夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

里彦だった私、首都圏の東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の寸評に、微苦笑して・・。

2015-06-15 16:08:43 | ささやかな古稀からの思い
昨夜、私はネットでニュースを見たりしている中で、
《相手の出身地別「咄嗟に使える鉄板ネタ」 -関東》と見出しを偶然に見てしまい、
齢ばかり重ねた私でも、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条しているので、
クリックしてしまった。

そして、《・・「沈黙という名の地獄」はいつも突然やってくる!深い知識は必要ない。
出身県にまつわるキーワードをポンと一言投げかけるだけでいい。
あなたが話さずとも相手が喜んで口を開き、場を盛り上げてくれるはずだ。・・》と表示された。

何かしら都道府県別の寸評のような記事であり、
ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の2014年9月15日号に掲載され、
やがて配信して下さった記事のひとつと私は解ったりした。

そして今回は関東地方の都道府県別が掲載されていたが、
私は首都圏の東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県を読んだりした。
          
          ☆今回、掲載した写真すべては、本日の日中のひととき、家内のボディガード兼お供で撮った、
           私の住む周辺の状景である☆

この記事は、ナンバーワン戦略研究所所長 矢野新一=監修 向山 勇=編集・構成・文になっているが、
無断ながら、大半を転載させて頂く。

《関東
東京が親分で周りが子分の関係。唯一横浜は東京に与しない

●千葉県――東京ディズニーランドも自慢の一つ
○鉄板ネタ:ゴルフ好きな人には「ゴルフ場が近くてうらやましい」とほめる。成田山新勝寺の話題も。
×地雷ネタ・タブー:埼玉県と張り合っているので、埼玉をほめないこと。
名所・旧跡:成田山新勝寺、銚子鉄道

●東京都――世界都市を自負するプライドをくすぐる
○鉄板ネタ:人の多いことや電車の間隔が短いことを「やっぱり東京は違いますね」とおだてるのが一番。
×地雷ネタ・タブー:「東京は住むところじゃありませんね」というのは嫌われる。
名所・旧跡:名皇居、浅草、東京スカイツリー

●神奈川県――神奈川出身とは答えない横浜人。東京の話を嫌う
○鉄板ネタ:横浜ならサンマーメンや中華街の話題を。川崎は北部(麻生区など)の高級住宅街の話題も。
×地雷ネタ・タブー:横浜を神奈川県で括るのは禁物。東京をほめるのもNG。
名所・旧跡:鎌倉、箱根、小田原城

●埼玉県――名所やグルメはなし?趣味や子どもをほめる
○鉄板ネタ:東京コンプレックスを持っている人が多いので趣味や子どもなど、何でもいいからほめること。
×地雷ネタ・タブー:「浦和と大宮は張り合っているので、互いをほめないほうが無難。
名所・旧跡:小江戸「川越の街並み」、長瀞・・》

このように表示されていたので、精読した後は微苦笑したりした。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、生家も近く、
結婚前後の5年を除き、この地域に65年ばかり住んでいる。

私の生家は長兄が実家として継いで、確か18代目となっているが、
祖父、父が健在だった1953年(昭和28年)の頃までは、農家であった。

私は農家の三男坊として生を受けたのは、1944年(昭和19年)の秋であり、
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして宅地の周辺に竹林、雑木林を維持管理していた。

やがて父、そして祖父が病死されて、一家の大黒柱を失ない、同時に農業のノウハウも消滅してしまい、
まもなく衰退し、生家は転業が余儀なくされてしまった。

このように 私は分家のような形で実家の近くに住んでいるが、
しかしながら山里に育った児の山彦てなく、或いは海辺に育った児の海彦でもなく、
平坦な田畑の多い中で幼年期を過ごした里彦である。
          

そして東京都といっても、下町の浅草の台東区、葛飾区、江戸川区には殆ど無知であり、
山手族と称される山手線の周辺の都心中心街も程ほどに知っている程度てある。

やはり23区に隣接した武蔵野市、三鷹市、狛江市、調布市など武蔵野地域、
そして親戚の多い世田谷区の成城、祖師谷には、幼年期から親しんできた地域となっている。
          

今回、特に私は苦笑させられたのは、
東京都の《地雷ネタ・タブー:「東京は住むところじゃありませんね」というのは嫌われる。》
この寸評であった。

たとえば東京の代表的な状景として、NHKの総合テレビなどで、
隅田川から東京スカイツリーが観える周囲を上空から映し出されると、
川辺にはビル街が、その周辺には密集した住宅街が広がる光景がある。

緑豊かな地域に住まわれる地方の一部の方の意見として、《東京は住むところじゃありませんね》に、
私は同意してしまうこともある。

しかしながら私は中学までは地元の学校で学び、やがて高校は都心ある地域に通学した。
こうした時、同級生は葛飾区、台東区、中野区、杉並区など出身が多く、
私は都会のカルチャーショックを受けたりした。
          

この中の同級生のひとりが、下町の密集した住宅街に住んでいて、
幼年期から違和感なく過ごしてきたょ、と私は言われたりした。

確かに人は誰しも幼児の頃から過ごしてきた地域は、親の保護の基で育ち、
環境も受け入れて成長している。

このような意味合いから、たとえ住めば都(みやこ)と言われているが、
やはり幼年期は里彦だった私は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域が、
愛惜もあり、最適だょ、と東京の田舎者の私は微苦笑したりした。
          

これ以外、多々異論があるが、長くなるので省略する。

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ときには懇親会、古稀の私でも9時間ばかり、心愛を深めて談笑を重ね・・。

2015-06-14 12:23:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の古稀と称される70歳の身であるが、
昨日、私の現役サラリーマンの時代に勤めていた中のひとつの会社の懇親会が開催されて、
出席した・・。

私は25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春、
この当時は大手の音響・映像メーカーのある会社に、何とか中途入社できた。

そしてこの音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかの大手のレーベルを管轄し、
この当時はレコード業界の中に於いて、首位を独走していた。

私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応(ふさわ)しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、商品の現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルのひとつが、外資系のレコード会社として独立し、私も転属された。

                     
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、
私は1971年(昭和46年)の1月から4が月ばかり通った後、
まもなく5月に本社が六本木に移転した。
       
この後の海外の親会社の要請で、資本系列が同じのある日本のあるレコード会社と
統合される1993年(平成5年)の4月までの22年ばかり、
私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。

こうした中で、レコード業界は10数社ある中で、私が勤めた会社は大手ではなく中堅規模であったので、
ヒット曲に恵まれなかったり、大波小波の業績に苦楽の激しい時代を過ごした。

その後の私は統合されたある大手となったレコード会社に勤め、渋谷に近い池尻大橋の本社に勤め、
やがて5年後には音楽業界がリストラ烈風となり、
まもなく私は各レコード会社が委託しているCD、DVDなどの音楽商品を扱う物流会社に出向となり、
やがて2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となった。
          

今回の懇親会は、私が25歳の時に新設された外資系のレコード会社であり、
統合されるまでの22年間勤め会合であり、
前々回は2000〈平成12〉年、そして前回は2013〈平成25〉年、以来で、久々であった。

こうした中で社員の人事募集は、統合されるまでであったので、
一番若い人でも、40数歳以上であり、現在でも音楽業界で栄進されご活躍される方もいるが、
殆どの方は第一線を離れた65歳以上の方たちであった。

そして今回の懇親会の場所は、午後の2時から日比谷にあるレストランの『アラスカ』で、
その後の二次会は午後の5時半から銀座コリドー街にある『YEBIS BAR』と、
幹事役の方の指定文書に認(したた)められていた。

私は自宅の付近から路線バスに乗り、
そして小田急線の成城学園前からやがて千代田線に乗替えて霞が関で下車し、
数分歩いて日本プレスセンタービルに到着した、

そしてこのビルの最上階の10階にある『アラスカ』まで自宅よりたった35分であり、
私としては初めてコースであったので、都心も近いよなぁ、と何かと都心に苦手となった私は微笑んだりした。

やがて『アラスカ』の一角にセッテングされた受付に行くと、指定時間の30分前にあったが、
フロアーの片隅には早くも30数名の方が談笑されていた。

そしてこの中の先輩のひとりから、私は手招きをされて、
やがて私は、それぞれの人に、『お逢いしたかったです・・』と挨拶をして、
談笑したりした・・。
          

このレストランは展望が良く、日比谷公園を見下し叙景となり、日比谷野音も観え、
レストラン自体は天高は巨大なドーム空間となり、ゆったりと感じる店内であった。

私はこの会社の時は、管理畑の商品管理、情報のコンピュータ関連などを務めいたが、
制作畑の邦楽、洋楽のポピュラー、クラシック、録音など、
営業畑の販促、営業所、そして総務、人事、経理など多彩な人々の中、
私はワインを飲みながら、ときおりバイキング形式の料理を食べたりして、
盛んに数多く先輩、同僚、後輩と談笑を重ねた・・。

そして『XXさん、お元気そうで・・』と私は殆どの人に話しかけて、
しばし談笑したりした。

或いは『XXさん、少しお肥(ふと)りになられましたねぇ・・』
と懐かしい人から声を私は声をかけられ、談笑したりしていた。
          

ある後輩からは『XXさん、確か70歳に成られたでしょう・・お若いですょ・・』
と私は言われたりして、
『年金生活11年生になっていますから、ブレッシャもなく過ごしているからですょ』
と私は応(こた)えたりした。

こうした一次会の出席者は110数名前後の中、首都圏にお住まいの方が圧倒的に多いが、
地方の都市にお住まいの方も参加して頂き、更に懐かしさを深めたりして談笑を重ねたりした。

そして今回やむなく参列できなかった方も多くいたが、
何よりも無念ながら早くも亡くなわて天上の人となった38名の方に、
私たち一同は開会後まもなく黙祷を捧げたりした。

このように3時間半は早くも過ぎ去り、散会となった。
          
          
その後の二次会は近くのおしゃれなビアホール型の食事処の『YEBIS BAR』で、
40名近くの人の中、私もビールを飲みながら、各部署に勤められた方たちと談笑を重ねたりした。

そして9時過ぎになると、上司だった人から誘われて有志の15名の方たちと三次会となり、
付近の食事処で、ビールを飲みながら談笑し、
お開きとなったのは夜の11時過ぎであった。
                    
私は名残り欲しく、また逢う日まで、と言ったりして、別れを告げた。

私は亡き母の遺伝を受けた為か、男の癖にオシャベリ大好きなタイプで、
9時間近く談笑を重ねる中で、ワインそしてビールを飲み続けた為か、
さすがに疲労を感じてきた。

そして私は街角からタクシーに乗車し、自宅に向かい、帰宅したのは11時45分であった。

この間、都心の青山周辺を走行したが、私が40歳の前後に於いて、システム開発、部分改定などで、
深夜まで奮闘し、帰宅は深夜の2時過ぎが多い時期でタクシーを利用してきたので、
30数年前の頃だった、と思い馳せたりし、車窓から懐かしい情景を見たりした。

尚、今回の懇親会の情景は、もとよりプライベート保護に伴い、撮影は自粛し心象記とした。

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老ボーイの私、外出の時の秘かなお守りは、『住基カード』となり・・。

2015-06-13 08:46:23 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めて、早や11年生の70歳の身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後37年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、私は殆ど毎日のように家内から依頼された平素の買物で、
独りで最寄りのスーパー、或いは最寄駅のスーパー、専門店に行っている買物メール老ボーイで、
帰宅後も自宅の周辺3キロ範囲の住宅街の道、遊歩道、公園を歩き廻ったりしている。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
そして小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となっている。

或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
根がケチの為か路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりしている。
              
そして冠婚葬祭、都心に買物、旅行、知人・友人と懇親会などがない限り、
季節のうつろう情景に享受しながら、齢を重ねた私は歩くことは健康の第一歩、
と確信を深めながら歩いたりしてきた。
          

こうした時の私の容姿は、今の季節ではストレッチパンズの長ズボン、半袖のスポーツシャツかアロハシャツとなり、
夏の帽子を被り、足元はウォーキング・シューズとなり、
紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしている。

そして時折コンバクト・デジカメを首回りからネクタイのように下げて、颯爽と歩くことが多くなっている。

こうした中で、情景に瞬時に魅せられた時、立ち止まりデジカメで、
記念写真ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、記憶のかたみとして撮ったりしている。
          
そしてショルダー式バックの中身は、扇子、ハンドタオル、ハンカチ、タバコ、ライター、簡易携帯灰皿、
財布、そして住基カードとなっている。

財布には平素としてスーパー、専門店のポイント貯められるカードが4枚、
そして現金は一万円札は数枚、千円札と百円玉であり、
忘れて成らないのは買物に備えての5円玉、1円玉となっている。

こうした中で、私は外出の時の秘かなお守りとして、『住基カード』を持ち歩いて、
早や8年が過ぎている・・。

私は『住基カード』と略称されている『住民基本台帳カード』を確かな身分証明として愛用している。
私が保有している住基カードは、氏名、生年月日、住所が記載され、
ほぼ住民票と同じような内容がICカードとなり、恥ずかしながら写真も明示されている。
                

私は長きの期間のペーパー・ドライバーだった・・。

結婚する30歳の前は生家に住んでいた期間は、生家の自動車を利用して、
若気の勢いで、盛んにドライブし、軽井沢、蓼科、箱根、伊豆半島などの各地に行ったりした・・。

そして結婚して3年目に生家の近くに一軒家を建てた後、住宅ローンの返済て、
とても自動車を購入できる余裕はなかった。

やがて40代を過ぎても会社の業務が多忙で、家内とのんびりドライブすることなどは、
夢のひとつでもあったりした。

こうした思いが根底に秘めていたので、定年後には自動車を買い求めて、
家内と共に国内旅行を自在に、ドライブ旅行をしょうと思ったりしていた。

そして2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めたが、
無念ながら齢を重ね、判断力も鈍り、今頃から再び自動車を運転して、
人身事故でも起こした場合、何よりも相手方に対して、いつまでも心痛な思いが残ると思われた。

その上に何かと小心者の私は、慙愧に苦しみ、心身痛みを生じ、たとえ金銭上の賠償責任を終えても、
交通刑務所に服役の場合も考えられ、私の残された人生が大幅に狂うと妄想を重ねた結果、
やがて免許証の更新時に、自主的に更新を取り止めたのは62歳の時であった。
                           
                 
しかしながら私は普通運転免許証の更新を中止した時、何かしらの身分証明証が欲しかった。
私は現役サラリーマン時代には、会社の旅行として台湾、或いはハワイに行ったりし、
もとよりパスポートは所有して遊学していた。

そして私は幾たびか家内に海外旅行を誘っても、
家内は何かと苦手意識があり、国内旅行の方は気楽だわ、と結論に達して、
やがて私のパスポートは期限切れとなったりし、これといった身分証明書がなくなってしまった。


もとより年金生活の私たちは、お互いに『国民健康被保険者証』は所有しているが、
写真入りの証明証でなく、万一、『国民健康被保険者証』を落とした場合は、悪用される確率が高くなる。

私が現役サラリーマン時代の頃は、外資系の会社であったので、定年の10年前の頃から
写真入りのIDカードを常時持たせられた。

このような状況であったので、市役所に問い合わせると、
『住民基本台帳カード』の写真入りであったならば、
市役所、公共施設、銀行、郵便局、パスポートの申請の際、本人の確認に使える知り、
私は即急に申請して、その後の私は『住基カード』を持ち歩いたりしている。
                              

こうした中、私は路線バスも走る大通りの歩道を歩いたりすると、
若きご婦人が自転車に乗り信号を無視して走行したりしている。

或いは高校生が自転車に乗り、携帯電話かスマホか解らないが、
前方をあまり見ないで状況を、時折見かけたりしている。

このような時に、私は不幸にして、事故に巻き込まれたりする不安もある。

そして私は人影の少ない遊歩道、公園を、季節のうつろう情景を観ながら歩くことが好きである。
時には、かぼそい声で唄ったりしている。

こうした炎天下を歩いたりしているが、熱中症で倒れて、やがて救急車で病院に運ばれても、
『住基カード』がないと、身元不明者なってしまい、余りにも自分が可哀想なので、
たった一枚の『住基カード』が確かなお守り代わりとしているのである。

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公的介護保険、殆ど無知な高齢者の私は、改めて多々学び、やがて・・。

2015-06-12 13:22:16 | ささやかな古稀からの思い
私は恥ずかしながら、厚生労働省が管轄する公的介護保険に関しても、
殆ど無知な高齢者な年金生活をしている70歳の身である。

過ぎし年の2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となったが、
長きサラリーマン時代に給与から社会保険として『厚生年金』と『健康保険』と『失業保険』があったが、
確か数年前に『介護保険』が新設されて、給与から差し引かれたりした。

この当時の私は、リストラ烈風の中、出向先で奮戦していたので、
高齢化社会を迎えて、やがて私も老年になった時、介護を受ける身になるかしら、
と漠然として思ったりしていた。
          

私の父は私が小学2年の時に、最寄の内科医師が来宅されて治療を受けたりしたが病死され、
母は私が54歳の時に病死され、家内の父は私が定年退職する直前に病死されたが、
いずれも亡くなる5年前の頃から病院に入退院を繰り返したが、公的介護保険には無縁であった。

家内の母は独り住まいとなってしまったが、心身溌剌とふるまってきたが、
4年前の80歳前後に膝(ひざ)を悪化して、杖(つえ)を突いて歩く身となった。

こうした中で、市の福祉課を通して、『要支援2』と認定されて、
市の福祉課からのアドバイスにより、住まいの一部を補修したりしたが、
介護の助成金のお蔭で、たった一割負担で済んだりした。

或いは私が定年退職後、多々の理由で年金生活を始めたが、
市から『介護保険』の請求があり、漠然と支払ってきた。
そして介護には『要支援』と『要介護』のランクがあることを知ったりした。
          

こうした中、私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、
心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、やがて80代後半では
何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

この後、私は介護付き施設を何かと注視するようになったが、
公的介護保険にも殆ど無知な高齢者の私は、漠然としているのが本音である。
          

私は昨夜、ネットでニュースなどを見たりした中で、
ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の配信して下さった記事のひとつとして、
『 介護保険の夫負担 世帯所得500万「1%」なのに380万「2%」の不可解事例 』
と題された見出しを見た。

どういうことなのょ、と私は思いながらクリックした。

そして『介護の常識・非常識』の連載記事の中で、第3回として、今回の記事と解り、
精読し、多々教示された。

ライターの相沢光一(あいざわ・こういち)さんが、誰でも解りやすい寄稿文を綴られて、
私と同様に公的介護保険に関して、殆ど無知な方と共有致したく、
無断であるが一部を転載、転記をさせて頂く。
          

《・・
▼介護期間が長引けば負担感ずしり

たとえば、訪問看護師さんです。
毎回ふたりでやってきて、連携を取りながら手際よくケアをしてくれました。
体温、血圧を測ることから始まり、顔色を見、気分を聞いて症状を探り、床ずれのチェックをし、
その兆候があれば座布団を当てて苦痛の軽減を図る。

排泄の処理も手際よく、肛門の痛みに対する処置もしてくれました。
それも常に笑顔で元気づける言葉をかけながらです。

また、介護する私に対しても、父の状態を少しでも良くする方法、
生活のサイクルを規則正しくすることや薬の服用法などを教えてくれました。
行うべきケアだけでなく、持っている技術や知識を総動員して
父自身や私の不安を取り除くことに努めてくれたわけです。

1時間のそのサービス提供の費用は約1万円。1割負担ですから支払うのは1000円程度です。
心のこもった介護サービスをしてくれたうえに多くの不安を取り除いてくれてこの金額は助かりました。

他のサービスにも同程度の金額がかかりますから、負担額はトータルで月2万円ぐらいになりましたが、
介護期間は1カ月半ほどと短かったので、さほど負担感はありませんでした。

ただ、介護が長期間に及んだとしたらどうでしょう。
介護が長引けば受けるサービスも増えるでしょうし、毎月2万~3万円を支払い続けるとなれば、
負担を重く感じるようになるかもしれません。
          

▼所得280万円なら十分負担能力があると考える国

介護保険が改定され、この8月から一定以上の所得がある人の負担が
1割から2割に引き上げられることが決定しています。

対象者は年間の合計所得金額が160万円以上の人。そのほとんどが高齢者であり、主な所得は年金です。

年金の場合、120万円が控除されるので、160+120で年間280万円以上の所得がある人が
2割負担になるわけです
(編集部注:65歳以上で収入が年金のみの場合。
年金収入には、企業年金、確定拠出年金から支払われる年金、遺族年金、障害年金も含まれる見込み)。

☆======================================☆
    2015年 介護保険制度改正の主なポイント

☆一定以上の所得のある介護サービス利用者の自己負担割合を一割から二割に引き上げ(2015年8月~)

☆特別養護老人ホームの入居基準を要介護1から、原則として要介護3以上に変更(2015年4月~)

☆介護保険施設(特別養護老人ホーム、老人保健施設、介護療養型医療施設)入居者のうち
 低所得者向けの「食費・居住費の補助」適用基準の引き下げ(2015年8月~)

☆要支援1、2向け介護予防サービスの一部を市町村に移管(2015年4月~)

☆低所得者の介護保険料の負担軽減(2015年4月~)
                         出典・各紙報道による
☆======================================☆

          

また、施設を利用している人で預貯金などの資産が単身で1000万円、
夫婦で2000万円以上ある人は居住費などの補助が受けられなくなります。

現在、介護サービスを受けている人のうち、所得が280万円以上ある人は20%だそうです。
この人たちが「家計にゆとりの層」とされ、2割負担となります
(編集部注:一定以上の所得者に該当する場合、利用料はこれまでの2倍の金額になるが、
後述の高額介護サービス費制度があり、負担は上限がある)。

「社会保障の財源がひっ迫しており、消費税を上げてそれを補おうとしているご時世で応能負担は当然だ」
「あの世にお金を持って行けるわけじゃないし、要介護状態になって財産を残しても仕方がない。
余裕のあるところから取ればいいんだ」

今回の改定に対する世間の大方の受け止め方は、こんなところだと思います。
そして、厚生労働省も今回の「2割負担」をそうした考えに基づいて決めたのでしょう。
          

ただ、介護現場の実情を知るケアマネージャーからは「大丈夫かな」という声を聞きました。
もちろんあり余る財産を持っている人は問題ないでしょう。

しかし、所得が280万円を少し越えているだけの人もかなりいる。
在宅であれば、光熱費や食費をはじめ住民税や固定資産税などが必要。

高額の医療費がかかる人もいるし、家のローンが終わっていない人もいる。
要介護状態では他にもいろいろな費用がかかります。
オムツ代だってバカになりませんし、通院のための介護タクシー代は介護保険の対象外ですから、
距離によっても違いますが往復で数千円はすぐに飛んでいきます。

また、施設に入居している人は月額20万円近くを払っている人もいるそうです。
「280万円の所得があれば余裕があると見られているわけですが、
結構ギリギリの生活をしている方もおられます。

2割負担になると、受けているサービスを減らさざるを得ない人も出てくるのではないでしょうか」と、
あるベテラン・ケアマネージャーF氏は言います。
          

▼「負担1割→2割は、序の口。すぐ3割

また、これは利用者とは関係ない話ですが、2割負担が始まる8月は現場の混乱が予想されるといいます。

対象者には役所が所得を調べたうえで「あなたは2割負担になります」という通知が届くだけらしいのです。
それがケアマネージャーに伝えられ対応することになりますが、
利用者は高齢で認知症の人も多い。

通知など見ないで捨てたりする可能性が高いのです。
1割負担で計算しても後で2割に修正することはでき、サービス提供側は報酬を取りはぐれることはないようですが、
申請など煩雑な手続きが必要らしく、現場は混乱するというわけです。

問題意識のあるケアマネージャーと話をすると、
介護は問題が山積みでお先真っ暗という話題に大体行きつきます。

現在、要介護認定者は500万人以上いて、団塊世代が75歳以上になる2025年には
700万人を超えると予想されています。
          

当然、介護保険をはじめとする社会保障費は膨大なものになり、介護職員も増やす必要が出てきます。
ある試算によれば、100万人近い介護職を増員する必要があるとか。

「今でさえ待遇面の問題や仕事の大変さで人手不足なのに、そんなに増やすことができるでしょうか。

その解決策として厚労省は介護福祉士と保育士の資格を統合する案を打ち出しましたが、
幼児の世話をしたいと保育士になった人が介護職に就くことは少ないと思うし、
介護福祉士もしんどい介護から保育に行きたい人は多いはず。
全然、解決策にならないんです」(F氏)

今回の2割負担も、負担増の始まりと見ているそうです。

「これでは財源はもたなくて、所得に関係鳴く2割負担、
そしてすぐではないでしょうが3割負担が必要という時がくるでしょう。
さもなければ消費税をさらに上げるしかなくなると思います」(同)

負担が1割から2割になるといって騒いでいる今は、まだ幸せなのかもしれません。・・》
注)記事の原文をあえて改行を多くした。
                              

私は定年後の60代の年金生活の10年は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私自身の65歳の時に糖尿病になったりしたが、再発防止もさることながら、
何よりも怖いのは認知症である、と思ったりしてきた。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受してきた。

私は今年の誕生日を迎えると、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均の71歳に達するが、出来うる限りできうる健康でいたい。

そして願望としては、80歳の時は、我が家から最寄駅までの片道1キロ強を
利便性の良い路線バスに利用せず、たとえノロマになっても自力で歩いて、
往復したいと願ったりしている。
          

もとより寝たりというような介護は避けたく、健康の源(みなもと)は、歩くことが何よりも肝要と
思ったりしている。

そして疲れを感じた時は、♪しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね・・
と水前寺清子さんの歌声を思いだして、自身の叱咤激励の特効薬としたい。

このように願っているが、自助努力も必要であるが、
こればかりは天上の神々の采配に寄る、と微苦笑したりしている。

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高齢夫婦無職の我が家、やがて老齢基礎年金の実態を知り、微苦笑を重ね・・。

2015-06-11 15:49:18 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

過ぎし2012年(平成24年)2月現在として、日本年金機構が年金受給額の実態が公表された。
そしてモデル世帯の年金月額は約23万円。
内訳としては、夫の老齢厚生年金が約10万円、老齢基礎年金が約6万5000円、妻の老齢基礎年金が約6万5000円、
と私は学んだりした。

そしてモデル世帯は、夫が厚生年金に40年加入し、
妻が第3号被保険者を含め、国民年金を40年納めた場合であった。

しかしながらここ15年前後、経済が衰退する中でリストラ烈風もあった中で、
モデル世帯のような条件の良い世帯は、民間の中小業のサラリーマンには現実としては少数派、
と私は感じながら微苦笑をしたりした。


私は昨年の2014年(平成26年)9月に古稀と称される70歳となり、
やがて家内は12月に誕生日を迎えて、高齢者入門の高齢者となったりした。

この当時の我が家の基礎年金の『国民年金』は私だけが頂き、
『厚生年金』はお互いに頂いたりしていた。

しかしながら家内は高齢者となったので、大幅に私たち夫婦間の年金額が変動する、
と私は幾たびも学んだりしていたが、実質は漠然としていた・・。
          

この4月の新年度より、公的年金を受給する人の年金が目減りさせる『マクロ経済スライド』が実施された。
         
私は今年の初めの頃『マクロ経済スライド』という言葉に理解できなかったが、
この後の1月30日の『読売新聞』の夕刊に、『マクロ経済スライド』について掲載されていた。

無念ながら少しボケてきた為か、直ぐに理解できず、私なりに新聞記事を再整理して、何とか解ったりした。
そして読売新聞の原文を私なりに再整理したのは、下記の通りとなった。
        
①年金額は毎年度改定され、賃金・物価の変動率に応じて増減する。
 15年度の年金は、過去の賃金上昇率が平均2・3%増だったことをそのまま反映させれば、2・3%増となる。

②しかし、現在の年金額は0・5%分「払い過ぎ」の状態だ。
 「払い過ぎ」は、1999年から2001年にかけて物価が下落したにもかかわらず、
 当時の自公政権が年金額を引き下げなかったことが原因で、今回も適用されるが、
 2015年度で解消され、来年度は無し。

③払い過ぎ解消後の本来の伸びは1・8%で、マクロ経済スライドの0・9%を差し引けば、全体で0・9%の伸び率となる。
          

④支払われる年金額(モデルの月額)

   2014年   
    国民年金・・・6万4400円
    厚生年金・・21万9066円

   2015年
    賃金上昇分・・・2・3%
      差し引要素・・「払い過ぎ」0・5%
              マクロ経済スライド0・9%
    結果の増加分・・・・0・9%     
       国民年金・・・608円
       厚生年金・・2441円
 
   この結果、4月から、自営業者らの国民年金(満額)は月6万5008円(前年度比608円増)、
   会社員らの厚生年金は、夫婦2人の標準的な世帯で月22万1507円(同2441円増)となる。

   年金は4、5月の2か月分が、6月にまとめて支払われる。

⑤今回、30日に公表した厚生労働省の2015年度の公的年金の支給額は、
 年金抑制策「マクロ経済スライド」の初適用で伸び率が0・9%抑制され、本来の伸びの半分にとどまった。
 年金額は賃金や物価ほど伸びないことになり、4月分から額は増えても、実質的には目減りする。
                     

そして私は『マクロ経済スライド』は、高齢者の増加率や平均寿命の延びで、
自動的に決まる抑制率(調整率)分で、
年金の伸びを強制的に低く抑え、高齢化が進んでも年金を破綻させない制度であることを、
新聞などで学んだりしてきた。

もとより国民年金、厚生年金、公務員の共済年金などの約4000万人の受給者が適用されて、
2004年に制度ができて、今回初めて適用された。

私は個人的には、「払い過ぎ」とマクロ経済スライドにより、
厚生年金の表面上の絶対支給額は、マイナスになるだろう、と思ったりしてきた。

やがて賃金上昇分が2・3%と知り、表面上は2441円増加と解ったりしたが、
実質的には目減りとなり、微苦笑させられたりした。

その上、総務省が1月30日に公表した2014年の物価は、前年に比べ2・6%上昇して、
伸び率としては、バブル経済末期の1991年(2・9%)以来、23年ぶりの高水準、と学んだりした。

このように表面上の絶対支給額は確かに増えたけれど、物価の上昇により、
実質は減少してしまった、苦笑したりした。
                    

一昨日の夕方、我が家の門扉の近くにある郵便受け入れ箱に、
日本年金機構より『年金額改定通知書』が私と家内宛に郵送されてきた。

そして『年金額改定通知書』と共に、
今年の平成27年6月より来年の平成28年4月までの年金振込通知書が、
付記されていた。

『年金額改定通知書』を見ると、私の場合は、
基礎年金の『国民年金』は、従来よりわずかに増加していた。

そして『厚生年金』の『基本額』は、従来よりわずかに増加したが、
しかしながら『厚生年金』の一部の『加齢年金額』が無くなり、
『厚生年金』は減額となってしまった。

結果的には『国民年金』と『厚生年金』を加算しても、減額となってしまった
          

家内の場合は、基礎年金の『国民年金』は初めて支給対象となり、、
『基本額』と『振替加算額』が計上されていた。

しかしながら『厚生年金』の『基本額』は大幅に減額されていた。

結果的には『国民年金』と『厚生年金』を加算すると、大幅に増額となった。


そして高齢夫婦無職で老齢基礎年金を頂く齢になれば、
このようになるかょ、と苦笑したりした。

やがて私は夫婦の合算をした結果、少し増額となり、微苦笑したりした。


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私の弱点のひとつは近眼、ささやかな数多くの苦い思いは・・。

2015-06-10 18:02:07 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の身であるが、近眼で少し老眼が増しているが、
顔の1部と思いと感じ、少しのこだわりを持っている。

今、愛用しているメガネは、過ぎし2008年(平成20年)の夏、
6年ばかり愛用してきたメガネのフレームが痛んでいるのに気付き、
やむえず、駅前のメガネ店に行き、新調したりした。

この時の心情を記載すると、
もとよりフレームは、その人なりの顔立ちの表情を表わし、
それなりの個性が感じられるので、 展示品の中から、私が魅了された3種類は数分で決まったが、
最終選定には30分を要したのである。

結果として、少し品位が感じられるフレームに決定したのである。

店内にあるカタログの一面に於いては、
《・・1991年には新しいローデンストックの哲学、眼鏡は人間の個性を強調するものである。
現在のフレームコレクションは斬新かつ軽量、機能的になっている。』
というブランドイメージとブランド思想のもと、“R”マーク付きの新しいローデンストックのロゴを採用・・》
と掲載されていた。

この解説文と私のこだわりが一致して、確信を得ながら、決定した要因である。

そして、もう1度、少し照れながら、鏡を手前に引き寄せて、フレームを掛けたりした・・。
          

私は1960年(昭和35年)の中学3年の終りの頃、
職員室に担任の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に云った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・メガネを掛けないと・・
黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は私に云った。

私は教室の後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。

このような根底としては、兄ふたり、妹ふたりもメガネをしていないので、
それなりに思い込んだりしていたのであった。

帰宅後、亡き父の妹である叔母に、
『・・今日、先生から云われたのだけれど・・眼が悪いので・・
メガネを掛けなさい・・と云われたの・・』
と私は云った。

母は少し遠望に住み、私たち兄妹の為に孤軍奮戦していたので、
未婚の叔母に私達の兄妹は、料理、洗濯、掃除などで、甘え、育ってきた時代のあった。
          

やがて私は、高校の入学から、私は生まれて初めて、メガネを掛けたのである。

そして生家の宅地の丘の外れから、遠望の丹沢の山並み、富士山を観た時、
くっきりとした景観が観え、行く先々の情景も余りにも明確に見えて、
私は驚き、ため息をした・・。

確か中学に入学し、野球部の練習に明け暮れていた時だった。
私はレフト付近に3人で守備位置に付いて、外野フライのノックを受けていたのであるが、
何かしら私だけが打球の判断がのろいのである。

私は運動神経が悪く、練習すれば、打球の飛んで来る判断も良くなると、
思っていたのであった。
          

そして高校時代は、授業時間以外は、メガネを掛けるのが恥ずかしく、
通学バックに仕舞い込んでいた。

まもなく文学と歴史に興味を持った私は、文庫本などを読み耽り、
映画を観るために盛んに映画館に通いつめたりした。

そして布団の中で、こっそりと好色本も読んだりしたせいか、
近眼の度数が悪化した・・。
          

私は東京オリンピックの頃、大学を中退し、アルバイトをしながら、映画・文学青年の真似事をしていた。
この頃は、近眼の度数も一番上の検査表がやっと見える0.1となり、
布団に入る時以外は、メガネを付けていた。

このようなある日、自動車の普通車免許があれば、
何かと便利、将来に食べられなくなった時は、タクシーの運転手になればよい、
と安易な思いで、自動車の教習所に通ったりした。

やがて教習所の教習課程を終え、試験所で本免許の受験する為に、
教習所のマイクロバスで私達受験生10名は、送って貰ったりした。

周知のように、普通免許の場合は、視力は0.7以上は必要であったが、
私はメガネを掛けた上でも、視力試験で落ちてしまったのである。

そして私だけが、とぼとぼと試験場から去ったりした。
          

後日、1.0が確実に視(み)得るメガネを新調したが、
レンズは厚くなり、それなりに私は気になったした。

この後、敗者復活戦のような思いで、試験場で合格し、
まもなく次兄や友人に助手席に座って貰い、指導を受けした後、
やがて私なりに一人前のドライバーとなった。

しかし心の奥底として、この先は一体どこまで近眼が進むのかと、恐怖に慄いたりした。

後年、作家の曽野綾子さんの随筆で、
盲目になりかけ、何とか手術で救われた、と読んだ時、私は深く共感できたりした。
                              

私は25歳で、遅ればせながら民間会社に何とか中途入社し、
年収の割合から背伸びし、メガネだけは程々高価な品を買い続けた・・。

近眼が酷く、レンズも厚いので、なるべく厚さの目立たない加工したレンズ、
そして厚さをカバーするフレームを限定して、選定してきたりした。


こうして通勤用は0.7程度で、運転用には1.0前後の2つのメガネを所有していたが、
幸いに視力の低下は、20代の終りの頃、0.07程度で横ばいとなり、安堵したりした。

そして50代のなかば頃からは、少し老眼を感じたが、
20代の近眼進度の悪化した時の思いを考えれば、それなりに受け入れ微笑さえできたりした。
          

家内は結婚当初、視力は2.0と抜群に良かったが、
50代の初めに老眼となり、メガネに馴れていないので、落ち着かないようすがしばしばである・・。
そして、ときおり老眼鏡を掛け、新聞、旅行雑誌などを読んだりしている。

この後、家内はどこかに置き忘れて探す時もあり、私は微笑みながら、共に探したしてきた。
          

このように私は強い近眼であり、それなりに苦労し、メガネの選定に多少のこだわりの半生でもあった。

そして、新たなメガネのフレーム選定の時、数多くの国産、海外品を愛用してきたが、
買い改める時はローデンストックかしら、と微苦笑したりしている。

昨今、寝起きに風景を眺めると、わずかに視界がかすれて視(み)え、
やがて15分ぐらい過ぎると、正常な情景となり、
白内障かしら、と戸惑ったりしている。


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年金生活11年生の私、幾たびか愛読し、深愛してきた本は・・。

2015-06-09 17:13:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活している70歳の身であり、
幼年期は農家の児として育てられ、やがて中小業のサラリーマンを35年近く奮戦し、
定年退職後は多々の理由で年金生活を始めて、早や11年生となっている。

こうした中で、古びた一戸建てに住み、小庭の雑木、草花を眺めたり、
周辺の遊歩道、公園を散策をしたりして、日々季節のうつろいを何よりも教示されている。

ときおり、家内との共通趣味の国内旅行などをして、
各地の四季折々の限りない美に心を留め、齢を重ねるたび愛惜が深まっている。

このように感じ受け止めて日々を過ごしたりしているが、
つたない無知な私としては、何かと書物で、改めて日本の歳時などを謙虚に学んでいる。
          

例えば、藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)、
飯倉春武・著の『日本人のしきたり』(青春出版社)、
朝日新聞社・編の『色の彩時記~目で遊ぶ日本の色』(朝日新聞社)、
講談社・編の『茶花歳時記』(講談社)、
野呂希一、荒井和生・共著の『言葉の風景』(青菁社)、

長谷川 櫂・著の『四季のうた』(中公新書)、
松田 修・著の『古今・新古今集の花』(国際情報社)、
道行めく・著の『美しい日本語帳』(永岡書店)、
山下景子・著の『美人の日本語』(幻冬舎文庫)

このような本を、私の机の横にある小さな本箱にあり、
定年後に幾たびか読み返したり、精読し、信愛を深めている本となっている。
          

そして齢ばかり重ねた無学な私は、ときおり国語の辞書を置き、
そおっと開いたりしている・・。
久松潜一・監修の『新潮国語辞典 ~現代語・古語~』(新潮社)であるが、
二十歳以来から何かと教示を受け、私の秘かな言霊(ことだま)の恩師となっている。


私は定年退職後に自宅にインターネットを開設した遅れた身であるが、
ネットの世界の進化に驚き、ため息をしたひとりである。
          

そして、まもなく『日本文化いろは事典 ~胸はって、ニッポン人!~』を知り、
ときおり開き、学んでいる。

http://iroha-japan.net/
☆【 日本文化いろは事典 ~胸はって、ニッポン人!~ 】

このサイトを開き、知りたいことを検索し、
こうだったの、と赤面したりしながら学んだりしている。


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70歳の私の元気の源(みなもと)は、『一汁七菜』の朝食だ、と微笑み・・。

2015-06-08 16:33:34 | ささやかな古稀からの思い
私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年目となり70歳の身であり、
家内は私より5歳若く65歳となっている。

そして私たち夫婦は、無念ながら子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
厚生年金、わずかな企業年金を頂き、お互いの趣味を互いに尊重して、ささやかに日常を過ごしている。
         
今朝、いつもように私は亡き母の遺伝を受けた為か、男の癖にオシャベリ大好きなタイプで、
家内に話しかけて、談笑しながら朝食を頂いたりした。


私の今朝の朝食の前菜は、新タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめで頂いたりした。

家内はこの日は、食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂いている。


このように私は幼年期に農家の児として育った為か、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合い、日々貫徹のように、こよなく愛食している。
          

前菜は本日は、新タマネギと生ワカメとなっているが、ここ一年はキャベツが多かったりした。

キャベツを千切って電子レンジで少し温めて、もずく三杯酢をかけて盛大に頂くこともあるが、
昨今は天候不順で、農家の方は懸命な労苦の努力を越えて、不作となっている。

私はキャベツが胃腸に良い、と信愛したのは、確か30年前の頃に、
今は亡き俳優の森繁久弥さんが、胃腸薬のキャベジンの宣伝に出演していたので、
これ以来、何かとキャベツの多大な効力を信愛して、
食事の前にキャベツこそがわが命なり、と思い前菜としている。

しかしながら、ここ一か月近く新鮮なキャベツが、スーパーから消えることが多くなり、
私は悲嘆しながら、やむなく新タマネギで代用したりしている。


或いは本日はシャケの瓶づめであったが、鯖(サバ)の味噌煮の缶詰を頂く時もある。

もとより魚を食べることは身体に良い、と数多くの方はサケの切り身を焼いたり、
或いはアジ干す物を焼いたりする家庭が多い、と学んだりしてきた。

しかしながら山里に育った児は山彦、海辺に育った児は海彦であり、
私は平坦な田畑の多い中で幼年期を過ごした里彦であるので、
無念ながら何かと生臭い魚が苦手となり、やむなく手抜きの瓶づめ、味噌煮などで愛食している。

やはり家で、焼き魚、煮魚を料理する前後の魚の匂いに降参して、
恥ずかしながら殆ど避けているのが、我が家の実情となっている。

しかしながら旅先の食事処で、焼き魚、煮魚を積極果敢に頂いている身勝手な男となっている。


このように私の朝食は、一汁三菜の真似事をして、一汁七菜となり、
こよなく愛食して、早や11年を迎えいてる。
          

ときおり家内は、『いつも同じの朝食で、よく飽(あき)ないわねぇ・・』、
と呟(つぶや)くように言われたりしている。

そして私は、『一汁三菜が飽(あき)たら、僕は日本人をやめる時だょ・・』
と私は応じたりしている。


食後、私は冷やした煎茶を飲んでいた時、
私のご飯を盛っていた夫婦茶碗のひとつが、少し欠けていたことに気付いたりした。

そして家内も気づき、『あらぁ、いやだわ・・新しい夫婦茶碗を買い求めますわ』
と言ったりした。

『茶碗が少し欠けていても、我が家は大勢に影響はないょ・・このまま使いましょう』
と私は笑いながら言ったりした。


私は60代の年金生活の10年間は、幸運にも大病もせず卒業でき、早や11年生となり、
やはり元気の源(みなもと)は、『一汁七菜』の朝食だよなぁ、
と微笑んだりしている。

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我が家の今年度の目標は、樹木葬の墓地を確定することが、命題となり・・。

2015-06-07 15:15:18 | ささやかな古稀からの思い
私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、この時節は定年後の年金生活の中、
毎年のように各地を遊学することが多い・・。

昨年は山形県にある蔵王温泉街にあるリゾートホテルに6月15日より4泊5日を滞在し、
蔵王温泉の周辺を散策したりして遊学した。

しかしながら、今年に限り旅行のプランを思案することなく、私は時折うつろな心情となり、
苦笑したりしている。

今年も冬の旅として、2月9日より北海道の紋別の市内にある観光ホテルに3泊した後、
サロマ湖の湖畔にあるリゾートホテルに3泊し、そして網走湖の湖畔にあるリゾートホテルに1泊し、
遊学してきた。

やがて3月上旬の頃、今年は旅行を取りやめて、
樹木葬の墓地を本格的に探して、決定する年に、と私たち夫婦は話し合ったりした。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、生家も近く、
結婚前後の5年を除き、この地域に65年ばかり住んでいる。

私の生家は長兄が実家として継いで、確か18代目となって、祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。

私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。

私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で実家の近くに住んでいるが、
生家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後のことを配慮し、躊躇(ためら)ってきた・・。

何よりも長兄の子ども、私にとっては甥っ子であるが、後々も迷惑、負担をかけたくない、
と漠然と思ったりしていた・・。
                                        

私が40歳を過ぎた頃の1985年〈昭和60年〉の2月、
亡き小説家・立原正秋の作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、私たち夫婦は1泊2日で訪ねた。

私がこの当時何かと愛用していた『L特急』で、上野駅から上田駅まで利用し、
上田電鉄の別所線に乗り換え、かぼそい2両連結の電車で終点の別所温泉駅に行ったりした。

もとより別所温泉地域は、鎌倉時代には周辺の塩田平地域を本拠とした塩田北条氏が、
建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建され、
やがて近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、
「信州の鎌倉」と称せられるようになった地である。

私たちは、秘かに木造建築の美の結晶のひとつであると私が深く感じた旅館『花屋』に宿泊し、
周辺の名所を散策したりした。

あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。
人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。

こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこのような事だろう、と思案したりした。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。
          

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。
          

このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
確か7年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、とか学んだりしてきた。

或いは我が家からバスと電車を利用して、一時間ぐらいの地域に、広大な墓地の一角に、
畳一畳より少し小さ目の墓地で、たった一本の樹木が植えられ墓地の販売区画で永代供養墓と知った。

そして永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしてきた。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花を中核に洋花も配し音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ10数年言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。
その後、四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された人は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。
          

こうした心情を秘めた私たち夫婦は、樹木葬の墓地を漠然と思案してきたが、
私は70歳、家内は65歳となっている今、お互いにボケないうちに、
今年こそ墓地を確定しておこう、と決意したりした。

そして現在も、墓地を探し求めて検討しているのが、私たち夫婦の実情となっている。

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やがて首都東京の「劣化」、そして対策を学び、東京に住む私は、ため息を重ねて・・。

2015-06-06 15:52:03 | ささやかな古稀からの思い
私は過ぎし5月3日、最寄駅のひとつの駅前のスーパーをめざして、片道20分ばかり歩いたりした。

やがて平素の買物専任者の私は、家内から依頼されたの買物の前に、
本屋に立ち寄り、文藝雑誌、単行本、新書本、文庫本コーナーを見たりして、
たった二冊の本を買い求めたりした。

清武英利・著作の『切り捨てSONY ~リストラ部屋は何を奪ったか~』(講談社)は、
注視していた本であったが、
松谷明彦・著作の『東京劣化 ~地方以上に劇的な首都の人口問題~』(PHP新書)は、
気になったので、書棚から手にした。
               

新書のカバーにある解説として、
《・・地方の集落の消滅を危惧する声が高まっているが、
これまでの政策の方向性を変えれば日本の農業や集落を維持する術(すべ)はある。

むしろ、地方よりも東京のほうがより急激な変化に見舞われると考えられる。
東京の高齢化はすさまじい。
2040年には、2010年に比べて高齢者が143.8万人増加する。
1.5万人減少する秋田県とは対照的だ。

その結果東京の貯蓄率は低下し、インフラが維持できず、都市がスラム化するおそれがある。
年金の給付水準は大幅に引き下げられ、その結果多くの高齢者が家を失い、
老人ホームが新たに100万床以上必要になると考えられる。

ならばどうするか。
人口減少問題の第一人者が、欧州の事例も参考にしながら、現実的な処方箋を提案する。・・》

そして帯カバーの裏面には、
■地方は「消滅」しない
■貧しくなる東京
■オリンピックの狂騒の後に残るもの
■日本経済を支えたビジネスモデルの終焉
■1950年代の産児制限が急速な高齢化の原因
■公共賃貸住宅を大量につくれ―――財政への影響は問題なし  ・・など9つ命題が明記されていた。

こうしたことを立ち読みした私は、やがて到来する東京劣化を学びたく、買い求め、精読した。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む70歳の年金生活の身であるが、
生家も近く、この地域に結婚前後の5年を除き、65年ばかり住んでいる。

このような関係で地元はもとより、都心には幼年期の頃から行ったりし、
そして学生時代、やがて社会人になってサラリーマンで精勤すると、都心にある本社で奮戦したり、
定年後の年金生活の中でも、ときおり都心に行ったりしている。

そして私は、《・・貧しくなる東京・・》は都民のひとりとして、
無力ながら悲嘆し、ため息を重ねて、著作者の松谷明彦さんから多々教示された・・・。


たまたま私は3日前、ネットでニュースなどを見たりした中で、
ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の配信して下さった記事のひとつとして、
『 東京の高齢化にどう備えればいいか 』と題された見出しを見た。

そして過日の『プレジデント』2015年6月1日号に掲載され、
『東京劣化 ~地方以上に劇的な首都の人口問題~』を上梓された松谷明彦さんの寄稿文と解り、
この配信して下さった記事を、たまたま私は精読できた、と知った。

精読後、基本的な要旨は、『東京劣化 ~地方以上に劇的な首都の人口問題~』と同一であるが、
今後の都心、そして首都圏(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県)に多大な影響、
やがて日本各地に影響が波及するので、共有致したく、無断であるが転載させて頂く。
          
《・・
★平均3人を産まねば「1億人維持」は無理

人口減少が始まって10年になる。今後も日本の人口は減り続ける。
そして人口減少で最も大きな影響を受けるのが東京だ。
だが、多くの人は、この事実から目を背けている。

たとえば政府は昨年6月に示した「骨太の方針」で50年後の人口を1億人に維持するという目標を掲げた。
安倍晋三首相も今年4月の国会答弁で「1億人は維持していきたい」と発言している。

そのため少子化対策などに力を入れるとしているが、これからの人口減少はすでに確定している事実である。


今後50年で子どもの数は半分以下になる。
なぜなら50年後までに子供を産む可能性の高い25~39歳の女性が半分以下になるからだ。
国立社会保障・人口問題研究所(社人研)の推計によると、
この年代の女性は25年後までに37.1%も減少する。
その大幅に減少した女性が次の世代を産む。50年後には55.1%の減少が見込まれている。

このような急激な少子化は日本特有のものだ。
国際連合の人口推計で今後50年の25~39歳の女性と子どもの増減を比較すると、
フランスでは前者が4.2%増で後者が8.4%増、イギリスでは5.2%増で13.7%増、
アメリカでは23.0%増で21.9%増。

これに対し、日本は女性が55.1%減で、子どもが53.0%減である。

理由は戦後まもなくの大規模な産児制限にある。
人工妊娠中絶などを主な手段として、年間出生者数を約4割(約100万人)も減少させた結果、
いびつな人口構造が現れた。
          

日本が欧米先進国のようになだらかな人口構造へ戻るためには、あと50年以上かかる。
それまでに日本では女性と子どもの激減、そして急速な高齢化が立て続けに起きる。

結婚するかしないか、子どもを何人持つかという選択は、人々の価値観によるものだ。
2013年時点の合計特殊出生率(1人の女性が一生に産む子供の平均数)は1.43だった。
人口維持には2.07まで引き上げる必要がある。

しかし女性の生涯未婚率は30年以上前から上昇を続けており、試算では2040年には30%近くに達する。
一方、既婚女性(有配偶女性)の合計特殊出生率は40年以上、2.0+アルファーで安定している。

つまり女性が子どもを産まなくなったわけではなく、結婚をしない女性や子どもを持たないと決めた女性が増えているのだ。
政府の目標を達成するには、既婚女性が平均で3人程度を産む必要がある。
それは非現実的であり、非民主的だ。
          

★東京は30年後には「超高齢化」する

こうした人口の変化で深刻な影響を受けるのは地方ではなく大都市である。
地方の高齢化は既にピークを過ぎており、今後、人口変動は落ち着く。
一部で議論されている「地方の消滅」は杞憂に過ぎない。

これから東京などの大都市では、「人口がたいして減らない」
「これまで大量に流入した若者が歳を取り、高齢者が急増する」
「全国的な少子化で流入する若者が激減する」という三重苦が始まる。

人口が減らないため、行政サービスや公共インフラへの需要は減らない。
そこで高齢者が急増すれば、医療や介護への負担で財政支出が急激に膨張する。
さらに流入する若者の激減で納税者は減り、税収は低迷する。大都市は未曾有の財政難に陥る。

特に東京の高齢化の規模はあまりにも巨大だ。
社人研によると、2010年時点で、東京都の65歳以上の高齢者は約268万人。
これが2040年には約144万人増え、約412万人となる。

増加率は53.7%に達する。
この結果、これから首都東京の「劣化」が起きると予想される。
          

★「高齢者難民」が発生。東京はスラム化する

劣化の第一は、東京の「スラム化」である。
人口減少高齢社会では、経済成長率が低下する。
さらに働いて貯蓄できる人の比率も下がるため、貯蓄率も大幅に低下する。

このような局面では、道路や上下水道といった公共インフラを計画的に整理縮小する必要がある。

ところが東京では人口の減少が小幅にとどまるため、大胆な整理縮小ができない。
それどころか2020年の東京オリンピックに関連して、インフラの新規投資が膨張している。
今後は既存インフラの維持や更新すら困難になるのに、貯蓄を使い果たそうとしている。

大量の「高齢者難民」が発生する可能性も高い。
東京の高齢者の約4割は借家住まいだ。
近い将来、年金制度が事実上破綻し、給付水準が引き下げられれば、家賃が払えなくなった高齢者が街にあふれ出す。

経済成長が衰えれば、民間によるインフラ整備も期待できなくなる。
再開発は行われなくなり、老朽化した商業ビルは、取り壊されず廃墟になる。
また鉄道の沿線人口が減れば、路線は廃止・短縮される。

鉄道が来なくなれば郊外の住宅地は価値を失い、ゴーストタウンになるだろう。

経済成長を上向かせるには、東京の経済を国際化・高度化する必要があるが、
それでも大量の失業が発生するだろう。1950年代後半から1970年代初頭に東京へ流入した第一波は、
製造業に組み込まれ、熟練労働者に成長した。

しかし1980年代や2000年以降に流入した第二波、第三波は、
流通業などに就いた人が多く、高度なスキルを持つ人は少ない。
これは政府と企業、そして労働者自身が、職業教育を軽視し、安価な労働力を追い求めたツケでもある。
           
        
ではどうすればいいのか。
ひとつの提案は、「高齢者難民」を防ぐために、耐用年数が200年程度の公共賃貸住宅を大量に建設することだ。

民間の賃貸住宅は20~30年程度で建築費を回収する必要があるため家賃が高い。
だが国や地方自治体であれば超長期の借金ができる。
耐用年数が200年程度で、維持補修費が他の集合住宅とさほど変わらないものを建てる技術はすでにある。

土地は区役所の上や公共遊休地などを活用する。
建築費の回収期間を200年に設定すれば、家賃は月額2万~3万円程度に抑えられるはずだ。

人口減少高齢社会は資源減少社会だ。
限られた資源で社会を維持していくためには、世代を超えて資源を管理する必要がある。
年金は現役世代の稼ぎ、つまり「フロー」に頼る仕組みだが、公共賃貸住宅は世代を超えた「ストック」の資源になる。

民間の商業ビルにも「ストック」の管理という視点が有効だろう。
個々の対応ではスラム化は防げない。

東京にある商業ビルの台帳をつくり、新規建設の調整や建て替えの指導を行う。
資源を適正に管理できれば、企業活動の持続性も高まる。

東京の劣化を防ぐうえで、これから必要になるのは変化を恐れないことだ。
今後の人口減少高齢社会では、働く人の比率が低下するため、
1人当たりの財政支出は増えるが、税収は増えない。
           
         
このため財政再建を達成するには、人口の減少に比例して財政規模を縮小させるしかない。
言い換えれば、年金や社会福祉、公共サービスなど、
これまでと同じ社会構造では成り立たないということだ。

経済にも同じことがいえる。
米国では、各業界の概ね3分の2、欧州では半分程度が、外国企業だ。
だが日本では、いずれの業界も国内企業がほとんどだ。

東京の国際競争力を高めるには、日本企業に外国人を呼ぶのではなく、
東京に多数の外国企業を呼び込むような「開国」が必要だろう。
そのためには日本経済全体の構造改革も求められる。

東京の劣化は、2020年の東京オリンピックの数年後には兆しが見えてくるだろう。
対策を急ぐ必要がある。
祭りの後で悔やんでも、最早手遅れなのだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私はこの寄稿文を読み終わった後、やがて到来する都心の情景は、
1970年代のニューヨーク市の街中の荒廃した状景に思いを重ねてしまった。

戦後、1950年代まで政治、外交、軍事、経済、文化など世界を牽引してきたアメリカが、
1960年代の中頃より、ベトナム戦争の泥沼化の中、やがて推進派と反対派で昏迷し、
そして経済は低迷し、何よりもアメリカ人の心まで疲弊させた。

こうした深刻な経済状況の中、ニューヨーク市も財政悪化となり、
建物、道路、橋、地下鉄、水道、ガス、電気などの社会基盤の補修もままならず、荒廃していった。

こうした中で、裕福な人たちは市の財政が破綻し大増税が始まることを恐れて、
市の住民の13%に相当する約100万人が、市から流出した実態を思い馳せたりした。

この当時のニューヨークの荒廃した情景を的確に表現した映画があり、
マーティン・スコセッシ・監督の『タクシードライバー』(1976年)である。
          

やがて到来する都心は、都民の裕福な人たちは。都政の高負担・低福祉に険悪して、
香港、シンガポール、カナダなどに移住してしまうと、私は妄想してしまう。

そして残された都民の大半は、益々財政悪化の中、高負担・低福祉に従属した生活を
余儀なくされて過ごされる・・。

こうした中で、《・・財政再建を達成するには、人口の減少に比例して財政規模を縮小させるしかない。
言い換えれば、年金や社会福祉、公共サービスなど・・》削減、低下は、
過ぎし年のニューヨークは大胆な政策もとで、称賛されるほどに甦(よみが)ったが、
果たして都民、周辺の人々は、特に享受してきた高齢者は、耐久できるかしら、と危惧している。、

このように何かとプラス思考の私でも、このような悲嘆な到来を思案したりしている。

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社会保障の介護難民の難題も、無力な都民の私は、思案ばかり重ねて・・。

2015-06-05 14:06:02 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活をし、
都民のひとりの身である。

私は定年退職する2004年(平成16年)の秋まで人生は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

家内は私より5歳ばかり若い団塊世代で、我が家はたった2人だけの家庭であり、
住宅街の中で少し広め敷地の中で、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、年金生活を開始した・・。
          

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
                       

こうした中で、日本は超高齢化社会が加速され、社会保障費は国家予算の中でも大半を占めて、少子高齢化の中、
毎年少なくとも1兆円が増加している。

もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実である。

超高齢社会を迎えている今日、高齢化率は25%を越える中、
団塊の世代が75歳以上になる2025年には30%に上昇する見通しで、
制度を支える現役世代は減り続けているのが実態である。

その上、医療や介護の費用も急速に膨らんでいる。

このような日本の命題の社会保障制度を再構築するには、各世代で痛みを分かち合うことが不可欠であり、
今の年金の現行制度では、高齢者への給付が多くなるほど、将来世代の給付水準が低下するので、
削減が実施されてきたし、今後も給付抑制がされる、
と私は新聞、雑誌、ネットのニュースなどから数多く学んできた・・。
          

こうした中で、私が何よりも衝撃を受け動顛させられた寄稿文をネットで読んだりしてきた。

この寄稿文は総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】の中で、
ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表の竹井善昭 さんが、
『社会貢献でメシを食う』と題した連載記事の中で、
『 独居老人は半強制的に地方に移住させるべき!? 「老後破産」時代に求められる、過激な社会保障政策 』
と題し、 2014年9月30日 に配信された寄稿文であった。

人は誰しも最後は『おひとりさま』になるので、裕福なお方は除けば、これからの時代で予測ができ、
多くの方と共有したく、無断ながら転載させて頂く。
          

《・・「人の命を救うこと」は社会貢献の大きなテーマだが、
近い将来の日本においては、「人を殺すこと」が社会貢献の重要なテーマになるかもしれない――。

9月28日に放送されたNHKスペシャル『老人漂流社会“老後破産”の現実』を見ながら、そんなことを考えてしまった。
番組ではわずかな年金で暮らしていて、満足な介護や医療サービスが受けられない老人たちが次々と紹介された。


★生活をギリギリ切り詰めて暮らす貧困にあえぐ独居老人たち

秋田県に住む女性の年金は月2万5000円。
夫は15年前に病死し、ひとり息子も46歳の若さで亡くなった。
古い自宅に住んでいるので家賃はかからないようだが、光熱費を支払うと残りは約1万円。
食費に回すお金がほとんどないので、近所の野山で野菜を採り、川で魚を捕り、なんとか生きている。
狭心症の持病があるので、病院代、薬代も必要だ。


東京都港区に住む男性は、月10万円の年金を受け取っているが、家賃だけで6万円かかる。
もっと家賃の安いアパートに引っ越したくても、引っ越すだけの費用がない。
40代で独立して事業を始めたが失敗して倒産。貯金がない。

電気も止められ、夏は暑さを凌ぐために、昼間は近くにある区立の老人向け施設で過ごす。
頭痛の持病があるが病院には行けず、市販の薬を飲むだけ。
ここ数年、病院に行ったことがない。節約生活のため、十分な食事も取れない。
かつては社交的で明るい性格だったというが、いまの生活を知人や友人に知られたくないので、
人付き合いを避けるようになったという。


高齢化率50%を超える大規模団地に住む女性の年金は月8万円。
持病のリウマチが悪化して、痛くてほとんど歩けない。
毎朝の掃除や食事を作る介護サービスを利用しているが、その費用が月3万円。
その他、家賃1万円、光熱費1万円、夕食の配食サービス2万円、その他の生活費が4万円。

毎月の生活には11万円かかるので3万円の赤字。
これまでは貯金を取り崩してきたが、それも残り40万円ほどしかない。
車椅子を押してもらう介護サービスを頼めば、外の空気に触れることができるが、
節約のために頼めない。

窓から眺める景色だけが、この女性の外界との接点だ。
いつか、病気が治って外を歩けるようになったときに履きたいと、
新品の靴を買ってあるが、むくんでしまった足にはその靴はもう入らない。


日本には現在、独り暮らし老人が約600万人いるが、その約半数が年金収入年間120万円以下で暮らす。
そのなかの約200万人が生活保護を受けずに、わずかの年金だけで暮らしているという。

日本の年金制度は、三世代家族、つまり老人とその子ども、孫が一緒に暮らすことを前提に設計されているというが、
同居世帯の数は1980年には60%あったものの、現在はたったの13%だ。
当然だが、高齢化社会が進めば、番組で紹介されたような貧困にあえぐ独り暮らしの老人はますます増えるだろう。
          

★公共事業、ODAを全廃しても「焼け石に水」の社会保障費

このような事態に対処するために、番組に登場した大学教授はある提案をする。
フランスで行なわれているような年金、医療、介護が一体となった福祉制度だ。
つまり、年金が少ない老人でも十分な医療や介護が受けられる仕組みである。

仮に、いまの日本で最低限の生活に必要な額が仮に毎月13万円だとして、
年金が毎月10万円の人は他に3万円分の介護、医療サービスが受けられる仕組みにする。

これは、いわゆるベーシックインカムの考え方だ。
国民全員に国が定めた最低限の生活費を現金で配ってしまう制度で、
最大のメリットは年金、介護、医療、障害者、失業などあらゆる社会保障のための制度を一元化し、
行政のコストを大幅に削減できることだ。

2000年代に入り、どこの国も社会保障費の増大に頭を悩ますなか、注目されているコンセプトである。
個人的には、僕もこの考え方を支持する。
ただし、それも「行政に金があれば」の話である。


誰もが知るように、今後の日本は高齢化がますます進んでいく。
団塊の世代が後期高齢者になったとき、つまり、2020年くらいの時点で社会保障制度は破綻すると、
誰もが危機感を持っている。

日本の社会保障費は現在でも約110兆円だ。
無駄な公共事業費を削れという声も高いが、その公共事業費は約6兆円。
全額を削ったところで、社会保障は維持できない。

「ODAで途上国なんか支援している場合じゃない。老人福祉にその金をまわせ」という意見もあるが、
日本のODA予算は、無償資金協力で約1500億円、技術協力で約3200億円。
国際金融開発期間などへの出資金や円借款を含めても約1兆8000億円だ(いずれも2010年度予算)。

仮にODA予算を全廃したとしても、社会保障費の約1%程度。まさに焼け石に水である。
つまり、もはや社会保障は「他の事業の無駄を削って、その金を充てる」という考え方では追いつかない状態にあるのだ。
社会保障、社会福祉に対する考え方を根本的に変えなければ、制度が保てなくなるだろう。
          

★「自由の制限」も必要に? コンパクトシティという選択肢

社会保障費を大幅に下げるためには、コストの削減が必須だ。
そのために「自由の制限」という、憲法で保障された国民の権利の制限など、
思い切った考え方が必要になるかもしれない。

たとえば、独り暮らし老人のために、老人が暮らしやすい「コンパクト老人タウン(仮)」のような施設を、
土地や生活のコストが安い地方に作る。
そして、独り暮らしの老人は半強制的にそこに移住してもらう。
東京や大阪などの大都市からも移り住んでもらう。

もし、あくまで自分が好きな場所で暮らしたいという場合は、
年金も医療や介護のサービス費用も全額自費負担とする。
無茶な考え方だと思うかもしれないが、これは「コンパクトシティ」の考え方と同じだ。


いま、地方活性化のひとつの方法論として、このコンパクトシティが注目されている。
これは、住人のすべてが徒歩で生活できる程度の範囲に町を集約するという考え方だが、
これを実現するためには、住民を町の中心部に集める必要がある。
つまり、強制的な移住がなければ、コンパクトシティ構想も絵に描いた餅になるのだ。

コンパクトシティを語るとき、多くの人は「人間らしい暮らしの実現」と語るが、
日本の場合はそれよりも行政コストの削減のほうが重要な課題である。

町の中心部から10キロも20キロも離れた場所に一軒だけ民家があり、そこで暮らす人がいる。
そこに電気やガスや水道、そして道路などの生活インフラを維持することは、もう地方行政には無理なのだ。
だから、そのような人は町の中心部に移住してもらう。

移住を拒否する人には、インフラの費用を自分で負担してもらう。これが、コンパクトシティの実態だ。


実際、宮城県の山元町では復興に向けてコンパクト・シティ構想を実行中だ。
住民に移転も要請している。
もちろん、なかにはさまざまな理由で移住を拒否する人もいる。

ある農家の男性は、自分の農地のそばで暮らさなければ農業ができないと、町の中心部に移住しないことに決めた。
しかし、そうなると自分の農地周辺の道路を自費で作る必要がある。
その費用、約1000万円。自己負担である。
          

★住みたい場所で自由に暮らすためには、金がかかる時代へ?

コンパクトシティの構築にはこうした側面があるのだが、
それは先ほど述べた「コンパクト老人タウン(仮)」も同様だ。
独居老人は集約する。

それで、どれほどのコストカットになるのか、十分な精査も必要だが、
サービスの集約化がコストの削減になるのは間違いないだろう。

そして、自由に生きたい、暮らしたい独居老人には、その生活費や医療費、介護費用も含めて自己負担をお願いする。

「住みたい場所で自由に暮らすためには、金がかかる」というのは、
多くの人にとって受け入れ難い考え方だろうが(個人的には僕だって受け入れ難いが)、
そこまで思い切った政策でもなければ、社会保障は保てなくなるのではないかと思っている。


番組で紹介されていた老人たちは、異口同音に「早く死にたい」と訴えている。
このような「悲痛な願い」を生み出すこと自体、この国の社会保障制度がすでに破綻している、
つまり、もう日本は十分に貧しいのだということの証左だと思うが、
経済成長だけでこの貧しさを克服できるかどうかは疑問だ。

やはり、思い切ったコスト削減が必要だし、そのためには「過激な発想の転換」が、
社会保障制度にも求められるのだろう。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          


年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則とし、
お互いの趣味を互いに尊重して、ささやかに日常を過ごしている。

しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
このように年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
                            

こうした60代の中で、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、孫の世話で・・自身の病院の治療、或いは親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっているのが、
私の周囲には多くなっている。
   
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                            

やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内も12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
       

昨今、同世代の知人たちと懇親会の中で、何かしら葬儀の話題が多くなっている。
たとえば現役時代だったら葬儀に多くの友人、知人に来て貰いたいが、
今や退職後の10年・・自分なりのささやかな家族葬で執り行って欲しいよ、と私は聞いたりしている。

或いは亡き作家の渡辺淳一さんが、その歳になって見なければ解らない、
と確かこのような言葉を発露されていたので、
そうですよねぇ、と定年まで敗残者のような人生航路を歩んで私でも、同意したりしている。
                                      

いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。

しかしながら私は何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしている。

そして現役サラリーマン時代でも、幾たびのリストラ烈風の中、
何とか障害レースを乗り越えて、敗残者のようなつたない私でも、
五体満足で生かされているのは、ある面に於いては選ばれたひとりかしら、と微苦笑したりしている。   
               

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
          

こうした中で、家内は昨年の12月に高齢者入門の65歳となり、介護保険を支払う通知書が郵送されて、
あらぁ・・あたし高齢者になってしまったわ・・と実感が乏しく、苦笑したりしていた・・。

私は昨年の「敬老の日」に合わせて、総務省は9月14日に於いて、15日現在の高齢者の人口推計を公表を
偶然に読んだりしてきた・・。

何かしら65歳以上の高齢者人口が3296万人(総人口の25・9%)、
75歳以上が1590万人(同12・5%)となり、いずれも過去最高。
「団塊の世代」の1949年生まれが65歳になったのが一因で、4人に1人が高齢者、8人に1人が75歳以上と、
と学んだりしてきた・・。

そして私は家内と同様な団塊の世代の多くは、やがて5年過ぎれば、70代となり、
どのように変貌するのか、思案させられたりした・・。

少なくとも我が家では、私が75歳となり家内は70歳となるので、
お互いに体力の衰えを実感させられる中、五体満足で過ごせれば、と私は念願したりしている。
          

こうした中で、過ぎし日に本屋で読みたい本を探している中で、
随筆家・桐島洋子(きりしま・ようこ)さんの『ほんとうに70代は面白い』(海竜社 )に於いて、
《・・聡明な女は素敵に老いる・・》の一節に私は微苦笑させられたりした。

私は確か5年前の頃、作家・曽野綾子(その・あやこ)さんの『晩年の美学を求めて』(朝日文庫)を購読し、
まえがきの中で、深く教示され勇気づけられた一節があった。

《・・晩年の意味は、年を追う毎(ごと)に濃厚になり、発見も多くなる、
とすれば、そこには楽しみな部分も増えるだろう。・・》
          
やがて私が75歳となり、家内は70歳になる頃は、
お互いに体力の衰えを実感させられる中、五体満足で過ごせれば、もとより最上であるが、
どちらかが大病となり、やむなく介護施設に移住することも思案する時もある。

長年私たちが生活してきた古びた家・・居間、寝室、台所、洗面所など、そして小庭に、
どのような断腸の思いで、愛惜を重ねて別れる時が到来するかも知れない・・。

このような悲嘆な出来事の思いも確かにあるが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

そして何かとプラス思考の私は、曽野綾子さんの一節を鑑(かがみ)として、
私たち70代の夫婦の時代に、過ごせれば最良と思ったりしている。
          

こうした中で、『2025年問題』には私は強く意識させられてきた。
もとより団塊の世代が75歳以上となり、2010年に11・1%だった75歳以上人口の割合は、
2025年には18・1%に上昇するので、社会保障の難題に憂いたりしてきた。

そして到来時は私が80歳、家内は75歳となり、真摯に我が家としては、思案をしたりしてきた。
          

本日の朝、いつもように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
《「介護難民」10年後43万人、》と大きく見出しされていた。

何かしら-民間の有識者会議「日本創成会議」(座長・増田寛也元総務相)が、
団塊の世代すべてが75歳以上の後期高齢者となる2025年に、
全国で約43万人が、必要な介護を受けられない「介護難民」となり、
特に東京圏(東京都、埼玉、千葉、神奈川県)だけで3割の約13万人に上るとする試算を公表した。

そして対策として介護人材の確保の必要性に加え、ベッド数に余裕があり、
態勢的に受け入れ可能な地方への移住を提言した。

しかしながら 神奈川県の黒岩祐治・知事は、
地方への移住に関しては「老齢になっても豊かに暮らせる環境づくりに全力を挙げている。
出て行って素晴らしい人生が待っているとは思わない」反論を読み、
私はどうしたらよいの、と苦笑しながら、やがて到来する時期に憂いを重ねたりしている。


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つたない気弱な私でも、ときには自己顕示欲が強く、やがて反省ばかり繰り返し・・。

2015-06-04 16:22:59 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝5時半に起床し、雨上がりのまばゆい陽射しを眺めてた後、洗面した。

やがて居間にあるビデオ棚の上に向かって、心の中で呟(つぶや)いたりした後、苦笑してしまった・・。
         

私は曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向って、
何かと気弱な癖に、ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
     
世の中で著名な『相田みつを』氏を遅ればせながら学んだのは、
過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
               
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。

そして私は手に取り、ページを捲(めく)ると、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
               
この言葉を読み終わった後、瞬時に圧倒的に魅了された・・。
               
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は、無念ながら私が小学2年の時に病死された体験もあり、
私はこの『トイレ用日めくり』を買い求めた後、その日に応じたページに、
さりげなく深い人生の教訓の言葉を特有な書体で書かれ、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたした。


本日の氏の格言に、私は苦笑させられたのは、何かと気弱な癖に、ときには自己顕示欲が強く、
やがて反省しながら自己嫌悪となったりしたが、
幾たびも繰り返してきた人生航路であったりした・・。
          
      
私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。

そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、
何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                    

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

やがて養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、
このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。

しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、もとより私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
                    

その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の音響・映像メーカー会社に何とか中途入社ができたのは、
1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。

そして、この会社の中のレコード事業本部に配属させられ、
この当時のレコード業界の中で圧倒的に首位を独走していたが、
この中のひとつの一部門が外資の要請で新たなるレコード会社として新設されることなった。

そして私も新設レコード会社に転籍させられ、商品の現場を学んだ後、
本社のコンピュータ専任者に配属させられたのは1971年(昭和46年)の新春であった。

私は大学中退の上に中途入社の身であったが、大学を新卒されて入社した人の同年齢の方に、
多少の卑屈と劣等感がありながらも、給与など含めた待遇に早く追いつきたく、
ときには悪目立ちする時もあったりした。
                    

たとえはアイドルスターの全盛期の1980(昭和55)年の当時、
ある会社は松田聖子さんをデビューさせ、ある会社でも河合奈保子さんをデビューして、
私が勤めていた会社も、ある新人をアイドルスターを抜擢した。

そしてデビュー曲の数が月前に、社内の大きな会議室で、このスターを囲み、
本社の社員の殆どが記念写真を撮ったりした。

この時、このスターと社長は最前列の中央に座ったが、四列ぐらいある中、
私たち平社員は片隅でもじもどと躊躇ったりしていた・。

こうした時、社長が私たち平社員に向って、前に来て早く座れなさい、と小声で言った。
そして私は最前列の社長の横に座っている邦楽制作本部長の横に座ったりした・・。

このようなふるまいを35年近く勤める間、年に一度ぐらい私はしたりし、
後日に何かと気弱な私は自己嫌悪をしたりした。
                    

2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した私は、まもなくブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日投稿している。

こうした中、私が加入している【gooブログ】のサイトは、
2008年(平成20年)の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
       

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
          
          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年(平成22年)の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
2年前の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行した。

やがて昨年の秋に『70歳代』となった後、何故かしら訪問数が半減し、
70代はブログを投稿される方が少ないから・・と微苦笑したりした。
         
こうした中で、つたない私の投稿文に於いて、気楽に綴ったのが上位になると戸惑い、
真剣勝負のように綴ったのが評価されず下位となり、落胆したりする時もあったりしている。
          

しかしながら何よりもブログの世界は、諸兄諸姉のサイトを読ませて頂き、
それぞれのお方の人生の生きた教科書、と多々教示させられたりしている。

そして感じ深めていることは、この広い空の下で、未知のそれぞれのお方に投稿文、
或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
私にとっては心の宝物、と感謝したりしている。
          

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つたない私の人生で、『谷間に三つの鐘が鳴る』ことは、わずか一度だけ!?

2015-06-03 13:44:25 | ささやかな古稀からの思い
私は音楽の楽譜も読めなく、楽器も弾けない拙(つたな)い身であるが、
幼年時からラジオから音楽を聴いたりしてきた為か、70歳の今でも読書、そして映画に続いて、
何かと音楽を聴いたりしている。

昨夜、たまたま私が高校一年の1960年(昭和35年)春の頃、
街中に流れていた『谷間に三つの鐘が鳴る(The Three Bells)』を聴いたりした。

あの当時、欧米の山里の町で教会が、それぞれ住民の誕生、そして結婚、やがて死去の告別に際して、
鐘を高らかに鳴らし、多く住民が共有した意味合いの歌だった、と私は解釈したりしていた。

そして人は誰しも、数多く方から祝賀されるのは、生まれてきた誕生日、
やがて新たな家庭を築く両家の新郎新婦の祝賀会の結婚・披露宴であり、
或いは死去された時は、多く方から哀悼させられて告別に参列する・・
このように私は人生の3大出来事、と私は思ったりしている。

このように思案してきた私は、つたない人生航路を歩んできた私は、
果たして・・と思い馳せたりした・・。
          

私は今住んでいる近くの東京の調布市の片隅に住に生家があり、
1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

やがて私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

しかしながら両親、祖父、父の妹の叔母、そして長兄、次兄のもとで育(はぐく)まれたが、
もとより誕生した時は私は自覚がなかったのである。
          

やがて私たち夫婦の結婚式、そして披露宴に於いて、
数多くの方より祝賀されて、これまでの人生で初めて『主役』になれたりした。

そして今後の天上の神々の采配により、私がこの世と別れを告げた時の後、
葬儀の内容は家族葬を要望しているが、こうした時も命の果てた私には解らないのである。


こうした関係により、つたない私の人生で数多くの方たちの中、恥ずかしながら『主役』になれたのは、
新郎新婦の両家の結束を固める結婚式であり、
その後の数多くの知人、友人、親戚たちから祝賀される結婚披露宴だった、と私は思ったりした。
          

                          
私は小、中学時代は劣等生であり、高校時代には生まれて始めて授業の楽しさを覚えたりする中、
何とか優等生のグループになったりした。
そしてクラブは写真部に所属して、風景部門で最優秀を頂いたこともあるが、
これはクラブの部員の中で選定された、文化祭のセレモニーのひとこまに過ぎなかったりした。

やがて35年近くのサラリーマン時代には、わすか一度だけ社長から、社に多大に貢献したと、
表彰式を設けられて感謝状と共に金一封を頂いたこともあるが、
こうしたことも勤務して、たまたま期待された業務に命ぜられ、重責の中で奮闘し、
もとより今後の更なる奮戦を期待を込められたセレモニーである。
          

世の中の数多いサラリーマンは定年退職に於いては、
職場で多く方に囲まれて花束を贈呈され、拍手喝采中、職場を去ることが多く、
この退職する数週間前の頃から歓送会が幾たびか開催されている、と私は学んだりしていた。

私は音楽業界のあるレコード会社に勤めている中で、
1998年〈平成10年〉に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となり、
出向先は各レコード会社がCD、DVDなど音楽商品を委託している物流会社であった。
         
やがて出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の先輩、同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。
          

この間、確かに私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風の前には、
私も先輩方たちの歓送会に幾たびか出席したりしてきた・・。

そして私の同僚のふたりが、私が定年退職の時、歓送会の幹事をすると私に約束してくれたが、
リストラ烈風の中、私が出向3年生の時に肝要な同僚のふたりが、リストラをされて退社し、
はかなくも30年近く勤めてきた出向元のレコード会社の中での私の歓送会は、まぼろしとなってしまった。

しかしながら私が出向時の直前に営業本部に所属していたので、盛大な歓送会を開催して下さり、
私は今でも感謝している。

こうした中、誰しもがリストラ烈風の中、のどかな定年退職時の歓送会などは、
開催されることは少なくなった。

私の場合は物流会社の中のひとつの商品センターに出向であり、
職場はセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の中、
若手の20代を中核とした男性の契約社員、アルバイトの10名前後、
そして30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

この最後の勤務8月の月末日、商品センターが出荷作業が一段落した後、
朝礼形式の全員並ぶ中、私は退職の挨拶をした後、女性のパート方達から花束、贈呈品、
そしてこの後に、色紙に多くの方からの短かなメッセージ、ある方からは丁重なお手紙の礼状を頂いたりした。

そして物流会社の本社に挨拶に出向いた後、
夜のひととき、商品センターの有志10数名から歓送会を開催して下さり、
後日の9月中旬に物流会社の本社、商品センターの有志で20数名で歓送会をして下さった。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社の有志20数名は、
リストラ烈風の中でも定例的な懇親会を幾たびか開催してきたが、
10月下旬の時、私は定年退職を迎えることができたことに御礼の言葉を述べたりした。

このようにリストラ烈風の中、のどかでおめでたい退職時の情況は、私の場合は出向身分もあり、
大きく変貌してしまったりした。
                               

こうしたことは、『谷間に三つの鐘が鳴る』のような『主役』の範疇は、もとより対象外のイベントであり、
卑屈で何かと劣等感が多い人生を歩んできた私は、
『主役』になれた結婚披露宴の若かった私、新妻のだった家内、知人、友人たち・・
それぞれのしぐさ、言動を思い馳せて微苦笑をしたりした。


余談であるが、この『谷間に三つの鐘が鳴る』の歌の原曲は 
私がシャンソンに夢中になっていた1973年(昭和48年)の当時、
エディット・ピアフが戦後間もない時に『三つの鐘』を歌っていた、と私は初めて学んだりした。

谷間を舞台に人の一生を歌い、生まれて、愛して、死ぬ、このサイクルを鐘の音に重ね合わせて歌い、
三つの鐘とは、この三つの節目にそれぞれ鳴り響いた鐘、と知ったりした。


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70歳の私は、『小父さん』、『叔父さん』と呼ばれるが、『おじいさん』は未体験・・。

2015-06-02 14:56:23 | ささやかな古稀からの思い
私は齢ばかり重ねた年金生活の70歳の身であるが、
先程ぼんやりと、初めて『小父(おじ)さん』と呼ばれた頃、
或いは『叔父(おじ)さん』と呼ばれた頃の遠い昔を思い浮かべ、
あのようなことがあったなぁ、思い馳せたりした。

私が生れて初めて『小父(おじ)さん』と呼ばれたのは、
確か40代の初めの頃だったので、1985年(昭和60年)の頃と思われる・・。

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社の情報畑で、システム開発で奮戦していたが、
何とか軌道にのせた土曜日の休日出勤務した夜、
自宅からの最寄駅の『成城学園前』の最寄にあるタクシー乗り場から、
疲れ切っていたので、タクシーに乗った。

やがて自宅の近くの大通りで、私は下車した直後、
すぐに空車を探していた若き女性の3人がタクシーに乗り込んだ。

タクシーのドライバーは効率が良いね、と私は心の中で微笑んで歩き出した時、
『おじ(小父)さ~ん・・本・・忘れている!』
とタクシーの車内から、若き女性のひとりから大声で言われたりした・・。

私はこの女性にお礼の言葉を言いながら、単行本の本を受け取ったりした。
この後、私は自宅に向かいながら、俺もおじ(小父)さんになってしまったかょ、と微苦笑したりした。
          

そして『おじ(叔父)さま』と呼ばれたことも、私は思いだしたりした・・。
私が45歳前後の頃であったので、25年前の確か梅雨の季節だった。

私は雨が降ると、少し長め傘を持ち、大きく広げて差したりしている。
雨降りしきる中、少し風が吹いても、自身の身体はもとより、
手持ちの通勤バックなどが濡れるのが嫌いで、少し重いが長めの傘を愛用している。

私は六本木に所在している会社を退社した後、
自宅の最寄駅の『成城学園前』のタクシー乗り場に並び、
夜の11時過ぎ、雨の降る中、傘を差していた・・。

私の前に20人ぐらい並んでいて、1番後方だった。
しばらくすると、私の後方に人影を感じた。
私は左手にアタシュ・ケースを提げて、スーツのズホンが濡れないように、傘を深く差していた。

後方から、
『おじ(叔父)さま・・かしら?・・』
と声がした。

私は振り返ると、若い女性のツーピース姿を見た。
『XXちゃんか・・しばらく・・』
と私は言った。

遠い親戚の娘さんだった。

私はこの娘を私の立っている場所の前に譲り、
『ずいぶん・・遅いんだね・・』
と私は言った。

そして雨のしずくが水色のツーピースに掛からない程度に、傘かしげにした後、
少し間隔を開けた・・。

『おじさま・・知らなかった?・・私、今年から銀行にお勤め・・』
とこの娘は私に言った。

『大学に行ったのは聞いていたけど・・
そうかぁ・・社会人の一年生かぁ・・何かと大変でしょう・・』
と私は言った。

『思ったより楽しいけれど・・勤務時間が長くて・・今日もこんな時間になって・・』
と微苦笑しながら、私に言った。

『おじさんの所もね・・金融関係と違うけれど・・何かと忙しいょ・・』
と私は言った。

雨がしきりに降っていた・・。

まもなく並びの列の先頭となり、タクシーにこの娘が乗り込む寸前、
『おじ(叔父)さま・・お先に・・ありがとう・・』
と笑顔を浮かべながら私に言った。

私は走り去るタクシーの尾灯を見送った。
          

私は兄妹の子供の甥っ子の4人からは、この7年前の頃からは、
『XXおじ(叔父)さん・・』と私の名前を付けて、何かと親しく呼ばれていたが、
遠い親戚の娘さんから、叔父さま、と呼ばれたのは初めてのことであり、鮮明に心の片隅に残っている。

このような私のささやかな『おじさん』、『おじさま』の思いでを秘め、
高齢者の70歳となった私は、時は余りにも早く過ぎ去り走馬灯のような、遠い思いでとなっている。


私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、もとより孫がいない。
友のひとりから、65歳を過ぎた高齢者になったら、『おじいさん』とよばれることが多いょ、
と私は言われたりした。

そして孫からは、『おじいちゃん』と呼ばれているょ、と友から私は教えてもらい、
やがて私は微苦笑したした。
          

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職とた後、多々の理由で年金生活を始めたが、
買物、散策をしたりする往復路で、何かとご近所の奥様の数人と立ち話をすることが多い。

何かしら私は母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりとなっている。
そして私は、大きな声で明るくユーモアをまじえながら話したりすると、
あなたはお若いわ・・、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

こうした時の私は、世の中の多く人たちから、
人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
人生の苦楽が欠落している為か、と思ったりしている。

私は年金生活を11年生となっているが、買物とか散策する時は、
高齢者こそ清潔感のある服が大切ょ、と家内から言われたりしている。

そして私はストレッチパンズの長ズボン、スポーツシャツ、ウォーキング・シューズとなり、
紳士用の小物入れのショルダー式バックを斜め掛けをして、颯爽と歩くことが多い。
          

一週間前の頃、自宅の近くの公園を散策し、花木の写真を撮っていたら、
何かしら見知らぬ男の子の幼児が、私の近くに寄ってきて、私にまといついてきた・・。

そして私は近くのベンチで、若き奥様がベビー・カーを前に、腰かけていた。
『XXちゃん・・こっちにいらいしゃい』
と若き奥様が幼児に言ったりした。

やがて私にまといついていた幼児は、若き奥様に近づいて行った。

まもなく若き奥様がベビー・カーに幼児の乗せたが、
この幼児は私に盛んに手を振ったりした。

そして私も微笑みながら手を振ると、
『ご迷惑・・お掛けしまして・・XXちゃん・・おじさんにお別れしましょうねぇ』
と若き奥様は私に会釈した後、幼児に言ったりした。

そして2歳未満と思われる幼児は、おじちゃ~ん、さような~ら、と私に手を振ったりした。
          

このようなささやかな出来事を私は思い馳せたりし、
私は未(いま)だに、『おじいさん』と呼ばれたことはなく、今日に至っている。

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6月の水無月は、齢ばかり重ねた私でも、情感が深まる時節、と微笑み・・。

2015-06-01 11:26:12 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、ぼんやりと居間にあるカレンダーを見ながら、
皐月(さつき)の5月に愛惜を重ね、別れを告げたりした。

そして月日の流れが、齢を重ねるたびに、あたかも新幹線のように早く過ぎて行く、と微苦笑したりした。

その後、新たな水無月(みなづき)の6月に、
『今年もよろしくねぇ・・』と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

やがて水無月(みなづき)の語源の由来を思い浮かべ、微笑んだりした。 
          
            ☆ 今回掲載した写真のすべては、昨年の6月に撮った ☆

確か14年前の頃、私は遅ればせながら知識人の藤野邦夫さんから学んだりした。
《・・6月は梅雨のはじまる季節なのに、どうして『水無月』といったのだろうか。
『みなづき』の『な』は、もともとは『の』を表わす用語であり、
つまり『水の月』という意味だったのだ。

そして、その解釈として「田んぼに水を引く月」という意味だとか、
ストレートに「梅雨で水の多い月」だという説などが称(とな)えられてきた。・・》

このように私は教示されれば、何かと単細胞の私は、時候として、
初夏、梅雨、長雨、向夏、麦秋・・このように思い浮かべたりした。

そしてここ30年ぐらいの挨拶の用語として、
風薫る初夏の訪れ、
連日の雨に樹木の緑もようやく深まり、
青田をわたる風もさわやかに・・などと思いを重ねたりした。
          

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域の『梅雨』の時節は、
平年としては、この6月中旬から7月の下旬の小学生が終業式を終えて夏休みに入る直前まで、となっているが、
もとより天上の気候の神々の采配に寄るから、
今年の『梅雨入り』、そして『梅雨明け』も現時点として、未明となっている。

今朝はまばゆい陽射しの朝を迎え、朝の6時は21度、昼下りは28度前後、
初夏のような暑い一日となり、
そして夕暮れの6時は25度前後が予測されいる。

昨日は私の住む地域は、今年初めての真夏日の30度の熱さとなり、
何かと暑さに苦手な私は、5月の今から夏のような暑さになって、どうしてなのよ、
と天上の気候の神々のきまぐれな采配に、空を見上げたりして戸惑ったりした。


先ほど私は、この水無月の6月は、齢ばかり重ねた私でも、情感が深まる時節だよねぇ、
と微笑んだりした・・。
          

この季節になると、雨降る中、紫陽花(アジサイ)、杜若(カキツバタ)と同様に、
下草として植えている雪ノ下(ユキノシタ)が白い花を咲かせる。

この雪ノ下の白い花は、幾つかのかんざしを合わせたかのような可憐な容姿で、
葉は緑色、黄緑色といったように幼い葉は萌黄色の色合いを見せながら、
微風に揺れながらも凛(りん)した気品をたたえている。

主庭の外れに半夏生(ハンゲショウ)を10数本植えているが、
黄緑色した葉の中で、わずか先端の数枚の葉は化粧をしたように白く染めあげられたし、
ほのかな妖艶と感じ受けとめている。
           
      
庭の樹木のたわわな葉は、淡い緑色や深緑となり雨粒でしっとりと濡れ、
地表は黒土となり、清々(すがすが)しい情景になる。
          

そして我が家では、無念ながら紫陽花(アジサイ)はないので、
買物とか散策の時、川沿いの遊歩道の一角、小公園などに立ち寄り、享受したりしている。
          

淡い紫色、透きとおる青色の色合いが私の好みであり、
小雨が降ったり時、散策の時などで偶然にめぐり逢い、
私は傘を差しながらも、見惚(みと)れてしまい、しばらく独りでたたずんだれしてきた。
          

そして幼年期に農家の児として育った私は、生家の田んぼの外れに咲いていた花菖蒲(はなしょうぶ)を見て、
これこそ何よりも気品を秘めた高貴な花と思ったりしてきたが、
          
杜若(かきつばた)の歴然とした美に享受を受け、齢を重ねるたびに心は深まったりしている。
               

そして雨の降りしきる中、煙(けむ)るような木立の情景に見惚(みと)れたり、
定年後の年金生活の中で、梅雨の時節は私なりに秘かに心を寄せている。
          

この後、少しぼんやりと、水無月に相応しい茶花を思ったりした。
薊(アザミ)、杜若(カキツバタ)、額紫陽花(ガク・アジサイ)等は、 特に魅了される。
そして初夏になると、夏椿(ナツツバキ)、宗旦木槿(ソウタンムクゲ)に待ち焦(こ)がれる。
          

このように私は、この『梅雨』の季節を過ごすことが、平年の習性となっている。

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