夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

テレビから、『Hello, Again~昔からある場所~』の名曲が流れて、私は・・。

2010-12-05 22:00:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
夕方のひととき、居間の片隅で私はパソコンに向かって、
家内はコーヒーを飲みながら、テレビを視聴していた・・。

その後、テレビから懐かしい歌が聴こえてきて、
『あれぇ・・JUJUちゃんがカバーした『Hello, Again~昔からある場所~』じゃないの・・』
と私は心の中で呟(つぶや)いた。
私はテレビに向かったが、何かのCMで流れた曲と思えた・・。

そして私は、
『先ほどの曲・・良いと思わない?』
と家内に話しかけた。

家内は歌謡曲などは、私より詳しいが、他の分野の曲は無知な方である。
私は家内と36年前の婚約中に、家内の実家に訪れた時、
家内の父が流行歌が好きで、
その後も居間でカラオケ・テープをセットした上で幾たびか聴かされたが、
素人の領域を超えた巧さで驚いたのであり、こうした歌を家内は幼少期から鼻歌を聴かされた、
と私に云ったりしていた。


この曲に関しては、家内は無知で興味がない表情をしたので、
『今年の9月頃に、この曲に関しては、ブログに綴ったことがあるよ・・』
と私は家内に云ったりした。

『そぉ・・』
と家内は応(こた)えたが、これ以上は興味を示さなく、
何かの番組を視聴している。


家内は私がパソコンに向って、定年後からブログを投稿していることは知っているが、
内容に関しては興味はないし、私も家内の趣味の世界には立ち入らない、
暗黙に了解した夫婦となっている。

ただ、共通の趣味は、国内旅行であり、
この話題に関しては、話は尽きず、旅先のこぼれ話しなどを談笑したり、
次回の旅行の予定を思案しながら、話し合ったりしている。
このように我が家は風変わりな夫婦である。


尚、『Hello, Again~昔からある場所~』の曲に関しての私の投稿文は、
下記の通りである。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/db82ce4168e7c2a3defa64fb520295aa
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
    9月26日付【『My Little Loverの『Hello, Again ~昔からある場所~』、私は心の中で唄い。】☆


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園児たちの『餅つき』の情景を拝見して、そして私の幼年期の『餅つき』に思いを馳せて・・。

2010-12-05 17:38:26 | 時事【社会】
私は先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
たまたま【地域】の島根県を見ていたのであるが、
ひとつのニュースに、思わずこの人生のひとときの微笑みを頂いたのである。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
       餅つき丸め笑顔はじける 松江・たまち保育園

松江市西川津町の「たまち保育園」(栗原民恵園長)で4日、
餅つきがあり、3~6歳児153人が保護者と一緒に楽しんだ。

奥出雲町仁多産のもち米73キロを準備。
まず、大人たちが餅をつき、力いっぱい杵(きね)を振り下ろすのに合わせ、
三角きんにエプロン姿の園児たちが
「それ、ペッタンコ」
と声を合わせて応援。

続いて、園児たちも杵の代わりに約1メートルの木の棒でついた。

園児らは、つき終えた餅を「あつーい」「おいしそう」
などと大はしゃぎで丸めると、ぜんざいに入れるなどして全員で味わった。

松江市八雲町の大谷華月(はづき)ちゃん(6)は
「こねるのが楽しかった。ぷにぷにモチモチしてた」
と喜んでいた。

(2010年12月5日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shimane/news/20101204-OYT8T00827.htm
☆【YOMIURI ONLINE】《地域》島根県 餅つき丸め笑顔はじける 松江・たまち保育園 ☆

このサイトで、偶然に私は園児たちの餅つきの歓びの情景を拝見し、
この人生のひとときの微笑みを頂きながら、読んだりしたのであった。


この後、私は幼年期で自宅の餅つきの情景を思い馳せたりした・・。

私は東京郊外の調布市の外れで、世田谷区と狛江市の隣接した地域に住んでいるが、
生家の実家も近くにあるが、私の幼年期の頃は、周辺にも幼稚園もなく、
何とか託児所ができた頃であり、幼児を預かる程度の施設であったので、
もとよりこのようなおしゃれな園児たちの情景からは、ほど遠く、
餅つきは、歳末の近くで自宅で行っていた。


私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕していた。

この頃は、江戸時代からの名残り農家の六人組で、
餅つきなどの場合でも、お互いに20日過ぎた頃から、
この日はあそこの家で餅つきをする互いの助成制度の風習が残っていた・・。
具体的には、祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。

祖父の家の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。

ご近所の主人たちが5人来てくださり、それに私の家の人である。
祖父、父、母、叔母、そして長兄、次兄に続いて、
6歳の私なり手伝いをしたりしていた。

午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。

餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。

このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。

夕方の6時頃になると、搗(つ)きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。

ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

こうした時、ご近所の叔父さんが、私に云った。
『XXちゃん・・何を食べるの・・』

『う~ん、大根の辛いの・・』
と私は云った。

『そうかい、からみねぇ・・
XXさん、この児きっと呑んべえになるね・・』
と赤い顔した叔父さんは、笑いながら私の父に云った。


この数年後に父が病死し、まもなく祖父も他界したので、
私の家は急速に没落しはじめた・・。

そして1956(昭和31年)年の頃になると、
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、田畑、竹林、雑木林が消え去り、住宅街に変貌し、
このような風習は、消えた去った・・。


このように綴ったりしていたが、私にとっては餅つきの情景は深い愛惜感もあり、
涙を浮かべそうになりながら、過ぎ去った60年前の頃に思いを重ねたりしている。


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読売新聞の『編集手帳』を拝読した後、ささやかな東北本線、新幹線などの思いを馳せて・・。

2010-12-05 10:20:52 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだ後、何よりも魅了された記事は、
1面の総合面で定例箇所に定められた【編集手帳】であった・・。

この記事と同一なのが、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも掲載されて折、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
         12月5日付 編集手帳
出版社の依頼で太宰治が故郷への取材旅行に出たのは、昭和19年(1944年)のことだ。
帰京して書き上げた「津軽」には、
上野発17時30分の急行列車に乗って翌朝8時に青森に着いた、と記されている

14時間半。今はそれだけあれば欧米あたりまで余裕で行ける。
70年近くも前の話でしょう、と若い人は笑うだろうが、
その後もずっと北国と東京の往来はほぼ半日がかりで、青森に限らず、ふるさとは随分遠かった

青森県出身の元小結、舞の海秀平さんも80年代に、雪の舞う青森駅から夜行列車で上京した思い出を語っている。
〈その頃、東京はまだ遠い遠い存在でした〉。
先日の東京本社版、東北新幹線の特集記事より

遠かった青森、遠かった東京が、今や陸路でも3時間20分に。
きのう、東北新幹線が新青森駅まで全線開業した。
来春には最新鋭車両の「はやぶさ」が投入され、さらに10分短縮されるとか

「津軽」を手に太宰縁(ゆかり)の地をたどる人が増えるかもしれない。
だが再読しておこうと東京駅の発車ベルを合図に本を開いても多分、
最後まで読み切らぬまま、新青森到着のアナウンスを聞くだろう。

(2010年12月5日01時24分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私もここ3ヶ月前頃が、東北新幹線が八戸駅から新青森まで開線されるニュースを知り、
家内との共通趣味は国内旅行であるので、たびたびこの話題で、
談笑を重ねたりしていた。

そして、昨日の東北新幹線が新青森駅まで全線開業のニュースを読売新聞で読んだり、
ネットで毎日新聞の配信されるニュースも読み、
そうでしたよねぇ、と私はささやかな東北本線、新幹線などを利用し、
東北の旅の思いで重ねたりしていた・・。

今回、私の愛読している読売新聞の『編集手帳』を拝読した後、ふたたび私なりに思いを馳せたりした。

私が東北本線に初めて利用した記憶は、
1962(昭和37)年に高校時代の修学旅行で、北海道概要一周の旅の時であった。
確か上野駅発の夜行列車に乗り、常磐線を経由して翌朝に青森駅に到着し、
その後は青森港から青函連絡船に乗り、函館が観えた時、やっと北海道に来た、と感動を受けた思いもあったりした。

この修学旅行の旅は、往復共に東北の地は夜行列車を利用し、青函連絡船に乗船し、
確か12泊13日間の北海道の概要一周であり、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、
体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。

その後は、東北の旅の旅に関しては、私は住宅ローンなどの返済もあり、
経費節約で、団体観光バスツアーなどを利用していた。

そして記憶をたどれば、1991(平成3)年の5月の大型連休に於いて、
『春爛漫弘前の桜 下北半島の周遊』と称した近畿ツーリスト主催の団体観光周遊ツアーを利用した。

上野駅より夜行寝台車で野辺地駅で下車し、バスで北上した後、
むつ市の観光ホテルの別棟の食事処で朝食を頂き、
恐山、そして小船に乗り、仏ケ浦で上陸したりし、薬研温泉に宿泊。

翌日は青森の街中の食事処で昼食を頂き、弘前城の桜を観た後、
十和田湖の湖畔の観光ホテルに宿泊した。

最終日は湖上の遊覧船を楽しんだ後、奥入瀬渓流を観たが、渋滞であり、
前後の観光バスの乗客は下車し歩いていたのに、私達のバスの乗客は下車できず、
私達の乗客とドライバーとガイドに気まずい空気が漂(ただよ)った。

そして、八幡平で雪が降る情景に私達は歓声を上げて、
車内はわだかまりが消え、盛岡駅より新幹線で帰京した。

この時に驚いたのは、上野駅から夜行寝台車で野辺地駅まで、乗車したが、
私たち夫婦はグループの中で若かった為か、三段ベットで、
私は最上段、家内は二段目であり、
程々に旅費は払っているのに今の時代でも三段ベットかょ、
と狭い最上段の寝台の上で、トレーナーに着替えたきりた記憶は、
今でも鮮明に残っている。

そして、帰路の盛岡駅から東京駅までの新幹線の短い時間に驚き、
何よりも盛岡駅で乗席すると、旅の終わりを感じさせられたことであった。


その後は、幾たびか家内と東北の旅は、新幹線を利用し、旅の旅程の機軸となっている。

たとえば、50代の前半、仙台の郊外の作並温泉に3泊4日で行った時は、
東京駅がたった2時間で仙台駅に到着して、
そして在来線の仙山線に乗り継ぎ、仙台市の郊外の情景を眺めたりし、
『愛子』と名づけられた駅、街を思わず微笑んだりした後、
1時間弱で、作並駅に到着した。

そして駅前から宿泊先の観光ホテルの迎えのマイクロバスが待機して折、
私達は乗り込み、樹木の多い林の中を通り抜けると、
宿泊先の看板、そして建物が観えた。


しかし、何かしら旅としては、新幹線を利用して、
あたかも東北地方の白河の関から仙台駅の近くまでの情景が欠落したようで、
単なる移動するだけの愛惜感、寂寥感に感じることは確かである。

こうした思いに深く感じさせられたのは、
私の定年退職後の翌年の2005(平成17)年の10月下旬に、
北海道の旅の帰路であった。

この時は東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動し、
この港から小樽港に向かい1泊し、翌日の早朝に小樽港に着くフェリー船に乗船した。

小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の裾野のリゾートホテルに宿泊する。

翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策する。
その後、天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し、宿泊する。

翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に行く。

夕暮れの札幌駅より『北斗星号』を乗車し、宿泊しながら上野駅に到着する。
旅程であった。

道内で里山はのナカマドとカエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色に見惚(みと)れたり、
遊歩道を散策したすると、朱色、黄色に彩られた錦繍の中を歩き、
午前の柔らかな陽射しの中、ときおり黄色の葉が上空から舞い降りてくる錦繍(きんしゅう)の世界に魅了されたり、
ナナカマド、カエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色、
そしてエゾマツ、トドマツの濃い緑色の配色は、秋の盛りを心に充たされたりした。

この時の帰路の思いは、私は投稿文に綴っている。
【・・
旅の終りは、『北斗星号』であった。
札幌駅を17時12分に発車し、上野駅に翌日の9時41分着である。

お弁当と煎茶のペットボトルを買い求め、B寝台の個室は想像したより狭かった。

家内と旅行バックと手荷物を置く位置を決め、私は浴衣に着替えた。

小樽ワインを呑みながら、お弁当を開く。

今回の旅は、日中は原則としてサッポロ・クラシックのビールで、
夜はホテルのハウス・ワインか富良野、小樽ワインのボトルを良く呑んだ。
私は旅先では、その地のアルコールを呑むことにしている。
その地の文化を知ることは、お酒もひとつの手がかりとなるからである。

疲れを覚えたのでベットに横たわり、直ぐに寝付く。
深夜の1時過ぎに目覚め、煎茶を少し呑んだ後、地酒を呑む。
その後、眠りについて朝の5時過ぎに目覚め、
ぼんやりと車窓から外の景色を眺めた・・。

東北地方を旅する時、殆んど新幹線を利用していることに気付いた。
今回の旅の最後は、在来線で上野駅に向かっているが、
在来線はその地をゆっくりと通っているので、
その地の風土を教示してくれる・・。
その点、新幹線は単なる通過の役割しかないことに、改めて気付いた。

上野駅より私の住む最寄り駅の成城学園前に着いた時、
懐かしさを覚え、安心したせいか旅の疲れが出た。

家の門扉を開け、玄関庭を見ると、花梨の大きな実が3つほど落ちていた。
・・】

このように投稿していたのである。


私は新幹線は確かに利便性があることは認識しているが、
在来線の車窓からのゆったりと流れる情景は捨てがたいのである・・。


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