太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ひとりヒプノ

2016-12-27 10:17:36 | 不思議なはなし
先週の初めごろ夫が、週末に職場の同僚とサーフィンに行く、と言った。

口では「ふうん」と言ったが、内心はザワザワしていた。



水の事故で死んだらどうしよう



それを思うといてもたってもいられないぐらい不安が募る。

その一方で、12歳からサーフィンをやっているのだし、そんなことがあるわけがない、と思う。

そうするとまた心の中で



でも同僚を助けようとして死ぬことだってあるかもしれない



と思う。

ここまで考えて、これはやっぱり何かおかしいゾ、と思った。

夫と義兄夫婦がダイビングに行った時も、仕事をしながら安否が気になって仕方がなかった。

私は潜らなくても、私が一緒に行ければどうということはないのだ。

ただ、そうやって不安になるのは 水関係 の場合だけで、

これが山登りとかスキーだったら、そうでもない。



私と夫は、どこかの時代でも夫婦だったことがある。

そのときも男女の性は今と同じ。

その時代、夫は若死にをして、子供がいなかった私はひとり残された。

死んだ理由もなにもわからなかったが、私はその時代の自分に会いに行くことにした。



水晶を握り、目を閉じる。

「わたし」は教会で、「夫」の葬儀にいた。

泣きつくして涙も出ないのだろう。「わたし」は一言もしゃべらず、顔は怒っているようでもあった。

もちろん「わたし」は私のことなど見えないのだけれど、

私は「わたし」を抱きしめた。

そうすると、わかったのだ。

「夫」はお酒を飲んで出かけて、水の事故で死んだ。

なぜそう思うのかはわからない。ただ ”わかった” のだ。

「わたし」の感情が、強烈に私に流れ込んできた。



怒ってるんだね。悲しいんだね。わかるよ、わかる。



私が、夫がお酒を飲むことを嫌悪するのも、こういうことだったのか。

その時代の「わたし」も、普段お酒を飲みすぎることを「夫」に注意していたのかもしれない。

だから怒っているし、悔しいし、悲しいし寂しい。



気がつくと、私は座りながらボロボロと涙を流していた。

悲しいのは「わたし」で、私はそれほど感情移入しているわけではないのに、

涙はあとからあとから流れて、着ている服の胸を濡らした。






だから心配なんだよね。でもこの人生ではもう同じことは起こらないから大丈夫。



大丈夫

大丈夫

ダイジョウブだから






私はサーフィンに行く夫を、平常心で見送った。

仕事をしているときも、それほど気になることもなかった。

夫は元気に帰ってきて、久しぶりのサーフィンは楽しかったと言った。



ほんとうの私が体験している様々な人生は、過ぎて終わってしまったものではなく

宙に浮かぶたくさんのシャボン玉の中にそれぞれの人生があって、

それらは『今』『同時に』繰り広げられているのだと思う。

だから私達が「過去」と呼ぶ人生にも、「未来」と呼ぶ人生にも訪れることはできて

そこから学ぶことも、他の人生を体験している自分を励ますこともできると私は思っている。




私は、その時代の「わたし」の感情を無意識の下に強く抱えてこの人生を生きていた。

それに気づき、解放することができたから、むやみに恐れることがなくなった。

それでも上には上がいるもので、

義兄の奥さんが、義兄の誕生日プレゼントにスカイダイビングをセッティングした。

それもサプライズで、

しかも大学生の次男も一緒に、だ。

それを聞いた時、胸が震えた。

もちろん、怖くて。

万一のことがあったら、その後悔たるやどれほどのものだろう。

万にひとつも起こらないことは、万にひとつは起こる。


私の母は心配性で、昔、どこかに車で送ってゆくとか迎えに行くというとき、

その道中で事故にあったら困るからバスにする、と言ったものだ。

さすがに今は言わなくなったけれど、

その母の心配性の刷り込みが、私にないとは言えないと思う。


義理の姉は、強いのか、私とは違うなにかを抱えているだけなのか、

確かに彼女は美しい小児科医で、冷静沈着で、すべての面で自立しているけれど

とにかく すごいな と思うのである。






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