太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

老親

2019-01-22 17:50:33 | 日記
まだ両親がピンピンしていたときに実家を二世帯にして、姉一家が両親と暮らしている。

4年ほど前に母が脳細胞の病気になり、身体を動かすのに相当な時間がかかるようになった。

人一倍せっかちな父は、病気になる前の母ですら始終急かしていたのが、輪をかけて急かすようになり

それが母のストレスになる。

80を過ぎても、父は毎日自分の会社に行っていたが、軽い心筋梗塞になり入院。

わりとすぐに退院したが、それを機会にようやくリタイアした。

そのあと、肺炎になって再入院。

入院するたびに老人特有の「せん妄症」になり、暴れるので家族が24時間付き添わねばならなくなった。

むろん母は高齢なこともあって付き添えないので、姉か妹が付き添うことになるのだけれど

姉達にも仕事や生活があり、そうとう苦労した。

それが昨年の正月までの話。



わがままな父は、家族のいうことをきかない。

タバコをやめられず、外で吸えばいいのに家の中で吸い続けて家族と口論になる。

車を運転して出かけて、たまにどこにいるのかわからなくなることがあり、

やっとのことで運転を諦めさせた。

昨年3月に私達が日本に行き、両親を花見に連れていったのはそんな時期だ。

夏に父が家の中で転んで大腿骨を骨折。

再び入院して(大騒ぎ)手術、そのあとリハビリテーション病院に転院し、実家から至近距離にある

グループホームに入居して3ヶ月になる。



家に帰りたい父の気持ちはわかる。

けれど、母もだんだんとできることが限られてくるようになって、食事の支度も無理になり、

一人で靴下を履くのに15分ぐらいかかる。

食事は姉が用意して、着替えも姉が手伝う母に、父の世話をすることは無理というものだ。

まして父は、歩けるようになったものの、骨折したことを忘れているので

普段は車椅子を使うようにいわれている。

ひょうきんな動作をして、せっかくくっついた骨がはずれたら、また病院に逆戻りだ。

父の行動を見張ることも、父を手伝うことも母にはできなくなった。

幸い、グループホームの生活を父は気に入っているようで、顔もとても穏やかになった。



今回日本にいる間、車椅子を2台借りて、両親を連れて出かけた。

父が元気だった頃、毎日ウォーキングをしていたときに寄っていた喫茶店にも行った。

マスターは父を覚えていて、父は久しぶりに飲む美味しいコーヒーを喜んでいた。

こうして両親と向かい合って座っていると、何も変わっていないのではないかと錯覚する。

父も母も普通に生活していたのは、そんなに昔のことではないのだ。

数ヶ月単位で、両親の状況が変わってゆく。

できていたことが、できなくなってゆく。

父は私や夫のことがわかるけれど、父の頭の中でなにかが起きていて、

父独特の世界で生きているようだ。



母と姉は親子なので、互いに遠慮がない。

泣いて喧嘩をしたりもする。

母は「おねえちゃんは威張る」と言い、姉は「お母さんは私を人でなしだと言った」と言う。

私が姉の代わりをしていたのは、ほんの1週間あまりだったのに、

親と1日中向き合うのはなかなか辛いものだ。

同じ家に住んでいるのだから、もう少しやさしくしてあげてもいいのにと思っていたけれど

それも言えなくなった。

母の着替えを手伝っているとき、

「こうして、足あげて、って言って着替えをしたもんだよね」

と母が言った。

昔母が手伝ってくれた着替えを、今、娘の私が手伝っている。

やってもらったことを、お返ししているだけなのに、

どうして気持ちにゆとりがなくなってしまうんだろう。






長生きするのは、本人も大変。

それを見守る人も、大変。

日本を離れるときは、ちゃんと話ができる両親とはこれが最後、と思うけれど、

両親と話ができなくなるときがくる覚悟は、全然できていやしないのだ。

手がかかっても、話がめんどくさくても、それすら懐かしくなるときがくることを

私は必死に想像しないようにしている。

電話をすれば、母が出て、行けば父は笑顔で迎えてくれる。

来年も再来年も、ずっとそうであるように、私のどこかでタカをくくっている。

この期に及んで、私はまだ老親に甘えているのである。














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