夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

函館の冬は風花慕情 第2章 立待岬の代わりに穴澗海岸を訪れて、過ぎし日々の思いを重ね

2014-01-18 18:45:08 | 
      第2章 立待岬の代わりに穴澗海岸を訪れて、過ぎし日々の思いを重ね

今回、冬の函館を訪れる最初の動機は、何かと烈風の多い立待岬を観たいことでもあった・・。
このことは過ぎ去り年の2008年12月下旬の時、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るために、
『ススキノ駅』から5分前後歩いたビジネスホテル風に4泊5日で訪れた。

こうした旅路の中、『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
偶然に『北海道文学百景』とを題された一冊の本に瞬時に魅せられ、買い求めたりした。

そして滞在しているホテルで精読していたら、ひとつの詩に思わず涙を流し、
首に巻いたタオルで頬をぬぐったりした・・。

私は詩に関しては、無知であり、単なる私の感覚を頼りに読んでいる程度である。

無断であるが、転載をさせて頂く。

     立待岬               
                      作・三吉良太郎

ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間

ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む

塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている

(後略)

この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、と解説されていた。

この後、私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。

三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)

このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。

こうした私の心の片隅に残っているので、未知の『立待岬』を冬の時節に訪れたかったのであったが、
無念ながら、冬季は閉鎖と知り、戸惑ったりした・・。
          

やがて旅路の一週間に、ネットで偶然に穴澗海岸(あなま・かいがん)を学んだりした・・。
《・・函館山の「裏側」にある絶景の海岸。
GLAYのTERUさんが思い出の場所として紹介したスポットでもある。
天気のいい日には、正面に沈む美しい夕日が見られる。

「函館でとびきりの夕日を見たいならここ」と、地元通の人が絶賛する穴澗海岸。
函館山のロープウェイがあるほうの裏側、西側の崖の下あたりの岩場で、
目の前に広がる海を見ていると、時間のたつのを忘れそうになります。
気持ちよく飛んでいくカモメ、鼻をくすぐる潮の香り、波の音、行き交う船......。
天気のいい日には、海と対岸の山と空を赤く染めながら沈む夕日が見られ、運がいいとイルカの群れが横切ることもあるそうです。

知る人ぞ知る場所だったこの地ですが、函館出身のGLAYのTERUさんが生まれ育った場所で、
「一番大事な、癒される場所」と紹介したことから、足を運ぶ人も増えました。
ここに来る途中の外人墓地の一角には、GLAYのミュージックビデオにも登場する「カフェテリア モーリエ」があり、
このあたりはGLAYファンの聖地と言われています・・》

このように『函館市公式観光情報』に記載されていたので、私は魅せられて家内を誘い、訪れた。

私の現役時代のサラリーマンの時代は、音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めていた。
音楽を制作する部門でなく、管理畑で情報、経理、営業などの部署であったが、
それなりに音楽を聴く機会が多かった。

確か1994年(平成6年)の春過ぎ、私が経理畑に所属していた頃、
ロビーの掲示板に数多くのポスターが掲載されていたが、
この中のひとつが、無念ながら私には解からなかったのである。
女性のような若き男で長髪の4人が写しだされていたポスターであった。
『GLAY』と明示されていたが、私の心からは、ほど遠い存在であった。

その後、私は営業本部の片隅に異動した後、
GLAY(グレイ)を意識したのは、3枚目のアルバム『BELOVED』であり、
確か1996年(平成8年)の11月だったと思うが、
普遍的であるが感覚として私の好みの詞であり、そしてサウンドも抵抗なく溶け込めていった・・。
私が50代の前半の時であった。

その後、シングル盤の『口唇』の後に、
翌年の1997年(平成9年)の秋、べスト盤のアルバム『REVIEW』発売され、
この頃の業界として空前の500万枚を超えた売り上げとなり、私は最も勢いのあるGLAYに、
秘かに私が予測した以上に、ただ驚き、ため息をさせられたりした。

私はこの前後に『BELOVED』、『HOWEVER』、『ずっと2人で・・』、『軌跡の果て』を盛んに聴いたりした。

そして、NHKの『紅白歌合戦』に初出場され、函館に馴染みのある歌手・北島三郎さんに再紹介され、
ボーカルのTERUが、『HOWEVER』を唄いあげていた。

この年は最もCD、ビデオ等でセールスに貢献したアーティストに日本レコード協会の主催で、
翌年の1998年(平成10年)の1月に於いて、
第12回『日本ゴールドディスク大賞』のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
こうした実績を残されたので、私は年賀状を受け取った中のひとつに、
ある営業所の所長から、昨年はGLAYの年でした、と書かれていた。

その後、1998(平成10)年の4月にシングル盤の『SOUE LOVE』、『誘惑』同時発売され、
相変わらずミリオン・セラーが続き、
確か7月だったと思うが、『pure soul』のアルバムを270万枚を出荷した後、
やがて私はGLAYから離れた・・。

この当時の私は、X JAPANの数多くの曲に、遅ればせながら魅せられて、
無我夢中に熱中していたからである。


そしてこの当時の業界全体の売上げピークは1998年(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。

そして激動の1998年(平成10年)の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999年(平成11年)の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあったが、私は物流情報会社に出向となった。

この中のひとつの職場は、音楽のCD、DVDなど商品を管理する商品センターであり、
CD、DVD販売店からの日々の受注により、出荷したり、或いは返品を受けたり、
製造会社より入荷したりする処であった。
もとより音楽商品は、それぞれ一枚一枚が激変し、多品種であり、曜日、季節の変動も加わり、
現場は多忙であった。

私はこうした商品センターに、センター長はじめ正社員4名と共に、
男性の20代の契約社員10名、パートの女性120名前後の中で、奮闘した。

しかし最初の頃は、30年近く本社に勤めていた私は、出向の身となった直後は、
まぎれなく都落ちで、失墜感が心身にあった。
この商品センターで大きな取り扱いの最初のCDは、
1999年(平成11年)2月3日発売のひとつGLAYの『Winter、again』であり、
確か数ヶ月で177万枚を出荷した。

このCDシングル盤を最後に、GLAYは私の勤めている社から契約が切れ、他社に移籍した。
          
そして私は商品センターのあるフロアーにある『pure soul』のアルバムの
大量な在庫を微苦笑しながら見たりした。
このことは前作のべスト盤のアルバム『REVIEW』が空前に売れて、
570万枚を超えていたので、『pure soul』のアルバムを大量にプレスした結果であった。

しかしながら、この『pure soul』のアルバム時代でも、270万枚を超えていたので、
会社の業績を影響させるビックなGLAYであったことは事実であった。

この年、5月5日ら放映された『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』
と題されたドキメンタリーの番組がNHKから放映された。
この番組はGLAYと命名したロックバンドの結成時の状況、5年後のメジャー・デビューするまでの苦節、
そしてブレイクするまでの実態、その後の4大ドームのライブ・コンサートを成功するまで、
結成から頂点に立つまでの10年間の軌跡を描いたドキメンタリーの良質作品である。


私は、この映像を幾たびか視聴するたびに、GLAYに熱中した曲と時代、
そして熱気帯びた観衆のシーンを想いだし、愛惜を重ねたりしている・・。

そして、思いだすように私はときおり、
保有しているメジャー・デビュー作品からアルバム『pure soul』までを取り出して、
聴いたり、手元の3本ばかりのビデオテープも視聴したりしている。


このようなGLAYに対しての私のささやかな想いで秘めている。
          

そして家内を誘い、滞在している観光ホテルの湯の川温泉より、
          
市電の路面電車に乗車して、函館どつく前で下車した後、雪道の坂道を上がりながら外人墓地を眺めたり、
海沿いの景観を眺めたりした・・。
          

          

そして20分ぐらい歩き穴澗海岸の近くで、閉鎖の看板を見かけて、
やむなく戻ったりした。
          

          

やがて外人墓地の一角には、GLAYのTERUさんが生まれ育った場所で、
何かと信愛している癒される場所にある「カフェテリア モーリエ」に私たち夫婦は立ち寄ったりした。
          

そして私たち夫婦は、店内からの眺められる景観も良く、
          
店内も好感し、たまたまお客さんは私たちだけであったので、
                    
店のスタッフの若き男性と談笑したり、昼食をしたりした。
          

こうした談笑の中で、音楽のGLAYの話しをしたり、あの当時の時代を駆け抜けた熱気あるGLAYの情況を
私が知る限り若き男性のスタッフに私は話したりした。

そして若き男性のスタッフも、やはりGLAYに心酔し、今やバンドを結成していますので、
聴いて下さい、と若きバンドの曲が収録されたCDを私は頂いたりした。
 
やがて私たち夫婦は、この「カフェテリア モーリエ」に別れを告げながら、
雪道を歩きながら、音楽業界はCD販売は減少しネットが加速され、
ビックなアーティストでもCD収入とネット収入を合算しても激少している・・。

まして今後、プロを目指すアーティストは、烈風下となっている。

このような純粋にCD販売で各社が熾烈な競争できた1998(平成10)年の頃まで、
私は愛惜したり、GLAYが躍動し、熱気のあった時代を思い重ねたりした。

そして無力な私は、彼らGLAYがメジャーデビーするまで、
函館の地でバンドを結成した頃の叙景は、市の中心街にある八幡坂からの情景が相応しい、
と私は家内を誘い歩き廻ったりした。
          

          

そして協会のある地、その後に赤レンカのある地をひたすら歩き廻り、
          
やがて滞在している観光ホテルに帰館した。

                                   《つづく》
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函館の冬は風花慕情【2014.1.13.~1.17】第1章 函館行きの空便、何処の空港地に着陸するの!?

2014-01-18 11:23:13 | 
          第1章 函館行きの空便、何処の空港地に着陸するの!?

私は東京郊外に住む年金生活の69歳の身であるが、
ある有力な通販の旅行会社の企画された格安の『フリープラン ザ・湯の川温泉5日間』に、
今年の冬の旅の第一弾として、13日より4泊5日で、函館市に隣接している湯の川温泉の観光ホテルに滞在し、
市内の名所などを遊学する為、13日の早朝の6時半過ぎに私たち夫婦は我が家を出た。

今回の旅路のささやかな秘めたる想いは、このサイトに於いて13日の早朝で、
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/725ecf9d153c87537c52458977e68886
【函館、冬の時節に本日より初めて訪れることとなり、東京の田舎者の私は戸惑いながら・・。】と題して投稿している。

このような心情を秘めて、私たち夫婦は羽田空港に指定された時間より1時間半前に到着し、
旅立つ前の高揚感で、喫茶店で待機したりしていた・・。。。

こうした中で、前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便があった、
と昨夜のニュースで報じていたので、本日の航空便の運航は予定通りかしら、
と心の片隅にあったりした。

やがて航空券を受け取る時、前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便の影響もあり、
羽田空港・発10時35分で函館空港・着11時55分の全日空853便は、
3つのフライトプランを提示された。

①函館空港・着陸が不可能で、羽田空港に引き返し、改めて函館空港行きの航空便を検討します。

②やむなく新千歳空港に着陸して、その後は何らかの方法で函館市に行きます。

③予定通り、函館空港・着陸します。

この3つのフライトプランの説明を受けた私たち夫婦は、
このようなことは初めてだよねぇ、と私は戸惑いながら家内と話し合ったりした・・。

私たち夫婦は冬の時節の国内旅行を幾たびか重ねてきたが、
たまたのJR特急便を利用した時、激しい風雪に遭遇し、
運行責任者の方たちが列車を30分ぐらい停車させて、事故を回避した体験ぐらいであったりので、
私は今回の旅路の不安が増して困惑をしたりした。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を離陸できたが、
機内でも、3つのフライトプランが客室乗務員の方から報じられ、
この中のひとつの羽田空港に引き返した場合、
旅行気分の高揚感は吹き飛ばされ、余りにも惨(みじ)めだよなぁ、と私は不安が増したりした。

その後、函館空港に予定着陸時間の20分前頃に、
機長、そして客室乗務員の方から、
予定通り函館空港に着陸します・・お客さまには大変ご心配をお掛けしました、
と告知されて、私を含めて周囲の方たちも安堵の表情と言葉を重ねたりした。

やがて白い大地が観えて、函館空港に着陸態勢となった。

この後、空港ビルの中の食事処で、私たち夫婦は昼食をしたが、
何かしら旅行気分の高揚感が半減して、
窓辺から観える空港の滑走路、小雪降る中で風が伴い、小雪は横殴り舞っていた・・。
          

          

そして私たち夫婦は、空港前よりタクシーに乗車して、やがて『石川啄木 函館記念館』に入館した。
この記念館は函館の中心街の途中にある大森浜にあり、正式名は『土方・啄木浪漫舘』であり、
一階には土方歳三、二階に石川啄木に関する展示がされていたが、
私は土方歳三には興味がなく、石川啄木の生涯、遺された作品に圧倒的に心を寄せていたので、
この後日の『函館市文學舘』を訪ねた時も、2階は石川啄木の専用フロアーで時間を過ごしたりした。
          
『石川啄木 函館記念館』を退舘した後、私たちは舘に隣接している大森浜の景観を眺めたりした。
          
そして一時間半前には、小雪が風で舞う中であったが、青空が拡がり、
この地は天候が激しく変貌することを学んだりし、この後も澄み切った明るい青空の中、幾たびか散策したりした。

そして風もない青空の中、予告もなく花びらのような雪が舞いながら落ちてくる風花(かざはな)に、
私は魅了されて心を寄せたりした・・。
          
もとより風花は、周辺に観える山で降っている雪が、ときより強く風が吹くと、
私は市街のはずれの路、海辺の路、そして街の片隅を歩いたり、
青空の中、白き雪が花びらのように見え、舞いながらはかなく消える情景である。

そして函館は小山に囲まれ、坂が多く風光明媚の地であり、
その上に晴天に恵まれることも多く、この時節の函館は、私は風花の街、と命名したりした。
                              《つづく》
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《冬の1月の旅路》最終章 絹糸のような雪が舞い降り 《6》【2013.1.20.~1.25】

2014-01-17 17:10:45 | 旅のあれこれ
        最終章 絹糸のような雪が舞い降り

私たち夫婦は24日の快晴の中、十勝川の川沿い、十勝温泉の街並みを散策したり、 
そして札内(さつない)川が十勝川の大河にそそぐ近くに十勝中央大橋の歩道を歩いて渡ったりし、
数時間ばかり魅せられて彷徨(さまよう)ようにひたすら歩き廻ったりした。

そして3時少し前に滞在している観光ホテルに帰館した後、
部屋のベランダから山里の情景を観たりしていると冬場晴れから曇り空に変貌し、
まもなく右側からは絹糸のような霧状の雪雲が低地を覆(おお)いはじめて、やがて雪が舞い降り始めた・・。

何かしら札幌の郊外、十勝平野の奥地の糠平(ぬかぴら)温泉地で見てきた雪質と違い、
霧状のような雪が舞い降り、私たちは長らく見惚(みと)れたりした。

翌日の25日は旅の最終日であったが、ベランダから稀な雪質に魅了されて、
二葉ばかり撮ったりした。
             

その後、私はホテルの正面にある小公園の情景を記念に撮ったりした。
             
この後、私はホテルの正面入り口を撮ったりした。
                   
早朝からホテルの方たちが除雪車で、くまなく歩道や周囲の道路を除雪し奮戦していたが、
霧状のような雪が舞い降っている。

まもなくホテルのひとりが、正面入り口で除雪され、やがて一段落していた時、
私は声を掛けたりした。
『除雪されるのは重労働で大変ですねぇ・・
しかし私たち旅人にとっては、待ち焦(こが)れた雪舞う情景でして・・
何かしら昨年に札幌で見たスノー・パウダーのような雪質と違い、
やはり寒さの関係なのですか』
と私は言ったりした。

確かに帯広のこの時節は、日高山脈などの山なみに囲まれて、
積雪は少ないが、朝夕の気温はマイナス15度前後の厳冬であり、この寒さが雪質に関係しているのかしら、
このような意味合いの言葉を私は交わした。
そして私は、
『雪が降りますと、気温が高くなり、たぶんマイナス3度ぐらいの暖かい朝ですねぇ』
と言ったりして、ホテルのひとりに微苦笑されたりした。
               

私たちはチエックアウト後、ホテルのご厚意でマイクロバスで帯広駅前まで乗車した後、
雪は止み、昨夕から今朝までの新たな雪積15センチぐらい中、街並みは変貌して、
私は見惚れたりした。

その後、とかち帯広空港行きのバスを待っている間は、
駅前の『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジで過ごそう、
と私たちは話し合っていた。

そして駅ビル内で土産品を『六花亭』で買い求めた後、再び雪が降ってきた・・。
私たちは『ホテル日航 ノースランド帯広』に向う途中、私は大きな『長崎屋』ビルに本屋の表示が見えた。

この後、私たちは『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジに入り、
家内がコーヒーを飲んでいる間、
私は札幌で見たスノー・パウダーのような雪が舞降る中、『長崎屋』ビルにある本屋をめざした・・。

私は23日に緑ヶ丘公園の園内にある『百年記念館』を訪れ、
改めて十勝地方を開拓に貢献した人々の苦難が多かった人々を学んだりした。
そして何かしら思い込みの強い私は、この夜の夢の中で開拓に貢献した人々が出てきたのである。

このような思いで、何かしら書物で改めて学ぼうと思ったりしていたので、
本屋にかけ参じたのである。

許された短時間で選定した一冊の本は、
                  
松山善三・著作の『依田勉三の生涯』(ハースト婦人画報社)であり、
本書は1979〈昭和54〉年に潮出版社より刊行され、その後の復刻本である。

私は十勝地方を開拓に多大に貢献した晩成社を率いた依田勉三(よだ・べんぞう)氏を、
私が長年敬愛している映画脚本家、作家である松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏が、
御存じで、しかも書物に著作され上梓していたことに、私は驚きながら買い求めた一冊となった。

そして私はスノー・パウダーのような雪が舞降る中、小躍(こおど)りしながら、
家内が待っている『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジに戻った。

そして私たち夫婦は窓辺から雪が舞降る情景をコーヒーを飲みながら談笑した。


やがて私たちは、とかち帯広空港行きのバスに乗車し、
雪が舞降る広大な雪原を車窓から眺め、これこそ冬の圧倒的に魅せられ北海道の情景だ、
と私は高揚しながら家内に小声で話したりした。
                            《終り》

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《冬の1月の旅路》第4章 十勝川の川沿いを散策 《5》【2013.1.20.~1.25】

2014-01-17 08:07:14 | 旅のあれこれ
     第4章  十勝川の川沿いを散策

十勝平野は幾千の川が流れ、ほぼ中央に位置する帯広市は、十勝川、そして札内(さつない)川の大河が流れている。
そして札内川は、十勝川にそそぐ近くに十勝中央大橋があり、この大橋の下流の近くに十勝温泉がある。
この十勝温泉の川沿いに白鳥などの野鳥が飛来する、と書物にも明記され、
或いは川沿いの情景が旅人、写真の愛好家から賞賛されている、と私は学んできたので、
野鳥好きな家内、私は川沿いの情景に魅せられて、この地に向った。

駅前より路線バスに乗り、十勝温泉のあるホテル前で降り、
その後は適当に散策した時、十勝川のはずれの小さな川で、私には川霧のように見えたので、
私たち夫婦は川岸に下り立った。
             

気温がマイナス3度前後と私は感じたりしていたので、もしかしたらホテルの温泉が注(そそ)がれているのかしら、
とも思ったりした。

そして残り雪のある河原を歩いた行くと、野鳥の声が聴こえてきた・・。
             
この右手にある看板の野鳥の説明図の近くにネットで囲まれた中で、
白鳥、カモなどが50数羽見られ、近くには餌台が置かれて、家内は盛んに餌を野鳥に与えたりしていた。
                 

その後、観光温泉のホテル群の小道を歩いたりした後、
路線バスは2時間近く間があったので、駅の近くまで歩こう、と私たちは決意して歩きだした。
                  
やがて十勝中央大橋の積雪ある歩道を歩きながら、札内川が十勝川にそそぐ地帯かしらと思いながら、
デジカメで撮ったりした。
             
                      
そして十勝中央大橋を渡りきった時、記念に歩いてきた大橋の歩道を撮ったりした。
                            
ほぼ直線の道路はトラックなどの輸送車は疾走し、私たちは歩道をひたすら歩き、
ときおり周辺の情景を観たりした。
                       

その後、路線バスの標識が見えて、時刻表を見たら一時間ばかりあったので、
周囲を見渡すと幸運にも食事処があったので、昼食代わりに入店した。

そして想像したよりも美味であったので、このお店の情景を記念に撮ったりした。
                        

その後は無事に路線バスに乗車でき、やがて帯広駅の隣接した札内駅の近くで下車した後、
札内駅の駅前よりタクシーに乗り、宿泊しているホテルに帰館した。
          
                                       《つづく》
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《冬の1月の旅路》第3章 十勝幕別温泉の情景 《4》【2013.1.20.~1.25】

2014-01-16 17:03:55 | 旅のあれこれ
     第3章  十勝幕別温泉の情景

私たちが5泊ばかり滞在するレゾートホテルは、『十勝幕別温泉 グランヴィリオホテル』である。
http://www.route-inn.co.jp/gv/tokachi/
☆【十勝幕別温泉 グランヴィリオホテル 公式サイト】☆

そして私たち夫婦は、指定された10階の一室からのベランダからの情景を観たり、
12階の展望風呂から街並みを観たり、ときおり私はグランヴィリオホテルの周囲を歩き廻ったりした。

どんよりとした曇り空の日もあり、或いは澄み切った冬晴れの日もあったりした。
        
快晴の日の出の情景をベランダから撮ったり、ホテルの周囲からホテルを撮ったりした。
     
        
どんよりとした曇り空の中、ホテルの前の積雪の中のふるさと公園を撮ったりし、
この右手の小さな建物は公衆電話がある可愛らしい建物である。
        


そして快晴の夕暮れ時、夕陽が射し込む光景をペランダから観て、思わず見惚れながら撮ったりした。
        
                    


そして旅の前日の絹糸のような霧状の雪雲が低地を覆(おお)いはじめて、やがて雪が舞い降り始めた・・。
このことに関しては、後日に掲載する。
                                   《つづく》
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《冬の1月の旅路》第2章 『百年記念館』を訪れ 《3》【2013.1.20.~1.25】

2014-01-16 08:58:40 | 旅のあれこれ
     第2章  『百年記念館』を訪れ、帯広市の吉村博・第5代市長に敬意

今回の旅路のひとつには、十勝地方を開拓された人を学ぶこともひとつであり、
緑ヶ丘公園にある『百年記念館』を訪れて教示されることであった。

幾たびか北海道を旅行し、2008(平成20)年12月21日より4泊5日で札幌に訪れ、
冬の時節としては三度目の冬であったが、初めて『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
市内の各地をゆっくり散策したりした・・。

こうした中で吉田武三(よしだ・たけぞう)・著作の『武四郎つれづれ ~北の風土記』(北海道新聞社)を購読し、
遅ればせながら北海道の名付け親と称せられる松浦武四郎の道内をくまなく踏査の偉業を学んだりした。

そして一昨年の2011〈平成22〉年の12月中旬に、初めての冬の時節に帯広の観光温泉ホテルに滞在し、
十勝地方を開拓に貢献した晩成社を学んだりした。

今回、旅立つ前には、下記の【帯広市 公式サイト】から、改めて多々学んだりした。
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/seisakusuisinbu/kouhoukouchouka/shishi_01.html
☆【帯広市 公式サイト】<==帯広市史<==第一章 自然環境☆

このような思いを秘めて23日の朝の10時過ぎに『百年記念館』を訪れた。
          
そして館内の展示品を見たりした。
          
こうした中、映像装置で『帯広の森』関係のビデオがあったので、
私たち夫婦は指定して30分ばかり視聴し、過ぎし50年前の当時の帯広市第5代市長の吉村博からの提唱、そして輪郭で、
『帯広の森』が出来、やがて多くの市民の植林~剪定~再利用などの好意の結晶で、
数年前に30周年を迎えて、大きな森となり維持管理されている、と初めて学び感銘されたのである。

ビデオとほぼ同一内容が下記のサイトに明示されている。
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/toshikensetsubu/midorinoka/d070202obimori.data/obihironoima.pdf
☆【帯広市 公式サイト】<==帯広市史<==第一章 自然環境☆


やがて退館後、緑ヶ丘公園の園内を歩き、市民の植林された結晶かしら、と樹木を見ながら歩いた。
          
そして私たち夫婦は、緑ヶ丘公園に別れを告げて、街の雪が残る歩道を20分ぐらい歩き、駅前に出た。

                                   《つづく》
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《冬の1月の旅路》第1章 ばんえい競馬 《2》【2013.1.20.~1.25】

2014-01-15 08:48:47 | 旅のあれこれ
     第一章  ばんえい競馬

十勝幕別温泉のリゾートホテルに滞在している中で、
優先的に緑ヶ丘公園にある『百年記念館』を訪れたかったのであるが、
21日の月曜日は休館日と旅立つ前に知っていたので、やむなく帯広競馬場の『ばんえい』競馬を観る為に、
9時過ぎに訪れた。

私は競馬場に関しても無知であり、わずかながら東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
長兄の友人が来宅していた時に、教えを受けて中央競馬の府中競馬場に於いて、数回ぐらいレース券を購入して程度であり、
まったくの素人であり、ここ50年弱は競馬のレースから遠ざかっている。

しかしながら帯広競馬場は、世界で唯一『ばんえい』競馬を通年開催されている、
と知り、たまたま私たち夫婦は訪れたのである。
          

そしてレースが開催前であったので、競馬場の正門近くにある『とかちむら』で、
《 たくましい十勝の大地が育んだ新鮮野菜や色鮮やかな花々が並ぶ『産直市場』。
  食材の宝庫ならではの味覚が味わえる『キッチン』。
  豊かな気候と風土から生まれたスイーツやオリジナルグッズが揃う『スイーツ&セレクト』。
  3つのゾーンで四季折々の十勝の魅力をお楽しみいただけます。 》
と解説書に明記されていたので、コーヒーを飲んだり、家内はお菓子を食べたりした。

その後の昼食も、この『とかちむら』の食事処で、私は士別産のヒレステーキを食べ、
特選されたステーキだ、と家内に話しながら絶賛した。


競馬場の館内からレース場の近くで、私たち夫婦は見たりした。
          

その後、『ばんえい』競馬の開催中の裏舞台が見られるバックヤードが、
たった100円で見ることができるので、私たち夫婦と60代の女性は解説員の説明を受けながら、
競馬に関する施設、レース場の状況などを観たりした。

やがて隣接してある7頭ぐらいの馬、そしてポニー、ヤギ、ウサギなどがいる『動物ふれあい広場』で、
動物好きな家内は、盛んにニンジンを与えたりした。
          
結果として、家内は日本酒の高級な吟醸酒が買い求めるぐらい、それぞれの馬にくまなくニンジンを与え、
私は微苦笑しながら見たりしていた。

この後、競馬場の前よりタクシーで駅前の近くに出て、
この周辺で一番大きな『長崎屋』で防寒靴などを観たりした。
そして私は何よりも驚いたのは、エスカレータが階段状でなく、動く歩道が上昇しているような状態であった。
                   
私はデジカメを取りだして、見知らぬ女性が乗っていたけれど、記念に一葉だけ撮ったりした。

                                   《つづく》
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《冬の1月の旅路》序章 十勝幕別温泉に初めて訪れ。 《1》【2013.1.20.~1.25】

2014-01-14 08:36:21 | 旅のあれこれ
     序 章  帯広市の郊外にある十勝幕別温泉に初めて訪れ


私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであり、特に雪の舞い降る情景に魅せられて、
この時節になると、雪恋し、心情となり、
過ぎし20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、
5泊6日で滞在し、周辺を周遊してきた。

私たち夫婦は何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら十勝地方の帯広の地域は、3度ばかりしかなかった。

最初は周遊観光で晩秋の時に、道東めぐりの2泊3日の最終で十勝地方を観たりし、
その後は、5月の知床半島のクルーズに魅了された後、旅の終わりとして十勝川の筒井温泉に宿泊したが、
いずれも雪のない時節であった。

私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、雪の大地は凛とし、果てしなく青空が高く観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。


私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。

この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。

そして帯広市は、シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた、と私は25年前に学んだりした。
私は中島みゆきさんを秘かに女神のように信愛し、
このお方の幾つかの歌に支えられて、この人生の難局を乗り切ってきたひとりである。

このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたい心情があった。


こうした思いを秘めて一昨年の2011〈平成23〉年の12月20日より、
帯広市の郊外にある十勝川の筒井温泉にに2泊した後、
いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地の旅路をしてきて、
私たち夫婦は魅了された。

こうした体験があったので、今回はある旅行会社が企画したフリー滞在プランを利用して、
帯広の郊外の十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、
5泊ばかり滞在し、周辺を散策したりした。

この地域は、この厳冬期はマイナス10度前後、烈風か寒気団が襲来すればマイナス25度前後と予測して、
防寒着で身を固めて、周辺を歩き廻ったりした。


20日の冬晴れの中、東京の羽田空港で、11時30分発のとかち帯広空港行きを待合所で待機していると、
たまたま冬富士の情景が観えて、
          
『羽田空港から、富士山を見たのは初めてだょ・・』
と私は微笑みながら家内に言ったりして、これからの旅路は何かしら幸運があるのかしら、
と余計なことを思ったりした。


とかち帯広空港に予定通り午後一時に着陸した後、私たち夫婦は帯広市の駅前をめざして、
40分ばかり空港連絡バスに乗車した。
そして指定された『ルートイン帯広駅前』で待機していると、宿泊する送迎車のマイクロバスに乗り込み、
帯広市内の街中を通り、隣接した札内町の街中を走行し、やがて小高い丘を登りきった所に、
私たち夫婦が滞在するホテルが観えた。
          

そして館内に入り、チエックインする前に、私は思わず微笑んだりした。
          

私たちが5泊ばかり滞在するレゾートホテルは、『十勝幕別温泉 グランヴィリオホテル』である。
http://www.route-inn.co.jp/gv/tokachi/
☆【十勝幕別温泉 グランヴィリオホテル 公式サイト】☆

そして私たち夫婦は、指定された10階の一室に入り、宅配便で送付した大きめの旅行ケースを確認したり、
室内を見たりした後、ベランダからの情景を観たりした。
          

                                        《つづく》
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函館、冬の時節に本日より初めて訪れることとなり、東京の田舎者の私は戸惑いながら・・。

2014-01-13 04:34:16 | 旅のあれこれ
私は東京郊外に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨年の11月中旬に、家内と駅前に買物に行った時、たまたま旅行代理店の前で、
店頭に置いてある一通の旅行バンフレットを頂いた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代の頃から国内の旅を重ねてきた。
そして冬の時節は北の雪舞い降る山里を歩いたり、街並みを歩き、その地の風土、文化を多々学んだりしてきた。
たまたま昨年の1月下旬には、北海道の帯広市の郊外にある幕別温泉の観光ホテルに5泊6日で滞在して、
周辺をひたすら歩き廻り遊学したりした。

一昨年の一月中旬に於いては、福島県の裏磐梯の檜原湖に近い観光ホテルに3泊4日の旅路をした後、
下旬から2月初めに、札幌市の郊外にある観光ホテルに6泊7日で滞在して、
市内、郊外の支笏湖などを周遊したりし、
私たち夫婦は雪恋し、と歩き廻ったりしてきた。

こうした心情を秘めてきた私たち夫婦は、新年の一月の旅先はどの地を旅をしょうかと、
漠然と思案してきたのである・・。

この一通の旅行バンフレットは、北海道の函館地方のであるが、
この冬の時節には未知の世界であり、帰宅後にパンフレットを見ながら、
冬の函館も良き所が多く観て見たい、と私は家内を誘ったりした。
            

私が初めて北海道に行ったのは、
高校時代の修学旅行で確か1962年(昭和37)年の6月の頃だったと記憶している。

上野駅から夜行列車で青森駅に着いた朝、そして青函連絡船に乗船し、
函館から12泊13日間の概要一周であったが、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、
車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。

この時の周遊は定かでないが、今でも鮮明に覚えているのは、
夕方に上野駅から夜行列車に乗車し、普通座席に座りながら、
少し眠っただけで翌朝に青森駅に着いた後、長い通路を歩いた後、青函連絡船に乗船した。

やがて津軽海峡の波は荒く、蒼い波間を見たり、船は少し揺られたりしていたが、
初めての大きな船に乗船した高揚した心情の為か、船酔いのことも忘れ、
友人たちとデッキから海を見ながら、談笑を重ねたりしていた。

確か乗船時間は4時間ぐらいであったと思われるが、
彼方に北海道の函館の街が観えた時、北海道だ、やっと着いた、
と私たちは勝手に言葉を重ねたりして、歓声を上げたりした。

この当時は高校生が、北海道の修学旅行の場合は、
都心から夕方に夜行列車に乗車して、普通座席に座り、翌朝に青森駅に到着し、
青函連絡船に乗船して、昼前後に北海道の道南の函館港に到着するのが、
普通のケースであったと思われる。

その後、10数年後には航空機の時代となり、やがて青函連絡船の定期航路も廃路となった。

そして殆どの方は、航空機で北海道の旅となったので、
私たちの訪れた時代は、遠い北国の北海道が実感できた時代でもあった・・。
          

私は家内と結婚した1976年〈昭和51年〉の春を過ぎた後、
長野県、北陸地方、東北地方などを主体として旅行をしていたが、
1981年〈昭和56年〉の夏、私の会社の夏季休暇で利用し、
夫婦として初めての北海道は道南コースを周遊した。

この当時、大手の航空会社が観光地にあるホテルに宿泊して、各観光地を専用バスで周遊させるプランがあり、
私たち夫婦は新千歳空港から札幌の『東急ホテル』に宿泊した後、
専用バスで移動して大沼の『プリンスホテル』に宿泊した後、
そして函館の『国際ホテル』宿泊する3泊4日の全日空が主催するフリー周遊プランであった。

この時、私たちは初めての大型旅客機に乗り、更にエコノミーの航空券なのに、
ファースト・クラスに座るように客室乗務員から言われ、破格のサービスを受けたりした。
初めてづくしの為か、札幌、函館の市内めぐりも、無知で解らず、ただ舞い上がる中、
ハイヤーで周遊観光をしたりし、帰宅後は我が家の貯金がわずかとなったりしてしまったが、
それなりに思いで深い旅となった。


今回、冬の函館を訪れる私の根底のひとつとしては、何かと烈風の多い立待岬を観たいことであった・・。
過ぎ去り年の2008年12月下旬の時、『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るために、
『ススキノ駅』から5分前後歩いたビジネスホテル風に4泊5日で訪れた。

こうした旅路の中、『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私は家内を誘い、地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。

公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。

私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。

この本は北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。

私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。

こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信を深めたりした。
          
この本を滞在先のホテルで、たまたま私は、布団の中で読んでいたのであるが、
ひとつの詩を読みながら、思わず涙を流し、首に巻いたタオルで頬をぬぐったりした・・。

私は詩に関しては、無知であり、単なる私の感覚を頼りに読んでいる程度である。

無断であるが、転載をさせて頂く。

     立待岬               
                      作・三吉良太郎

ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間

ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む

塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている

(後略)

この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、と解説されていた。

私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。

三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)

このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。

こうした私の心の片隅に残っているので、未知の『立待岬』を冬の時節に訪れたかったのであった。
http://map.yahoo.co.jp/maps?q=%E5%87%BD%E9%A4%A8&p=%E7%AB%8B%E5%BE%85%E5%B2%AC&ei=UTF-8&fa=as&type=scroll&pop=on
☆【YAHOO! JAPAN】<==『地図』検索
                     <==『函館市 立待岬』周辺☆

そして昨年の12月の始め、ある有力な通販の旅行会社から、
月刊誌が自宅に郵送された中で、格安の『フリープラン ザ・湯の川温泉5日間』が掲載され、
これだったならば年金生活の私たち夫婦でも気軽に行ける、と私は微笑んだりした。

そして今回、本日の13日より4泊5日で、函館市に隣接している湯の川温泉の観光ホテルに滞在し、
幾たびか市内の名所などを歩き廻る予定である。

しかしながら冬の函館を調べたりすると、『立待岬』は冬の間は閉鎖、と明記されて折、
東京の田舎者の私は戸惑いながら、周辺の地から遠方の立待岬を眺めるのかょ、
と複雑に思いで、溜息を重ねたりしている。

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どんと焼き、私の幼年期の心の宝物のひとつとなり・・。

2014-01-12 07:33:01 | 定年後の思い
私は一昨日の10日、駅前のスーパーで買い物を終えた後、
帰宅に向かう途中で、偶然に『どんと焼き』14日実施、と明記された案内の立て看板を見かけた。

『どんと焼き』かょ、と私は思わず心の中で呟(つぶや)きながら、
見惚(みと)れてたりした・・。

《 糟嶺神社どんど焼き
期 日:2014年1月14日(火)
開 演:10:00  終了:11:00
参加費・料金: 無料  
会 場: 糟嶺神社
主 催: 糟嶺神社 》

確かこのように明示されていたと記憶しているが、『どんと焼き』の時節が到来したか、
と私は遠い60数年前の頃を思い馳せたりした・・。
          

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
遥か遠い昔の60数年前の昭和26年(1951年)の前後に於いて、
私の今住んでいる近くに生家があり、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。

お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そして『どんと焼き』をしていた。

この当時、旧家ではその家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていた。

私の生実家に於いては、田畑の外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように7メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩(いろど)った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。

夕暮れで暗くなった頃に、点火されて、燃え盛り炎、はじける音、
そして燃え盛る炎と共に火花がはじけて、暗くなった中を明るく照らし、
祖父と父から少し離れて、長兄、次兄と共に私は眺めたりしながら、心の中で歓声を上げたりしていた。

そして枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。


この数年後、父は病死し、そして祖父も亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』をする余裕もなく、
取りやめたのである。

そして、まもなく実家の周辺も住宅街に変貌し、
私が小学校を卒業する昭和32年(1957年)の年頃になると、
どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったりした。
          
         ☆昨年の12月下旬・たまたま《 糟嶺神社 》撮った☆

私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めた為か、
神社でそれぞれの家が持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っている。

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『鏡開き』が終え、やがて『女正月』かしら、と私は思いを馳せたこともあり・・。

2014-01-11 09:31:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを見ると、11日は確か『鏡開きの日』だったよなぁ、
と思ったりした。

そして数多くの人が3連休を迎えて、ご家族でゆっくりと過ごされ、
家庭を守る主婦たちは『女正月』として、今年初めてのんびりとくつろげる日かしら、
と私は思ったりした・・。

もとより家庭を守るご主婦たちは、昨年の中旬までにお歳暮を済ませた後、
その後は大掃除、年末年始の準備をしたり、御節料理の買物、料理などで多忙な日々を過ごしてきた。

そして新年を迎え、ご家族一同で初詣をしたり、新年会をされたりした後、
6日には仕事始めの主人を送りだし、7日の朝食の代わりに『七草がゆ』を頂き、
お子様も三学期の『始業式』となる。

そして本日の11日には、お供えの鏡餅を下ろし、『鏡開き』をして、
小豆(あずき)がゆを食べたり、 何かしら初めてほっとご家族で過ごすことができるのは、
この時節と思ったりした・・。

私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
叔母、長兄、或いは友人のご家庭を時折見たりしてきたので、
このようなことを長らく思ったりしたのである。

大正時代の頃から日本の多くの人たちは、このように過ごされ、
特にご婦人たちがゆっくりとした気持ちになれるので、『小正月』と命名されたり、
『女正月』とも称せられたりしてきた。
          

私は1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
東京オリンピックが開催されて1964(昭和39)年に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退し、
ある民間会社に何とか中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であった。

職場で共にした多くは、新卒の団塊の世代であり、妹のふたり、そして家内もこの世代の人である。

そして私たちの先輩たちは、1960年(昭和35年)の前後から、日本の高度成長と共に、
猛烈に社内で働いて、一家の収入の責務を負い、
奥様は専業主婦となり、子供の育児などを含めて、家庭内の専守防衛に徹して、主人の後方支援となっていた。

このような先輩たちを学びながら、私達の世代、そして団塊の世代も邁進した。
一家の主(あるじ)が懸命に働ければ、年収は確実に上昇し、
専守防衛の専業主婦に収入を渡すことができ、喜びを共にできた時代であり、
確かに明日に希望を託すことの出来た時代であった・・。

こうした中で、ささやかながら、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機など、
その後は自動車、クーラー、カラーテレビなどの耐久商品を少しつづ購入しながら、
住宅を一生の高い買物と思いながら、ローン返済に奮闘したり、
子供の教育にも自分たちの夫婦より、少しでも高いレベルと思いながら、捻出して、
家族それぞれが悦びを共に享受できた時代であった。
         
やがて1989年(平成元年)11月初旬に東ドイツが市民に寄る『ベルリンの壁』が崩壊した後、
やがて米ソの冷戦構造が終結され、
世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済そして社会が一変した・・。

世界は社会共産経済も消滅し、世界の主要国は自由経済となり、
日本は東ヨーロッバ、アジアの諸国などの経済競争力に巻き込まれて、経済は低下した。

こうした中で、日本に於いては、1991年(平成3年)にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社の多くは自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。

私は中小業の民間会社に勤めた身であったので、
まともに大波を受けたりし、多くの先輩、同僚たちと別れ、
そして残された私たちは困苦の時期を過ごした体験もある。

この間、数多くの民間会社のサラリーマンはもとより、多くの国民が困惑した時期を送られた、
と私は確信を深めたりした。
          
そして周知の通り、失われた20年の政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特にたえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、安住できない時代となり、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、このように過酷な状況の中で奮戦している。

もとより私達が30、40代まで昭和の時代と共に過ごし、
やがて昭和の時代が終わった頃から、『昭和妻』と称せられた専業主婦の家庭も激減し、、
数多くの家庭も共稼ぎ時代となったのは、まぎれなく20年近い実態となっている・・。

このように無力な年金生活の私は、時代に翻弄され、明日に希望を託せない閉塞の現世に、
ときおり思い馳せたりすると、涙を浮かべたりする時もある。
          

昨年の今頃、たまたま私は家内と買物に出掛けた時、
私の甥っ子である長兄の子供ふたりの中の一番目の子に逢った・・。

長兄の子供といっても、42歳となり、若き奥様を連れ立っていた・・。

『女正月の日だから・・たまには・・のんびりとお2人で・・』
と私は甥夫婦のふたりに云ったりした。

『叔父様・・女正月は昭和妻の名残りだわ・・
叔父様たちには悪いけれど・・当世では昭和妻は死語ですょ・・』
と甥の若き奥様は、微苦笑しながら私達夫婦に云ったりした。

この後まもなくして、私達は別れたが、
甥夫婦の後ろ姿を眺めながら、確かに甥夫婦にしても、
妹の子供ふたりも40代で夫婦共稼ぎをしながら、仲良く堅実に生活している状況に、
私は思い重ねたりし、私たち夫婦が過ごしてきた時代と、
大きく変貌していることに改めて実感させられたりした。

こうした心情を秘めてきた私は、働いて下さる諸兄は多忙の中、せめてこの3連休ぐらいは、
愛する妻と可愛い子供と共に、ご家族でのんびりと過ごされれば・・と無力の私は願ったりしている。

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60数年前の私の幼年期、初めて買物を思い馳せられて・・。

2014-01-10 08:19:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、60年前に亡くなった祖父の夢を見て、
どうして祖父が夢の中で、お逢いできたのかしら、と微苦笑したりした。

夢の中では、祖父から買い物を命じられて、生まれて初めての近所の雑貨屋に行く状況であり、
どうして今頃・・ぼんやりと思い重ねたりした。

やがて思い当るとすれば、過ぎし6日の数多くの方が『仕事始めの日』、
私は平素の買物専任者であり、スーパーに行ったりした。
そして精算のレジの場所で並んでいると、前にいる6歳前後の男の子が不安そうに、
買い求めた品を差しだして、財布からお金を出していた状景を見てしまったのである。

帰宅後、私は家内に、この男の子の買い物精算時のことを話したりした・・。

こうした余情が私の心の片隅に残っていたのか、60数年前の私の幼年期、初めて買物を
思い馳せられてしてしまった・・。

          
          ☆今回、掲載した写真は、私が小学校に通学した道で、かすかな原景に残っている所を
           昨年の11月初旬に撮ったりしたが、もとより60年前は遥かに素朴で、整備されてなく細道であった☆

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄に続いて私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26年)の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。

幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も生家に於いても、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
          

こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
生家の周辺には、この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
夕暮れの少し暗くなった人気のない村道をトボトボ歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と云ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。
          
後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした・・。


昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。

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寒の内この時節、心の中で唄う歌は、69歳の私でも『冬景色』が多くなり・・。

2014-01-09 12:51:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夕から小雨が降りだして、12日ぶりの雨か、と微笑んだりした。

私の住む地域は年末年始には、冬晴れに恵まれることが多く微笑んだりしてきたが、
自宅の周辺を散策したりすると、少し雨を降った後のしっとりした情景もよいよねぇ、
と思ったりして歩いたりしてきた・・。
          
今朝、目覚めると小雨が降ってした・・。

この後、地元の天気情報を見ると、朝の6時は5度、昼下がりは11度前後、
そして夕暮れの6時は5度前後であるが、
小雨が朝の10時過ぎに上がり、その後は急速に回復して晴れ間となり、その後は曇り、
やがて夜半には霙(みぞれ)か小雪が予測されている。

私は気弱な高齢者の為か、余り激しく変動しないでねぇ、
と気まぐれな天上の気候の神々に祈願したりした。

この時節は、過ぎしの5日に『小寒(しょうかん)』を迎え、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、やがて1月20日頃には『大寒(だいかん)』を迎えて、
一年で最も寒い時期と古来から伝えられている。

そして『小寒』から『大寒』までの15日間、
その後の『大寒』から2月4日の『立春(りっしゅん)』までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。

もとより『小寒』、『大寒』そして『立春』の『寒の内』は、
旧暦であるので、今の暦に於いては2月中旬頃から始まると思われるが、
私の住む地域でも、寒い時節となる。

こうした中、私は自宅の周辺を散策して、冬晴れの中、落葉樹の冬木立に見惚れたり、
          
ときにはこの地域でも小雪舞い降る時もある。
          
           ☆ 昨年の2月初旬に、数年ぶりに小雪が降った ☆


こうした時、私は何故かしら『冬景色』の歌を心の中で唄ったり、
人影のいない遊歩道の中で、かぼそい声で『冬景色』を唄ったりしているのが、
定年後の年金生活の中で多くなっている。
http://www.youtube.com/watch?v=r3sZKBnr6t4
【『冬景色』 作詞・作曲 不詳  文部省唱歌、唄・芹 洋子、合唱・東京放送合唱団 1984/1 放送 】

私の幼年期、私の住む地域でもこの当時は、
田畑が広がり雑木林もある緑豊かな農家の児として育ち、私は心のふるさとの限りない情景として、
齢を重ねるたびに愛惜が深め、このような心情を秘めているひとりである。

この歌は、1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出と知られているが、
作詞はどなたが創られた不明であるので、この創られた方に心を寄せたりし、
ときおりこの歌を聴いたりすると、どなたが歌っても、私は涙ぐんでしまう時が多い・・。

遠い幼年期を想いださせるのか、
或いは失ってしまった純粋な心を甦(よみがえ)させようとする
もうひとりの自分に哀歓を寄せているのかは解らない。

何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。

私は詩の世界は恥ずかしながら理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は、少しは解るつもりである。

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とりとめなく敗戦後の昭和の時代、そして平成の時代を思い馳せれば・・。

2014-01-08 06:41:59 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の昼食後、冬晴れの風もない恵まれた中、 自宅の近くに流れている野川の遊歩道を散策した・・。
          

そして付近にあるベンチに座り、お正月の行事も終わり、
心身ともに日常の生活に戻った、と暖かな陽射しを受けて、ぼんやりと思ったりした。
そして働いて下さる諸兄諸姉に感謝しながら、
こうしてのんびりと時間を共に過ごせることに、この世の最上のひとときかしら、
実感を深めたりした。

こうしてぼんやりとしていると、確か今日は1月7日だったなぁ、
と何かと緊張感を失くしている私は思い、そして確か昭和天皇がご逝去された日だった、
と思いだして微苦笑したりした・・。

そしてこうした大切な日を遅ればせながら気づいたりしたので、
少しボケてきてしまったのかしら、
私自身も昭和の時代も遠くになってしまったのかしら、と独り微苦笑したりした。
そしてベンチから立ち上がり歩きだした・・。
          

私は1944年〈昭和19年)の初秋に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で家庭で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで『昭和』の時代で過ごしたので、
もとより自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。

1988年(昭和63年)の晩秋、この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、翌年の4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
こうした中で、昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして、私の勤めていた会社でも、音楽の世界では世界的な有名な『ボン・ジョヴィ』と命名したロック・グループが、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになり、テンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、なぜか中止となり、
せっかくのチャンスだったのに、と私なりに落胆をしたりしていた・・。

そして1989年(昭和64年)の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。
          
私はいつものように出社し、社内の恒例の朝礼の時、
専務取締役の指示で、フロアーを共にした各部署の一同は、皇居の方面に向かい、黙祷をささげた。
                    

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。

もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989年(昭和64年)1月7日により、
平成元年は1月8日から初まり、早くも本年は平成26年を迎えている。


私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989年(平成元年)11月9日から東ドイツが
市民に寄る『ベルリンの壁』を実質的に撤去の出来事と重ねてしまう・・。

この後、米ソの冷戦構造が終結され、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、
やがて社会が一変したからである。

このした中で、私たち日本の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと、
そして水をペットボトルなどで購入したことなどを思い馳せたりした・・。

音楽愛好者からすれば、音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってまもなくDVDに変貌し、昨今はブルー・ディスクも普及している。
そして音楽配信が携帯電話が主流で普及し、昨今はスマートフォンに活性化の時代を迎えている。

何よりも国民全体すれば、圧倒的に社会を変貌させたことはパソコンが普及し、インターネットの急激な浸透である。
1995年(平成7年)の秋に『Windows 95』が発売され、
それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、一般の方も買い求めて、大衆化したことである。
そして、これに連動して、インターネットが急激に普及し、やがてネット通販の隆盛となっている。

もうひとつの変貌は、モバイル情報の発生であり、携帯電話の急激に普及であり、
そしてここ3年前の頃からは、スマートフォンに活性化の時代を迎えている。

映画のオリバー・ストーン監督の『ウォール街』は、1987年(昭和62年)にアメリカで公開された作品であるが、
怜悧で貪欲な投資銀行家が、浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃は大きめのラジカセのような形の携帯電話であり、破格な高価な品であった。

平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、昨今は日本で一億台突破となり、
殆どの日本人が愛用し、ここ数年は高性能のスマートフォンの急速に普及となっている。

こうした世情を見てきた私は、20世紀の時代はテレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
平成の時代は、ネットとモバイルの代表の携帯電話、と秘かに断言している。
          

こうした中で、何よりも変貌の実感をさせられたことは、
一部の専門のマスコミ、著名人などから発信できる時代から、
誰でも簡易に発信できる時代となり、こうしたことは文明史上初めてのことである。

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職し、ホームページの開設を思案したりしていた。
しかしながらネットの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然、11月の上旬に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知ったのである。

『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、別冊インターネット・マガジンであった。

そして私はブログの多くは匿名制度であるが、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のこと、日々思い思索していること、果てには政治の分野まで自在に発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると決意したのである。

これ以降、ブログ、ブログに準じたサイトに、4つばかり加入し迷走しながらも、
このサイトに日々投稿して、早くも9年か過ぎている。

もとより、大手のメディアのテレビで報じられるニュースは編成権、
新聞、総合月刊雑誌、週刊誌などの活字分野に於いても、専門知識を有した人たち、
これに準じた記者、編集者などが綴られた上で、厳然たる編集権の下で、公表されている。

ブログの世界は、大手メディアの良悪の自己規制で公表されるのと違い、
個人のあらゆる分野のあふれだす思いを自由自在に発露された内容と思え、
このようにブログの投稿者自身は、たとえ匿名制度が多い中でも、
程ほどの理性と感情を交えながら、自由自在に自己責任の下で、投稿できるのが本来の意義である、
と思っているのである。
          

もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多い。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。

そして私は煙草の愛煙家のひとりであるが、日本に嫌煙ブームが始まったのも平成になってからである。
喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)いたり、
そしてJR(旧・国鉄)長距離列車の車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、
ときおり煙草を喫う方が見られたりした。

私がギックリ腰が酷く入院生活を1991年(平成3年)の当時は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、
煙草を吸わない人でも、何かと寂しいのか、憩いの場として団欒し、談笑を重ねたりした。
          

私は定年退職した2004年〈平成16年〉後は、
年金生活をしているので社会状況に疎(うと)く、もとより若き諸兄諸姉はご存知であるから、省略する。

私はかの大戦の一年前に生を受け、悲惨な戦争の実感は無知であるが、
その後の敗戦後から昭和の時代は45年ばかり過ごしてきたので、
もとより多々の思いでもあり、愛惜を秘めているひとりである・・。

こうした心情のある私は、思いつくまま馳せたりし、とりとめなく綴ってきた・・。

昭和の時代が終わり、平成の時代になってから大きく変貌したことは、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂(うれ)いたりしている。

そして平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように思われるかしら、と齢ばかりを重ねた69歳の私は限りなく関心があり、
微苦笑を重ねたりしている・・。

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七草粥(ななくさがゆ)、我が家は無縁となり、私は平素の一汁三菜の朝食となり・・。

2014-01-07 11:21:21 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、冬晴れの朝の中、我が家のお正月に彩〈いろど〉ってくれた松飾りに、
さよならと別れを告げながら、整理した。
            
             ☆我が家のお正月飾りは、家内が中学生の頃から茶事を学び、
              たまたま裏千家の流派で、お正月の祝いのひとつの品に準拠して、
              左側にあるひとつばかりの品を代用し、簡素としている☆

この後、私は五穀米が入った白米のご飯、ワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、
カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚、ラッキョの塩漬け・・
幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、頂いたりした。

家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いている。

もとより古来より正月の7日の朝食には、七草粥を食べる習慣の家が圧倒的に多いと思われが、
恥ずかしながら我が家の朝食は、世の中の時流に逆らっているのかしら、
と私は朝食の時に話しかけて、お互いに微苦笑したりした・・。

そして私は朝食を頂いた後、私の《夫婦のご飯茶碗》をよく見たら、少し欠けている処があったが、
数10年先と思われるが、いずれは私たち夫婦は、どちらかが片割れになるので、
大きくヒビが入ってなければ大勢に影響はない、と私は苦笑したりした。
          

我が家は、私の定年退職した2004年〈平成16年〉の頃からは、
この日の朝は七草粥は食べた記憶はない。

昨日、私は昼下がりに最寄のスーパーに買物に行った。
野菜売り場のコーナーで、『春の七草』のセット品が50前後があり、
私は立ち止まり眺め、微苦笑したりした。

このスーパーは、5日の日曜日から、『春の七草セット』が販売されて折、
チラシの中に於いては、
《・・ 七草がゆ
1月7日正月、七草正月とも言われ、早春の若草を粥に入れて、春の訪れを楽しむ日です。
7日の朝に、春の七草を入れた粥を食べると万病がさけられると言われ、今年一年の家族の健康を願います。
中国から伝わり江戸時代に広まった習慣のようです。》
と中学校の義務教育を卒業した方なら、だれでも解るように優(やさ)しく明記されていた。

私は、『春の七草』の1パックの品を眺め、『新春を祝う 春の七草』と明記され、
神奈川県産と表示されて、1パック398円(税込)と大きく棚の所に明記されていたので、
微苦笑を重ねたりした。

もとより七草は、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケグサ、スズナ、スズシロであり、
スズナは野菜のカブであり、スズシロはダイコンであることは多くのお方に知られている。
                           
           ☆ 昨年の1月2日に都立『神代植物園』に私は訪れた時、正面出入り口に近い植物会館に於いて、
             この中に展示室があり、時節ごとに展示品が公開され、たまたま一角に新春を祝う『春の七草』が、
             このように展示されていたので、30センチ足らずの竹かご飾りに瞬時に魅了され、私は記念に撮った。

ここ10数年、 私は七草粥の祝い事には興味がなく、
遠い昔の頃は、この冬の時節は何かと野菜不足であったので、
新春のひととき七草粥(ななくさがゆ)を召し上がった、と思ったりしているのである。

少なくとも現世は、キャベツ、レタス、セロリ、ホウレン草、ダイコン、カブ等が多品種にあるので、
私たち夫婦は、特に七草粥には興味がなく今日に至っている。
          

私は東京の郊外の農家の児として生を受け、1951年(昭和26年)の小学1年生の頃は、
祖父、父が健在で、程々の広さの田畑を小作人だった人たちのご厚意の助けも借りて耕していた。

旧暦の1月7日は、今の暦に於いては2月中旬頃であると思われるが、
田んぼのあぜ道、畑の小道の外れに多彩な野草が数多くあった。

父の妹の叔母の2人は、結婚する前の時期であり、
ノビルやヨモギなどを取り、私たち長兄、次兄、私にも食べさせてくれた。

ノビルは今でいうとラツキョの小型の形をしており、真っ白な小玉が先端にあり、
さっとお湯をとおした後、味噌に砂糖を加えた甘味噌を付けて口に含んだりした。

早春の頃は、カブ、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ等の野菜の中、
子供心にもノビルは早春の香りを感じたりしていた・・。

ノモギも叔母達が摘んで、撞(つ)きたての餅などに入れ、私たちも香りと歯ごたえを共にした。

ナズナはペンペングサと呼んでいたが、次兄が兎(ウサギ)を飼っていたので、
次兄は叔母に教えられて、餌として盛んに採っていた、と微かな記憶が残っている。

この他の七草は多分生えていたと思われるが、無念ながら幼年期であったので記憶が定かでない。

このようなささやかな想いも秘めている私であるが、
日本人の古来からの行事のひとつ『七草粥(ななくさがゆ)』を頂くこの日の朝、
私たち夫婦は何かと和事に関心は多いが、ときには矛盾することもあるなぁ、と私は苦笑している。

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