私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜の8時近く、60歳をわずか過ぎた麗人の女性より電話を頂き、
微笑みながら10分ぐらい話したりした。
過ぎしき44年前の1969年〈昭和44年〉の4月から翌年の1970年〈昭和45年〉3月までの一年間、
私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学び、
昨年の初秋の頃から、有志が集い、やがてクラスの同期会をこの3月中旬に開催しょう、
と優れた機敏能力のある女性を幹事として、私たち男性3名が助成として打ち合わせを重ねてきた。
この幹事をして下さる女性のお方の電話連絡であったが、
この後ぼんやりとあの当時の頃を私は思い馳せたりした・・。
私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
小学4年生の頃から独りで映画館に数多くの映画作品を鑑賞してきたので、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。
その後、養成所の講師の知人の新劇の長老から、これから映画で飯を喰えるのは極く一部の人だょ、
まして脚本は・・同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。
こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。
そしてやはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。
この試験の帰りに映画館で『卒業』を観たし、
この当時、ラジオからサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
そして映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに心酔したりしていた。
やがて家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。
このような時、近所の家電販売店の店主が、生家の長兄宅に幾たびか来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と家電販売店の店主から私は忠告された。
私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、たまたま本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。
そして購入して読んだが、数学、物理などの理工関係にも弱い私は、無念ながら理解出来ない方が多く、
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、
と理解していた程度であった。
この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
こうした中で、石原慎太郎さんが名誉学院長されているある新設されたコンピューター専門学校に、
1969年〈昭和44年〉4月に入学した。
確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であり、近くの大きな広告の看板に、
モデルの小川ローザさんが、車が走り抜けた風圧にスカートがまくり上げられ、
『オー・モーレツ!』とスカートを抑えながら言ったりした看板に、
よくやるよなぁ、と私は心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑したりした。
やがて数が月後に代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。
こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。
そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。
私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのである。
こうした間、学友のひとりに誘われて、新宿駅の西口に一度だけ行ったりした。
この当時、フォークゲリラと称された反戦フォークソングを唄って反戦運動を高めようとする若者たちが、
ベ平連の青年たちがギターを持って新宿駅の西口の地下広場で盛んに決起していた。
こうした状況を観た私は、過ぎ去る年にアメリカのケネディ大統領の暗殺、
やがて弟のロバート・ケネディが大統領立候補のさなか暗殺されてしまい、
私は政治の怜悧さを痛感させられ、政治への希望と関心は遠ざかっていたので、
あわゆい効果のない青年の政治活動だ、と傍観者の心情で見つめたりしていた。
或いは卒業をまもなく迎える1970年〈昭和45年〉の3月中旬からは、
『日本万国博覧会』が大阪の郊外で華々しく開催されて、
私は鑑賞に出かけるお金の余裕もなく、漠然と羨望を重ねたりしていた。
やがて1970年〈昭和45年〉の3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業時期を迎え
卒業式の後を先生方と私たちは謝恩会で高揚した中、私は心の片隅には、
私は劣等生の為に追試を受けたばかりであったので、不安さを秘めていた・・。
そして何とか卒業証明書を頂けたのは3月31日であった。
私は生家の自動車で、代々木にある学校に向かう世田谷街道を走行していると、
社内のラジオから、『よど号ハイジャック事件』が発生して、
犯行した方たちはどのようになるのか、と思いながら学校に到着して、
先生から卒業証明書を頂く時、私は照れながら受け取ったりた。
こうした中で私の就職活動は、この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーの経営陣のひとりが、
私の生家の遠い親戚の方が知人で、私は紹介を受けて、このお方のご尽力もあり、
何とか中途入社の内定を受けたのは3月15日過ぎであった。
そして私たち生徒一同は、それぞれの企業に就職して行った・・。
その後の私は、同級生だった人たちが、どうような進路を歩まれたか、
そしてお世話になった先生にも連絡をしなかったので、音信不通となった。
私は卒業証明書を頂いた翌日の4月1日に、この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーに中途入社し、
その後まもなくある音楽の大手レーベルが独立し、外資系のレコード会社として新設された。
私も異動させられて、この後35年近く奮闘して勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年を迎えた。
しかし正確には、定年の7年前の頃から、音楽業界のリストラ烈風となり、
私も最後の5年は出向となったりした。
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昨夜の8時近く、60歳をわずか過ぎた麗人の女性より電話を頂き、
微笑みながら10分ぐらい話したりした。
過ぎしき44年前の1969年〈昭和44年〉の4月から翌年の1970年〈昭和45年〉3月までの一年間、
私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学び、
昨年の初秋の頃から、有志が集い、やがてクラスの同期会をこの3月中旬に開催しょう、
と優れた機敏能力のある女性を幹事として、私たち男性3名が助成として打ち合わせを重ねてきた。
この幹事をして下さる女性のお方の電話連絡であったが、
この後ぼんやりとあの当時の頃を私は思い馳せたりした・・。
私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
小学4年生の頃から独りで映画館に数多くの映画作品を鑑賞してきたので、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。
その後、養成所の講師の知人の新劇の長老から、これから映画で飯を喰えるのは極く一部の人だょ、
まして脚本は・・同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。
こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。
そしてやはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。
この試験の帰りに映画館で『卒業』を観たし、
この当時、ラジオからサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
そして映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに心酔したりしていた。
やがて家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。
このような時、近所の家電販売店の店主が、生家の長兄宅に幾たびか来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と家電販売店の店主から私は忠告された。
私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、たまたま本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。
そして購入して読んだが、数学、物理などの理工関係にも弱い私は、無念ながら理解出来ない方が多く、
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、
と理解していた程度であった。
この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
こうした中で、石原慎太郎さんが名誉学院長されているある新設されたコンピューター専門学校に、
1969年〈昭和44年〉4月に入学した。
確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であり、近くの大きな広告の看板に、
モデルの小川ローザさんが、車が走り抜けた風圧にスカートがまくり上げられ、
『オー・モーレツ!』とスカートを抑えながら言ったりした看板に、
よくやるよなぁ、と私は心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑したりした。
やがて数が月後に代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。
こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。
そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。
私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのである。
こうした間、学友のひとりに誘われて、新宿駅の西口に一度だけ行ったりした。
この当時、フォークゲリラと称された反戦フォークソングを唄って反戦運動を高めようとする若者たちが、
ベ平連の青年たちがギターを持って新宿駅の西口の地下広場で盛んに決起していた。
こうした状況を観た私は、過ぎ去る年にアメリカのケネディ大統領の暗殺、
やがて弟のロバート・ケネディが大統領立候補のさなか暗殺されてしまい、
私は政治の怜悧さを痛感させられ、政治への希望と関心は遠ざかっていたので、
あわゆい効果のない青年の政治活動だ、と傍観者の心情で見つめたりしていた。
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『日本万国博覧会』が大阪の郊外で華々しく開催されて、
私は鑑賞に出かけるお金の余裕もなく、漠然と羨望を重ねたりしていた。
やがて1970年〈昭和45年〉の3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業時期を迎え
卒業式の後を先生方と私たちは謝恩会で高揚した中、私は心の片隅には、
私は劣等生の為に追試を受けたばかりであったので、不安さを秘めていた・・。
そして何とか卒業証明書を頂けたのは3月31日であった。
私は生家の自動車で、代々木にある学校に向かう世田谷街道を走行していると、
社内のラジオから、『よど号ハイジャック事件』が発生して、
犯行した方たちはどのようになるのか、と思いながら学校に到着して、
先生から卒業証明書を頂く時、私は照れながら受け取ったりた。
こうした中で私の就職活動は、この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーの経営陣のひとりが、
私の生家の遠い親戚の方が知人で、私は紹介を受けて、このお方のご尽力もあり、
何とか中途入社の内定を受けたのは3月15日過ぎであった。
そして私たち生徒一同は、それぞれの企業に就職して行った・・。
その後の私は、同級生だった人たちが、どうような進路を歩まれたか、
そしてお世話になった先生にも連絡をしなかったので、音信不通となった。
私は卒業証明書を頂いた翌日の4月1日に、この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーに中途入社し、
その後まもなくある音楽の大手レーベルが独立し、外資系のレコード会社として新設された。
私も異動させられて、この後35年近く奮闘して勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年を迎えた。
しかし正確には、定年の7年前の頃から、音楽業界のリストラ烈風となり、
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