先週末に実家の母が、家の中で転んで腕の骨を折った。
「ああ、とうとう・・・」
そんな気持ちになった。
電話で話すたび、風邪をひかないでね、転ばないでね、と言っていた。
母は脳細胞の病気のために、ゆっくりにしか動けない。
だから、電話のベルが鳴っても焦らないで、ゆっくり出ればいいよ、と私は言う。
昨冬の初め、父が家で転んで大腿骨を折り、それ以来、家には戻っていない。
父の場合、足だったから、リハビリも長かったし、
ようやく歩けるようにはなっても、骨折したことを忘れてしまうので
ひょうきんな動作をして、再び骨が外れてしまう恐れもあった。
父は家に戻りたいに決まっているけれど、24時間見張っていることもできず、
まして母だって半人前なのだ。
「気をつけていたんだけどね、やっちゃったよ」
骨折した翌日、母は電話でそう言った。
近所のクリニックに連れて行ったら、保存して治すか手術をするか、
総合病院で相談したほうがいいということで、週明けに総合病院に行き
その翌日の夕方に手術をすることになった。
まさに姉が母を総合病院に連れてゆくという日の朝、
グループホームにいる父の容態が思わしくなくなった。
9月の終わりに私たちが父に会いに日本に行ったとき、
父はこれ以上痩せられないほど痩せて、声もかすれて、寝返りもできない状態で、
やはりもうこれが父と会う最後なのだと思ってハワイに戻ってきたのだったが
その後、父は驚きの回復をみせ、車椅子に座ってリビングで新聞を読むまでになった。
88までは生きる、と常に言っていた父は、来年の3月に88になる。
これで年も越せるし、誕生日も迎えられそうだね、と言っていた矢先のことだ。
夕方になって、父は小康状態になった。
母が入院する今日、姉はどうしても仕事を休めない事情があり、
妹が母に付き添っていく。
目の前で思わぬことが起き続けて、それに翻弄されている姉や義兄。
仕事を二つ持ちながら、やりくりして駆けつけてくれる妹。
わがままな父は、入院したときに超問題患者だったので
姉か妹が24時間付き添わなければならず、
「あのときはもうギリギリだったよぅー」
と言っていた。
私だけが遠くにいて、
気を揉みながら、姉と妹に手を合わせている。
親に本当に会えなくなる日は、それほど遠くない。
9月、ハワイに戻る日の朝、父に会いにいったとき
父の手を握り、皮膚をさすり、ありがとうと何度もいい、
父のひょうきんな表情を魂に焼き付けるようにしたけれど、
なにをどれだけしたところで、足りるはずがなかった。
父と母に、話したいこと、聞きたいことが砂漠の砂ほどにもあるように思えて
私は途方に暮れてしまうのである。