夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

奥飛騨温泉滞在記 【下】 【2007.2.12. ~ 2.17.】   《再掲載》

2010-12-18 07:57:15 | 旅のあれこれ
   第6章  雪の舞い降る『飛騨高山』往還・・♪

15日(木曜日)の新平湯は、小雪が舞い散る朝だった。

私達3人は飛騨の高山の中心街を散策するので、バスに乗り込んだ。
平湯峠を通り過ぎると路面は5センチ前後雪化粧をしており、
高山市の中心部に差しかかると、小雪から雪となった。

朝市を観た後、家内の母は初めての高山観光なので、
屋台会館、日下部民芸館を案内したいと昨夜に家内から聴いていたので、
私達は別れた。

私は全国に唯一現存する郡代・代官役所と称せられた高山陣屋を見学した。
平屋建ての三百坪の周囲に簡素な庭があり、
素朴な趣(おもむ)きの中、雪が舞い降りている。
こうした格調さがない庭なりに、心が和(なご)んだりしたが、
ある反面羨望もあったりした。

その後、雪の降りしきる中、古い街並みの周辺を散策した。
とある木工店に入り、楢(ナラ)の各種の一枚板を見た。

およそ90cm弱の幅、長さは180cm、そして厚さは9cmほどの一枚板であり、
価格は30~50万円前後であり、テーブルなどに用いると思われた。

私は机の板として、2枚の板を並列に置き、
そのときに応じた板を使い分けることを夢想したりした。

今の私は定年前に購入した机、脇机、そして椅子は広島産の書斎用を30万円弱であり、
パソコンなどを置いて日常使っているが、
この1枚板が2種類置いてみたいと思ったりした。
理想の書斎としたならば、間口2間以上の窓辺となるが、
私には今から増改築する力はなく、夢と現(うつつ)の世界となるので、
無念ながらの現実である。


その後、街の本屋に行き、陳列してある本が少なく、本棚が見えたりしている。
たまたまご主人と書店の本屋の仕入れなどを話し込んだりした。
私は現役時代レコード会社を長年勤務した関係で、
書店と卸の関係を何かと参考にしてきたので、
あれこれ話し合ったりした。

その後、街通りでジャージ姿の女子中学生の30数名を見かけた。
多分、修学旅行と思われ、みたらし団子を食べながら、ときおり歓声をあげながら、
雪の降りしきる中を歩いていた・・。
私はあの頃の時代、他愛も無く明るく過ごした時もあったかしら、
と思い返し、苦笑したりした。

駅前で簡素な飛騨蕎麦を食べた後、
バスを待つ間、付近の和菓子屋に入り、抹茶と和菓子を頂いた。
『語り部(かたりべ)』という和菓子であったが、
呑兵衛の私でも奥行きのある和菓子だと感じられた。


帰路のバスの車窓からは、強風が伴なう風雪となり、
雪は路上に20センチ前後のなって折、路肩、道路付近は吹き溜まりとなり、
小さな峠道を通り過ぎた時、前方の大型トラックがスリップし、
道路をふさいだりした。
30分過ぎると徐行しながら何とか通過できた後、
風雪は激しく視界が5メートル程となった。

こうした中を1時間ほど乗車していると、
運転していない私さえ、少しはらはらとしたりした。


観光ホテルに戻ると、風呂に入った後、
家内達が無事で戻ればよいが、と思ったりした時、
家内達の声がした。

家内達は帰りのバス・・雪と風で恐かったくらい、
と話しかけてきた。


   第7章  雪のあとには

早朝の5時前に目覚め、
ロビーで温かいベツトボトルの煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。
窓辺からは、昨日の雪の名残りで銀世界となっていた・・。

昨日、飛騨高山を訪れたが、心のふるさと、と街中で観られたので、
私なりに想いだされた。


確か昭和43年の頃だったか、
小説家・立原正秋が随筆した『心のふるさとにいく』を甦(よみがえ)ってきた・・。
この随筆は、JTBの発刊する月刊雑誌の『旅』の中で連続に掲載され、
飛騨高山を取り挙げており、私の若いころ影響を受けたりした。
編集長が岡田喜秋という後に紀行作家であり、
この随筆の『心のふるさとにいく』のタイトルを命名し、
小説家・立原正秋の独自性の名文で私なりに心に残っている。


軒下に数多くの氷柱(つらら)が朝の陽射しを受けると、
わずかに雫(しずく)を落としている。

つららあと ためらいながら 落ちてゆく

このような拙(つたな)い俳句の真似事を詠(よ)んだが、
歌を詠む素養がなく、自分ながら赤面したりした。

日中、家内の母は館内でのんびりするので、
家内と快晴の中、飛騨高山に出かけた。

行きの道路周辺は、昨日の雪の名残りが観られたが、
市内は雪が消え去り、帰路は峠道周辺あたりだけ雪が残っていた。

飛騨高山は私の好きな地酒を買い求め、
家内と和菓子屋、お土産屋と6軒ばかり廻ったが、
私は素朴な『とちの実 せんべい』に魅了されて買い求めた。
この包装紙には、昔なつかしい手焼の味・・飛騨銘菓・・金龍堂と明示されていた。

夕食の時、旅の最後となるので、骨酒を頼んだ。
小ぶりの岩魚(イワナ)を焼いて、人肌より少し温めた参合前後の地酒に、
どんぶりに岩魚が浮いて折、香ばしい香りがする。
このような戯(たわむ)れのお酒を呑みながら、夕食を頂いたりした。



   第8章  山里の春を思えば

帰路のバスを待っている間、
私達はコーヒー・ラウンジで窓辺の席に座った。

私は煙草を喫うので、少し離れた席に座り、前方の里山に目を転じた・・。

山里の春は遅く、やがては梅が咲き、そして桜も咲くだろうが、
その前に蕗(フキ)、蕨(ワラビ)、薇(ゼンマイ)等が
土から芽生え彩(いろど)るだろう・・。

こんな思いに馳(はせ)ると、

花をのみ まつらんひとに
     山ざとの 雪まの草の はるをみせばや

歌人・藤原家隆が新古今集で詠まれた歌を思い出された・・。

旅の終わりに、山里に心を託(たく)せば、
こうした時代を超越した名歌のひとつに心を寄せたりした。


今回、奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に5泊6日で滞在し、
8回に急遽綴ったが、のちに旅の想いが甦ってきた時に、
ときたま綴ると思う。
旅の魅力は、こうした余情、余韻があるのも齢を重ねた今でも、
私の心をなごませてくれる。



   最終章  旅の終りは、梅の花は満開となり

12日(月曜日)より5泊6日で奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に滞在した。

家内の母と私共夫婦の3人は、団体の現地直接のツアーにむ参加して、
先ほど帰宅した。

門扉を開けると、白梅、紅梅が満開となっていた。
煙草を玄関庭で煙草を喫っていると雨がぽっりと降ってきた・・。

ほんの5泊の旅であったが、我が家の庭に於いても、
樹木の移ろいは春の気配が漂(ただよ)っていた。



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奥飛騨温泉滞在記 【上】 【2007.2.12. ~ 2.17.】   《再掲載》

2010-12-18 07:48:50 | 旅のあれこれ
   序 章  本日より、奥飛騨温泉に滞在

私達夫婦は家内の母と3人で、温泉滞在旅行に5泊6日で行く。


20数年前、団体観光ツアーを利用して、
私達夫婦は6月の時節に、新宿からL特急で松本に行ったのを思いだしている。

松本からは周遊観光となり、木曽地域を観て、下呂温泉に宿泊した。
翌日は高山市を観て、里村の平湯温泉に泊まり、
上高地を散策した後、松本に戻った2泊3日の旅行だった。


今回は、温泉滞在地に直行するバスの団体観光である。
家内の母を迎えに行くので、早めに起きだしている。

雪降る里村の温泉地に滞在し、周囲を散策したり、高山市に出かけたり、
穂高ロープ・ウェイで北アルプスの情景に期待している。
しかし暖冬の折、現地の天気予報を見たり、
宿泊先の観光ホテルに電話で確認したが、
雪の状況が予測が付かないでいる・・。



   第1章  旅のはじまりは、めかぶ風のきんぴら

家内の母と私達夫婦は、ときたま温泉滞在旅行に行く。

この温泉滞在の場合は、私は自動車を保有していないので、
多くは旅行会社の団体ツアーを利用している。
交通の便、観光ホテル等の滞在費には、個人で予約するより遥かに格安であり、
気楽に現地まで連れてってくれるプランでもある。

今回は岐阜県の奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に於いて、
観光ホテルで5泊6日滞在プランであった。

上野、新宿の集合場所となって、
バスで休憩、食事処に数箇所寄って、現地に赴(おもむ)く。

家内の母が千葉県の八千代市に住んでいる関係で、
私達夫婦は上野に出向き、家内の母と待ち合わせる。
パーラー風の喫茶店で集合時間に調整し、集合場所でバスに乗り込む。
今回、このツアーに参加される方達は、月曜日から土曜日の温泉滞在で、
特にご高齢者のご夫婦の方が多かった・・。

上野から新宿までの道程は、一般道を走破しても都内見物の観がある。

新宿を10時過ぎに出た後は、
中央自動車道を走り、談合坂SAで休憩後、
諏訪市の郊外で食事処で昼食となる。

私は生貯蔵酒を呑みながら、めかぶ風のきんぴらを頂く・・。

食事処の前の広場のベンチで、早春の陽射しを受けながら、
食事処のお土産売り場で地酒とつまみを探した結果、
めかぶときんぴらの珍味の試食が気に入ったので、
このように昼食代わりとしている。

私は旅の折は、
日常生活で余り接することがない地方の食べ物、呑み物を出来る限り頂くことにしている。

その地の風土を学ぶ上、一番大切なことのひとつと思っている。

地酒は諏訪菱友醸造の『至福のひととき』と表示されていた。


   第2章  暖冬、まだら模様の雪景色・・♪

中央自動車道から長野自動車道の松本ICで高速道路を下り、
一般道の野麦街道からの周辺も雪が見られなかった。

安房峠のトンネルを過ぎると、期待通りの銀世界であったが、
まだら模様の雪景色であった。

平湯で休憩後、奥まった山間部の道沿いに新平湯があるが、
20数年前に訪れた限りであったので、どの宿に宿泊したのかは忘れている。

新平湯温泉の観光ホテル『奥飛騨薬師のゆ本陣』に4時に到着した。

入浴後、夕食はいろり風で堀炬燵形式で足が伸ばせるのは良い。
私達のツアーは40数名であったが、閑散期の平日でもあり、
このような和風の大座敷の中、それぞれゆったりと座れ、
私達3人も6人用のテーブルに指定された。

私は食事の際は、テーブルが狭いのは料理の味より優先する性格であり、
ゆったりとした席で地酒、ビールを呑みながら食事をするのが信条としているので、
居心地が良く、私達3人は楽しく頂け、私は地酒の追加をしたりした。

部屋のベランダ風の窓辺から、数百メートル先に里山が観られるが、
冬木立の中、まだら模様の雪景色であった。


   第3章  北アルプスの冬景色・・♪

13日(火曜日)の早朝、里山の頂(いただ)を見詰めると、
柔らかな冬の陽射しが見られた。

私達3人は、高地から展望できる北アルプス連峰を見る為、
新穂高ロープウェイを利用した。

新平湯温泉前より新穂高バスターミナルまでバスで20分前後で行き、
第1ロープウェイの乗車口の『新穂高温泉駅(標高1117m)』から『鍋平高原駅(1305m)』まで乗った後、
第2ロープウェイの『しらかば平駅(1308m)』から終点の『西穂高口駅(2156m)』まで
ロープウェイの車窓から北アルプスの情景が見られる。

1番手軽に高地から山並みが展望出来るので、家内の母に私は勧めた。

20数年前に来た時には、午後3時過ぎの影響下であったので、
山霧につつまれて視界は10メートル前後の悲惨な状況であった。


西穂高口に着くと、マウントビュー千石という4階建ての施設があった。
この屋上が展望台のようになって折、
北アルプスの連山が澄み切った快晴の中で観られた・・。

槍ヶ岳(3180m)が遠方に聳(そび)え、
3000m前後の連山が厳冬の雪を擁(いだ)き、厳粛さを感じる。
そして前方には西穂高岳(2909m)が
圧倒的な威力のように聳(そび)え立っている・・。

この後、私達はコーヒータイムとし、
家内達は下界の熊牧場に行くので別れた。

この西穂高口の周辺は、千石園地となり、
この時節には雪の回廊が係員のお手数で作られている。

暖冬のせいか、積雪は1m前後で20分程度の雪道であるが、
数多くの針葉樹が雪を枝葉に湛(たた)えて、
少女的な視線からはクリスマス・ツリーのように観える。
こうした景観には私は酔いしれる・・。

このような光景に私はデジカメで30数枚撮り、記憶の片隅としたりした。


余談であるが、私達3人が最初に第2ロープウェイに乗り換えた時、
何故かしらか若い女性の係り員がチョコレートを手渡していた。

『あたし・・もらえなかったわ・・』
と家内の母は残念そうに言った。

私は男性ばかりに手渡して折、
バレンタイン・デーでささやかなプレゼントとして解かったので、
家内の母に手渡した。

純米酒を愛する者にとっては、チョコレートは婦女子の食べ物である。



   第4章  されど、『たるまの滝』・・♪

私達が旅行に行く前から、今回の旅行先を家内なりに調べていた・・。

新平湯温泉の付近に、平湯川が流れて折、
夜間のひととき凍りついた川沿いの滝がライトアップされるので観よう、
としていた。

私達3人は夕食後、防寒支度をして、たるまの滝を目指して、
零下の中をとぼとぼと歩いた。

たるまの滝は暖冬の為、凍らず音を激しく立てて流れ落ちている・・。

この後、この平湯川の川底にトンネルがあるので行って見たが、
川幅を横断して造られて折、
途中で観覧しやすいように大きな出窓のように開かれていた。
前方に水量豊かに激しく音を立ててに流れていた・・。

雪解けの時節の折、川幅も川面に大きく変わり、
川沿いの樹木の枝葉の若葉を見せることを想像したりした。

帰路、青年団の方達が、誘導案内のようなことをなさっていたので、
周辺のまだらな雪を観ながら、私は話しかけた。

『このような情景は・・平年ですと・・いつぐらいの季節ですか・・』
と私は訊(たず)ねた。

『3月の中旬前後の状態です。
いつもは雪がこの辺でも・・60センチ前後あるのですか・・』
と快活そうな青年は答えた。

私達は宿泊先に戻り、冷え切った身体を温める為、
お風呂に急いだ・・。

深夜、雨が降りだしてきた。


   第5章  旅先の読書・・♪

私は温泉滞在旅行の折は、数冊の本を携えていく。

寝る前とか、お天気が悪化して、外出しないで館内にうろうろしている時、
最適な友となったりしているのである。

今回は月刊雑誌の『文藝春秋』、
そして長谷川 櫂・著の『四季のうた』(中公新書)の2冊である。

14日(水曜日)は予定通り、雨が降りしきる1日だったので、
観光ホテルの館内でゆっくりしよう、
と私達は話し合ったりしていた。

朝食の前後、大浴場と露天風呂に入れば、
ロビーの隅で煎茶のペットボトムかコーヒー缶を飲みながら、
新聞を読んだりする。

インターネットの設備がないので、『日経』と『地方紙』を読む。
地方紙の場合は、その地の状況が解かる手掛かりなるので、
私は一読している。

この後は、部屋に戻り、布団にもぐり、持参の本などを読んだりしている。

目が疲れると、窓辺から前方の里山を眺めたりしている・・。

雨が一時止んだ後、
山霧が地上付近から湧き立ち、里山の頂(いただ)きに向かって、
上昇しているが、
風を受けて左側にゆるく昇っている。

そのあとは、頂きから空に上昇しているが、雨雲の中に吸い込まれていった。

夕刻になると、夕霧の中、冬木立の情景が心に残ったりした。

こんな堕落した1日であったが、
敗戦後から今日までの小説で百年後でも読まれる小説とは、
などとつまらないことを思考したりしていた。

深夜、目覚めると雪が降りだしてきた。

           
                            《つづく》


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箱根・姥子温泉、夢と幻(まぼろし)、そして現(うつつ)の出来事は・・。【2009.12.9】 【再掲載】

2010-12-17 09:47:30 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、家内と夕食を頂いている時に、冬の旅行の思いで話をしたりした。
私達夫婦は、共通趣味は国内旅行なので、何かと旅先のこぼれ話、これから訪ねてたい地域のことなどが、
話題になることが多いのである。

昨夜は、たまたま昨年の2008(平成20)年2月中旬に於いて、
家内の母を誘い、箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在し、周辺を遊覧したことであった。

旅先で面白いのは、予測もつかない不意な出来事があったり、
思いがけない情景や光景に観られたりする。
或いは地元の方と立ち話をしたり、私と同じような観光客の人たちと話し合ったりすることである。

そしてほんのささやかなことであっても、のちの想い、となり心の片隅に残っている。


こうした箱根の姥子温泉滞在のこぼれ話を家内と話したことが脳裏に残っていたためか、
夜半の夢は、おかしな夢となったのである。

昼のひととき湯めぐりした私は、ある古びた温泉旅館に立ち寄り湯をし、
俳優の山崎努(やまざき・つとむ)さんと全裸で更衣室の片隅の椅子に座りながら、全裸で話し合っていた。
下腹部だけは大き目のタオルをかけて、映画界が何故衰退したか、
このような話題を真摯に語り合ったのである。

この後、遊歩道の根雪の小道を歩いていた私は、前方から歩いてこられる方に息をのみ、
立ちすくんだのである。
そして、このお方が近づいて、互いに煙草を喫いながら、
昭和が終った頃から、小説は世情から確実に衰退した、と途切れ途切れに話し合ったのだった。
このお方は小説家・立原正秋(たちはら・まさあき)氏であるが、
1980(昭和55)年の夏に病死されたお方であるのに、
どうしてなのと思いながらも色々と教示されたのである。

そして脚本家の倉本聡(くらもと・そう)氏が20年ぐらい若い50代となり、
冬の富良野に来なさい。
新幹線で新潟に行き、フェリーで小樽港で下船し、
後はJRで小樽駅から富良野駅まで来れば、私は迎えに行くよ。
そしてプリンスホテルに一週間宿泊し、日中のひととき我が家に来れば、
とこのような話を私は頂ただいたのであるが、私は戸惑いながら、ためらっていたのである。


夢からさめた私は、しばらく呆然としていた。
私は平素から思い込みの激しいひとりで、夢は日常の思いや夢想することが変貌することが多く、
私自身も戸惑うこともあり、どうしてなの、と苦笑することがある。


実体験の冬の箱根・姥子温泉の想いでは、話題にも俎上されないが、
ささやかな旅先の思いを
【 箱根・姥子温泉滞在記【2008.2.12.~2.19.】 】
と題して投稿したことがあるので、あえて再掲載をする。

【・・
   序章 本日から箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在

私達夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、
年に数回の温泉滞在をしているが、今回は最も近場の箱根の姥子温泉に、
本日の12日(火)~19日(火)まで滞在する。

箱根には近場であるので、四季折々に数10回も訪れた所であるが、
姥子に宿泊するのは初めてである。

宿泊する観光ホテルは、Web環境なしの素朴な宿と思っているので、
この間はこのサイトに投稿は出来ない上、
携帯電話も使えない私は、ときには昭和の終り頃の環境も良いかしら、と微苦笑している。


   第1章 旅の始まりは、小雨となり

私達夫婦は、12日(火曜日)の7時半に家内の母と
小田急線の新宿駅の特急乗り場の最寄にある喫茶ルームで無事に会った。

このフルーツ・パーラー風の喫茶は、特急を利用する時間調整に大変便利な処で、
何より奥まった一角には喫煙室もあり、私にとっては大変助かる。

私は喫煙室で煙草を喫いながら、コーヒーを飲み、
前方の通勤客で混むプラットホーム、改札口を眺めたりした。

こうした情景を眺めたりしていると、のんびりと平日の朝の時間を過ごせるのは、
改めて私は定年退職後の年金生活のひとりとして実感する。

私達はロマンスカーの座席から馴染みの車窓を眺めていると、
小雨が降りだしてきた。

小田原駅で下り、梅の花を誉(ほ)めようと小田原城のある城址公園に小雨の中に行ったが、
白梅、紅梅が冷たい雨の中で咲いている程度で少し侘しい情景であった。

私は休憩処でビールを呑みながら、
わずかな観光客を眺めたり、小雨の降る寒々しい前方の樹木を見たりした・・。

家内達は暖かいお蕎麦を食べていたが、
早めに宿に行こう、と私は家内に声をかけた。



   第2章  残り雪の中の姥子温泉地

小雨の降り続ける小田原より私達は路線バスで、芦ノ湖の付近にある湖尻行きの向った。

今回の宿泊先は、姥子温泉でも湖尻に近い処を家内が選定したのである。
自動車、レンタカー等を利用しない私達は、各観光地を訪れる際に利便性がある、
という思惑であったのである。

箱根湯元を通過し、小涌谷周辺から周囲の情景は残り雪の景観となっていた。
バスの走る道路は、小雨に濡れ、道路際には除雪の雪が高くあり、
周辺の樹木、山裾は雪景色となっていた。

東京の郊外でも過日の10日の朝は数センチの雪の朝を迎えていたが、
この周辺は20センチ前後が里山に残って折、
浜 美枝・女史に寄る随筆で、箱根は東京より雪が多い、
と読んだことを思い浮かべ、私は心を和(なご)ませてくれた・・。

私達が予約した観光ホテルは、遠方に芦ノ湖が見下ろせるコテージ風の旅館であった。

http://www.jalan.net/jalan/jweb/yado/YADL_348131.HTML
☆ 一の湯 芦ノ湖 ☆

ロビーを通り過ぎると、『公衆電話』のプレートが掲げられた電話ルームがあり、
昭和50年前後に建てられたと思われる格調のある白壁と太い黒柱で、
私は風雅あり、と思ったりした。

角部屋が和室となって折、小ぶりなカラー・テレビがあり、
これからの7泊をこの部屋で過ごすと思いながら、私は大浴場に向かった。

Web環境のない昭和時代に心寄せながら、私は源泉の少し熱い湯船に身体をあずけた・・。



   第3章  芦ノ湖の遊歩道を散策すれば

13日(水曜日)の早朝、ホテルの庭先に下り立つと、
深夜に小雨から雪に変わったので、数センチ程の雪化粧で迎えた。

壁面の温度計はマイナス4度であり、やはり姥子温泉の湖尻付近は、
私の住む東京の郊外の調布市より5度前後は寒い地域と思ったりした。

私は独りで10時過ぎに湖尻まで下って、芦ノ湖の東岸の遊歩道を歩き、
樹木園まで散策を始めた・・。

歩き始めたが、遊歩道は村道のような情景で、日陰の処は少し根雪となり、
陽射しの処は陽だまりとなり、右手に芦ノ湖が望める人影のない遊歩道であった。


私は対岸の西岸の遊歩道を箱根関所から桃源台まで15年前頃歩いたので、
この頃が思い出された。

あの頃の社員旅行は部単位で、30名前後で夕方に現地集合、翌朝に現地解散が多く、
ゴルフ、海釣りなどで盛んに行われ、
私は独りでザックを背負い、晩秋のひひとき西岸の遊歩道を三時間半ばかりで歩いた。

関所付近を30分過ぎた頃、貸しボートでニジマス、ブラックバスの釣り人が数多くいて、
釣りに無知な私は華やかな色合いに驚いたりしていた。

桃源台に到着し、ロープウェイに乗車する為に並んでいた時、
テレビが大リーガーで初めて活躍された野茂投手の姿を放映していた。


私はあんな時代もあったね、と私は想い歩いたりしていたが、
樹木園には30分足らずで到着し、園内を散策したら、多くの人の声が下方から聴こえた。

下り道を少し歩けば、神社が観え、百名前後の人々が参拝をして折、
九頭龍大明神と木札があった。
この後、ゆるい曲がり道を歩くと、白龍神社が観え、湖岸に桟橋があり、10数名が見られた。


私は丘陵に建ち並ぶ貸しバンガローを眺めながら、
樹木園の出入り口の空き地で煙草を喫ったりしていた。

湖尻方面から来たと思われる若い女性のお2人が私に近づいてきた・・。
ひとりは美麗で、もうひとりのお方は10人並みである。

私に樹木園の園内を訊ねられたので、
私は10人並みの女性に向かって、懇切丁寧に説明した。

私は美麗の女性には弱いが、気を引く手立ては、こうした方法が最良と信じているので、
今回の場合も微笑みを絶やさず、10人並みのお方に話したのである。

『小父さま・・ご親切に・・ありがとう・・』
と別れ際に美麗の人は私に言った。

私は内心は小躍りしながら、湖尻に向かった。
そして、あの人、女優さんのどなたかに似ている、と思ったりした。

湖尻の食事処は平日の昼は、本日休業が多く、
あらかじめ目指した店も休みで、やむえず隣接した食事処に入った。
ニジマス、ブラックバス、ワカサギのフライをビールを呑みながら頂き、
先程の美麗の人、若き日の関根恵子さんに似ていた、と余計なことを思ったりした。



   第4章  まぼろしの『秀明館』

14日(木曜日)は私が以前から考えていた姥子温泉に泊まったならば、
夏目漱石が湯治したと知られ、
現在は日帰りの施設として名高い『秀明館』に立ち寄り湯を考えていた。

家内達は箱根園に行くので、
私は独りでゆっくりと『秀明館』で個室休憩しながら、湯に数回は入った後、
姥子から湖尻園地までの遊歩道を下る予定でホテルを出た。

桃源台まで歩いた後、ロープウェイで姥子駅に向かって乗車したが、
下方の周辺は雪が残っている。

姥子駅で下車後、駅員さんに『秀明館』の場所を尋ねたところ、
冬季は休館、と知り、やむえず大涌谷駅まで行き、
大涌谷から姥子を通り、そして湖尻園地までの遊歩道に変更した。

大涌谷駅は観光客で賑わっていた・・。
この周囲からは冬富士が一望できるので、数多くの方達が記念撮影をしていた。

私は駐車場を除雪されている50代の男性に、姥子までの自然歩道の入り口を訊ねた。

『旦那・・雪・・結構・・残っているよ・・
まっすぐに下りれば・・姥子に着くけれど・・だけど・・あんた・・ものづきだねぇ・・』
と私に言った。

私は冬季の防寒フィールド・ジャケット、ゴアテックス入りの堅牢なウォーキング・シューズの容姿を眺めた後、
『気を付けて・・下れば・・』
と言った。

歩き始めると、確かに雪は30センチ前後あり、
歩道の中央には登山靴か冬季専用の長靴の跡がわずかに残っている。

ブナやミズナラの冬木立の樹木林の中を下ったが、
積雪で狭められた歩道は冬の登山路のようである。

私は所々で立ち止まり、首からぶら下げたデジカメで、冬富士の光景を10数枚撮ったりした。

30数分下った後、突然に一般自動車道に出た。
自動車道と下方の湖尻園地までの遊歩道は、わずか50m前後平行するのであるが、
自動車道の除雪で遊歩道が埋もれていた。

やむえず私は、一般道を下りはじめた時、左側に突然に『秀明館』が観えた。
門から玄関庭の途中にロープで路は遮られ、
中央に冬季の2月まで休業とさせて頂きます、
と明示していた。

この後は私は、一般道を少し下った後はペンション、会社の保養施設が多い小道を下り、
芦ノ湖を遠方に見下ろしながら、ゆっくりと下った。

湖尻の食事処で昼食用として、山芋蕎麦を頂きながら、
まぼろしの『秀明館』か、と少しため息をついたりした。



   第5章  旅先の読書

私達夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、温泉滞在旅行を年に数回行ったりしている。

私は定年退職後の年金生活の身であるので、
現役時代の頃は2泊3日前後であったが、時間は自在に使える昨今は、5泊6日前後が多くなっている。

温泉滞在の時、日中は周辺の観光地を訪れても、
家内達のご婦人の興味のある処と、
少なからず男の子の私と興味の差異があるので、私は独りで周遊したりしている。

私たち3人は、朝のひととき、夕食はゆっくりとビール、日本酒を呑みながら話に盛り上がれば、
私は寝具に身も心もゆだねて本を開いたりしている。

或いは雨などで外出が覚束ない時、
日中ののひとときに風呂に入ったりし、その間は読書をしたりしている。

このような状況なので、温泉滞在旅行の場合は、数冊の本を持参している。

今回の箱根の姥子温泉の7泊8日の場合は、
安岡章太郎、阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作・各氏の『私の履歴書 第三の新人』(日経ビジネス文庫)、
司馬遼太郎、ドナルド・キーンの両氏に寄る対談『日本人と日本文化』(中公文庫)、
そして40年近く愛読している今月号の総合雑誌の『文藝春秋』の3冊であった。

『私の履歴書 第三の新人』に関しては、
尾崎真理子・著の『現代日本の小説』(ちくまプリマー新書)を購入した際、
同時に買い求めた一冊であった。

『現代日本の小説』に少なからず衝撃を受けたので、
文壇の健全なあの頃の『第三の新人』の頃は・・という思いで読んだりしたのである。

『日本人と日本文化』については、昭和47年(1972年)に発刊された本であったが、
改めて再読したのである。


このように3冊を読破した後、何か本はないか、
と元箱根、湖尻、桃源台で本屋を探したが、観光地せいか残念ながらなかったのである。

芦ノ湖周辺にお住まいの方は、箱根湯元か最悪の場合は小田原市かしら、
と苦笑したのである。

旅の終り、私の住む最寄駅で本屋に入り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。



   第6章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ①

15日(金曜日)は箱根の『強羅公園』に行き、
確か20年ぶりぐらいであったと思われる『白雲洞茶苑』を訪れよう、
とホテルを独りで9時半過ぎに出た。

快晴の中、桃源台からロープウェイで大涌谷、早雲山で乗り継いで、
この後は鉄道ケーブルで強羅公園下駅で下車した。

久しぶりに訪ねたので、公園の正門入り口に戸惑い、苦笑したりした。

この時節、観光客も少なく、高台にある喫茶店『Cafe Pic』で、
コーヒーを飲みながら、遠望にある大文字焼で知られる頂上に近い『大』の縁取りを眺めたりしていた。

この喫茶店も客は私独りで、暖かな陽射しの射しこむ中、
モーツァルトの名曲が店内から聴こえ、贅沢なひとときを過ごした。

この後、『白雲洞茶苑』に向かったのであるが、
20年前頃、家内と共に訪れて感銘した茶室であったので、私の心は緊張していた・・。

http://www.hakone-tozan.co.jp/gorapark/tea/index.html
☆ 白雲洞茶苑 ☆

公園の外れにある少し切り立った場所に巨石、樹木で茶庭とし、
そして形式美にとらわれない茶室などがある。

私は1時間ばかり、茶庭を廻りめぐり、茶室を眺めたりした・・。
 
          

   第7章 『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ②

私は東京オリンピックを過ぎた頃、大学を中退し、
映画、文学青年の真似事をしたので和事に関心を持ちはじめた・・。

家内と結婚した当初、家内は中学生から茶事に関して、学んでいたので、
私は何らかの影響を受けていた。

結婚して3年の初め、実家の付近に一戸建てを建てる際、
茶室を設けたが、家内の嗜(たしな)み室であり、私には本格的な茶事は無知である。

ただ掛軸、花入、そして茶道具などの形式美があるすぎるので、
花は野にあるように、と明言された利休の精神は・・と私なりに思いを重ねた。

私は一介のサラリーマンの身であったが、このような心を抱いていた時に、
20年前頃に、偶然に『白雲洞』を家内と観て、感銘をしたのであった。



   第8章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ③

『白雲洞』に関しては、この最初の①でサイト明示したので、解説は省略する。

私が最も関心があるのは、どのような経過で、
明治時代の三井財閥の総督のような益田 孝が造営されたかであった。

明治39年に小田原市の板橋で、
茶人と深められた別名・鈍爺が『白雲洞』、『不染庵』、『対字庵』を造られ、
総称として『掃雲台』として造営された。

その後、箱根登山鉄道に寄る強羅地区の開発に伴い、
多大な援助をしたので、この箱根登山鉄道の社長より、強羅公園の一角を贈呈された。

そして切り立った地に大胆な茶庭を造営した後、
『掃雲台』の茶室などを移築し、今日の基盤である『白雲洞茶苑』となった、
と私なりに思ったしたのである。

このような思いを新たにし、
抹茶を500円で頂けるので、小鐘が置いてあったので、小さく鳴らした・・。



   第9章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば 最終

30代前半と感じられる女性が現れ、
『抹茶を頂くのは・・作法に無知ですが・・』
と私は言いながら、茶席に座った。

そしてこの女性がお点前と館内の案内も兼ねていると判り、
私の前に抹茶と和菓子を置かれた。

『床柱は・・千年前の奈良にあった・・』
とこの女性は言った。

『床柱、掛軸、花入・・などの説明は結構です・・
確固たる美のお判りになった三大の方が伝承され・・
お陰さまでこうして・・
まぎれない美を見せて頂くだけで・・充分です・・』
と私は緊張した表情で言った。

この後、私は素朴な茶室に関して、丁重に感じたことを述べたり、
この三大の伝承した人の美を残された功績をたたえた・・。

そして、こうした美の結晶である茶室を造営するには、
財力は当然とした上、茶の深い思い、
何より縁(えにし)を含めた実行力のあるお方のみが、最低限必要である、
と私は言ったりした。

私は背後から客人の気配を感じ、席を辞する旨を伝えた。

私は和菓子を頂かなかったので、
このお方は和紙に包み、
『貴方様のように・・繊細に美を語(かた)ることの出来る人に・・
お逢いできまして・・』
とこのお方は言った。

私は照れながら、
『私は一介のサラリーマンを定年退職し、
無力な者で・・お恥ずかしい限りです・・』
と私は和菓子を受け取りながら言った。

私は偶然に若い女性と茶事の美について語り合えたので、
心は充たされ、一期一会、という言葉が実感できた・・。

そして強羅駅に向かいながら、
あの人、綺麗な顔立ちで、しぐさも素敵だった、と余計なことを思ったりした。



   第10章  ときには、芦ノ湖遊覧船

16日(土曜日)は昨夜深夜のロビーで読書をしていたので、
風邪気味となり、ホテルの館内、大浴場、露天風呂、そして布団にもぐり、
読書をしたりした。

17日(日曜日)も館内でおとなしくしたりしていたが、
持参した3冊の本は読了してしまう。

18日(月曜日)は独りで湖尻から元箱根まで遊覧船にで往復。

遊覧船の座席から快晴で雲ひとつなく冬富士も明確に観られ、
大阪から来られたご婦人のグループが携帯電話で盛んに撮影されていた。

元箱根の『成川美術館』からの冬富士の景観は一絵のようである。

この後、恩賜公園の高台にある記念館で、抹茶を頂きながら、冬富士を眺めたりした。

冬富士を 眺め愛(め)でれば 静謐(せいひつ)に

冬陽射し 湖上に受け 風光る

芦ノ湖で 冬富士眺め 感無量

このような駄作を詠んでいたが、
観光客の歓声も風邪気味で気落ちしていた私は、心慰められる日中のひとときであった。


   最終章  旅の終りは、箱根の歴史

家内の母と私達夫婦の箱根の姥子温泉に於いて、
7泊8日の最終日、私は改めて箱根の歴史を学ぶ為、箱根湯元にある『箱根町立郷土資料館』に立ち寄った。

家内達は歴史に興味がなく『生命の星・地球博物館』で、地球の生命の営み等を観に行っている・・。

私は人の営みの集積である歴史で、
日本の場合に関しては奈良時代以降の歴史が関心があり、
箱根の徳川時代から昭和の敗戦前までの歴史に興味で入館した。

展示室は『湯治の道』、『箱根八里』、『生活の道』の三大区分で常設されているが、
私は小学生用に『道』と題された補助説明の学習テキストのパンフレットに魅了させられた。

例えば、『湯治』などを拝読すると、
《・・
温泉に入って病気をなおすことです。
そのために長い間、宿にとまってゆっくりと湯に入ります。
箱根の温泉は、このような湯治のために開かれ、使われました。
・・》
このように優しく表示されているので、
さて私の場合は何の病気かしら、と思い浮べ、思わず微苦笑させられたりした。

帰路は高校時代から馴染みの小田急線の特急『ロマンスカー』を利用し、
帰宅した。


このように投稿していたが、つたない身の私なりに、それなりの想いが残っているので、
先程、読み返しながら微苦笑したりしている。



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まぼろしの『地吹雪体験ツアー』・・♪ 《2008.2.24.》 【再掲載】

2010-12-16 07:35:36 | 旅のあれこれ
私は齢をかさねた63歳の身であるが、
東京の郊外の調布市でも、私の幼年期には冬の時節、積雪30センチ前後が数回は降っていた。

私は長靴に藁(わら)と唐辛子を入れて、
畑、雑木林に積もった雪原の中を駈けずり廻ったりしていた・・。

このような幼年期の思いでもあり、
国内旅行で冬の時節、東北、北海道で温泉のある観光ホテルに数泊し、
家内と付近の里路などの雪道を歩くのが好きなのである。

こうした折は、冬季の耐寒フィールド・ジャケット、マイナス20度前後の耐寒性のある軽登山靴、
それぞれ帽子を被り散策している。

20年前頃だったと思われるが、
青森県のある地方都市で『地吹雪体験ツアー』の参加募集があり、
私達夫婦は即急申し込んだが、
結果としては希望枠20名の応募がなく、施行が中止された。

その後、芦の牧温泉に2泊3日で滞在した時、
一晩に50センチ前後の積雪があり、驚きながら付近を散策した。
小高い里山の中腹にある温泉神社に参拝した帰路、
突然に風が舞い、やがて雪が降り、視界は数メートルとなった。

私は家内に、しばらく止まって、と15分前後立ちすくんだのである。
その後、風は弱まり、再び歩き出した。

こうした体験は、湯西川温泉の時も同じであった。
その後の蔵王の樹氷めぐりの時は、雪上車に乗り、山頂の付近で、下車した時、
猛吹雪で、足元は積雪に捕られ、
とてもデジカメで樹氷の情景の撮影どころではなかったのである。

このような状況を体験した私達は、
風が雪がどちらかにして欲しい、などと身勝手な思いとなったのである。

ここ数年の冬の時節、周囲の雪景色を眺め、
風のない積雪が10センチ前後の雪を踏みしめながら歩くのが、
一番のどかで楽しみとなっている。


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私なりの『札幌クリスマス&イルミネーション』の想いで・・。 《下》  【再掲載】

2010-12-15 08:04:11 | 旅のあれこれ
この後の私は、このサイトに於いて、
【 冬の札幌のひとときは、時のゆりかご・・。【2008.12.21~.12.25.】 】
と題して、投稿したりしていた。


        序 章

私は東京郊外の調布市に住み、年金生活の5年生の64歳の身であり、
冬の時節、札幌に4泊5日で訪れた。

三度目の冬であるが、初めて『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
市内の各地をゆっくり散策したりした・・。

平年より雪が少ないと報じられて折、
小雪が降ったり、止(や)んだりした中で過ごした期間でもあった。

私には、雪が舞う中を家内と散策したりしていると、
この北国の春、夏、そして晩秋の過ぎた日々に思いを重ねたりすると、
舞う雪の情景は、時のゆりかごのように感じられたのである。



        第一章 暮れなずむ中、雪が舞い降りて

新千歳空港に午後3時半過ぎに、私達夫婦は札幌行きに乗車した。
車窓から里辺を観ると、5センチ前後の雪化粧の景観であった。
そして、雪が舞い降(お)りて、ひとひら、ふたひらと雪の精が空中をさまよいながら、
地上を降り立った・・。

『思ったより・・雪・・少ないねぇ・・』
と私は家内に云いながら、以前に年始の時、そして2月の雪祭りの時の積雪を思い浮かべながら、
住宅街の情景を眺めたりした。


札幌駅から地下鉄に乗り換え、『ススキノ駅』から5分前後歩いた場所に、
滞在するホテルがあった。
今回の旅は、ある旅行会社の企画プランで、
航空料金と宿泊代、そして旭山動物園バス・ツアーも付加された
驚くべ格安な旅費であったので、多少の不安があった。

事前に宿泊するビジネス・ホテル風を調べて、
『こんなに安くて・・ホテルも旅行会社も大丈夫なのかしら・・』
と私は家内に云ったりしたのである。

http://www.susukino-greenhotels.com/gh2/index.html
『ススキノグリーンホテル2』

チェック・イン後、入室したのであるが、
このホテルの浴室は洗い場があり、単なる洋バスより遙かに利便性がある。

この後、簡易の滑り止めを靴にセットし、
夜の6時過ぎに、小雪舞い降る中、賑わう街中を歩き、
目的地の大通(おおどおり)にある『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たりした。

http://www.sweb.co.jp/kanko/white/
『さっぽろホワイト・イルミネーション』

私はクリスマスに向けた大規模なイルミネーションの光景は、
生まれて初めて観たが、やはり婦女子の観るものかしら、と思ったが、
こうした市民や私達のような観光客の中に身を置くと、
素直に美麗な装飾も情感があると感じたのである。

そして、市民たちの幼子たちの歓声を聞いたりしていた。



        第二章 幻のペンギンのヨチヨチ歩き、そして・・。

今回の旅で、家内が旭山動物園に於いて、
冬季の大半がペンギンの散歩の際にヨチヨチ歩きが観られるので、
家内が愉しみにしていたひとつであった。

私達は北海道には四季折々訪ね、
少なくとも旭山動物園には春と秋の頃に、観たりしているが、
冬季の雪のある時は未知であった。

http://www5.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/
      旭山動物園

私達は防寒用の登山靴で防寒フィールド・ジャケット、帽子で、
たとえマイナス15度前後の寒さになっても万全の対策の様相で、
バス・ツアー『旭山動物園1日』の集合場所に8時前に到着した。

道央自動車道の高速道路をバスは走ったが、
途中の休憩地の『砂川SA』でも積雪10センチ前後であった。

この後、雪が降り出し、ときおり風が吹いたりし、
動物園に11時15分過ぎに到着したが、ペンギンの散歩は中止と知り、
やむえず昼食として、東口にあるレストランに入った。

私はもとより動物は苦手であるが、
家内は動物好きで、この日は家内の誕生日であり、
プレゼントの代わりに今回の旅に思い立ったひとつでもある。

レストランの料理は創意工夫があり、
私はビールを呑みながら、誉(ほ)めたりしながら頂いた。
そして、いつものように家内の選定した料理と、少しづつ交換しながら、食味したりした。

この後、積雪15センチ前後で、再び雪が降りはじめ、微風が吹く中、
園内を観て廻った・・。
掲示の気温はマイナス4度と表示されていたが、私は寒さを感じることなかったのである。

そして、アムールの虎、アムールの豹は精悍で凛々しく見えたが、
やはり冬のライオンは哀れである。
私はこのようにしか、動物を観るしかできない身である。

家内は『ペンギン館』はもとより、『アザラシ館』、『北極熊館』を観ている間、
私は休憩所、出入り口にある喫煙所で煙草を喫いながら、
老若男女のしぐさを観ている方に興味があったりしたので、
眺めて微苦笑させられたりしていた。
そして、下方の旭川市の郊外の景観を眺めたりした。

集合の午後3時にバスに乗り込み、旭山動物園にさよならを告げ、
賑わう札幌市に戻ったのは、午後6時過ぎであった。


宿泊先のホテルに戻る時、家内が雪で足を滑らせて、後ろに転倒し、
私は瞬時に助けようとして、私も引きずられるように転んでしまった。
家内が起き上がる時に、後頭部を打ち、めまいをした、と告げたので、
最寄の病院の小児科であったが、診察して貰ったりした。

この後、万一の状況のことを配慮し、24時間体制の脳外科病院も
教えて頂いたりしたのである。

そしてホテルに戻り、30分前後安静した後、今朝からの予定通り、
『ミュンヘン・クリスマス』に行きましょう、
と家内は云い出したので、
私はほっとしながら、身支度を整えたりした。


ススキノの繁華街の賑わう街並みを通り、
大通(おおどおり)の一角にある『ミュンヘン・クリスマス市 in Sapporo』に設置され、
クリスマスの装飾品の土産売り場、飲食店が並んでいた。

http://www.city.sapporo.jp/christmas-market/
『ミュンヘン・クリスマス市 in Sapporo』

そして、飲食店で温めているワインを呑みながら、
ドイツ文化に相応しい田舎料理を立食で頂ただいたりした。
若いカップルが数多くいる中、家内のささやかな誕生日祝いとなったのである。

この後、家内はクリスタルの小さなサンタの装飾品を記念品として選定した後、
帰路としたが、ススキノにある展望観覧車が観えたのである。
そして、ススキノから、市内の夜景が一望できるので、乗り込んだりしたのである。



       第三章 街並みを呑み食べ歩きをすれば・・。

昨夜は深夜にホテルに戻ったので、今朝は9時の目覚めとなった。
ホテルを10時半過ぎに出て、
『お腹がすいたから・・何か食べよう・・』
と私は云いながら、家内と共に飲食街を歩いたりした。

街通りを歩き、回転寿司の清潔感ありそうな一軒に入ったのであるが、
味が良いのに好感し、地酒も良質で、値段も程々である。
私は昼前なので不謹慎と思いながら参合ばかり呑みながら、寿司を10ばかり頂き、
家内も、美味しいわ、と久々に云ったりした。

http://r.gnavi.co.jp/h080902/
回転すし『 活一鮮 南三条店 』

この後、秘かに意識していた南三条の街並みを歩いた後、
地酒の『千歳鶴』で知られている即売店、醸造所見学に寄った。
5種類ばかり試飲し、4合瓶を1本と300mi1本を買い求めたりした。

http://www.nipponseishu.co.jp/
地酒の『千歳鶴』


そして、家内が買物をしたい、と云うので、
近くの『サッポロファクトリー』に入店したのであるが、
大規模な造りに私は驚いたりし、疲れ果て、レンガ館が観える前の喫茶店で家内を待つことにした。

喫茶店の外庭のテーブルに座って、煙草を喫っていると、
レンガの煙突にサンタの飾りがあり、空から雪が舞い降り、
偶然にクリスマスらしい光景に私は見惚(みと)れてしまったのである。


この後、ホテルに戻る途中で、ラーメン屋に寄ったのであるが、
私としては油ぎっていて、美味しくないのである。
最初の夜も別のラーメン屋で頂いたのであるが、
私としては、札幌のラーメンは相性が良くない、と思えたのである。

こうした時、私は自分で選定したのであるが、
コンビニの『ローソン』の少し高めのおにぎりを思い浮べ、
あの方が遙かに美味しい、と後悔するケチな男である。


しかし、翌晩に炉辺焼で地魚を食べたいと、
偶然に入った大衆的な居酒屋は、私は魅了させられたのである。

http://www.hotpepper.jp/A_20100/strJ000027463.html
『やん衆炉ばた北斗』


地魚を焼いても、刺身でも美味しいし、地酒の美味だし、何よりお値段は手頃である。

私は札幌の最後の夜と感じたせいか、私は地酒を5合ばかり呑みながら、
家内はビールの小ジョキーで、
貝類も加えて、十二分に頂いたのである。

こうして食べ物、飲み物は、それぞれのお方の好みであるので、
女性はもとより別格であるが、この世で一番難しい選定なのかも知れない、
と私は微苦笑したりした。



           第四章 北海道の文学を訪ねて・・。

『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私達は地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。

公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。

http://www.h-bungaku.or.jp/
『北海道文学館』

私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。

私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、
小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、
下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。

こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信したのである。

そして、私は館内にあった同人雑誌で、
数多くのお方たちが文学をめざして、何とか筆1本で生計を夢みた人に、思いを馳せたりした・・。

私はこのサイトに於いて、
【遅ればせながら、『七本杉』という略称を学び・・♪】
と題して、11月18日に投稿した綴りを甦(よみがえ)ってきた・・。

【・・
昼下りのひととき、私は総合月刊雑誌の『中央公論』の今月号を読んだりしていた。

特集のひとつである『これであなたも作家になれる』があり、
この中で75歳となる平成17年に作家デビューされた加藤 廣さんが、
愛情をこめて物書き志望者にアドバイスを送る、と解説された

『物書きの夢と現実を語ろう』

と題された加藤 廣・氏の綴られた随筆を拝読したのである。


この中で、私は驚いて、こうした略称があったのか、と齢ばかり重ねた私は学んだのである。

《・・
「按ずるに筆は一本也。箸は二本也。
衆寡敵せずと知るべし」

明治の作家兼評論家・齋藤緑雨の残した一代の名句である。
物書きたらんとする者、これだけは肝に銘じたい。

これまで、どれほど多くの作家が、この警句の禁を犯し、
七本杉(身過ぎ、世過ぎ)のために筆を曲げ、
エロ作家や通俗大衆作家などに堕ちていったかを知ってほしい。
・・》
注)原文にあえて改行など多くした。

・・】


私は若き一時時期、文学青年の真似事をしたことあったので、
こうしたことは痛いほど理解しているひとりである。

この後、近くに『渡辺淳一文学館』があるのは知っていたが、私は興味がなかったのである。

私の拙(つたな)い読書歴からして、小説家・渡辺淳一氏の作品は、
初期から『ひとひらの雪』の前までは賞賛したが、これ以降の作品に失望している。
亡くなわれた小説家・立原正秋の遺された作品を読めば、
男女の世界を描いても歴然と明確になる。

このような思いで、『北海道文学館』を名残惜しく後にした。



          最終章 旅の終りは、『朝市食堂』・・♪

25日の旅の最終日、9時半過ぎにホテルをチェック・アウトし、
荷物が増えたので、やむえず札幌駅までタクシーを利用した。

私は旅先に於いては、原則として公共の交通機関を利用し、
その地にお住まいの人々の特徴を知る最もすぐれた手掛かりとなるので、
今回の滞在中、地下鉄、バスなど乗ったり、或いは徒歩で市内の街並みを散策したのである。
そして、言葉のアクセント、何気ないしぐさ等を学んだりしたのである。

札幌駅より電車で新千歳空港に行き、
何かしら昼食代わりにと食事処を探したのである。
1階の到着&サービス施設のフロアで食事処の中で、『朝市食堂』と明示された所を入り、頂いたのであるが、
想像以上に魚介類は新鮮で、程々のお値段で、美味しかったのである。

http://www.bfh.jp/theme/theme_searchdetail.html/80000570
新千歳空港『朝市食堂』


従来、この新千歳空港内は、洋風の食事処を利用してきたが、
今後、空港内の食事時の場合は、この『朝市食堂』は心身の波長が合うので利用しょう、
と私は家内に明言したりした。


私達の乗る航空便は予定より20分遅れで、新千歳空港を離陸した。

                            (終り)


このように私たちの旅行を綴った翌日、
【 冬の札幌の旅から帰宅し、歳末に向けて私は・・。】
と題して、投稿している。

【・・
東京郊外の調布市に住む私達夫婦は、札幌に21日~25日まで4泊5日で滞在し、
市内を散策したりしたが、積雪が5センチ前後で、
郊外の中島公園付近でも15センチ前後であり、
雪の少なさと予測していたほど寒くなく、驚いたりしていた。
25日の昼下り、新千歳空港の航空便も20分遅れ程度であった。

26日の東京郊外の自宅付近は、
朝の6時過ぎは1度前後、昼時は7度前後となり、
曇り空の中、ときおり風が強く吹く、寒い日中となった。

私はこのサイトに綴ったりし、家内は掃除、洗濯などしていたが、
テレビのニュースで、新千歳空港が朝より風雪で、午後の4時ごろまで欠航となり、
利用客も大幅に予定が変更され混乱をし、道内の各地も激しい風雪となり、
と報じていたのである。

私達の当初の旅程は、22日~26日まで滞在し、
クリスマスの時節を札幌で満喫する予定であったが、
28日から家内の母を自宅に来て貰い、年始まで共に過ごすので、
慌しい期間となることもあり、21日~25日としたのである。

このようなこともあり、北海道の道民のお方たちには不謹慎ながら、
日程を早めたのが良かった、と私達は感じたのである。

翌日のニュース等で、急激な寒波による風雪の激しさを報じていた。

昨日の27日の東京郊外は、朝の6時過ぎはマイナス4度、
昼下りも8度前後の寒さであったが、
風もなく穏(おだ)やかな冬晴れるの日中となった。
(略)
・・】


このように私たち夫婦の札幌のクリスマスの時、
初めて訪れた街に思いを馳せながら、私は読んだりしたのである。


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私なりの『札幌クリスマス&イルミネーション』の想いで・・。 《上》 【2009.11.19..】  【再掲載】

2010-12-15 08:00:00 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
どんよりとした曇り空の朝を迎え、日中のひととき小雨が予測され、
12月中旬のような寒い日となっている。

午前中のひととき、私は家内との共通趣味は国内旅行であり、
これからの旅行のことで話し合ったりしたのである。

現在予定しているのは、来年の二月頃に小笠原諸島で鯨(クジラ)を観に行く予約をしている。
家内が海上で鯨(クジラ)を遊泳しているのが観てみたいわ、と云ったのがはじまりで、
私達夫婦は海外旅行は苦手であるので、小笠原諸島にしょうとした上で、
鯨(クジラ)を最も観られる確立の高い2月前後が良いかしら、と思案したのである。
そして小笠原諸島に定期船の程ほどのクラスの船室で往復して、
ホテルのように宿泊設備のある場所に一週間滞在するプランを作成し、予約しているのである。

しかし、その間、雪景色の情景も恋しく、
温泉のある観光ホテルに3泊4日前後で滞在するプランを話し合ったりしているのである。

東北の八幡平、北海道の阿寒湖、屈斜路湖の付近の川湯温泉などを旅行会社から送付されてくる雑誌で、
温泉滞在のフリー・プランを見たりして、検討したのであったが、
一長一短で決まらなかったのである。

この後、私は独りでCDラジカセで音楽棚より一枚のCDを取りだして聴いたりしたのである。
中島みゆき女史の『歌でしか言えない』と題されたアルバムで、
1991(平成3)年10月23日に発売され、当時の私は平成元年から平成5年の頃までは、
中島みゆき女史の名曲に熱愛し、殆ど毎日聴いていた時代であった。

この後は平熱となったが、平常心で聴いたりしているが相変わらず思いは深く、
心に秘めた曲は少なくとも百曲ばかりはある。

このようなことを思いながら、9曲目の『サッポロSNOWY』も聴いたりした・・。

http://www.youtube.com/watch?v=thJOEwMUtdI
☆【『サッポロSNOWY』作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき 】☆


そして聴き終ると、
昨年のクリスマスの頃に札幌の情景が蘇ってきたのである・・。

私はこのサイトにも、この頃の思いをつづっているので、読みだしたのである。



【 東京の田舎者、冬の札幌を訪れる時・・♪  】
と題して、昨年の2008年12月20に投稿していた。

【・・
(略)
家内との共通の趣味は、国内旅行なので、若き現役時代の頃から、四季折々各地を訪れている。

北海道に関しては、私は高校時代の修学旅行で5月の時、
上野駅から夜行列車で青森駅に着いた後、青函連絡船に乗船し、函館から12泊13日間の概要一周であったが、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、
車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。

私は結婚してからは、家内と共に、
長野県、北陸地方、東北地方などを主体として旅行をしていたが、
会社の夏季休暇で利用し、夫婦として初めての北海道は道南コースを周遊した。
札幌に宿泊し、大沼、函館の宿泊であった。

その後の道内は、晩秋に知床のウトロ、屈斜路湖の付近の川湯温泉に宿泊し、
道東地方を周遊した。
この時に、やはり北海道は冬に限る、と互いに感じたりしたのであった。


その後、東北の温泉がある地域の雪のある時節、冬の旅を2泊3日前後で幾たびも旅行をしていたが、
勤続記念で特別休暇を頂いた時、流氷と雪まつりを兼ねて、冬の北海道を初めて訪れたのであった。

2月の初旬、網走の郊外の能取岬の途中にある海岸に接したホテルに2泊し、
流氷の接岸を待ちわびたが、残念ながら遠のき、やむえず知床のウトロまで流氷を求めて行ったりした。
念願叶(かな)ってウトロの直前で、流氷の荘厳な光景が観られたのである。
そして、網走から札幌まで日中、特急で移動した後、小樽に宿泊した。

この後は札幌に2泊したが、
網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきたせいか、
札幌駅、周辺の広大さには驚いたのである。
そして、雪祭りを観たり、郊外の自衛隊の基地にイベントを観たり、市内を散策したのであった。

このことは、このサイトにも幾度も綴っているので、省略する。

その後の道内は、私の定年退職前、
日本のてっぺんで元旦を迎えよう、と称した団体観光ツアーに参加した。
年末に釧路空港に着陸した後、バスで釧路湿原を通り過ぎ、
屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊した。

蟹(カニ)食べ放題の夕食後、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆき女史が『地上の星』を唄っていた・・。

翌日、元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。

そして、市内のホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下したのである。

旅の終わりの寸前、郊外の根雪となった羊が丘で散策している時、
札幌の市内の情景を観ながら、
お正月の旅行も終ったね、と私は家内と笑いあったりしていた。


この後の道内は、定年退職後となり、
5月頃に観光船に乗船し、知床岬の先端まで航路する魅力に誘われ、道内を観たり、
晩秋の頃に新潟港からフェリーで小樽港に行き、その後は晩秋の道内の情景を観るツアーに参加した。

この後は、家内の母が生きているうちに北海道を観てみたい、
と要望により私達3人は7泊8日で道北、道東を観たりしたが、
このサイトにも綴っているので省略する。


道内の冬の旅は、たった2度ばかりであるが、それなりに深い思い出として、心に残っている。

私達夫婦は、マイナス20度前後に耐えられる軽登山靴、冬ズボン、
セーター、冬用のフィールド・ジャケット、
そして私は登山用の冬帽子、家内はロシア婦人用の帽子・・このような姿で道内、東北の雪のある時節を旅行している。

今回は、札幌の『第28回 さっぽろホワイト・イルミネーション』とかを、
生まれて初めて、 観たりするので、
まさに田舎者が都心でウロウロする状況と似ているかしら、と苦笑したりしている。


私は過日、このサイトで、
【遅ればせながら、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観ることに・・♪】
と題して、12月15日で投稿している。

こうした思いは変わらないので、あえて再掲載をする。

【・・
私達夫婦は21日から4泊5日で札幌市内に宿泊するのであり、
家内の誕生日のプレゼントを要望を訊(き)いた時、
家内は動物好きであり、旭山動物園で雪の上でヨチヨチ歩きをするペンギンの群れを観たい 、
と云われたのである。

私達は北海道には四季折々訪ね、
少なくとも旭山動物園には春と秋の頃に、観たりしているが、冬季の雪のある時は未知であった。

http://www5.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/
☆旭山動物園ホームページ☆

私は家内の要望を叶える為に、ネットで色々と検索し、
家内に選定して貰ったのが、市内の格安ホテルに滞在するプランであった。
そして、このプランは1日だけ旭山動物園に往復し、3時間ばかり観ることのできるサービスがあった。

その上、家内は本格的なクリスマス用のイルミネーションの情景を観たことがないし、
私にしても、イルミネーションなどは婦女子の観るものだ、と思っていたので、
私達にとっては未知の世界であった。

そして雪の降る『さっぽろホワイト・イルミネーション』の街並みの情景も良いかしら、
と私達は話したりしたのである。

http://www.sweb.co.jp/kanko/white/

http://www.city.sapporo.jp/christmas-market/

そして私はイルミネーションのイベントが期待以下であったならば、
居酒屋で地酒を呑みながら、地魚を誉(ほめ)るのも良し、と思ったりしたのである。

或いは、秘かに20年熱愛している中島みゆき女史の歌にあるように、
『南三条』を心の中で唄いながら、散策するのも良し、と思ったりした。
・・】

このように勝手な思いを重ねたりしているが、
私達夫婦は田舎者のような容姿と心情で行くので、迷子にならなければ良し、
と東京の郊外からすれば異国のような札幌市内を浮べ、少し心配したりしている。

                               《つづく》

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冬の大和路、短かな旅は夢幻と現(うつつ)のなか。 【2009.1.24. ~ 1.25】  【再掲載】

2010-12-14 07:00:00 | 旅のあれこれ
私は旅先に於いては、原則として投稿をしない方針である。

もとより携帯電話も使えない身であり、モバイル・ノートパソコンもないので、
今回、青森地域の旅行の間は、投稿はできないので、
これまで『冬の旅』を重ねてきた一部で、年末年始の旅を除き、再掲載する。


昨年の1月24日に奈良の『若草山 山焼き』を観る為に、
奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れた。

『東京駅』から『名古屋駅』まで新幹線の《こだま》に乗車した後、
観光パスで、大和路の『西大寺』に寄り、
『若草山 山焼き』観た後は奈良市内のホテルに宿泊する。
翌日は、『長谷寺』と『室生寺』を鑑賞した後、帰路する短かな旅行である。


この旅に於いて、『若草山 山焼き』は家内のお好みで、
私は何より未知の『室生寺』にあこがれがあるので、小雪が舞い降る中で『室生寺』の情景が観られれば、
無上の悦(よろこ)びと思っている程度の男である。



    第一章 みゆき舞い降る『西大寺』


新幹線の『名古屋駅』を下車後、指定の観光バスに乗車する寸前、
晴れ渡った中、ひとひら、ふたひらと小雪が舞ってきた。

奈良市の街中の『西大寺』まで、小雪が降ったり、晴れ間となったりし、
うつろいやすい冬の情景が変貌したりした。

無学な私は『西大寺』が街の中で、ひっそりと程々の規模であったのはあったので、
私は少し驚いたのである。

奈良時代の天平期に創建された頃は、
東の東大寺と対応するように西の大寺として西大寺があったが、
平安時代には衰退し、鎌倉時代の中期の頃に、
ひとりの名僧の叡尊により復興した、と伝えられている。

http://www.naranet.co.jp/saidaiji/

端正ですこやかな『釈迦如来立像』、
つぶやな瞳で何かを訴えるような『善財童子』はさることながら、
私はやはり西大寺を復興させながら、多くの僧侶からはもとより、民衆からも尊敬され、
親しまれた叡尊に心を寄せられたのである。
そして、このお方の『興正菩薩叡尊坐像』に見惚(みと)れたのである。

家内と多くの人たちは、『愛染明王坐像』の秘佛特別開扉で、
説明を聞き入っていたが、私は興味がなく、
小雪の舞う中、境内を歩き廻ったり、しばらく土塀を眺めたりしていた。

そして、遙かかなたの時代、民衆の貧しくも苦楽の営みの中、
天皇はもとより、時の権力者に対し、仏教による民衆の救済を武器に、
毅然と求道しながらも、確かなひとつの権力者への軌跡をたどった人に思いを馳せた。



    第二章 『若草山 山焼き』の後には

『西大寺』を観た後、宿泊する『日航ホテル 奈良』に観光バスは向ったが、
市内の道路は、『若草山 山焼き』を観に行く方たちで、
自動車で渋滞であった。

そして、予定時間より遅れ、『日航ホテル 奈良』に到着した。

http://www.nikkonara.jp/

ホテルに入室後、窓べから市内の街並み眺めた後、
私達夫婦は『山焼き』を観る為に、4時半過ぎに三条通りを歩き始め、
春日大社の方面を目指した。

私は途中で『猿沢池』に立ち寄り、
私が敬愛している亡くなわれた作家・立原正秋氏を偲(しの)ぶ為、
しばらく湖面や周辺の情景を眺めていた。

作家・立原正秋氏が若き頃に、大和路を歩かれた折、

馬酔木(あしび)さく奈良公園に
   たたずむもなみだながせし二十歳(はたち)のなつかしき

                     作・立原正秋

このような短歌を私は想いだし、亡き作家に愛惜を重ねたのである。

そして、前方の状景を改めて見上げた時、『興福寺』の五重塔がひっそりとたたずんでいた・・。


この後、私達は春日大社の長い表参道を歩いたが、
無念ながら大社の門は時間が過ぎて閉門なり、
『山焼き』を観る場所は、視界の開けた飛火野の地が最良と思い、
『山焼き』の開始前の合図として花火を打ち上げるのを待ちわびたのである。

http://www.kasugano.com/wakakusayama/

暗くなった夜空に、星が10数個がまばたいて折、
私の住む街よりも美麗であった。
そして、花火の打ち上げの音(ね)の後、数秒後に夜の空を彩(いろど)ったのである。

この後は、若草山は予定通り点火され、山裾から燃え始めたのであるが、
過日に雨が降ったためか、期待したより燃え上がらず、
私達は諦(あきら)めて、『東大寺』に行ったが、
やはり閉門と知り、宿泊先のホテルに戻ったのである。


風呂を上がった後、ぼんやりと純米酒を呑みだし、

  秋篠の名をなつかしみ
      そのかみこの道を行きし

               正秋

と捺印された一枚の色紙を想いだした。


この一枚の色紙は、
角川書店が立原正秋三周忌記念出版として『立原正秋 全集』(全24巻)を
昭和59年に発刊した時、
予約した中で希望者に抽選で配布された稀な色紙である。

私は敬愛している作家であったので、即急に予約し、
幸運にも頂けたひとりであり、私のカラス戸のある本棚で
いつでも拝見できるようにし、早くも25年が過ぎようとしている。



    第三章 『長谷寺』は限りなく優(やさ)しく

観光バスが『長谷寺』の近くを走ると、車窓からは里の情景となった。

私は『長谷寺』は初めて訪れるので『仁王門』を見上げた後、
ゆるやかな昇り廊を歩き始めが、
歩幅は和服の裾が乱れることなく歩ける、と余計なことを思ったりした。

そして、左右に牡丹(ボタン)園となって折、幾重にも牡丹が植えられて、
寒牡丹がひっそりと10数輪が彩っていた。

http://www.hasedera.or.jp/

『花の御寺』として名高く、四季折々、花木と草花で彩(いろど)られ、
この時節には、寒牡丹、山茶花(さざんか)、蝋梅(ロウバイ)、福寿草、雪割草、
と解説書に明記されているが、
私は花がなくとも、それなりの時節を想像できるので、
あればそれに越したことはないと思う程度である。

本堂にある大きな『十一面観世音菩薩』、
金文字で大きく『大哀閣』と明示された額などは興味はなく、
ただ山の中腹に張り出すような板の間からの前方の雄大な展望は、
遠方の空を眺めたりすると、それぞれの時の権力者の姿が浮べ、
歴史に埋もれた人たちも浮かび上がってくるように思えたりしたのである。

この後、早春の暖かな陽射しにつつまれた中、
『弘法大師御影堂』を観たり、『五重塔』を眺めたりした後、
歩道を下り、休み処で椅子に腰掛けて、温かいペットボトルの煎茶を飲んだりしていた・・。

そして、煙草を喫いながら、前方の傾斜の落葉樹を眺め、
見上げると『五重塔』が観えて、視界全体が一幅の絵のように私は観えたのである。
私は少しため息をしながら、見惚(みと)れていたのである。

私はこの寺院全体は、限りなく優(やさ)しい情景に思え、
まるで6歳ぐらいの少年が母親の胸元に顔を近づけて甘えているしぐさ、
とも感じられたのである。


長谷寺を辞去すると、土産売り場の店並みがあり、
この中で『奈良漬』の店に家内の後に続いて入ったのである。
私はお酒大好きな呑兵衛のひとりであるので、奈良漬は苦手である。

店内のうり、きゅうり、すいか、かぶら、しょうが、守口大根の種類の多さに驚き、
家内の勧めで、しょうがをひと口を頂いたのであるが
まぎれなく美味で、私は思わず、
『晩酌の・・付け出しにぴったり・・』
と私は家内に囁(ささや)いたのである。

結果として、しょうがを2袋、ネギのように細長い守口大根を1袋を買い求めたのであるが、
このひと味でも、私は少なくとも一日は幸福感をかみ締めることができたのである。

家内と店先を去るとき、
《 本家 白酒屋の奈良漬 》
と私は垂れ幕が見えたりした。



    第四章  秘かに私は恋していた『室生寺』は・・。

観光バスが『室生寺』の近くづくと、周辺の山なみはなだらか状景から鋭角な風景に変貌した。

『室生寺』を参拝する前に、昼食として『山菜料理』を頂くことになって折、
私達は『橋本屋旅館』に入った。

http://www.jtb.co.jp/kokunai/Sight.aspx?bookid=A3903180&categorytype=4

2階の大広間の私の座った処からは、
『室生寺』の門前に架けられた太鼓橋と称された朱色の橋が観え、
そして、室生川は清冽な水が流れ、山里の情景であった。


http://www.mapple.net/spots/G02900020703.htm

サイトの解説に明記されているとおり、
ワラビ、タラの芽、ゼンマイ、ウドなど室生で採れた山菜が小鉢に盛られ、
山菜づくしの料理であり、
素朴な食材を丁重に味付けをしていたので、何よりの私好みの料理であった。


この後、私達は初めて訪れる『室生寺』の大きな仁王門を通り、
鎧坂の自然石の石段を登り上がると、忽然と金堂が観えたのである。

http://www.murouji.or.jp/

私は無念ながら仏像を視(み)る素養がないので、
少しばかり見たりした後,
本堂を通り過ぎ、石段を昇ると、杉木立の中に、五重塔があった。

大きな杉木立の中、森厳につつまれ、優美で気品を秘めた姿であった。
しばらく私は見惚(みと)れて、ため息をした・・。
私は20代のなかばより、いつの日にか、この方にお逢いしたい、
と片思いを続けてきた男のひとりであった。

そして、まぎれない美を目の前にすると、
私は心が高まり、少し照れながら、塔の全貌を眺めたりしたのである。


この後は、奥の院に向う歩道は、
樹齢何百年か定かでないが、杉の巨木が山の斜面に限りないほどあり、
その間の空間からは前方の山なみが観え、広大な一幅の絵となり、
圧倒的な存在の光景となり、確固たる森厳の中、
山林仏教を求道した古人の僧侶たちの思いが、少し解かったような思いとなったのである。


帰路、お守りなどを販売している所で、
一冊の本に目が止まり、買い求めたのである。
『女人高野 室生寺』と題された美麗な本で、表紙には五重塔であり、
《 国宝 室生寺五重塔  落慶記念 》と帯に明記されていた。

私は2500円と見本品の隅に書かれていたが、
この『女人高野 室生寺』の本は、どこにも定価は印刷されておらず、
私が高校時代より数多くの本を買い求めてきたが、初めての経験であり、
私は微笑しながら、昔の女子学生のような大切に本を抱(かか)えながら、
観光バスの駐車している集合場所に向ったのである。


    最終章  旅の終わりは、同行グループのご夫婦と談笑し・・。


今回の短か奈良の旅も名古屋駅で、東京駅行きの新幹線の『こだま』に乗車する為、
駅の構内で時間調整をしていた。
団体観光ツアーだったので、所定の集合場所と時間を決められていたが、
早めに所定の場所に私達夫婦は行った。

私達が参加した今回のツアーは40数名で、何かしらキャンセル待ちの人々がいた、
と聞いたりした折、旅行会社の企画としては成功部類かしら、
と私は微笑んだりしていた。

このような思いでいたら、家内は私達と同じツアーのご夫婦と談笑していた。
私は今回の団体観光ツアーの人たちとは、
観光バスで休息地、観光先、ホテルのチェック・アウト後のひとときなどで、
同行グループとは余り会話をすることがなかったことに改めて気付き、
異例のことでもあった。

家内とご夫婦の方と、以前に旅行した思い出話をしていたが、
奥様が私の方を見て、微笑みながら、
『ご主人さま・・あなた方を見ていて・・羨ましいわ
だって・・ご主人は奥様のことを・・XXちゃん・・とお名前を呼ばれるんですもの・・
最初・・聴こえた時は・・びっくりしたわよ・・』
と云われたのである。

『・・婚約する前から・・呼んでいましたので・・』
と私は少し戸惑い、そして照れながら云ったりしたのである。

この後、私は主人と旅のこぼれ話を談笑したのである。

私より5歳ぐらい齢上の方の主人であったが、
私達夫婦は40代の頃から、団体観光ツアーに参加した折、
ご夫婦の方たちのしぐさ、言葉、そして会話をしたりし、
人生の教科書として、多くを学んだりしてきた。
そして、私達もあのように60,70代を迎えたいね、
と私は家内の話したりしてきたのである。


東京駅から自宅に着くまで、1時間で有ったので、
日曜日のせいか10分早かったね、と私は家内に云いながら、
門扉を開けた。
そして玄関までの薄暗い中、石段を上がる途中、
玄関庭の白梅が5輪ばかり咲き、私達を出迎えてくれた。


                             (終わり)

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若葉の彩(いろど)る頃の青森紀行・・。【2010.5.24.~6.2.】  【下】  《再掲載》

2010-12-13 15:35:01 | 旅のあれこれ
       第6章  この後の『竜飛崎』を散策すれば

5月28日の朝、24日に東京から旅立って以来、晴れ渡った朝を迎えた。
雨時々曇りの日が続き、走り梅雨の時節であっても、
勘弁して欲しい、というのが本音であった。
海上の彼方の北海道が明確に観え、私達は微笑んだりした。

9時過ぎに宿泊している観光ホテルを出て、
国道でありながら歩道で階段の道を下り、海岸に近い道路に下り立ち、
歩道を歩き、波除のテトラポットにカモメが群れていた。

この後、作家・太宰治、版画家・棟方志功のゆかりの宿として名高い『龍飛館』に向った。
この館は、龍飛岬観光案内所でもあり、
下記のようなブログで龍飛岬だよりも掲載されている。

http://ameblo.jp/tappikankou/
☆龍飛岬観光案内所 龍飛岬だより ☆

私は今回の旅の前に、太宰治・著の『津軽』を45年ぶりに読み返したりし、
この方への思いは強いが,
館内を拝見すると、この地の『昭和30年代の写真』を見たり、
この地の情景を撮られた映画・テレビドラマの作品に関わった『俳優の部屋』で、
あの作品もこの龍飛岬だったのか、と観賞した作品に思いを馳せたりした。


私が館内で何よりも感銘を受けたのは、
画家・高野元高氏が描かれた『北の浜』であった。
私は絵の世界はまったく判らないが、私なりの感覚として魅せられたのである。

海岸沿いの岩をノミなどの荒い削りで、トンネルを通し、
このトンネルの先は海岸に波のしぶきがかかるような道、
そして彼方に人家がある過酷な厳冬の情景であった・・。

私には、この地を表現された数多くの創作者がいるが、
このたった一枚の絵こそ、まぎれない渾身の作品として、受け止めたのである。


この後、岬に連なっている帯島を観たりし、
ふたたび階段の国道の歩道を上り、灯台を観ながら、
展望台の周辺を2時間ばかり散策した。

そして宿泊の観光ホテルに戻った。

http://www.hoteltappi.co.jp/
☆『ホテル竜飛』 ホームページ ☆

このホームページに掲載されている通り、
海岸沿いの国道から切立った崖の80メートルぐらい上の台地にあるので、
館内のロービー、大浴場、そして私達の部屋からも、
洋上の彼方に北海道が観え、岬に連なった帯島も観られる景観の良いホテルであった。

このような所を3泊した後、
青森市に戻るので、ホテルのマイクロバスで宿泊者の方と共に送迎と予定していたが、
女将のご好意で、女将の乗用車で運転者付きで青森駅まで戻ることとなった。

私達は運転者の話し言葉に好感を抱き、談笑を重ねたりした。
そして青森駅の前で下車し、いくばくかの礼金を手渡した。



       第7章  八甲田に抱かれた『酸ヶ湯』温泉は・・。

5月30日の10時過ぎに青森駅の前、
午後の1時に『酸ヶ湯』の送迎バスを待つ間、新町の商店街を歩き、
家内は和菓子、私は本屋に寄り、二冊の本を買い求めたり、
コーヒー・ショップで軽食を頂いたりした。

この後、『酸ヶ湯』の送迎バスに乗車し、青森の街を後にすると、
八甲田の山並みが観えた。
もとより八甲田は、八つの山の連峰で所々の山すその沢では、
残雪が多く、厳しい冬の時節を思い馳せれば了解できた。

『酸ヶ湯』の温泉宿までは、1時間15分ぐらいの乗車時間であった。

http://www.sukayu.jp/
☆『酸ヶ湯』 ホームページ ☆

このホームページに紹介されているように、
八甲田に抱かれた標高925メートルにある『いで湯』の温泉宿であり、
快晴のまばゆい昼下がりの中、食事処で、
そば粉100%と称される酸ヶ湯そばを頂いたが、素朴ながら、
確かな深い味わいであった。

この後、フロントで『酸ヶ湯周辺散策図』を頂き、
私達は地獄沼、賽の河原、木の細長いベンチに座れば温まる『まんじゅうふかし』、
そして東北大の付属植物園の雑木林を散策した。

そして宿泊先の館内で入り、
古き300年からの今日まで修理、補強、或いは増築などが実感させられ、
『旅館部』50室、『湯治部』80室の部屋に分離されていた。
いずれも部屋にはトイレもなく、『旅館部』だけは部屋食となっていた。

家内は狭い部屋で布団埃りする中、部屋食を険悪し、
『湯治部』を選定し、食事処で夕食、朝食を頂く方法としたが、
湯治部の指定された部屋に入ったが、余りにも素朴過ぎたのが本音であった。


やむえず私は、総ヒバ造りの大浴場の『ヒバ千人風呂』、
この後は『玉の湯』に入浴した後、休憩室と喫煙室に行ったりしていた。

そして休憩室には、写真や詩、俳句、短歌などが掲げられ、
この中のひとつに私は魅せられたのである。

 みちのくの
   吹雪く
     湯船に
 心安ぐ
   還暦の旅

     大和の旅人

このように記憶しているが、達筆な筆づかいで書かれていた。

私は歌も詠めず、習字も怠り、こうした人の前では、
思わず降参します、と心の中で反復したりしていた。


食事処は夕食、朝食とも山菜中心であり、まぎれなく美味であった。
都心の食事処で山菜を料理される方、この食事処で勉強しなさい、
と思いながら、私は頂いた。
その上、食事処の担当される30代から40代の方たちが、
綺麗な顔立ち、本来のしぐさを備え、都心より遥かに青森の方は美人が多いと感じたのである。

このことはフロント、周辺の方たちは20歳前後の女性が多い中でも感じたことであり、
はつらつとしたしぐさで、笑顔をたたえて、小奇麗な顔立ちであった。

そして私は恥ずかしながら、食事処、フロントなどで見かけた限りの女性が黒髪で、
見惚(みと)れたりした。

このような思いで、翌日の5月31日は、次の宿泊地の『蔦(つた)温泉』に向ったのである。

余談ながら、家内は黒髪で、昨今60歳となっているので、
ところにより白髪が目立つので、ときおり黒く染めたりしている。



      第8章  ブナ林に囲まれた『蔦(つた)温泉』は・・。

5月31日の10時過ぎに『酸ヶ湯』からは、十和田湖方面の路線バスに乗車し、
芽吹き、新緑、そして若葉がそれぞれの落葉樹により異なるが、
みずみずしいたわわな葉は陽射しを受けてきらめいたりする中、
バスでわずか30分足らずで、『蔦温泉』に到着した。

この広いブナを中心とした中で、たった一軒の宿である。

http://www.thuta.co.jp/index_p.cgi
☆『蔦温泉旅館』ホームページ☆

このホームページの『ぶなの森』の欄で掲載されている通り、
《・・
蔦温泉の周辺にはぶなの森を縫うように約2.4Km、
時間にして約一時間程の遊歩道が整備されています。

この遊歩道をひとまわりすると、蔦七沼と称される湖沼群の内、六つの沼を巡るこ
とができます。
大小様々な沼の水面に映るぶなの森が人々を魅了します。
・・》
このように解説され、私達は旅立つ前に調べたりしていたので、
チエック・イン前に歩き出した・・。

整備された遊歩道を歩き、ヤチダモ、オニグルミ、サワグルミを見たり、
ブナ、ミズナラの大木は、聳え立つように数多くあり、
私は圧倒された。

私は見惚(みと)れたり、デジカメで10数枚を撮ったりしていると、
たまたま通りがけの70代なかばの男性で、この付近にお住まいの方から、教えて頂いた・・。

ほんの一ヶ月前の頃は、落葉していた広葉樹が冬芽から春芽に育ち、
若葉が芽吹く直前に、
紅葉や萌黄色になる数週間の樹木の芽は鮮やかに萌える彩りとなる。
こうした光景を古来の人たちから、春もみじ、と称してきた。

この地のブナ林は、5月初めに芽吹き、そして萌黄色の葉、そして新緑となり、
下旬の頃には若葉とまたたくまに色合い染める。

このブナ林は、原生林だったが、
明治の初期の頃は薪や木炭を作る為に伐採されたりしたが、
秋に数多くの落ちた種子が自然に発芽して育ったブナで、樹齢100年前後が多い。
しかし中には、伐採されなかった数百年の大木も数多くある。

そして紅葉の10月中旬から下旬になれば、
ブナ、カツラ、トチノキの大木は、黄色に染めはじめて、
やがて葉が散る頃に、
ヤマモミジ、カエデ、ナナカマドが朱紅色、紅色に染められて、
数週間後には雪が舞い降る、
と錦繍期の情景も教示してくれた。

このような確かな言葉に、私は礼を重ねた後、別れた。


私達はブナ、トチノキ、カツラなど見たり、見上げたりしていると、
カエルの鳴き声と共に、蝉(セミ)の鳴き声が響いてきたので、
この時期にどうしてなの、と驚いたのである。
この後、温泉旅館で夕食を頂く前に、
エゾハルゼミですわ、と仲居さんから教えられた。
私は、蝦夷・・春・・蝉・・、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この豊かなブナ林で、渓流もあり、
私はムラサキ・ヤシオ・ツツジにも魅了された。
紫色に濃い桃色、或いは桃色に紫色を混ぜ合わせた色合いで、
渓流の中にある小岩に根を下ろして、恥ずかしげに咲いていた。
こうした情景を眺め、しばらく私はたたずんだりした。

私達はゆったりとブナ林をさまように2時間ばかり歩き、
お互いに至福の思いで、温泉旅館に向った。



       第9章  『蔦温泉旅館』の館内は・・。

私達はブナ林をゆったりと散策した後、
蔦温泉旅館の食事処の昼食とした。
私は少し汗ばんだので、ビールを呑みながら、
冷たい稲庭うどん、セットされたおいなりさんを頂いた。

私達が昼食を終る頃、
お部屋の用意ができました、と館内の仲居さんから連絡を受けた。

http://www.thuta.co.jp/index_p.cgi
☆『蔦温泉旅館』ホームページ☆

この後、館内を歩くたびに、私は驚かれされた。
この本館は天井、柱は周辺の森から切り出された材木がふんだんに取り入れ、
エンジュの長押、トチの樹のコブを生かした装飾の数々・・
一部は築後100年近いもあり、書院造りの床の間も豪壮で、
そして別館へのは本館から60段の優美な存在感のある階段は圧巻であった。

私達の宿泊した部屋は、20数年前の建てられた西館で近代的な造りであったが、
窓辺からのブナの森が隣接していたので、
早朝、朝、昼下がり、夕暮れの陽射しのうつろいが、樹木の枝葉を照らす輝き、
見飽きることのない光景であった。
そして、夜には満天の星空が観られた、格別に景観の良く、
私達は幾度も、その時々に見惚(みと)れたりしたのである。

私は浴室に行った時、仰天させられた。
2泊している間、男女別の『泉響の湯』、そして男女交代制の『久安の湯』に、
何度も通った・・。
しかし最初に入った時、観光ホテルなどにある洗い場の湯の蛇口、シャワーもなく、
私はどうして、と驚ろいた。
そしてボデー・ソープのみがあり、困ったなあ、というのが本音であった。

やむえず私は、掛け湯の90センチ正方形の湯船から湯桶で幾度もかけ、
ボデー・ソープをタオルにたらして、身体にこすった後、
掛け湯から湯桶で幾度もかけたり、
髪毛にボデー・ソープをたらして、髪の毛をこすり、
そして身も心も清めようと掛け湯から湯桶で幾度もかけたりしたのであった。
部屋に戻った後、ヘアー・シャンプが備品としてあったので、
私は苦笑した。


肝要の湯舟であるが、ホームページにある言葉をお借りすれば、
《・・
蔦温泉のお風呂はいずれも源泉の上に浴槽があり、
ぶなを使用した湯船の底板から湧き出す、
手が加えられていない「生の湯」をお楽しみいただけます。

「湯がこなれている」「こなれていない」という表現をしますが、
湯が空気に触れた度合いを言葉で表現したものです。
こなれていない温泉は刺激があり最初熱く感じます。

蔦温泉の「生の湯」というのも「こなれていない」湯のことであり、
当然最初は熱く感じます。
しかし二度三度と入るにつれ、やさしい湯であることが実感できるはずです。
・・》

このように解説されているが
湯船の底板はブナの感触を楽しみ、鈍(にぶ)児の私は最初からやさしい湯と感じ、
ヒバ材をふんだんに使用され、天井も遥か三階のような高さを見上げたり、
10分ぐらい浸かっていると、身も心も温まる湯であった。

夕食は苦手な部屋食であったが、
山菜のタラの芽、山ウド、ゼンマイ、ワラビ、フキノトウなど、
素材を生かし、創意工夫のある料理である。
そして朝食も含め、何気ない素材でも、料理された方の良心が感じられる数々で、
都心の少しばかり高級な食事処より遥かに素朴で上品な味であった。


この旅館は、建物の背景にブナ林があり、
遊歩道も整備され、身近にブナ林を散策でき、芽吹き、新緑、若葉の春の情景、
夏はたわわな葉で涼しく、
錦繍の時節には、黄色、朱色などに染まり、そして落葉、
そして落葉樹は舞い降る雪となり、静寂な冬眠のような情景、
いずれの季節も、多くの方たちに魅了させる稀な立地かしら、
と私なりに思ったりしている。
そして数多くある観光ホテルより、館内の建物、人も、
素朴さと品格のある圧倒的な存在さである。

尚、余談ながら館内で見かけた仲居さんの3名は、
私が見た限りは、日本広しといえども有数な美人であり、
都心で際立った美人といわれる方より、遥かに凌駕していることを付記しておく。



       最終章  旅の終わりは、東北新幹線『はやて』

6月2日
旅行の最終日、蔦温泉の『蔦温泉旅館』で快晴の朝に恵まれ、
私達は8時半過ぎにチエック・アウトし、
少しばかり親しくなった仲居さんに、
『雪のある冬の情景を観に・・また来たいです』
と家内は微笑みながら云ったりした。

旅館前のバス停で9時過ぎの青森駅行きの路線バスに乗り、
八甲田山の山峰を眺めながら、青森駅に10時45分に到着した。
そして、青森駅11時40分発の特急『つがる』に待ち時間があったので、
コーヒー・ショップでサンドイッチをコーヒーを飲みながら、頂いた。

八戸駅に下車したのは、12時40分過ぎで、
家内の要望であるウミネコを観る為に、鮫駅に行き、
ウミネコの名所である蕪島に寄った後、ふたたび八戸駅に戻った。

この後、八戸駅発の新幹線『はやて30号』は、
午後6時57分であり、待ち時間が2時間ばかりあったので、
駅前の付近のビルのレストランで夕食した。

そして、私はビールを呑みながら、
『長いような旅行であったが・・こうして終わりを迎える・・
あっというまに・・過ぎたね・・』
と私は家内に云ったりした。

家内は旅の初めの頃からの旅程を思い浮かべながら、
私に微笑しながら話した。


5月24日に東京駅から秋田新幹線『こまち』で秋田駅に着いた後、
『リゾートしらかみ』に乗り換えて北上し、ウェスパ椿山駅で下車した後、
日本海に面した青森県の黄金崎温泉の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の新館に3泊した。

この後は、『リゾートしらかみ』で北上し青森駅の終点まで、
そして竜飛岬まで津軽腺とバスを利用して、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊したが、
旅立って4日間ばかりは、雨時々曇りとなり、お互いに苦笑を重ねた。
その後の5日間は快晴に恵まれた状況であった。

竜飛温泉の『ホテル竜飛』の後は、青森駅に戻り、
駅前よりバスで70分ぐらい乗った先の山里にある酸ケ湯(すかゆ)温泉の『酸ケ湯温泉旅館』に1泊した後、
蔦温泉の『蔦温泉旅館』の西館に2泊した。

そして青森駅に戻った後、特急『つがる』で八戸駅で下車した後は、
近くにある鮫駅に移動して、蕪(カブ)島でウミネコを観て、八戸駅に戻り、
八戸駅より東北新幹線『はやて』で東京駅に帰京する9泊10日間の旅行となった。


こうして振り返ると、どの宿泊先の宿は、
甲乙つけがたい思いであり、その地にそれぞれ思いで深い日々を過ごした。
このようなことを私達は、微笑みながら話したりした。

八戸駅で『はやて』に予定通り乗車し、
車内の席で家内は、
『雪降る頃に・・もう一度・・このようなコースで来たいわ・・』
と私に呟(つふや)いたりしていた。

私は冬の雪の舞い降る情景は魅了されるひとりであるが、
北東北の冬の時節、風雪の厳しいさなか、果たして交通機関は・・
と思いながらも、
『もう一度、来たいね』
と私は家内に応えた。

                                《終わり》


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若葉の彩(いろど)る頃の青森紀行・・。【2010.5.24.~6.2.】  【上】  《再掲載》

2010-12-13 15:07:12 | 旅のあれこれ
         序章  私達夫婦の35年目の記念旅行

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
家内との共通趣味は旅行であるが、私達は海外旅行は苦手なので、
ときおり国内旅行で各地の四季折々の情景、
その地でめぐり逢えた人たちから風土、文化など学んだりすることが多い。

たまたま私達夫婦の結婚して35年目となり、
記念旅行と称して北東北地方の青森県の一部を周遊した9泊10日間の日程となった
ささやかな紀行を記したものである。



         第1章  旅のはじまりは小雨の中

5月24日
早朝の3時半に起床すると、小雨が降り続いていた。
天気情報に寄れば、この先の数日は雨時々曇りと報じて折、
梅雨の時節の前の長雨が続く走り梅雨かしら、と私は苦笑した。

昨日、予約していたタクシーに自宅に6時に来て頂き、
最寄の成城学園前まで利用し、この後は電車で東京駅に着いたのは6時50分で、
早くも通勤される諸兄諸姉の忙しい姿を見ながら、
申し訳ない、と心情でコーヒー・テラスから眺めたりした。

私も現役の頃は、数多くのサラリーマンと同様に、多忙な身であったので、
平日にのんびりと旅行ができるのは、夢の世界のひとつであった。

『こまち』は定刻通り8時56分に東京駅を発車し、盛岡駅経由で秋田駅方面に向った。
途中の福島駅を通過した頃からは、
小雨降る中をまじかに田畑、少しばかり遠方の里山は霧につつまれ、
そして彼方の山嶺は雨と霧でかすんでいた・・。

盛岡駅を過ぎてまもなく、畑と雑木林、そして里山が車窓が観られ、
ときおり清流の状景が眺められ、墨絵のような情景が展開したりしていた。


『こまち』は午後1時前に予定通り秋田駅に到着し、
私は愛煙家なので、早速喫煙ルームに駆け込んで、煙草に火を点け、
JR東日本の各線は原則として全面禁煙となっているので、
どうしてなの、とぼやきながら乗車時間の4時間ばかり耐えた解放感に充たされた。

こうしたしぐさの私をプラットフォームのはずれで見ていた家内は、
苦笑を重ねていた。

この後、『リゾートしらかみ』の午後2時12分発まで、
秋田駅でJR周遊の特典である駅弁の受け取り、
構内の売店で私は地酒の300ml、家内は熱い煎茶ペットボトルを買い求めたりし
待合室で昼食とした。

地酒を呑みながら、その地の食材を中心にした駅弁を頂き、
その地に住まわれる会話を聞きながら、ひとときを過ごしたのであるが、
まぎれなく文化のひとつと深めたりしていた。


『リゾートしらかみ』は秋田駅から青森駅を結ぶ路線で、
大半は五能腺を走る特急であり、座席もゆったりとし、喫煙室もある優美な列車である。

秋田駅を定時に発車し、能代駅を過ぎ、あきた白神駅の手前の頃から、
日本海の状景が車窓から眺められ、
以前に秋田の竿灯祭りと青森のねぶたを観る為に団体観光バスで車窓から見た情景と、
私なりに重ね合わしたりした。

この後、私達夫婦はウェスパ椿山駅で午後4時20分に下車し、
駅前で待機していた宿泊先の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の送迎バスに乗り込んだ。
小雨の降り続ける中、日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテルには、10分たらず到着した。

そして、この観光ホテルの新館に3泊としていた。

http://www.furofushi.com/ 
☆『黄金崎 不老ふ死温泉』ホームページ☆



         第2章  『黄金崎 不老ふ死温泉』

打ち寄せる波のまじかにある海岸の露天風呂で、
日本海の落陽を眺め・・として名高い観光ホテルであるが、
3泊4日をしたが、雨時々曇りの日々となり、夕陽が洋上に沈む光景は無念ながらめぐり逢えなかった。

しかし、雨が止んだひととき、館内から海岸に向う歩道を百メートルぐらい歩み、
波打ち際に、ひょうたん形の露天風呂がふたつある。
右手は女性専用、左手に男女混浴があり、私は男女混浴の湯船に身体をゆだねたりした。

2日目の午前10時過ぎ、ひとりだけ60代の男性がいるだけで、
長野県の茅野市の方で独り旅で北東北の温泉を廻りながら、旅を楽しまれている人であった。
とりとめない旅先の温泉のことなどを談笑を重ねたりした・・。

館内の大浴場からの日本海の眺めも良く、隣接しているパノラマ展望風呂は、
屋根がある小さな露天風呂のような感じで、洋上の情景がゆったりと眺められるので、
私は朝夕のひとときは、身も心もゆだねたりした。

そして、ロビーの片隅で、青森県の地方紙のひとつの『東奥日報』を読んだりし、
今回の旅の終わりまで何かと愛読したりした。


食事に関しては、日本海のこの地の周辺で獲れる地魚、貝づくしの幸を十二分に賞味でき、
見た目より遥かに美味しく、鮮度抜群が味の基本であることを改めて認識させらた。

私が何よりも魅せられたのは、部屋からの眺めである。
たまたま東館の二階の中央部にある部屋に宿泊したが、
窓辺にある椅子に座り、朝、昼、夕に幾度も眺めたりしたのである。

日本の海岸に多い防波堤のコンクリートやテトラポットなどはなく、
日本海の波が海岸に直接に打ち寄せ、海岸からまじかな洋上の周辺に、
小さな岩が集積して、あたかも小さな列島のように点在し、
こうした列島が幾10か観られ、波を受けたり、しぶきをあびたりしていた・・。
そして引き潮、或いは満潮の時に、うつろいながら変貌した情景を観せていた。

こうした風景を眺めたりしていると、室町時代の頃からの石庭など景観よりも、
遥かに深く魅了させられ、私は飽きずに眺めたりしていた。



         第3章  深浦海岸から青森市、そして竜飛崎

5月27日
『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルに別れを告げ、
私達は送迎バスで五能線のウェスパ椿山駅に向った時、
道路際には芽吹きが終わり新緑に染まり、中には早くも若葉となった落葉樹の中、
ときおり八重桜(ヤエザクラ)が観られ、私はこの地にも春到来を感じ、和(なご)んだりした。

10時35分発の『リゾートしらかみ』で青森駅に向ったが、
深浦駅を過ぎた後の海岸の幾重かの奇岩が美麗な状景を観せたり、
陸奥高田駅の頃からは、田植えの終えた田んぼ、或いはリンゴの果樹園が広がり、
そして彼方に里山の光景となっていた。

この後、弘前駅を停車したが、やはり地方の街の雄であることを感じたりした後、
青森駅の終点に近づくと、やはり地方都市の状景となったりした。
午後1時32分に到着した後、
青森駅の午後3時44分発の電車で津軽半島の海沿いの蟹田(かにた)、
そして終点の三厩(みんやま)津軽腺に乗るまで、
市外の港に繋留されている青函連絡船だった『八甲田丸』に寄った。

私はたった一度だけ1962(昭和37)年に北海道に修学旅行の時、
上野駅発の夜行列車に乗り、翌朝に青森港から青函連絡船に乗り、
函館が観えた時、やっと北海道に来た、と感動を受けた思いもあったりした。

こうした想いも重ねたり、船内の実物の数々を拝見したり、
或いは展示された明治の頃からの変貌に新たに青函連絡船の歴史を学んだりした。

http://www7.ocn.ne.jp/~hakkouda/hakoindex.html
☆青函連絡船メモリアルシップ『八甲田丸』ホームページ☆


遅い昼食をコーヒー・ショップでサンドイッチの軽食した後、
青森駅の午後3時44分発の津軽腺で津軽半島の海沿いの蟹田駅に向ったが、
車中は高校生などの下校時の生徒が多く、
私達は隣席した婦人、高齢の漁師の方と談笑をしたりした。

そして、蟹田、これら向う三厩(みんやま)の戦後の時代のうつろいを学び、
東京首都圏はゆるやかに中産階級は崩壊しつつ、
地方の街は時の景気に大波、小波で翻弄されることが私の感じてきた昨今の思いが、
好悪に関わらず実情であることが認識させられたのである。

終点の三厩駅に午後5時10分に下車し、
路線バスで竜飛岬の漁港前まで乗車したが、竜飛岬近づくたびに、
どんよりとした曇り空、そして夜のとばりがまもなく迎える頃も重なり、
住居の殆どはつつましく最果ての集落と感じ、わびしい心情になったりした。

いずれにしても私達は、この地の竜飛崎温泉の観光ホテル『ホテル竜飛』に3日間宿泊し、
周辺を散策する。
このような思いでぼんやりとしていると、
ホテルの送迎用の乗用車が近づいてきた・・。

そして、私達は『ホテル竜飛』の3階の中央部にある部屋に通され、
洋上が正面に、彼方に北海道・・と戸惑いながらも明確に観え、
左側には竜飛漁港、そして帯島の美景となっていた。

http://www.hoteltappi.co.jp/
☆『ホテル竜飛』ホームページ ☆


         第4章  『青函トンネル記念館』

竜飛崎は、風の岬として多くの人たちから愛称されているが、
私が訪れたかったひとつは、青函トンネルに関して、興味があった・・。
トンネルの工法はもとより地質なども無知な私であるが、
海の底を掘り続け、悪戦苦闘の末、完成させた成果に感動を覚えたからである。

今回の旅の前に、秋永芳郎・著作の『青函トンネル』(講談社)を20数年ぶりに再読したりて、
この当時の前後の青森市、蟹田(かにた)村、三厩(みんやま)村、そして竜飛岬の状況を学び、
各関係者の労苦に感銘を受けたりした。


5月28日の朝、『青函トンネル記念館』までホテルで送迎して下さることを知り、
予定より早めに8時45分過ぎに私達は便乗した。

『青函トンネル記念館』に入館すると、
体験坑道できる龍飛斜坑腺の発車時間がまもないことを知り、
私達はこの特別車両に乗車した・・。

解説書の言葉をお借りれば、
《・・
海底下にある体験坑道で、
ここへ案内してくれるケーブルカーは日本一短い私鉄「青函トンネル竜飛斜坑線」。
わずか8分で海面下140メートルへ到着します。

海面下240メートルに総延長53.85Kmのトンネルがどのようにして造られたのか、
実際に作業坑として使われた一角を展示ゾーンにしており、
所要時間45分で回れるという見学コースになっています。
・・》

このように解説されていたが、地下に下るケーブルカーからの状景は、
子供のように海の下に行く好奇心で私は見つめ、
その上に海の下の140メートルにある作業坑は、
実際に使用された作業坑を眺めたりすると、当時の労苦を判り、
更に技術改良、工夫の果てに完成させた多くの力の結晶に想像したりすると、
圧倒的な存在と私の心にせまってきたのである。

物理学にも無知な私でも、
《・・最深部の圧力は、10円玉に100Kgの圧力となりました・・》
と解説されれば、
この重圧の中で、よくぞ技術改良、創意工夫を重ねて掘り進めて、
半永久的に使用することのできるトンネルを完成させた実態に
まぎれない驚異と認識させられるのである。

http://seikan-tunnel-museum.com/
☆『青函トンネル記念館』ホームページ☆

私は宇宙などには興味は薄いが、目の前の実感性のある実態で、
現在、これからも活用されいる社会性のある青函トンネルには、
身も心も敬意させられてしまう。



       第5章  『津軽海峡冬景色歌詞碑』

私達は『青函トンネル記念館』を出た後、人影のない広い道を歩き、
竜飛崎の灯台に向っている時、霧雨が降りだしてきた・・。
傘を開きだした時、

♪ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
 見知らぬ人が 指をさす

【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】

と聴こえてきたので、彼方の方を見ると、
石碑の前で60代ぐらいの婦人が傘を差しながらたたずんでいた。

私はその方面に歩き出しながら、石川さゆりちゃんの『津軽海峡冬景色歌詞碑』は、
ここだったのか、と理解した。

そして、初期の目的地である『竜飛崎灯台』に向って、
帰路に寄ればよい、と思いながら霧雨から小雨に変る中を歩いた。

岬の高台にある『竜飛崎灯台』は風もなかったが、
見渡す限りの海上を眺めたりしたが、北海道は小雨でけむり、
かすんで視えなかった・・。
明日が晴れ間になるから、もう一度来よう、
と私は家内に云ったりし、先程の『津軽海峡冬景色歌詞碑』に向った。


人影もない歌詞碑の前にたたずみ、中央にある赤いゴムを押すと、
石川さゆりちゃんの歌声が周辺まで響きわたった・・。

♪ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
 見知らぬ人が 指をさす
 息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
 はるかにかすみ 見えるだけ
 さよならあなた 私は帰ります

【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】

私はこのような立派な歌詞碑が建てられて、
さゆりちやんは努力のしがいがあったね、と思ったのである・・。

私は歌手・石川さゆりさんに関しては、熱愛ファンではないが、
少しばかり気になる人で、6通ぐらいはあるサイトに投稿している。
この中のひとつとには、
【今宵のひととき、『石川さゆり』テレビ観覧席】
と題して、2008年1月19日に投稿している。

【・・
昨日、NHKの夜のニュースを視聴した後、番組の予告編が放映していた。

【石川さゆり音楽会~歌手生活35周年記念リサイタル~】と題され、
NHKのBS2で、 1月19日(土曜日)PM9.30~11.00の1時間半にわたり放映する、
と報じていた。

私は、石川さゆりに関しては、
何かしら気になる存在の人であるので、
今宵のひととき、この番組を観ようと思っている・・。


私は昭和45年に大手企業に中途入社し、
その後、一部門がレコード会社として独立し、私は管理畑のコンピュータ専任者として、
従事していたので、制作状況は無知である。

私は歌謡曲関連には、苦手なジャンルであったが、
昭和49年頃になると、『中三トリオ』と称して、
森 昌子、桜田淳子、山口百恵がヒット曲で賑わしていた。
そして、グループとしては、キャンディーズ、その後ピンク・レディーが破竹の勢いの時代であった。

こうした中で、ひとりの美少女がデビューしたが、
他社の歌手であったが、少し気になったのが、
石川さゆりであった。

私なりの美少女の基準として、こうした中でひときわ可愛い存在であった。

ヒット曲に恵まれず、中三トリオの歌手に遅れ、
やっとヒットしたのが昭和52年の『津軽海峡・冬景色』であった。

石川さゆりちゃんが、遅咲きでご免なさい、
と云った思いで、この曲を熱唱しているように私は聴こえた。
この直後の『能登半島』で第一線の歌手として軌道にのった時、
私はレコードのアルバムを購入した。

過日、レコード整理したいた時に、このアルバムのジャケットを観たが、
きわだった美少女であった。

その後、私は石川さゆりから、遠ざかったが、
昭和61年『天城越え』、平成3年『ウィスキーが、お好きでしょう』は魅了されている。


この程度しか、石川さゆりに関しては知らないが、
唄声、しぐさ、そして表情が妖艶となり、齢を重ねた私でも、
さゆりちゃん、と呟(つぶや)きながら、
香(かぐわ)しい女性の魅力に酔いしれることのできる稀(まれ)な存在である。

(略)
・・】

このように綴ったりしているが、
今は亡き作詞家・阿久悠(あく・ゆう)氏が作詞された当時の1976(昭和51)年頃は、
青函連絡船もあり、数多くの人々から利用され、
1988(昭和63)年に青函トンネルが完成し、連絡船は終わりを告げた。

ひとつの大きな時代が終わり、多くの人たちに愛惜を重ね、
この中のひとつの心情として、この『津軽海峡・冬景色』の歌は不滅の歌となった。

このように私は思いながら、家内と共にこの歌詞碑から去った。


http://www.youtube.com/watch?v=LuD1cjOJX1E&feature=related
☆【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】☆


                                          《つづく》


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青森地域の冬の旅、過ぎし若葉の頃に初めて訪れた各地の情景に心を重ねて・・。

2010-12-13 14:15:53 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
たまたま私達夫婦の共通趣味は国内旅行であり、子供に恵まれなかった為か、
若い頃から日本の各地を四季折々に訪れたりしている。

そして1986(昭和61)年の頃から冬の旅に魅せられ、
団体観光ツアーで周遊型、滞在型、或いは夫婦だけ旅を重ねてきた・・。

今回、明日より青森県の十和田湖の山奥にある蔦(つた)温泉、青森市内、
そして日本海の黄金崎の不老ふ死温泉に8泊9日で訪れる。


もとより私の現役サラリーマンの時代は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な時を過ごし、
特にこの時節は繁忙期の音楽関係の会社に勤めていたので、睡眠時間を削り、
仕事納めまであと何日、と心の中で呟(つぶや)きながら奮闘していた時期でもあった・・。

2004(平成16)年の秋に定年退職後になり、私は年金生活に入ったが、
35年ばかりのサラリーマン生活から卒業した直後は、
こんなにのんびりと散歩してもよいのかしら、と自宅付近を散策していた時、
戸惑いがあったりした・・。

そして、生活の環境も大いに変り、こうした思いのひとつは、
過日の12月7日に於いて、
【 私の買物の時、ときには最良の友は、『キャリーカート』となり・・。 ~私の年金生活の日常生活は・・~ 】
と題して、年金生活の日常の思いを発露したりしている。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/959fc0c96ce959306924ac3a0a4f5c36
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
    12月7日付【私の買物の時、ときには最良の友は、『キャリーカート』となり・・。 ~私の年金生活の日常生活は・・~】☆


或いは、この12月の忘年会シーズンになると、
【 定年後の私、この時節の忘年会は、たった家内とふたりだけの忘年会となり・・。】
と題して、昨日の12月12日に投稿したりしている。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/b0cf7f53663c9af012ab92662b0db52b
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
    12月12日付【定年後の私、この時節の忘年会は、たった家内とふたりだけの忘年会となり・・。】☆


このような心情であるので、現役の働いて下さる諸兄諸姉には、
申し訳けなく恐縮する身であるが、北東北地方の青森の雪降る情景を求めて、
私達夫婦は出掛ける。

そして、たまたま今回訪れる地域の大半は、今年の5月24日より6月2日の9泊10日周遊し、
このサイトに10回に及び、【 若葉の彩(いろど)る頃の青森紀行・・。】
と題して、帰宅後に投稿している。

この後、再編集し掲載する予定であり、
このような思いで、ふたたび訪れ、春、夏、秋が過ぎ、そして初冬を迎えているの情景に、
果たして・・と思いを寄せたりしている。


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クリスマス・ソングス・・齢ばかり重ねた高齢者2年生の私、秘かに愛して魅了されてきた曲は・・。

2010-12-12 17:47:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
ここ一週間、日中のひととき、駅前の商店街を歩いたり、ス-パー、専門店の店内で買物したりしていると、
クリスマスの歌が流れて、まもなくクリスマスの時節が到来する、と教えられたりする。
そして新聞の折込チラシなどで、デパートのクリスマスの贈り物の数々の品を見たりすると、
私は微苦笑をしたりしている。

もとより私はキリスト教も関係ないが、戦後からの社会風潮で、
何となくクリスマスの時節を迎えている、とぼんやりと思ったりする程度である。

このような私でも、数多くのクリスマスのソングスぐらいは、
多少は知っているし、このサイトにも程々に投稿文を重ねてきた。

そして、先ほどから読み返し、微笑んだりしながら、私なりに心の宝物のように大切な曲でもある。

私は確固たる根拠もなく自信ばかりあり、と幾度もこのサイトで4年ばかり表現しているが、
今回も独断と偏見の多い綴りであったが、あえて再掲載するので、
ご笑話を頂けたら、幸いと思ったりしている。




第一話 【 私の最も好きなクリスマスのアルバムは・・♪ 】
                          《初投稿日2007年12月21日》

ここ1週間、買物などで街に出たりすると、
スーパー、専門店の店内で、クリスマス・ソングが流れたりしている・・。

私はクリスチャンでないので、キリストの行事に関して興味がないが、
敗戦後の日本はこの時節は、多くの人々がクリスマス・シーズンを親しまれ、
街、家並みがイルミネーションなどで染まる処もある。

私はクリスマスに関しての歌は、現役時代にたまたま音楽関係の会社に勤めていたので、
程々に聴いたりする機会に恵まれたが、
心に残る最も好きなアルバムの一枚がある。

ダンス・クィーンなどと称されていたドナ・サマーが、
1994年に名プロデューサーのマイケル・オマーティアンとの共作に寄る
『CHERISTMAS SPIRIT』と題されたアルバムである。
日本で発売されたアルバム・タイトルは、
『ホワイト・クリスマス/ドナ・サマー』となっている。

①ホワイト・クリスマス
②クリスマス・ソング
③神の御子は今宵しも
④クリスマス・イズ・ヒア
⑤クリスマス・メドレー
  a.このみどり子は誰なるぞ
  b.ドゥ・ユー・ヒア・ホワット・アイ・ヒア
  c.もろびとこぞりて
⑥クリスマスはわが家で
⑦クリスマス・スピリット
⑧プレイス・オブ・ヘヴン
⑨オー・ホーリー・ナイト
⑩ラム・オブ・ゴット

まぎれない大人の歌手が声量たっぷりに唄い上げ、オーケストラとゴスペラ・コーラスを背景にした作品である。

黒人霊歌を根底に育ったドナ・サマーが、真摯に唄うクリスマス・ソングの一曲でも聴くと、
まさに使い古された言葉であるが、鳥肌が立ち、思わず襟を正してしまうのである。

かといって、どなたでも親しみのある名曲ばかりであるので、
たとえ一流のホテル、街のお洒落な居酒屋でも聴きやすいアルバムでもある。

私は先程から、『ホワイト・クリスマス』、
『クリスマス・ソングス』、『神の御子は今宵しも』
そして『もろびとこぞりて』等を聴いたりしているが、
やはり日常生活でキリスト教に切望し、親しみを持たれた類(たぐい)稀(まれ)な歌手に、
底知れぬ唄声に降参し、魅了されるのである。




第二話 【 この時節、最も微笑む曲は、『クリスマス・イブ』・・♪ 】
                        《初投稿日2007年12月23日》


東京の郊外は、昨夕からの雨が先程から上がり、静寂なひとときとなっている。

私は庭に下り立ち、常樹木の枝葉は濡れ、
そして葉を落とした落葉樹の枝の雨粒を見つめたりしていた・・。


♪雨は夜更けに過ぎに
 雪へと変わるだろう

【 『クリスマス・イブ』 作詞・作曲・唄 山下達郎 】


この歌がどうしてか、脳裏に浮んだのである。

私は年金退職の4年生の身であるが、
私のサラリーマン現役時代の折、確か1983年のこの時節に初めて聴いて、
巧過(うます)ぎる歌だなぁ、と瞬時に感じた・・。

この後に、JR東海のCMに盛んにテレビで放映され、
離れ離れの若き男女で、待ちわびて、そしてやっと逢える、といった情景だったと思い浮かべている。

後年に判ったことであるが、
JR東海のX’mas7 ExpressのCMと知った。

山下達郎のこの曲の唄声を背景に、
その後も毎年のように幾つかの若い男女のせつなく、もどかしい情景が映しだされ、
私は微笑みながら、秘かに若い男女に幸せあれ、
と心の中で祈ったりしていた・・。


♪きっと君は来ない
 ひとりきりのクリスマス・イブ

【 『クリスマス・イブ』 作詞・作曲・唄 山下達郎 】


私はシンガー・ソング・ライターの山下達郎に関して、
無知な方であるが、この『クリスマス・イブ』を聴いた限り、天才と讃(たた)えている。

そして、ネットのYou Tube上で、
【Xmas Express 歴代CM1988年~1992年】を視聴し、
若き男女がやっと逢える情景を微笑ましく見ていた・・。


♪心深く 秘めた想い
 叶えられそうもない

【 『クリスマス・イブ』 作詞・作曲・唄 山下達郎 】

私は、若き男女のおふたりに、冬の天の川のように心寄せながら、
ときめき、もどかしさ、せつなさの恋情を齢を重ねた私さえ、
感じられ、感銘させてくれるのである。




第三話  【 クリスマス・ソングで皆を最も高揚させる歌は『赤鼻のトナカイ』・・♪ 】
                          《初投稿日2007年12月25日》

午前のひととき、私は二軒ばかりのスーパーに買物に行った。

数多くの人々が三連休の最終日、その上、クリスマス・イブなので、
何時もの平日と違い、込み合っていた・・。
ご家族の方たち、現役の40代のご夫婦等が見受けられ、
私なりに微笑ましく、感じられた・・。

店内からは、

♪真っ赤なお鼻の トナカイさんは
 いつもみんなの 笑いもの

【 『赤鼻のトナカイ』 作詞・新田宣夫 作詞・MARKS JOHND 】

メロディが流れた・・。

私は何かしら追われるように、買物の選定をしたのであるが、
クリスマス・ソングの中で、誰しもが知っていて、親しまれ、心を高揚させる曲は、
『赤鼻のトナカイ』は、ずば抜けて最高の曲と思ったりした。

買物の客が、何かしら追われるようにクリスマス関係商品を数多くお買い上げ頂ければ、
と店長の発想であったならば、優秀な店長と私は誉(ほ)め讃(たた)える。

選曲を『ホワイト・クリスマス』などにした場合、
買い物客は、何かしらしっとりと聴きこんでしまい、お買い上げの向上に図れないと思う。

たかが、クリスマス・ソング、されど選定された曲は何かしらの向上に役立つ、
と私は微苦笑したのである。

この時節、元気のない人は、『赤鼻のトナカイ』の一曲を聴けば、
心身元気を取り戻す特効薬かしら、と微笑んでいる。


このように選曲していたが、私は読み返しながら、
私の人生に最も影響を受けたひとりのお方を忘れていたのである。
古い表現で云うと、シンガー・ソングライターの中島みゆき・女史である。

私は40代に、この方の『エレーン』で人生の心のピンチを救われ、
その後、ギックリ腰で28日ばかり入院していた時、『永久欠番』で救われ、
何よりも『HAFE』は少なくとも50年間で数多く音楽を聴いた中で、
最も影響を受けて感銘しさせられた作品である。

私にとっては、やはり中島みゆき・女史は、たぐい稀な女神であり、
この思いは、ここ20数年変わらず、敬愛している。

このような私であるので、中島みゆき・女史のクリスマス・ソングは知っているし、
秘かに心の中で唄ったりしている・・。

【歌麿】と題したコンサート(1986年)の中で、
一曲として『クリスマスソングを唄うように』である。

この世に、珠玉、という言葉があったならば、
まぎれなく『クリスマスソングを唄うように』の歌は最もふさわしい、
と思いを重ね、私なりに最も愛すべきクリスマス・ソングである。


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定年後の私、この時節の忘年会は、たった家内とふたりだけの忘年会となり・・。

2010-12-12 10:33:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭である。

民間の中小業の会社を35年ばかり勤めて定年退職になったのは、
2004(平成16)年の秋で、そして年金生活に入り、今日に至っている。

この時節、忘年会、と世の中の多く方たちが話題するのを聞いたり、
或いはテレビのニュースなどで視聴すると、何かしら遠い世界の出来事のように感じたりしている。

私の50代の前半の頃は、サラリーマンで私なりに奮闘し、
この時節は部内はもとより、同世代、悪友たちと、何かと忘年会と称して懇親会を重ねてきた。

そして50代の半ばに、リストラ旋風となり、
早期退職優遇制度の名目で先輩、同僚、後輩たちが退職されたり、組織の統廃合により人事異動、
そして私のように出向となったりし、烈風の社内状況となった。

定年退職するまで、年に数回は互いに連絡して、東京に残った人たちと懇親会を重ねてきた。

私の定年後になると、病気で通院しているの・・、親の介護で・・、親が亡くなったので・・、
メンバーが欠落したのである。
まして、12月の時節になると、忘年会は来年の2月頃に新年会を兼ねて、落ちついた頃に、
と先輩だった人から云われたり、
そうですよねぇ、と私は応(こた)えたりしてきたのである。

このように私は、この時節の忘年会と称した懇親会は、
無念ながら消滅したのである。


やむえず定年後の12月の半ばの頃になると、ときおり我が家は忘年会の真似事をしてきた

たとえぱ、家内が夕食の準備をして、台所にいる時、
『XXちゃんさぁ・・世間では忘年会シーズンだょね・・
我家も忘年会の真似事をしょうよ・・』
と私は家内に云ったりした。

家内は少し微笑んだので、
私はいつものように弐合徳利とぐい呑みを選んだりしたのである・・。
我家の夕食は、いつも1時間ばかり家内と話し合いながら頂いているのが定例であり、
私は弐合の純米酒かビールを呑んだりしている。

通常の夕食より、少し多めの料理を頂いたり、私は特例として弐合徳利をお変わりして、
家内は350mlの缶ビールを、コブレットのグラスに入れて呑んだりしたのである・・。

カレンダーを食卓の端に置いて、年末年始に向けて予定を、
お互いに談笑してきたのである。


或いは私たち夫婦は、国内旅行が趣味などで、
この時節に温泉滞在旅行で4泊5日前後が圧倒的に多いが、
ときには『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観に行くこともあった。

そして、観光ホテルの食事処、或いは居酒屋で絣(かすり)を召した仲居さんと、
少し言葉を重ね談笑したりすると、
私にとっては、ひとつの忘年会かしら、と微笑んだりしている。


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私達夫婦の初めての冬の旅に魅了され、その後も雪恋しと冬の旅を続けて・・。

2010-12-11 17:39:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
私達夫婦の共通趣味は国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若い頃から日本の各地を四季折々に訪れたりしている。

定年退職後から年金生活を始めたので、現役時代の多忙な身から様変わりし、
ある程度は自在な日程が設定できるので、旅行の宿泊数も増えたりしている。

こうした中でも、北国で雪が舞い降る、とニュースで知ったりすると、
どこか雪のあるところに行こう、と話し合うことも多い。

私たち夫婦は、1976(昭和51)年の春に結婚し、
賃貸マンションで生活を始めて、夏季休暇を中心に、JTBなどの旅行会社に予約して、旅行をしていた。

そして2年後の1978(昭和53)年の春に、
実家の近くに一軒屋を構えたのであるが、住宅ローンの返済に、
我が家の家計から重荷となり、JTBなど低価格の旅行プラン、会社の保養所などで、
5月連休、夏季休暇、秋の旅行を重ねてきた。

そして、この当時も団体観光ツアーのパンフレットを見たりしたが、
確かに旅行費は驚くほど廉(やす)いのであるが、旅行日程に制約があり、
同行の方達と一緒なので何かと息苦しく感じ、
宿泊先の観光ホテルなどでも気詰まりのように思っていた。


私が40代の初めの1986(昭和61)年の新年まもない土曜日の午後、
2月の初旬、山寺と蔵王の樹氷めぐり、そして最上川の船下りした後は越後地方を周遊する。
この間、上ノ山温泉と温海温泉に宿泊する、
という新聞で団体観光ツアーの広告が掲載された広告を見た。

個人旅行としては、真冬の山寺を歩いて参拝したり、蔵王の樹氷の景観を眺め、
その上に最上川の雪の情景を観ながら船下り・・
と私は長らく夢をみたり、思案してきたが、交通の不便な処を雪のある中、
もとより旅費も旅程も要するので、長年にためらってきたのである。

私は西行、そして芭蕉などのみちのくの旅路に思いを馳せたりしていた時で、
この団体観光ツアーに参加しょう、と私は家内に話し、了解を得たりした。

しかし、この当時の私は、遊び着としての防寒服がなく、
そして防寒靴も無かったので、
アウトドアの店に買い求めに行ったが、無念ながら低価格の品しか買えなかった。

このようにして、団体観光バスツアーに参加した。
確か2月の上旬で、2泊3日で旅行の為、初めて金曜日に有給休暇を頂いた。


私は今でも心の片隅に残っているので、思いだすように綴る。


          第1章
 
真冬の薄暗い早朝、東京郊外の八王子駅の近くに、
指定された集合場所に行き、添乗員に確認した後、
私たちは観光バスに乗りこみ、出発した時はドライバーが2名、
バスガイド、そして添乗員、私たちの観光参加メンバーは40名前後であり、
60代のご夫婦が多かった。

そして観光バスは、まもなく冬枯れの東北自動車道を北上し、
白河の関を過ぎた頃、雪の情景はなく、私は落胆した・・。
        
その後、東北自動車道の高速道路を降り、米沢への一般道を走った。
峠道を抜けると、突然にあたり一面、雪景色となった・・。
右手の斜面は、スキー場で数10人の人達が滑っていた。
やっと雪が観られたという思いから、
南東北をお訪ずれている実感が湧いてきた。

その後、今晩宿泊する上山温泉に着き、
手荷物を置いた後、家内と散策に出かけた。
積雪は60センチ前後で、除雪がされている市道を歩いた。
『上山城』を近くから観たが、心に残らずとぼとぼと歩いた後、古びた館にたどり着いた。

分厚い草葺きの屋根に、雪が30センチ程度あり、
入り口の周辺は、うず高く積雪があった。
『春雨庵』と小さな諸札があった。

私はここが、江戸時代の時、沢庵禅師がこの地に流罪になった処だった、
かと知った。
この沢庵禅師を想い馳せれば、この雪深い地に住まわれて、
どういう思いで過ごされたか、と寒気の漂う茶室、居間を観たりした。

『この季節は大変だと思うが・・
春から夏、秋は過ごしやすいかなぁ・・』
と私は家内に話しかけた。

ホテルに戻った後、指定された部屋に入ると、
『まぁまぁの部屋じゃない・・』
と家内は私に云ったりした。

そして私は大浴場の湯に身を任せていると、小庭園が観え、雪景色となったいた。
私は、思わず拙(つたな)い俳句を呟(つぶや)いたりした・・。

部屋に戻ると、売店で購入した地酒を呑み始めた。

まもなく家内が風呂から上がって来て、
『貴方・・お湯も良かったけれど・・打たせ湯・・良かったわょ・・』
と家内は私に云ったりした。

私たちは、この団体観光ツアーは、同行する人達との気心も心配することなく、
宿泊の部屋も良く、
『これでしたら、このツアー・・許せるわょ・・』
と家内の声を聴き、私は安堵した。

この和風の寛(くつろ)げた宿は、
『ホテル城戸口屋』と館内の案内書に書かれていた。


           第2章

朝、目覚めると雪が舞い降りていた・・。

朝食前、ロビーに行ったら、添乗員から、
『蔵王の樹氷めぐり・・山頂付近は吹雪いていて、中止にさせて頂きます・・』
と私たちは告げられた。

そして、『山寺では、ゆっくりとした時間を取りますから・・』
と添乗員は公知していた。

山寺は雪の舞い降りる中、
山全体がぽっかりとした雪の中の景観であった。
山門を入ると、長靴が数多く並べられていた。

2時間半後、先程のバスまでお戻り下さい、
と添乗員さんは大声で伝えていた・・。

ふもとの根本中堂から歩き始めると、
上り坂になり、積雪は30センチ前後あり、家内に大丈夫・・と声をかけながら登った。
途中の簡素な堂塔は、雪の中にちょこんと観えたりしたが、
私は雪を掻き分けて、登るほうに気がとらえられたりしていた・・。

そして雪の無い季節は、石段であるが、
こうして積雪に埋もれた雪の中を山頂の奥の院を目指して登った。

私達夫婦は、先頭を登っていたが、後方に人影もなかった。
そして私たちの観光ツアーの同行者の方達は、
果たしてこの雪の中の登り路・・大丈夫かなぁ、と私は思ったりした。

まもなく、雪の降りしきる中、如法堂が観えた。

息を整えて、下方を見下ろすと、雪が舞い降りる中、
平地の一面が見えて、ゆっくりと列車の走る小さな形が観えた。

私達夫婦は下った折、稲で編んだ素朴な縄が急な坂の処にあり、
中年女性の3人グループの人たちが、この縄を掴(つかま)ったりしながら、登ってきた・・。

そして歓声を上げながら、私達夫婦とすれ違う時、

『奥の院・・まだ、だいぶ先ですか・・』
と訊(き)かれた。

『もう少しですが、気を付けて・・下さい』
と私は云ったりした。

こうして、私たち夫婦はこの後の行程では、この3人のグループの人たちと、
互いに語り合うようになった。


根本中堂に戻ると、50代の上品な軽登山の出(い)で立ちのご夫婦を見かけた。
私たちのツアーとは関係のない人たちで、個人旅行で寄られた様子だった。

昼食をこの付近り旅館で頂いた。
芋煮のような丼に、山芋、里芋、牛蒡、人参、蓮、牛肉が入っていた。
私は、里の作物は、幼年時代は農家であったので、食べ飽きていたが、
家内は、温(あたた)まるわ、と云いながら美味しそうに食べていた・・。

私は冷酒を呑みながら、
先程に見かけたご夫婦のことを想い浮かべた。

あと10年後、私たちはあのような夫婦になれるかしら、と思ったりした。


            第3章

私たちの団体観光ツアーのメンバーは、
雪の中の山寺での登り降りのお陰で、お互いにすっかり寛(くつろい)いだ雰囲気となった。

昼食の後、最上川の舟下りの始発の処まで1時間ほどあり、
思いがけない山寺の歩きの疲れと
あたり一面雪景色の中で快晴となり、バスの車内は温室のようになった上、
昼食後の満腹加減もあり、大半の人は眠りについていた。

舟下りは、快晴の中、岸辺の積雪と周辺の景観のうつろいを観ながら、
冷酒を呑んだりした・・。

下船した後、バスに乗り、しばらくすると、
あたり一面急激に吹雪いて、周囲の景色は吹雪で見えなくなった。

以前、庄内地方の方に聴いていたので、
このように快晴の合間でも、突然に吹雪いて、しばらくすると回復すると・・。

バスは地吹雪で10数分ぐらい立ち往生していたが、
徐行しながらゆっくりと走りだした。

鶴岡の名所を観た後、宿泊先の温海温泉に着いた。


翌日、雪が舞い降りる中、新潟近郊の名所を観て、一路東京に向った。

バスの中で、途中で購入した地酒を70歳前後の男性と酌み交わした・・。
この男性は、奥様連れで、私は最上川の舟下りの頃から、好感していた。

旅の終わりでこのご夫婦と別れる時、
『何時か、再び、お逢いしたいですね・・』
と私たちは云ったりした。


このような私たち夫婦は、初めての冬の旅でもあり、
団体観光周遊ツアーに初めて参加した旅でもあった。

私たちは防寒着で身を固めて、指定された集合場所に定時前に着き、バスに乗り込み、
あらかじめ指定された座席に腰を下ろした。
そして私は持参した純米酒を呑みながら、
車窓から東北の冬枯れの情景を眺めた上、
バスガイドの解説を聴いたりして、時折まどろんだりしていた・・。

そして観光地の最寄で降り立って、周遊した後は、再び走行するので、
途切れた時間待ちがないので、
特に冬の寒い時節は、移動は楽であることを実感させられた。

宿泊先の観光ホテルは期待していなかったが、
想像以上に質感が感じられ、好感したりした。


何より魅了されたのは、バスの車内、休憩時間のサービス・エリア、お土産屋のひととき、
そして食事処などで共に参加された人たちと談笑を重ねたり、
年配のご夫婦の会話、しぐさを私達は学んだことである。

そして、年配のご夫婦の方達とさりげない会話をしたりして、
私達は人生の大学の生徒となったりしながら、
私達夫婦も60歳代になった時は、あの方達のような夫婦になれたら、
とツアーの参加のたびに、数多く学んだりしてきた。


私達夫婦は、この冬の旅をして以来、雪恋し、と思いながら、
12月から2月頃の雪の舞い降る時節、
団体観光ツアーの周遊、或いは滞在型などに参加したり、
私たちだけの夫婦の旅を殆ど毎年、雪景色を求めて各地を訪れたりしている。


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『今年の世相を表す「今年の漢字」に「暑」』、と私は学びながらも過ぎ去った猛暑に思いを馳せ・・。

2010-12-11 09:30:59 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨夜、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、

《 今年の漢字は「暑」、野菜高騰・動物出没…  》

と題された記事を読んで、確かに今年の夏は異常な猛暑の日が続いたなぁ、
と思いながら、記事を読んだりした・・。

無断ながら、この記事を転載させて頂く。

《・・
      今年の漢字は「暑」、野菜高騰・動物出没…

今年の漢字は「暑」 2010年の世相を表す「今年の漢字」に「暑」が選ばれ、
京都市東山区の清水寺で10日、森清範(せいはん)貫主が特大の和紙に揮毫(きごう)した。

記録的な猛暑と、それに伴う野菜の価格高騰や野生動物の出没、
チリの落盤事故で暑い環境に耐えた作業員らの救出劇などを理由に挙げる人が多かったという。

日本漢字能力検定協会(京都市、池坊保子理事長)が1995年から公募。
今年は過去最多の28万5406票が集まり、「暑」は1万4537票だった。
上海万博や尖閣諸島問題で中国に注目が集まったことなどから、2位は5810票の「中」だった。

(2010年12月10日20時36分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101210-OYT1T00688.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 《今年の漢字は「暑」、野菜高騰・動物出没…》☆


私は若き日より暑さに苦手であり、齢を重ねた今でも何よりの難敵と思っているひとりなので、
このサイトにも数多く、夏の猛暑のことを投稿していると思いながら、
過ぎ去った夏の日々に思い馳せるように、投稿文を読み返したりした。

この中のひとつには、
【 熱中症、齢を重ねた私が何かと気になり・・。 】
と題して、今年の2010(平成22)年7月31日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】から配信された記事のひとつに驚いたのである。
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
   熱中症死者、全国で200人超=梅雨明け後、水分補給を―8月に再び猛暑も

全国でほぼ一斉に梅雨明けした17日から29日までの約半月間に、
熱中症による死者が全国で200人を超えたことが31日、時事通信社の集計で分かった。

約9割が65歳以上の高齢者で、自宅など屋内での死亡例も目立った。

猛暑は大雨の影響で弱まったが、8月上旬にかけ再び強まる恐れがある。
気象庁や各地の消防などは、こまめな水分補給などの対策を呼び掛けている。

東京都監察医務院や各地の消防、警察などの情報をまとめると、
17~29日に熱中症で死亡した人は、全国で少なくとも217人に上った。
東京82人、埼玉42人のほか、栃木、千葉、三重、兵庫各県ではそれぞれ7人が亡くなっている。

草むしりなどの農作業や散歩の途中に倒れた人が多かった。
千葉県木更津市では女性(81)が介護施設の送迎車の中に約8時間放置され死亡。
大阪市では夫(79)と妻(87)が窓を閉め切った自宅マンションで死亡していた。
夫婦の部屋は扇風機のみで、「蒸し風呂状態」(府警)だったという。

一方、岐阜県恵那市では30代男性が道路工事現場で警備中に倒れたほか、
兵庫県新温泉町では40代男性が自転車レース中に倒れるなど、
比較的若い人が亡くなる例もあった。

梅雨明け後、最高気温35度以上の猛暑日が続き、
熱中症は「例年にないペース」(奈良県防災統括室)で増加。
東京都の担当者は「言葉のイメージから『日差しがなければ大丈夫』と感じるかもしれないが、
実際は屋内も危険。

クーラーを使わず死亡した高齢者も多かった」と話す。 

7月31日5時20分配信 時事通信
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


私は齢ばかり重ねた65歳で、体力も衰え、
梅雨明け後、急激に35度前後の日々に戸惑い、どうしてなの、と燦燦と照りつける中、
午前中のひとときに、買物や散策をしたりしていた。

一昨日の29日は小雨が降ったりやんだり、昨日の午前中は雨が降り、
まさに待ち焦がれた雨であった。
私も元気を取り戻し、樹木や草花が生気を取り戻し、
私は微笑んだりしたが、本日の31日から、35度前後の日々が長らく続く、
と予報されているので、困ったなぁ、というのが本音である。


私はこの間の心情として、
【高齢者の私、熱中症を避ける為に、ふしだらな日々を過ごし・・。】
と題し、過日の26日に投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日の17日に梅雨明けの後、連日の猛暑のような35度前後の日々となり、
暑さに苦手な私は、戸惑どっている。

今朝もいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
悲しく高齢者の方が熱中症で亡くなる、と記事を読んだりすると、
私も昨年の9月に高齢者となっているので、何度も読み返したりしていた。


この記事に準じた記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
      熱中症死者、半数は屋内…65歳以上が大半

全国的な猛暑は25日も続き、岐阜県多治見市で最高気温38・1度を記録したのをはじめ、
全国921の観測地点のうち、96地点で35度以上の「猛暑日」となった。

埼玉県、千葉県、兵庫県、奈良県では、熱中症とみられる症状で同日夕までに計6人が死亡した。

読売新聞の集計では、関東などで梅雨明けした17日~25日夕に、
熱中症が原因とみられる死者は全国で81人。
65歳以上が大半を占める。
半数以上の45人が自宅など屋内で死亡しており、
25日に亡くなった6人中5人も屋内で発症していた。

日本救急医学会の調査では、高齢者の熱中症の半数が室内で起きている。
介護を受けている人など活動が少ない人ほど重症が多い傾向があるという。

気象庁によると、26日以降の1週間の気温は、
全国的に平年並みか平年より高くなる見込み。
同庁は「屋外はもちろん屋内でも熱中症に厳重な警戒が必要」と呼びかけている。

(2010年7月26日03時02分 読売新聞)
       ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


そして新聞の【都内版】にも、《猛暑 救急出動最多の2766件 都内、24日》
とニュースも報じられている。
【YOMIURI ONLINE】にも【地域ニュース 都内】として掲載されているので、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
       猛暑 救急出動最多の2766件 都内、24日

今月24日の都内の救急出動件数が、統計が残る1936年以来、
過去最多の2766件に上ったことが東京消防庁のまとめでわかった。

この日は各地で35度を上回る「猛暑日」となり、
都内でも大手町で35・8度を記録。

同庁は「今夏の異例の暑さが救急出動の急増につながったのではないか」と分析している。

出動件数のうち178件が熱中症と診断された。
同庁によると、このほかにも、めまいや発熱など、熱中症と診断されなかったが、
暑さが原因とみられる症状が多かったという。

23日も2683件の出動があり、
同庁は「外出時はこまめに休憩して水分補給を」と呼びかけている。

(2010年7月26日 読売新聞)
       ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


私は梅雨明けの後、連日の猛暑で、何よりも暑さに苦手な私は、
午前中のひととき、買物の担当の私は、買物の後の散策も短かなコースとなっている。

買物は駅前の15分の道のりを敬遠し、最寄のスーパーの二軒で購入したり、
散策も近所の住宅街の道を歩いたり、川べりの遊歩道を歩き、
ときおり大きな樹の下にあるベンチに座り、休憩をしたりしている。

このような時、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、
そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスした容姿で、
扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、
大通りの歩道や遊歩道を歩いたりすることが多いのである・・。

帰宅後、洗面所で顔を洗った後、
居間のエアコンの冷風の下で、着替えて、冷茶を飲みながら、
団扇(うちわ)を取り出して、冷房の中、扇(あお)いだしている。


我が家は子供も恵まれず、たった家内と2人で、
古びた一軒屋に住んでいるが、毎年、梅雨の晴れ間から秋の彼岸の頃まで、
簾(すだれ)で夏の陽射しをさえぎったりしている。

簾を各部屋に掛け、家内の指導の下で、私は助手となっているが、
のろまな私は役立たずで、家内が殆どしているのが実態である。

洋間の場合は、雨戸、網戸、ガラス戸となっているが、
この季節はカーテンを外して簾とする。
そして和室も同様に、雨戸、網戸、障子であるが、簾をつけたりしている。

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾にして、庭越しの風を通したりしている。


このように簾で夏の陽射しをさえぎったしているが、
午後のひととき居間のはずれで簡易ベットに横たわりながら、
エアコンの冷風を受けながら、本を読んだりして、少し昼寝をすることが多い。

このように熱中症を避ける為にふしだらな日々を過ごしているが、
高齢者の年金生活の私は、救急車のお世話になりたくないし、
『少しダラけた生活をしているなぁ・・』
と私は苦笑しながら、家内に云ったりしている。
・・】

このように投稿しているが、今年の夏は異常な暑さ、と思っている。
・・】


このように私は、この夏を過ごしたりしたが、
過ぎ去れば、あんなに猛暑の日が続いた、と過去をいとおしむような心情となり、
微苦笑をしたりしている。

私の若き頃の40代の頃は、
夏の猛暑の時は、冬の雪が舞い降る情景を想いだしたり、
冬の寒さの時は、夏の熱い陽射しを思い浮かべたりして、
現役のサラリーマン時代を奮闘していたが、齢を重ねた高齢者の私は、
あんなこともあったなぁ、と過ぎ去った日々に愛惜感を重ねて、苦笑したりしている・・。


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私の現役時代のサラリーマンの時、冬のボーナスを頂いた後の休日の折には・・。

2010-12-10 20:54:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
初冬の晴れ間の中、いつものよう買物担当の私は、スーパーに向かった。

今年の秋は平年よりも暖かかったので、
朱紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の彩(いろど)りの情景は、
大半は散ってしまったが、まだ名残り惜しそうに三分ぐらいは枝に残り、陽射しを受けたりしていた。

こうした中でも、ときおり微風が吹くと、枝から数多く葉が離れて、空中を舞いながら、
ゆったりと地上におちてゆく・・。
そして紅色、朱紅色、黄色、茶褐色などの色合いの落ち葉の上に、積み重なってゆく。

このような落葉の情景を観ながら、ここ2週間の晩秋の光景を享受しながら、
過ぎ去る日々を過ごしたりしている。

この間、新聞の折込みチラシなどで、お歳暮の商品、クリスマスの贈り物、御節料理など、
掲載されているので、早くも歳末に向っていると教示されたりしている。

そして、夕方のテレビのニュースのひとつに、
国家公務員ボーナス支給される、と知り、ぼんやりと私の現役時代に思いを馳せたりした。


この時節、現役の諸兄諸姉たちの多くは、ボーナス、忘年会、お歳暮の挨拶など、
その上、何かと業務も年度末を迎えているので、何かとお忙しく、心身お疲れとなっているが、
頑張られているのではないかしら、と思ったりしたのである。

私も現役時代は民間の中小業の会社で、数多くの人たちと同様に、
特にこの時節は、睡眠時間を削り、奮闘していたひとりである。

そして、ボーナスが支給された週末の休日には、お歳暮の挨拶廻り、母の住んでる処に寄ったりし、
そして師走のなかば頃の思いも、重ねて思い馳せたのである。

たまたま、このサイトで綴ってきたので、先ほど読み返し、
独り苦笑しながら、あのようなこともあったなぁ、と懐かしげに読み返したりした・・。


【 お歳暮の頃の想いで・・♪ 】
と題して、2006年12月2日に投稿している。

【・・
私の現役時代に、お歳暮などの社交辞令は苦手であったので、なるべく避けていた。

不得意な私でも、人生の岐路にたたされた時、
或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
年賀状を送信し、お中元、お歳暮の時は、ご自宅に訪問させて頂いた。

私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している方である。

私が25歳で中途入社した時には、ある大手の音響・映像メーカーの首脳陣のひとりであったが、
ご自宅に訪問した折、温かなまなざしで私に応対してくれた。
奥様もさりげなくつつみこんで下さり、
このご夫婦から高潔さを私達夫婦は教示を受けた。

このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
このお方からは素養が格段違う、と私達夫婦は共は実感している。

私の定年退職の時、私の日常生活ではとても口に出来ない高価な美酒を頂戴した後、
まもなくご高齢であったので、亡くなわれた。

告別式に私共夫婦は参列させて頂き、改めて高潔なお人であった、
と思い馳(はせた)りした。
・・】


【 私なりのボーナスの想いで・・♪】
と題して、このサイトに2007年12月11日に投稿している。

【・・
昨日のニュースで官公庁の冬季のボーナスが支給され、
民間会社の多くも既に支給された会社もある、と報じられ、私は微苦笑したりしていた。

私は中小業の民間会社を卒業した年金生活の4年生の身であるので、
あの頃は、ボーナスを頂いた時が想いだされた・・。

20代の頃の独身時代は、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、通勤靴、通勤バックなどを買い揃えて、
母に幾ばくかを手渡し、そして呑み屋さんに通っても、程々の貯金が出来た。

30代の初め、結婚し、賃貸マンションに入居するまで、
無知な私は結構お金を要する、と実家の長兄から、ある程度の額を借用したので、
ボーナスの度に返済した。
この2年間の期間は、返済していても、多少の貯蓄は出来た。

この後、私は実家の近くに一戸建てをするのであるが、
土地、住宅建築まで多大な経費となり、
住宅金融公庫を根底とし、幾つかの金融機関からローンを設定した。

このローンが50代の初めの頃まで、
ボーナスを頂く度に30%前後を返済していた。

私達夫婦は子供に恵まれなかったけれど、
住宅に関する購入は、一介のサラリーマンとしては人生で一番高い買物かしら、
と心身実感させられた時代であった。

50代の初め、ローンの一括返済をした後、
老後の人生設計の基礎となす資金の為、貯蓄を大半し、定年退職を迎えた。

このようなボーナスを頂くたびの軌跡であったが、
どなたも同じと思われるが、サラリーマンの現役時代には大波、小波に遭遇し、
家内と何とか乗り切り、今日を迎えているのである。

私は築後30年の古惚けた家に住み、
程々の広さの庭で、樹木を眺めながら、あんな時代もあった、
と思いを馳(は)せたりしている。

尚、私は家内を戦友と思っている。
人生の過ごす時に公私共々何かと確執があったりするので、
私達夫婦は互いの欠点を補(おぎな)いながら寝食を共にし、
無条件に寄り掛かれる随一の人、と実感しているからである。
・・】


【 『サイレント・イヴ』の想いで・・♪ 】
と題して、2007年12月24日にこのサイトに投稿している。

【・・
私は、定年退職後の4年生の身であるが、
この時節、ときおり辛島美登里の『サイレント・イヴ』がテレビ、ラジオで聴いたりすると、
苦く懐かしい想いでが甦(よみが)ってくる・・。

私の現役時代、あるレコード会社の20年ばかり情報管理畑に勤務していたが、
リストラの影響で不馴れな経理畑に人事異動させられ、
その上、レコード会社の統廃合が行われ時期であり、
私は当然睡眠時間を削り、奮闘していた時代であった。

そして、統廃合で社員の交流をお互いに深め、目先の不馴れな業務に励んでいたので、
心身疲れきっていたのである・・。

こうした折、12月の初め、統廃合で知り合った後輩の人から、
私の机上に一枚のCDアルバムを置いていった。

『昨年に発売したのですが、よかったら聴いて下さい』
とメモが綴られていた。

『Keep Christmas With You』というアルバムのタイトルで、
CDのジャケットが洒落ていた。
初回限定 特製スノープレート付きと明示され、ジャケットを少し振ると、
森の中に拓かれ大きな樅(モミ)の樹の周辺に雪が降るのであった。

そして辛島美登里の『サイレント・イヴ』、稲垣潤一の『メリー・クリスマスが言えない』、
永井真理子の『ZUTTO~Xmaz Version~』等が収録されていた。

その後、まもなくお歳暮の挨拶を家内と数軒廻っている時、
疲れたので駅前の喫茶店で休息をしていた時、


♪真白な粉雪 人は立ち止まり
 心が求める場所を 思い出すの

【『サイレント・イヴ』 作詞・作曲 辛島美登里、編曲・若草 恵、唄・辛島美登里】

店内から流れてきた。

私は、もう少ししたらクリスマスかょ、と心の中で呟(つぶや)いて、
歳末の仕事納めの日まで、数多くの業務を思案したりすると、
尚更ぐったりと心身の疲れが増してきた・・。


私にとっては、今でもこの曲を聴くたびに、
現役時代で一番労苦の多い時だった、と想いだしたりしている。


http://www.youtube.com/watch?v=cjpDJYc6kpc
☆【『サイレント・イヴ』 作詞・作曲 辛島美登里、編曲・若草 恵、唄・辛島美登里】☆

・・】


このように私は綴っていたのを読み返し、現役の諸兄諸姉は、
何かと成果を問われる大変な時代の中、業務に精勤する余りお身体だけは程々に大切にして欲しい、
と思ったりしている。
そして、休日のひととりは、ご家族でやすらぎの時を過ごして下さい、
と心の中で呟いたりしている。


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