月曜日から毎日1万歩を超えて歩いていた。さすがに今日は腰が痛い。でも、だいぶ歩けるようになった。8千歩は楽だが、1万歩を超えると「歩いた」 という感じになる。入浴を終えると疲れがどっと出てくる。毎日、私はなにをしているのだろうか。
今朝、お茶の先生からメールがあった。悩みが多い生活の中で、久しぶりに心にエネルギーをチャージできました というメールだった。先日のお茶席で先生が初釜のお茶菓子をわざわざ私に出してくださった。茶巾包みのような小さなお干菓子におみくじが入っているという。どうしていいものか?迷っていると、割ってみてください という。恐る恐る崩していくと、それこそ小さな紙の丸めたものがでてきた。薄い和紙を開くと「望むが よろしい」という字が出てきた。あっと声を上げるほどうれしかった。「望んでいいのだ!」
「祈り」とは、心の叫びである という講義があった。たとえば、「お金がほしい」、「会長になりたい」などは「doing」の望みだという。人の生活とはこのdoingが中心であると。そうではなくて、人としての存在としての心の叫び(祈り)がbeingの祈り と言われた。私の日々の祈りが変わった。きれいごとでない、どうかこうであってください と強い祈りになった。
気を落とさずにたえず祈っていけば、叶うような気持ちになれた。心地よい疲れがでてきた。
今朝、お茶の先生からメールがあった。悩みが多い生活の中で、久しぶりに心にエネルギーをチャージできました というメールだった。先日のお茶席で先生が初釜のお茶菓子をわざわざ私に出してくださった。茶巾包みのような小さなお干菓子におみくじが入っているという。どうしていいものか?迷っていると、割ってみてください という。恐る恐る崩していくと、それこそ小さな紙の丸めたものがでてきた。薄い和紙を開くと「望むが よろしい」という字が出てきた。あっと声を上げるほどうれしかった。「望んでいいのだ!」
「祈り」とは、心の叫びである という講義があった。たとえば、「お金がほしい」、「会長になりたい」などは「doing」の望みだという。人の生活とはこのdoingが中心であると。そうではなくて、人としての存在としての心の叫び(祈り)がbeingの祈り と言われた。私の日々の祈りが変わった。きれいごとでない、どうかこうであってください と強い祈りになった。
気を落とさずにたえず祈っていけば、叶うような気持ちになれた。心地よい疲れがでてきた。