仕事から戻ったら、キッチンのストーブにはメキシカンの料理ができていたが
夫の姿がない。
2階の寝室から、「オカエリー」という声がする。
嫌な予感的中。
酔っ払った夫が、ベッドに横たわっていた。
「ウォッカ飲んだでしょ」
「ウーン、少し」
ここだ。
このポイントが、私を一気に不機嫌にする。
酔って横になり、そのまま吐いて、シーツもなにもかも台無しにして
その始末をするのは私。
僕がやるよ、と言うものの、酔っていてアテにはならぬ。
それが過去に1度や2度ではない。
そしてだいたいそうなるのは、ウォッカやワインを飲んだとき。
自分だって気分が悪くなるのも、私に文句を言われるのだって嫌だろう。
飲まないときは、つまりダイエットをしている時には何ヶ月も飲まなくてもいられる。
いったん飲むとなると、大量に飲む。
飲まない私には、飲みたい人の気持ちがわからない。
なんで適度な量を飲む、という簡単なことができないのかもわからない。
友人に愚痴をこぼすと、酒好きな彼女は
「年に1回や2回ならぜーんぜんどうってことないじゃん、そんなことぐらいあるよぅ」
と笑う。
せっかくの土曜の夕方、夫が寝ていたらつまらない。
今夜は夫がメキシカン料理を作り、両親とともに食べる予定でいた。
シュートメに、夫が起き上がれるまで待ってもらえるように言うと、
私達のことはいいからあなたたちで適当にやって、と言って二人で食事に出かけてしまった。
イライラが止まらない私は、努力して1歩引いて、イライラしている自分を観察する。
夫は酔っているだけだ。
病気で起き上がれないことを思えば、怒るほどのことではないんじゃないの。
「わたし」はそう思っている。
「だからウォッカはやめときなって言ってるのに」
「なぜこうなるまで飲むの」
「どうして学ばないのさ」
夫が謝っているのをいいことに、私はとことんネチネチと文句を言う。
「大丈夫だったんだよ、急にきたんだよ」
「ウォッカはそうなるって、何度もやってわかってるはずでしょ」
しばらくして夫はトイレに行って吐き、熱いシャワーを浴びた。
シャワーを浴びている夫の横で、私はまだ文句を垂れている。
まったく私という人は、どうしてこうもネチネチしているんだろうか。
1歩引いて観察している「わたし」は呆れて物もいえない。
夫がおとなしくそれを許していると、私はどこまでも付け込む。
まだいける、まだいける、といい気になっているうちに、とうとう地雷を踏むこともある。
「わたし」はネチネチ言わずにいられない私が、ほとほと嫌になり、
言われている夫が気の毒になる。
私が酒好きだったら、もっと夫は楽しく飲めるかもしれない。
私がもっとおおらかだったら、私も夫ももっと楽かもしれない。
私だって私のネチネチはわかってる、直したいけど直せないから短所なんじゃないか
私のエゴは精一杯の言い訳をいう。
イライラしているとき、怒りがおさまらないとき、
こうして観察することは大事だと思っている。
感情はどうすることもできないが、感情の行方を見ている「わたし」を意識できると
少しだけ冷静でいられる空間ができる。
ネチネチ攻撃にさらされた夫は、シャワーを浴びてすっきりし、
夫が作ったメキシカン料理を二人で食べて、私の機嫌はおさまった。
今年はもうちょっとおおらかな私になりたい。
これが私の抱負である。
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夫の姿がない。
2階の寝室から、「オカエリー」という声がする。
嫌な予感的中。
酔っ払った夫が、ベッドに横たわっていた。
「ウォッカ飲んだでしょ」
「ウーン、少し」
ここだ。
このポイントが、私を一気に不機嫌にする。
酔って横になり、そのまま吐いて、シーツもなにもかも台無しにして
その始末をするのは私。
僕がやるよ、と言うものの、酔っていてアテにはならぬ。
それが過去に1度や2度ではない。
そしてだいたいそうなるのは、ウォッカやワインを飲んだとき。
自分だって気分が悪くなるのも、私に文句を言われるのだって嫌だろう。
飲まないときは、つまりダイエットをしている時には何ヶ月も飲まなくてもいられる。
いったん飲むとなると、大量に飲む。
飲まない私には、飲みたい人の気持ちがわからない。
なんで適度な量を飲む、という簡単なことができないのかもわからない。
友人に愚痴をこぼすと、酒好きな彼女は
「年に1回や2回ならぜーんぜんどうってことないじゃん、そんなことぐらいあるよぅ」
と笑う。
せっかくの土曜の夕方、夫が寝ていたらつまらない。
今夜は夫がメキシカン料理を作り、両親とともに食べる予定でいた。
シュートメに、夫が起き上がれるまで待ってもらえるように言うと、
私達のことはいいからあなたたちで適当にやって、と言って二人で食事に出かけてしまった。
イライラが止まらない私は、努力して1歩引いて、イライラしている自分を観察する。
夫は酔っているだけだ。
病気で起き上がれないことを思えば、怒るほどのことではないんじゃないの。
「わたし」はそう思っている。
「だからウォッカはやめときなって言ってるのに」
「なぜこうなるまで飲むの」
「どうして学ばないのさ」
夫が謝っているのをいいことに、私はとことんネチネチと文句を言う。
「大丈夫だったんだよ、急にきたんだよ」
「ウォッカはそうなるって、何度もやってわかってるはずでしょ」
しばらくして夫はトイレに行って吐き、熱いシャワーを浴びた。
シャワーを浴びている夫の横で、私はまだ文句を垂れている。
まったく私という人は、どうしてこうもネチネチしているんだろうか。
1歩引いて観察している「わたし」は呆れて物もいえない。
夫がおとなしくそれを許していると、私はどこまでも付け込む。
まだいける、まだいける、といい気になっているうちに、とうとう地雷を踏むこともある。
「わたし」はネチネチ言わずにいられない私が、ほとほと嫌になり、
言われている夫が気の毒になる。
私が酒好きだったら、もっと夫は楽しく飲めるかもしれない。
私がもっとおおらかだったら、私も夫ももっと楽かもしれない。
私だって私のネチネチはわかってる、直したいけど直せないから短所なんじゃないか
私のエゴは精一杯の言い訳をいう。
イライラしているとき、怒りがおさまらないとき、
こうして観察することは大事だと思っている。
感情はどうすることもできないが、感情の行方を見ている「わたし」を意識できると
少しだけ冷静でいられる空間ができる。
ネチネチ攻撃にさらされた夫は、シャワーを浴びてすっきりし、
夫が作ったメキシカン料理を二人で食べて、私の機嫌はおさまった。
今年はもうちょっとおおらかな私になりたい。
これが私の抱負である。
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