き詰めると、自分はシンガーソングライターですから、
曲を書くときはいつも、いずれは己で歌うことを前提にしています。
場面や映像の助けを借りず、ステージの上に一人立って歌えるもの以外は書けませんね。
アルバムでも、舞台や物語から独立した一曲としても聞いてもらえるように歌っています」
(略)
・・》
注)記事の原文をあえて改行を多くした。
私はこの後、今回の「夜会」VOL.16 ~夜物語~ 本家・今晩屋に伴う、
中島みゆき女史のメッセージも深く精読した。
第一章
誰しも本、映画、音楽等で、ふとしたきっかけで、その作者にのめり込むことがあると思う。
私も音楽に於いて、ひとりのアーティストの出会いもそのような形であった。
私はあるレコード会社に勤め、この当時は情報畑に所属し、
平成元年の初め、昭和天皇が崩御された後、昭和から平成と年号の変換、
そして四月から消費税の対応で睡眠時間を削りながら奮闘していた。
1月のある日曜日、昼過ぎまで寝過してしまい、パジャマ姿でぐったりしていた。
日曜日の夕方、疲れきった私は、パジャマ姿で家内が買物に行くのを見送った。
そして足早に過ぎていく、夕陽を見ていた・・。
お茶を淹れた後、カセット・テープをラジカセに何気なしかけた。
そして、何曲目から、
人の尊厳を問うかのように、流れ聴こえてきた・・。
♪エレーン
生きていてもいいですかと 誰も問いたい
エレーン
その答を誰もが知っているから 誰も問えない
【『エレーン』 作詞、作曲・中島みゆき 】
私は聴きなが感極まって、目頭が熱くなり、涙があふれ出たのである・・。
このカセットテープは、私の勤務する会社から発売され、
試聴用として頂いたのを、初めて聴いたのであった。
倉本聰(くらもと・そう)・監督・脚本の『時計』オリジナル・サウンドトラックである。
この映画に使用された音楽は、
金子由香利の『時は過ぎてゆく』、
五輪真弓の『恋人よ』、
中島みゆきの『エレーン』、
浜田麻里の『ハート・ライン』、
高橋真梨子の『モノローグの九月』、
北原ミレイの『石狩挽歌』、
森昌子の『越冬つばめ』
等であった。
このように各レコード会社の所属する有数な歌手を使用したので、
発売先が問題があったが、テーマ曲が金子由香利さんであり、私の勤務先の会社で決まった、
と上司から聞いている。
私は初めて中島みゆきさんを心に留めたのは、この曲からである。
中島みゆきさんは他社に所属していたが、
勤務先の関係より、中島みゆきさんの名と曲ぐらいは、制作に直接に関係のない情報畑でも、
私の務め先でアイドル歌手用に、何曲か作詞・作曲をして頂き、ヒットした中には、
♪記念にください ボタンをひとつ
青い空に捨てます
【『春なのに』 作詞、作曲・中島みゆき 】
私からみれば、感性のあるシンガーソングライタのひとり程度だった・・。
そして『時代』、『わかれのうた』、『悪女』にしても、
当然知っていたが、何事もなく私の心は通りすぎて行ったのであったが、
心の中に溶け込んできたのは、この『エレーン』をきっかけとなった。
私は今でも、人生のめぐり合わせは改めて不思議な作用だ、と思ったりしていた。
私は脚本家の倉本聰氏の作品に初めて触れたのは、昭和50年1月過ぎであった。
脚本家橋本忍(はしもと・しのぶ)さんらの『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。
その中に、脚本家の倉本聰・作の東芝日曜劇場『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と印象が残った。
そして、この雑誌には、『テレビ事件簿』の特集があり、
倉本聰氏が『テレビドラマに思うこと』を寄稿していたので、深い心に残っていた人であった。
そして偶然に、
この『時計』が金子由香利さんの曲をテーマに選定した倉本聰氏のお陰で、
私は中島みゆきさんの歌を知り得たのである。
この後の私は、倉本聰氏のシナリオ、随筆・映画と、
そして中島みゆきさんの音楽に、熱中時代する時代が少なくとも平成5年まで続くのである・・。
第二章
多くの方が魅了されたアーティストに対し、
初期作品から聴いてみたいと思うように、私の場合も同様だった。
中島みゆきさんのデビューアルバムの『私の声が聴こえますか』から『回帰熱』までのアルバムは、
私はまたたくまに購入した。
そして、多岐にわたる分野を書き分ける才能の豊かさには、圧倒された。
今、思い出しても、百回以上聴いた曲は、
『アザミのララバイ』
『歌をあなたに』
『時代』
『冬を待つ季節』
『忘れるものならば』
『ホームにて』
『時はながれて』
『玲子』
『おまえの家』
『世情』
『根雪』
『小石のように』
『エレーン』
『異国』
『夜曲』
『肩に降る雨』
『HALF』
『白鳥の歌が聴こえる』
『クリスマスソングを唄うように』
『ローリング』
『黄砂に吹かれて』
『群集』
『儀式(セレモニー)』
随筆集も求めて精読したが、文体は軽く、随所とらえる感覚が鋭いところがある程度だったが、
意識的に、読みやすく工夫をしている、と解釈した。
放送は、わずかしか聴いていなかったが、随筆と同様と判断した。
そして、中島みゆきさんに関しての評論本も購入して読んだりした。
こうした結果として、中島みゆきさんの生命線は、やはり作詞・作曲、そして歌につきる、と深く思いながら、
コンサートを観る機会を待ち焦(こ)がれたのである。
第三章
コンサートまでの道のりは、遠かった・・。
この間、平成元年(1989)11月5日にアルバム『回帰熱』が発売された。
新譜商品は前日の夕方より、店頭に並べられるので、
退社後、勤務先に最も近い六本木のWAVEに駆けつけた。
残念ながら、休館日だったので、その後に渋谷の山野楽器に行ったのである。
そして新譜の発売日の特典として、購入者の一部の方に、と分厚い歌詞集を頂けたので、
私の心は少年のように舞い上がったのであった。
好感ある女性とデートした二十代の頃を思い浮かべ、
ひとりの中年の男を夢中にさせる魔力は、まぎれなく恋と同じだ、と感じた。
帰宅のなかば、心の中でスキップしているもう一人の自分に戸惑いながら、
家内の待つ自宅に急いだ。
このアルバムの中から、一枚の写真が出てきた。
アルバムのイメージを彷彿させるかのように、時代を見据えた《中島みゆき》が忽然と立ちすくんでいる、
ように感じた写真だった。
この後、定期券の革ケースにこの写真を入れて、大切に持ち歩いた。
ある日、イギリスから来日したシステムの最高責任者と打ち合わせが終わった後、
懇親会を兼ねて、寿司屋のカウンター席でこの写真を見せながら、
『マイ・ワイフ・・』
と私は平然と云ったのである・・。
もっとも後日、解ってしまい、大笑いだった。
この年の11月、業界の注目の中で、『夜会』が公演された。
公演場所は、渋谷の東急文化村のシスターコクーンに於いて、
音楽と演劇を融合した形で行なわれると発表されていたので、
業界の内外の各専門家の間にも、無視できないような空気につつまれていた。
前売りの予約は好調だと聞いたりしていた。
私は予約も取れず、キャンセル待ちをわずかな望みを託して、退社後、渋谷に行く。
文化村に近づくと、花屋から『歌姫』が流れて聴こえてきた。
♪握りこぶしの中にあるように見せた夢を
もう2年 もう10年 忘れすてるまで
【『歌姫』作詞、作曲・中島みゆき 】
路上では、高校生らしい女の子の三人が、『黄砂に吹かれて』を大きな声で歌っていた・・。
♪黄砂に吹かれて 聴こえる歌は
忘れたくて忘れた 失くしたくて失くした
【『黄砂に吹かれて』作詞、作曲・中島みゆき 】
この周囲の街は、中島みゆき、に染まっていた・・。
私はやはり『夜会』の人気は凄いと感じながら、
シスターコクーン等のキップ売り場の窓口で、
『この公演の最終日まで完売でして、キャンセル待ちをされても、
ダメだと思いますが・・』
と云われて、やはりね、と無念ながら公演場所を後にした。
そして、まもなく30ぐらい男と女の二人に囲まれた。
『兄さん、キップ欲しいだろう・・』
『いくら・・』
と私は、乾いた声で答えた。
私は倍額程度まで覚悟していたが、相手方は三倍を超す値段だった。
『こんな公演にしたら、安いよ。
考えている場合じゃねえょ・・
兄さんさぁ、うかうかしていると、公演が始まっちゃうよ・・』
と追い討ちをかけてきた。
私はあきらめた・・。
歩き始めると、背後から声がした。
『お買い得だょ!!』
振り向くと、若い二十代の男女のふたりが購入していた。
私は肩を落とし、『歌姫』の聴こえてくる街を抜け、渋谷の駅に向かった。
私は悔(くや)しさも隠し切れず、だけど中年は何かとお金がいるし・・家に帰って酒を呑もう、と思った。
第四章
翌年、平成2年はコンサートのキップを手に入れる方法を模索した。
雑誌『ぴあ』等で検討した結果、ファンクラブに入会した。
確か10月頃だった、と思う。
第2回の『夜会』を申し込んだ。
抽選の結果、念願のキップを手に入れた。
そして最近は、行いが良かった、と思い、ときおり独り微笑んだのである。
公演日は。平成2年11月29日の木曜日だった。
開場は7時15分、そして開演は8時だった。
会社の業務スケジュールは、出来る限り前倒した後、午後は半休とした。
私はせっかくの機会であるので、ゆったりとした気持ちで観賞致したく、3時過ぎに文化村に着いた。
蕎麦屋に入り、ざるそばを軽食代わりとした。
そして開場した後、建物の中の一角にレストランがあり、
ボンジレーヌーボのボスターが見えたので呑んだ。
これがワインの新酒か、と思いながら、フルーティな味であり、
ちょっと失望したが、心は高揚していたのである・・。
私はときたまワインを呑む時は、辛口で深い味の方が好きであったが、
昨年の惨めさを思い浮かべ、
やはり仕事と同様に、何事も事前準備だ、
とひとり幸せをかみ締めながら、もう一杯を注文したのである。
公演は、船のデッキから始まった・・。
ステージと客の距離が近くて、最初は戸惑ったが、演出全般は予想以上だった。
それぞれの一流の方達が繰り広げる展開は、官能性もある、と思った。
曲目は、
『二隻の舟』
『彼女によろしく』
『ミルク』
『流浪の歌』
『窓ガラス』
『うそつきは好きよ』
『元気ですか』
『クレンジング クリーム』
『月の赤ん坊』
『断崖~親愛なる者へ』
『孤独の肖像』
『強がりはよせヨ』
『北の国の習い』
『ショウ・タイム』
『Maybe』
『ふたりは』
個人的には、『ふたりは』は、相当に聴き込んだ名曲であり、
『Maybe』は、大好きな曲のひとつで、働く女性の応援歌・・
初めて聴いた時、そんな思いがしたのであった。
開演前に豪華なパンフレットを購入し、帰りに記念として、『夜会』の美麗なテレフォンカードを買い求めたりしたが、
やはり中島みゆきさんの情念は凄いと感銘を受けたので、
足取りは軽く、駅に向かったのであった。
第五章
第2回の『夜会』の観賞後、アルバムが発売されるたびに購入した。
今度のアルバムは・・この曲は・・と真摯に思考したり、模索したりした。
この中で最低限に於いて、百回以上聴き込んだ曲を羅列する。
平成元年から平成5年頃まで、45歳前後の中年男が、
中島みゆき女史に熱っぽく夢中になった時代であった。
定年退職後の今でも、ときたま聴いたりしている。
やはり『HALF』、『エレーン』は、私がひとり音楽ファンとして、
数多(あまた)の1万5千曲ばかり聴いて中でも、十本指に選定する名曲である。
そして、『回帰熱』のアルバムの後からは、百回以上聴き込んだ曲は、
『あした』
『ふたりは』
『with』
『おだやかな時代』
『Maybe』
『永久欠番』
『南三条』
『地上の星』
『ヘッドライト・テールライト』
このような思いで、私が熱中した時代は時代は終り、
平熱として、音楽のCDアルパムは発売された中で、2枚を除き保有している。
先程、音楽棚を見て、中島みゆき女史の一連のカセット、CDを眺めていたのであるが、
この中に、定年退職の数年前、音楽ソフトの販売店で、
VOL.10『夜会~『海嘯』~』(1998公演)の収録されたDVDを見かけ、
購入した作品もあった。
私はたった一回のVOL.2『夜会』を観た限りあるが、
熱愛していた20年前の頃に思いを馳せたりしたのである。
尚、私が中島みゆきさんの敬称として、女史と明示したのは、
このサイトで過日の7日に於いて、
【 『女史』という敬称の言葉は・・。】
と題してして投稿しているので、誤解のないよう再掲載をする。
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
シンガー・ソングライターの中島みゆきさんの歌に人生のなかばで、
たびたび救われたので、このサイトでときおり女史と敬称を使用していたのである。
一部のお方から、誤解されますから、おやめになった方がよろしいですわ、
とさりげなくコメントされたことがある。
私はそうかしらと思いながら、パソコンの横に置いている辞書を見たりしたのである。
愛用している久松潜一氏が監修された『新潮国語辞典 ~現代語・古語』(新潮社、発行・昭和40年11月)に於いては、
①昔、シナで、記録をつかさどった女官。
②昔、文書をつかさどった女官。
③知名の婦人・女流芸術家に対する敬称。
このように明記されていたのである。
この後、私は最新の辞書はと思いながら、ネットで調べたら、
【kotobank デジタル大辞泉】に於いては、
《昔、中国で、記録の事務を扱った女官の称から》
1 社会的地位や名声のある女性を敬意を込めていう語。また、その女性の名前に添えて敬意を表す語。
2 昔、文書の事務を扱った女官。
出典:小学館 監修:松村明
このように明示されたので私は微笑んだのである。
私はもとより女性の中で、特に私が深く感銘を受けた社会的地位や名声のある女性に対し、敬愛をこめて、
女史という敬称を使用している。
たとえば、中島みゆき氏では、何かしら固苦しく、他人行儀のようであるし、
中島みゆきさんでは、敬愛していても何かしらおかしく、
まして私より齢下のお方であるので、中島みゆきちゃん・・馴れ馴れしく失礼であるし、
中島みゆき、などと呼び捨てにするのは論外と思ってきたのである。
止む得ず、中島みゆき様と照れ隠しのように綴ったりする時ある。
このような思いで、中島みゆき女史、私の心からしてびつたりと確信したのである。
昨今の一部に於き、気性の勝った女性をからかい気味に言う時にも用いられる、
と何かの本で読んだことがあるが、
こうした解釈をされる方は、特に平成の初めの頃から社会が劣化した風潮の中で、
薄まった文化しか学んだことのない人である。
ときおり私は女史という敬称をしている人は、中島みゆき(なかじま・みゆき)女史の他に、
思い続けるままに明記すると、
作家の塩野七生(しおの・ななみ)女史、評論家の櫻井よし子(さくらい・よしこ)女史、
随筆家の呉善花(お・そんふぁ)女史・・私はこの世を去るまで敬愛する人である。
そして、ここ5年前頃から作家の対談の名手である阿川佐和子(あがわ・さわこ)さんも、
女史と敬称するか迷ったりしている。
・・】
このような敬愛しているからである。
エピローグ
中島みゆき女史のファンクラブに入会して間もない頃、
会員として特典として、抽選の結果、頂いたキー・ホルダーが気に入った。
《miss M》と朱色に書かれていて、程ほどの重さがあり、身に付けた。
この後、会社で台湾旅行に行った時、旅行バックにアクセントとして付けた。
帰路の台北で出国手続きが終わった後、このキー・ホルダーが無くなっていたのであった。
台湾の中島みゆき女史の熱烈なファンの方が盗ったのか、
或いは珍しいキー・ホルダーであったので、これとばかり盗ったかは、いまだ不明なのである。
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