太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

こゆきさん

2014-04-13 08:34:17 | 人生で出会った人々
日本で働いていた職場に、時々やってくるおばあさんがいた。

名前は「きたこゆき」さんといった。

職場の近くに住んでおり、キャスター付のカートを押して来るのだが

腰が曲がっていて、カウンターのこちら側に座っていると、こゆきさんの姿は見えない。

いくつぐらいだったのかわからない。

腰は曲がっていても、いつも着物を着て、髪をじょうずにお団子にしていた。



職場は、建物内の電気配線をする会社だった。

こゆきさんは一人暮らしで、コンセントが壊れたといってくることもあれば、

電気がつかないといってくることもあった。

そしてその仕事の依頼のついでに、電気釜やラジオの話になる。



電気釜が壊れたら困る、というのだ。

ラジオが壊れたら困る、という。

「でもまだ壊れていなくて、使えるんでしょ?」

と言うと、今は使えるが、これが使えなくなったら困るのだという。

だから、壊れたときのために別の電気釜を買ってある。

「それなら、今のが壊れても大丈夫じゃない?」

しかし、もしその別の電気釜が使えなかったら困る。



コンセントの修理に行った同僚が戻ってきて、言った。


「こゆきさんち、すごかったスよ。炊飯器やラジオやいろんな同じものが

いくつもゴロゴロしてました」




こゆきさんが亡くなったと聞いたのは、それから半年以上たったころだったろうか。

こゆきさんは、心配して備えて、それでも心配して

心配しながらいってしまった。

たくさんの電気釜やラジオなんかを一杯残したまま。





私は心配性だと思う。

気を抜くと、いつのまにか心配をしている。

心配は、放っておくと最悪の想定にまで膨れ上がる。

いっしょうけんめいに心配しているとき、その最悪の想定を「願っている」のと同じで

解決もしなけりゃ、いいことなんか何もないのだとわかっているから

心配している自分に気づくと、大根をスパっと切るように断ち切る。



何も知らず、心配を垂れ流して生きていた頃の私に比べたら

今はずいぶん楽観的な人間になったと思うけれど、

何かが起きて、心配したがりな自分がムズムズと顔を出そうとするのに気づくとき

私はこゆきさんを思い出すのだ。



『電気釜』は、そのまんま、今ある幸せ だ。




電気釜を「今この瞬間」や、「今もっているお金」や「家族」や「健康」に

おきかえてみる。

心配している間は、今この瞬間にある幸せに気づけない。

困ったときのために、今困る必要はないのだ。





ある出来事があり、やっぱり心配したがりな私は健在していた。

そして今度もまた、こゆきさんが教えてくれた。









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