私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝5時半に起床し、雨上がりのまばゆい陽射しを眺めてた後、洗面した。
やがて居間にあるビデオ棚の上に向かって、心の中で呟(つぶや)いたりした後、苦笑してしまった・・。
私は曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向って、
何かと気弱な癖に、ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
世の中で著名な『相田みつを』氏を遅ればせながら学んだのは、
過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。
そして私は手に取り、ページを捲(めく)ると、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
この言葉を読み終わった後、瞬時に圧倒的に魅了された・・。
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は、無念ながら私が小学2年の時に病死された体験もあり、
私はこの『トイレ用日めくり』を買い求めた後、その日に応じたページに、
さりげなく深い人生の教訓の言葉を特有な書体で書かれ、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたした。
本日の氏の格言に、私は苦笑させられたのは、何かと気弱な癖に、ときには自己顕示欲が強く、
やがて反省しながら自己嫌悪となったりしたが、
幾たびも繰り返してきた人生航路であったりした・・。
私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。
新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。
たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。
そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、
何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。
こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。
こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。
やがて養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、
このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。
この当時の私は中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。
やがて私は契約社員の警備員などをしながら生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、もとより私の方からは連絡も避けていた。
そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。
そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の音響・映像メーカー会社に何とか中途入社ができたのは、
1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。
そして、この会社の中のレコード事業本部に配属させられ、
この当時のレコード業界の中で圧倒的に首位を独走していたが、
この中のひとつの一部門が外資の要請で新たなるレコード会社として新設されることなった。
そして私も新設レコード会社に転籍させられ、商品の現場を学んだ後、
本社のコンピュータ専任者に配属させられたのは1971年(昭和46年)の新春であった。
私は大学中退の上に中途入社の身であったが、大学を新卒されて入社した人の同年齢の方に、
多少の卑屈と劣等感がありながらも、給与など含めた待遇に早く追いつきたく、
ときには悪目立ちする時もあったりした。
たとえはアイドルスターの全盛期の1980(昭和55)年の当時、
ある会社は松田聖子さんをデビューさせ、ある会社でも河合奈保子さんをデビューして、
私が勤めていた会社も、ある新人をアイドルスターを抜擢した。
そしてデビュー曲の数が月前に、社内の大きな会議室で、このスターを囲み、
本社の社員の殆どが記念写真を撮ったりした。
この時、このスターと社長は最前列の中央に座ったが、四列ぐらいある中、
私たち平社員は片隅でもじもどと躊躇ったりしていた・。
こうした時、社長が私たち平社員に向って、前に来て早く座れなさい、と小声で言った。
そして私は最前列の社長の横に座っている邦楽制作本部長の横に座ったりした・・。
このようなふるまいを35年近く勤める間、年に一度ぐらい私はしたりし、
後日に何かと気弱な私は自己嫌悪をしたりした。
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した私は、まもなくブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日投稿している。
こうした中、私が加入している【gooブログ】のサイトは、
2008年(平成20年)の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。
そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。
その後、2010年(平成22年)の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。
そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
2年前の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行した。
やがて昨年の秋に『70歳代』となった後、何故かしら訪問数が半減し、
70代はブログを投稿される方が少ないから・・と微苦笑したりした。
こうした中で、つたない私の投稿文に於いて、気楽に綴ったのが上位になると戸惑い、
真剣勝負のように綴ったのが評価されず下位となり、落胆したりする時もあったりしている。
しかしながら何よりもブログの世界は、諸兄諸姉のサイトを読ませて頂き、
それぞれのお方の人生の生きた教科書、と多々教示させられたりしている。
そして感じ深めていることは、この広い空の下で、未知のそれぞれのお方に投稿文、
或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
私にとっては心の宝物、と感謝したりしている。
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今朝5時半に起床し、雨上がりのまばゆい陽射しを眺めてた後、洗面した。
やがて居間にあるビデオ棚の上に向かって、心の中で呟(つぶや)いたりした後、苦笑してしまった・・。
私は曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向って、
何かと気弱な癖に、ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
世の中で著名な『相田みつを』氏を遅ればせながら学んだのは、
過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。
そして私は手に取り、ページを捲(めく)ると、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
この言葉を読み終わった後、瞬時に圧倒的に魅了された・・。
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は、無念ながら私が小学2年の時に病死された体験もあり、
私はこの『トイレ用日めくり』を買い求めた後、その日に応じたページに、
さりげなく深い人生の教訓の言葉を特有な書体で書かれ、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたした。
本日の氏の格言に、私は苦笑させられたのは、何かと気弱な癖に、ときには自己顕示欲が強く、
やがて反省しながら自己嫌悪となったりしたが、
幾たびも繰り返してきた人生航路であったりした・・。
私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。
新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。
たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。
そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、
何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。
こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。
こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。
やがて養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、
このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。
この当時の私は中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。
やがて私は契約社員の警備員などをしながら生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、もとより私の方からは連絡も避けていた。
そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。
そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の音響・映像メーカー会社に何とか中途入社ができたのは、
1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。
そして、この会社の中のレコード事業本部に配属させられ、
この当時のレコード業界の中で圧倒的に首位を独走していたが、
この中のひとつの一部門が外資の要請で新たなるレコード会社として新設されることなった。
そして私も新設レコード会社に転籍させられ、商品の現場を学んだ後、
本社のコンピュータ専任者に配属させられたのは1971年(昭和46年)の新春であった。
私は大学中退の上に中途入社の身であったが、大学を新卒されて入社した人の同年齢の方に、
多少の卑屈と劣等感がありながらも、給与など含めた待遇に早く追いつきたく、
ときには悪目立ちする時もあったりした。
たとえはアイドルスターの全盛期の1980(昭和55)年の当時、
ある会社は松田聖子さんをデビューさせ、ある会社でも河合奈保子さんをデビューして、
私が勤めていた会社も、ある新人をアイドルスターを抜擢した。
そしてデビュー曲の数が月前に、社内の大きな会議室で、このスターを囲み、
本社の社員の殆どが記念写真を撮ったりした。
この時、このスターと社長は最前列の中央に座ったが、四列ぐらいある中、
私たち平社員は片隅でもじもどと躊躇ったりしていた・。
こうした時、社長が私たち平社員に向って、前に来て早く座れなさい、と小声で言った。
そして私は最前列の社長の横に座っている邦楽制作本部長の横に座ったりした・・。
このようなふるまいを35年近く勤める間、年に一度ぐらい私はしたりし、
後日に何かと気弱な私は自己嫌悪をしたりした。
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した私は、まもなくブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日投稿している。
こうした中、私が加入している【gooブログ】のサイトは、
2008年(平成20年)の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。
そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。
その後、2010年(平成22年)の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。
そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
2年前の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行した。
やがて昨年の秋に『70歳代』となった後、何故かしら訪問数が半減し、
70代はブログを投稿される方が少ないから・・と微苦笑したりした。
こうした中で、つたない私の投稿文に於いて、気楽に綴ったのが上位になると戸惑い、
真剣勝負のように綴ったのが評価されず下位となり、落胆したりする時もあったりしている。
しかしながら何よりもブログの世界は、諸兄諸姉のサイトを読ませて頂き、
それぞれのお方の人生の生きた教科書、と多々教示させられたりしている。
そして感じ深めていることは、この広い空の下で、未知のそれぞれのお方に投稿文、
或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
私にとっては心の宝物、と感謝したりしている。
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