夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

中国の発展から、教示してくれること。  その①

2005-05-08 11:29:25 | 時事【政治・経済】等
私の机の引き出しから、一枚の新聞記事のあった。
一週間前の読売新聞で、特集・『地球を読む』で、
中国貪欲な資源消費、とタイトルが踊っていた。

ちょっと捨てられないなぁ、と思い改めて再読した。
中々具体的に経済・環境しいては国家の戦略も想像できるので、
私のコメントを含め、転記させて頂くことにする。


レスター・R・ブラウン・氏
  1934年、米国生まれ。農務省局長を径て、74年、ワールドウォッチ研究所の所長。
  2001年5月、米地球政策研究所・所長。


中国版の「アメリカン・ドリーム」は、世界にとって《悪夢》になるのだろうか。

いまや中国は、豊かさの象徴である「米国の夢」を急速に自分のものとしつつある。
すでに何百万もの中国人が、まるで米国人のように肉を食べ、
車に乗り、海外に旅行している。

その背景には、急速な所得の向上がある。
こうした米国型の消費者は、まだ13億の人口のごく一部である。
だが、地球上の資源に対する中国の食欲は、すでに目に見えて大きくなっている。


中国経済における食糧、エネルギー、工業部門に使われる五つの基本材料、
穀物と食肉、石炭と石油、そして鉄鋼の消費量は、石油だけを除き、
すでに米国を上回っている。

中国の一人当たり資源使用量は、いずれ現在の米国並みになるのだろうか。
また、それと深く関連するが、現在の中国人一人当たり年間所得5300ドルが、
3万8000ドルという2004年の米国の数字に並ぶまで、
何年かかるのだろうか。


《続く》
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天候・天災は、平等に・・?

2005-05-07 14:02:19 | 定年後の思い
東京の郊外は、昨夜から雨になり、夜半に強く降り、早朝は小降りとなった。
朝の十時過ぎに止み、昼過ぎに晴れ渡ってきた。

朝の七時のニュースでは、九州地方は雨が止み、雨の気流は北上している、とのこと。
今回の雨は、平等に日本列島を南から北に流れ、降った。

四月の中旬に、九州旅行をしていた時、関東地方で地震があった。

翌朝、バスの車内で、ガイドさんが、

『ここ九州は、昨年より台風が度々やってきて、地震あり、その上に大雨でした。
たまには関東地方で地震の一つや二つぐらい有っても・・』と言いました。

関東のお客ばっかりでした。

車内は、しばらくの間、静かな沈黙となりました《笑》

ガイドさんは、別府生まれ、育ちの二十三歳前後の悪気のない人でした。

三十秒ぐらい過ぎた頃、このガイドさん、
『ご免なさい。ちょっと言い過ぎました・・』と誤った。
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静かな雨・・♪

2005-05-06 17:01:36 | 定年後の思い
東京の郊外は、早朝よりどんよりとした曇り空だった。

散髪屋(理髪店)に行き、さっぱりした後、川沿いの遊歩道を歩く。
世間では昨日までで、ゴルーデン・ウィークの休暇も一段落したようで、
人気(ひとけ)が少なかった。

そのうち、雨が降ってきた・・。

家に帰り、庭先を見詰めていたら、樹木が雨を受けて、若葉の枝は重そう受け止めていた。
雨の中、静寂なひとときである。

♪静かな雨 並木の雨

と何気なしに唄った・・。

そばにいた家内が、
『カァーン!』と笑いながら言った。
『NHKの《のど自慢》だって、もう少し、唄わせるょ・・』と私は言った《笑》

♪あなたを待つ 胸に降る
 流れる唄 懐かし唄
 夢をささやく あのメロディー

『カァーン!』と家内は又言った。

♪いつの日にか また逢いみん
 溢れくるわ 涙

♪静かな雨 並木の雨
 痛む心に しのび泣く

私は最後まで唄った。


家内は人前で唄うのが駄目であるが、台所で鼻歌を唄っている時がある。

家内の父は、人前で唄うのが大好きな人だった。

私達の結婚前後の時、この父から、一曲いきましょう、と唄うのを半強制的させられた。

私はB型であるから、乗れば留まることがなかったので、この父から可愛がられた《笑》

家内の父がこのような人だったので、家内は昭和24年生まれであるが、
戦前の歌まで知っていた《笑》


私が唄った曲は、『小雨降る径』である。

金子由香利が『初めまして』のタイトルで、アルバムを昭和47年頃に発売した。

この頃の私は、シャンソンに熱中していたので、
レコードが擦り切れる位、聴き込んだひとつの曲であった。

これらの愛聴したレコードは、捨てることが出来ず、
レコード200枚が居間のはずれで、ひっそりとしている。
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湧き水の想いで・・♪

2005-05-05 14:22:47 | 幼年・少年時代の想いで
東京の郊外の私の住む周辺には、昭和30年頃まで湧き水があった。

祖父と父が農業をしていた頃、私の所にも湧き水があった。

あたり一面は祖父の田圃であったが、蓮を植えている近くにあった。
湧き水の周囲は、みそはぎを植えていた。
このみそはぎは、夏のお盆の頃になると、仏壇に備え、ピンクの花を咲かせていた。

私は子供心に、湧きでる水を不思議に思ったりしたが、何となく好きになった。


小学5年頃,近くの湧き水が出て、池があったが、
ここに不思議な老人が良く池を眺めていた。
『あのお爺さん、いつも難しそうな顔してるよ・・』
と私は、友に言ったりした。

後年、このお爺さんは、高名な小説家だった。


私が結婚した後、家内と湧き水を観に旅行したりした。

富士山の源流の三島郊外にある柿田川、或いは忍野八海に行った。
伊豆地方の湯島に宿泊した時、湯ヶ島の山葵(わさび)田にも寄った。

私は小さな湧き水が好きである。
国道一号にある湧き水は、壮大しすぎて私の心は充たされなかった。

私には、小学時代に観た故郷のような、小さな湧き水に、
心の渇きからの浄化、を求めているのだろうか。
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小判草(こばんそう)・・♪

2005-05-04 14:05:11 | 定年後の思い
家内が二十数年前、お茶の先生より頂いた小判草がある。

樹木の下草に植えたが、今は水仙の側に咲いている。

淡い緑色で、稲のようなかたちであるが、小さな穂を垂れ下げて、

穂の形が小判に似ているので、小判草と名づけているらしい。

草丈は二十センチぐらいで、微風を受けて、穂先が揺れている。

愛らしい花である。

夏が終ると、黄金色になる。

『XXちゃん、やはり小判草の名前にうってつけだ・・』と家内に言った。

しかし角度を変えて見れば、俵(たわら)のような花だった。

晩秋になると、実の種が風に飛ばされた後、枯れ果てる。

初春の頃になると何処からとも無く、芽を出してくる。

私のような不精な人にとって、満足させる花のひとつである。
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柚(ゆず)の樹の想いで・・♪

2005-05-03 15:23:48 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学生の頃、五十年前の事でした。

庭のはずれに大きな柚の樹があり、

晩秋になると、竿(さお)でもぎました。

確か記憶をたどれば、一家の春先までの

楽しみな食べ物のひとつでした。


27年前に家を建てて、付近を家内とよく散策した。

ある時、ちょっと離れた都立公園に行き、帰路、苗木屋さんに立ち寄り、

『旦那さん、これお買い得よ・・』と声を掛けられた。

中年の主婦が、鉢に入った柚を指していた。

『お姉さん・・柚、小さくない?』と私は言った。

『あらぁ、旦那さん、伊予柚なの、だから小振りなの』と言った。

『小振りは、解ったけれど、成るかなぁ・・』と私は言った。

『心配なしよ・・数年したら、食べきれなく程、成ります』と力強く言った。

『そうしたら、家から出荷するか・・』と私は調子よく言った。

お互い、笑いあった。


これが間違いだった《笑》

庭に植え、水をたっぷり上げた。

その後、肥料を施し、数年過ぎた。


花が咲かず、実も成らなかった。

『XXちゃん、地植えが駄目なのかなぁ』と家内に言った。

『貴方、柚は時間が掛かると言うじゃ、ありませんの・・柚の馬鹿・・』と家内は笑っていった。

『苗木の姉さん、調子よすぎだったなぁ・・』と家内に言った。

『・・』家内は笑ってばかりだった。

『だまされたかなぁ・・』と私は未練たらしく言った。


こうして7年が過ぎた・・。

白い花が咲いた。

その晩秋、三つの収穫があった。


翌年の五月になると、若芽が伸びたので、刈り込んだ。

栄養分を主木から枝に行き渡らす為だった。

この秋、収穫ゼロだった《笑》


それから数年、何もしなかった。

晩秋は、確実に十数個、収穫があった。


昨年は豊作だった。

『XXちゃん、やっと念願どおりになったょ・・』と家内に言った。

『だけどね、貴方、この付近の家、柚の成り年、ですって・・』と家内は言った。

私はたわわに成った柚を観ていて、家内の言葉は通り過ぎていった《笑》


私は柚に関しても、苦節十何年であった。
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お茶を摘む頃に・・♪

2005-05-02 11:14:19 | 幼年・少年時代の想いで
遠い昔、昭和26年の頃だった。


祖父と父が農家をしていたので、お茶の樹があった。

宅地からゆるい坂を昇りきり、防風ように欅(けやき)が五十数本あり、

その先は平坦な地で陽当たりがよく、苗床、洗濯の干し場に利用された。

この平坦な所を抜けると畑であり、その先に村道があった。

この村道と畑の境界線にお茶の樹があった。

幅は四尺、高さが五尺で、五十間前後であった。


五月の初旬頃になると、新芽を摘んでいた。

一家総出であった。

私が幼児で三歳の頃は、近くに莚(むしろ)で寝そべっていた、

と母から後年に教えてもらっている。

新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といったお茶の葉から

混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、

団扇などであおいで、よくさましていた。

そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、

その上に鉄板を敷き、先ほどのお茶をもんいた・・。


煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。

この煎茶は、家族が一年中に使い、来宅した方の一部の方に差し上げたりした。

もっともこの選別は、戸主の祖父の一言によった。


私は幼児の頃、いじけていたので、いたずらをして、父からよく怒られた。

祖父は、長兄、次兄に続き、私も男の子であったので、

不憫に思ったらしく、祖父の名の一字を私の名前にくれた。

祖父からは、可愛がってくれたが、煎茶を淹れるとき、

いいかげんな振る舞いで淹れると怒られた。


私が成人してから、煎茶を淹れる時、ときたま祖父を想い出される。
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呑んべえの予感した頃・・♪

2005-05-01 11:56:29 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学一年の頃でしたから、昭和26年の年だった。


祖父と父は、東京の郊外で農業をしていましたので、

年末近くになると、餅を搗(つ)いた。

祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。


祖父の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、

その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、

二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。

男衆は五人来てくださり、それに私の家の人である。

午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。

すべて手作業なので、労力のいる時代だった。


餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。

長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

年末から正月のお雑煮、七草を得て、

その後ときたま二月の上旬まで食卓に出される。

このために、十畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。


夕方の六時ごろになると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に

それぞれ作り、夕食がわりとなった。

男衆は酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

近所の叔父さんが、私に言った。
『XXちゃん、何を食べるの』

『う~ん、大根の辛いの・・』と私は言った。

『そうかい、からみねぇ、XXさん、この子きっと呑んべえになるね』

と赤い顔した叔父さんは、私の父に言った。


この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、

私の家は急速に変わっていった。

私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、

このような風習は、消えた去った・・。
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