私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、ぼんやりと居間にあるカレンダーを見ながら、
皐月(さつき)の5月に愛惜を重ね、別れを告げたりした。
そして月日の流れが、齢を重ねるたびに、あたかも新幹線のように早く過ぎて行く、と微苦笑したりした。
その後、新たな水無月(みなづき)の6月に、
『今年もよろしくねぇ・・』と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。
やがて水無月(みなづき)の語源の由来を思い浮かべ、微笑んだりした。

☆ 今回掲載した写真のすべては、昨年の6月に撮った ☆
確か14年前の頃、私は遅ればせながら知識人の藤野邦夫さんから学んだりした。
《・・6月は梅雨のはじまる季節なのに、どうして『水無月』といったのだろうか。
『みなづき』の『な』は、もともとは『の』を表わす用語であり、
つまり『水の月』という意味だったのだ。
そして、その解釈として「田んぼに水を引く月」という意味だとか、
ストレートに「梅雨で水の多い月」だという説などが称(とな)えられてきた。・・》
このように私は教示されれば、何かと単細胞の私は、時候として、
初夏、梅雨、長雨、向夏、麦秋・・このように思い浮かべたりした。
そしてここ30年ぐらいの挨拶の用語として、
風薫る初夏の訪れ、
連日の雨に樹木の緑もようやく深まり、
青田をわたる風もさわやかに・・などと思いを重ねたりした。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域の『梅雨』の時節は、
平年としては、この6月中旬から7月の下旬の小学生が終業式を終えて夏休みに入る直前まで、となっているが、
もとより天上の気候の神々の采配に寄るから、
今年の『梅雨入り』、そして『梅雨明け』も現時点として、未明となっている。
今朝はまばゆい陽射しの朝を迎え、朝の6時は21度、昼下りは28度前後、
初夏のような暑い一日となり、
そして夕暮れの6時は25度前後が予測されいる。
昨日は私の住む地域は、今年初めての真夏日の30度の熱さとなり、
何かと暑さに苦手な私は、5月の今から夏のような暑さになって、どうしてなのよ、
と天上の気候の神々のきまぐれな采配に、空を見上げたりして戸惑ったりした。
先ほど私は、この水無月の6月は、齢ばかり重ねた私でも、情感が深まる時節だよねぇ、
と微笑んだりした・・。

この季節になると、雨降る中、紫陽花(アジサイ)、杜若(カキツバタ)と同様に、
下草として植えている雪ノ下(ユキノシタ)が白い花を咲かせる。
この雪ノ下の白い花は、幾つかのかんざしを合わせたかのような可憐な容姿で、
葉は緑色、黄緑色といったように幼い葉は萌黄色の色合いを見せながら、
微風に揺れながらも凛(りん)した気品をたたえている。
主庭の外れに半夏生(ハンゲショウ)を10数本植えているが、
黄緑色した葉の中で、わずか先端の数枚の葉は化粧をしたように白く染めあげられたし、
ほのかな妖艶と感じ受けとめている。
庭の樹木のたわわな葉は、淡い緑色や深緑となり雨粒でしっとりと濡れ、
地表は黒土となり、清々(すがすが)しい情景になる。

そして我が家では、無念ながら紫陽花(アジサイ)はないので、
買物とか散策の時、川沿いの遊歩道の一角、小公園などに立ち寄り、享受したりしている。

淡い紫色、透きとおる青色の色合いが私の好みであり、
小雨が降ったり時、散策の時などで偶然にめぐり逢い、
私は傘を差しながらも、見惚(みと)れてしまい、しばらく独りでたたずんだれしてきた。

そして幼年期に農家の児として育った私は、生家の田んぼの外れに咲いていた花菖蒲(はなしょうぶ)を見て、
これこそ何よりも気品を秘めた高貴な花と思ったりしてきたが、

杜若(かきつばた)の歴然とした美に享受を受け、齢を重ねるたびに心は深まったりしている。

そして雨の降りしきる中、煙(けむ)るような木立の情景に見惚(みと)れたり、
定年後の年金生活の中で、梅雨の時節は私なりに秘かに心を寄せている。

この後、少しぼんやりと、水無月に相応しい茶花を思ったりした。
薊(アザミ)、杜若(カキツバタ)、額紫陽花(ガク・アジサイ)等は、 特に魅了される。
そして初夏になると、夏椿(ナツツバキ)、宗旦木槿(ソウタンムクゲ)に待ち焦(こ)がれる。

このように私は、この『梅雨』の季節を過ごすことが、平年の習性となっている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村

今朝、ぼんやりと居間にあるカレンダーを見ながら、
皐月(さつき)の5月に愛惜を重ね、別れを告げたりした。
そして月日の流れが、齢を重ねるたびに、あたかも新幹線のように早く過ぎて行く、と微苦笑したりした。
その後、新たな水無月(みなづき)の6月に、
『今年もよろしくねぇ・・』と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。
やがて水無月(みなづき)の語源の由来を思い浮かべ、微笑んだりした。

☆ 今回掲載した写真のすべては、昨年の6月に撮った ☆
確か14年前の頃、私は遅ればせながら知識人の藤野邦夫さんから学んだりした。
《・・6月は梅雨のはじまる季節なのに、どうして『水無月』といったのだろうか。
『みなづき』の『な』は、もともとは『の』を表わす用語であり、
つまり『水の月』という意味だったのだ。
そして、その解釈として「田んぼに水を引く月」という意味だとか、
ストレートに「梅雨で水の多い月」だという説などが称(とな)えられてきた。・・》
このように私は教示されれば、何かと単細胞の私は、時候として、
初夏、梅雨、長雨、向夏、麦秋・・このように思い浮かべたりした。
そしてここ30年ぐらいの挨拶の用語として、
風薫る初夏の訪れ、
連日の雨に樹木の緑もようやく深まり、
青田をわたる風もさわやかに・・などと思いを重ねたりした。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域の『梅雨』の時節は、
平年としては、この6月中旬から7月の下旬の小学生が終業式を終えて夏休みに入る直前まで、となっているが、
もとより天上の気候の神々の采配に寄るから、
今年の『梅雨入り』、そして『梅雨明け』も現時点として、未明となっている。
今朝はまばゆい陽射しの朝を迎え、朝の6時は21度、昼下りは28度前後、
初夏のような暑い一日となり、
そして夕暮れの6時は25度前後が予測されいる。
昨日は私の住む地域は、今年初めての真夏日の30度の熱さとなり、
何かと暑さに苦手な私は、5月の今から夏のような暑さになって、どうしてなのよ、
と天上の気候の神々のきまぐれな采配に、空を見上げたりして戸惑ったりした。
先ほど私は、この水無月の6月は、齢ばかり重ねた私でも、情感が深まる時節だよねぇ、
と微笑んだりした・・。

この季節になると、雨降る中、紫陽花(アジサイ)、杜若(カキツバタ)と同様に、
下草として植えている雪ノ下(ユキノシタ)が白い花を咲かせる。
この雪ノ下の白い花は、幾つかのかんざしを合わせたかのような可憐な容姿で、
葉は緑色、黄緑色といったように幼い葉は萌黄色の色合いを見せながら、
微風に揺れながらも凛(りん)した気品をたたえている。
主庭の外れに半夏生(ハンゲショウ)を10数本植えているが、
黄緑色した葉の中で、わずか先端の数枚の葉は化粧をしたように白く染めあげられたし、
ほのかな妖艶と感じ受けとめている。

庭の樹木のたわわな葉は、淡い緑色や深緑となり雨粒でしっとりと濡れ、
地表は黒土となり、清々(すがすが)しい情景になる。

そして我が家では、無念ながら紫陽花(アジサイ)はないので、
買物とか散策の時、川沿いの遊歩道の一角、小公園などに立ち寄り、享受したりしている。

淡い紫色、透きとおる青色の色合いが私の好みであり、
小雨が降ったり時、散策の時などで偶然にめぐり逢い、
私は傘を差しながらも、見惚(みと)れてしまい、しばらく独りでたたずんだれしてきた。

そして幼年期に農家の児として育った私は、生家の田んぼの外れに咲いていた花菖蒲(はなしょうぶ)を見て、
これこそ何よりも気品を秘めた高貴な花と思ったりしてきたが、

杜若(かきつばた)の歴然とした美に享受を受け、齢を重ねるたびに心は深まったりしている。

そして雨の降りしきる中、煙(けむ)るような木立の情景に見惚(みと)れたり、
定年後の年金生活の中で、梅雨の時節は私なりに秘かに心を寄せている。

この後、少しぼんやりと、水無月に相応しい茶花を思ったりした。
薊(アザミ)、杜若(カキツバタ)、額紫陽花(ガク・アジサイ)等は、 特に魅了される。
そして初夏になると、夏椿(ナツツバキ)、宗旦木槿(ソウタンムクゲ)に待ち焦(こ)がれる。

このように私は、この『梅雨』の季節を過ごすことが、平年の習性となっている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪

