太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

高齢の親

2019-12-09 14:26:09 | 日記
先週末に実家の母が、家の中で転んで腕の骨を折った。
「ああ、とうとう・・・」
そんな気持ちになった。
電話で話すたび、風邪をひかないでね、転ばないでね、と言っていた。
母は脳細胞の病気のために、ゆっくりにしか動けない。
だから、電話のベルが鳴っても焦らないで、ゆっくり出ればいいよ、と私は言う。
昨冬の初め、父が家で転んで大腿骨を折り、それ以来、家には戻っていない。
父の場合、足だったから、リハビリも長かったし、
ようやく歩けるようにはなっても、骨折したことを忘れてしまうので
ひょうきんな動作をして、再び骨が外れてしまう恐れもあった。
父は家に戻りたいに決まっているけれど、24時間見張っていることもできず、
まして母だって半人前なのだ。

「気をつけていたんだけどね、やっちゃったよ」
骨折した翌日、母は電話でそう言った。
近所のクリニックに連れて行ったら、保存して治すか手術をするか、
総合病院で相談したほうがいいということで、週明けに総合病院に行き
その翌日の夕方に手術をすることになった。


まさに姉が母を総合病院に連れてゆくという日の朝、
グループホームにいる父の容態が思わしくなくなった。
9月の終わりに私たちが父に会いに日本に行ったとき、
父はこれ以上痩せられないほど痩せて、声もかすれて、寝返りもできない状態で、
やはりもうこれが父と会う最後なのだと思ってハワイに戻ってきたのだったが
その後、父は驚きの回復をみせ、車椅子に座ってリビングで新聞を読むまでになった。
88までは生きる、と常に言っていた父は、来年の3月に88になる。
これで年も越せるし、誕生日も迎えられそうだね、と言っていた矢先のことだ。

夕方になって、父は小康状態になった。


母が入院する今日、姉はどうしても仕事を休めない事情があり、
妹が母に付き添っていく。
目の前で思わぬことが起き続けて、それに翻弄されている姉や義兄。
仕事を二つ持ちながら、やりくりして駆けつけてくれる妹。
わがままな父は、入院したときに超問題患者だったので
姉か妹が24時間付き添わなければならず、
「あのときはもうギリギリだったよぅー」
と言っていた。
私だけが遠くにいて、
気を揉みながら、姉と妹に手を合わせている。


親に本当に会えなくなる日は、それほど遠くない。
9月、ハワイに戻る日の朝、父に会いにいったとき
父の手を握り、皮膚をさすり、ありがとうと何度もいい、
父のひょうきんな表情を魂に焼き付けるようにしたけれど、
なにをどれだけしたところで、足りるはずがなかった。
父と母に、話したいこと、聞きたいことが砂漠の砂ほどにもあるように思えて
私は途方に暮れてしまうのである。


クリスマスがくる

2019-12-09 13:12:07 | 日記
12月に入り、ホノルルの街中もクリスマスのシティライトで飾られている。
夫の両親側の家も、一気にクリスマスぽくなってきた。
もみの木を買いに行ったのが、11月の終わり。
しばらくガレージに置いてあったもみの木を、家の中に運んだのが先週。
義両親は、クリスマスソングをかけながら、ツリーを飾り、
日に日に家の中がクリスマスになってゆく。

暖炉の前のもみの木

もみの木の、清浄な香りが家の中に満ちる。
この香りは大好きだ。

ダイニングにはハワイアンツリー
これは本物のもみの木じゃなく、プラスティック。
義父のお気に入りのミニチュア村

冷蔵庫のキッチンタオルもクリスマス

カウンターの隅っこも。

こんなコーナーにも。

まだまだ、玄関のドアに特大のリースが2個つくはずだし、
屋根裏から出してきていないクリスマスグッズもたくさんあるはず。
夫の両親は、ほんとうにこうやってクリスマスを楽しむのが好きなのだ。

クリスマスにかける情熱は、日本人の私にはどうしたってわからないもののひとつ。
夫は彼らの息子なのに、クリスマスに対する温度は私と同じ。
我が家にはクリスマスらしいものなど一つもない。
けれど、クリスマスの雰囲気を見るのは好きだ。
ただ、自分で飾り付けて楽しむのがめんどくさいだけ。

かといって、新年は日本式に祝うのかといえば、そうではない。
ハロウィンも、サンクスギビングデーも、クリスマスも、正月も、
なにも飾らず、誘いには乗るが自発的には何もやらず、
特別なことをするでもなく、行事にあった食べ物にも興味がない。
義両親やほかの家族のおかげで、季節のイベントにお相伴させてもらっているけれども、
年間行事とはまったく関係のない生活をしている私たち夫婦は、
おもしろくもなんともない人間のようじゃないか。


かろうじて、初もうでにはなるべく行くようにしている。
節分にも、お寺に行く。
それだけだ。

義両親が、自分たちでツリーを出したりできなくなってきたら
夫や私が代わりにやるようになるのだろうか。












頭につけたカーラーは。

2019-12-07 13:34:11 | 日記
職場で、韓国人と思われる若いカップルが歩いているのを見て、
私は思わず二度見した。
男の方が、額の上に何かくっつけている。
缶ジュースに近い大きさの円筒形の何かが、真横になって
額の上のほうにくっついているのだ。
じろじろ見ては悪いと思いつつも、何がついているのか気になる。
よく見ると、それは特大のピンクのカーラーだった。
缶ジュースかと思ったぐらいの大きさのカーラーに、薄い前髪を巻き付けてある。
彼は背が低くて、ちょっとぽっちゃり目で、童顔。
新婚さんなんだろう、笑顔満面でカーラーをつけて歩いている。
取り忘れ、なんてことはないよね。
奥さんのほうが指摘するにきまってるから。
じゃあ、あれは、何?
カーラーをつけたままでいることが、オシャレ、とかいうこと?
同僚に言うと、彼女もカーラーをつけたアジア人を見たことがあると言った。
「日本人かと思ったんだけど違った?」
そう聞かれると、自信はないけど、たぶん日本人ではないと思う。

日本と韓国は、いろんなことが似ている。

何かが流行ると(誰かが仕掛けるわけだけど)、一斉にワーっと広がって
それがファッションであれば、そこらじゅうに同じような恰好をした人が歩いている、ということになる。
若いほど価値があるのも似ているし、
女の子は派手な少女っぽいのがよくて、男の子は女みたいなのがいい。
お笑いのテレビ番組に、母国語なのにいちいち字幕がつくのも同じだ。


全国に流行がいきわたるには、アメリカは広すぎるのかもしれないけど
日本だってハワイから見ればじゅうぶんに広い。
全国をあげて流行に乗れるとは、やはり国民性もあるんじゃないかと思う。
日本人も韓国人も、人と同じということに安心する国民なのかもしれない。



夫にカーラーの話をしたら、
「女の子が顔を黒く塗っておばけみたいにするのが流行ったことあったよね」
あった、あった。
ヤマンバだったっけ?
だぼだぼのルーズソックスも、大流行りだったなあ。
トレーナーを腰に巻く、肩にかけてクビの前で結ぶのもあった。
男がみんなセカンドバッグを持っていたのはバブルの頃だ。
ポロシャツの襟を立てるのも、その頃。
聖子ちゃんカットも、流行ったなあ。あれは2割増し可愛くみえたもんだ。
真っ赤な口紅が流行ったあとは、肌色の口紅だった。
眉が太くて髪はソバージュの女性ばかり増えたこともあった。
ハマトラは私が美大に行き始めた頃に大流行していた。
もちろん私はハマトラなど関係なく、カンフーの上下とかで山手線に乗って通学してたけど。
どんどん古い話になってきて、若者はついてこれないだろうねえ。


流行とは、おもしろいもの。
熱が冷めてみると、なんであれが良かったんだろうと思う。
それにしても、カーラーつけて歩くのがかっこいいとは・・・・
子供の頃、近所に、頭にカーラーつけたオバサンがいたけど、
朝会っても、夕方会ってもカーラーはついたまんまで、
あのカーラーはいつ外されるんだろうか、と子供心に不思議に思った。
あの人は、今なら流行の先端じゃないか。(韓国だけども)









フタコブラクダ

2019-12-04 08:27:07 | 日記
仕事から帰宅すると、
先に帰っていた夫が、「オカエリー」と言ってハグをした。

が、

「え、ナニコレ?」

と言いながら私の背中を撫でた。
「何って何さ?」
腕を背中にまわしてみると、私の背中にはコブが二つあった

私はユニフォームの下に、いつもブラトップを着るのだが
それが後ろ前になっており、
胸の部分にあるパッドが背中にまわっていた。
背中にコブをつけたまま、8時間あまりも働いていた。

「気づかないものなのかなあ?」
笑いながら夫が首をかしげる。

そーですね。
スリッパの左右を履き間違えたみたいな違和感が、あるかもね。
豊満な胸がある人はね。
ええ、そうでしょうよ。

実は、これが初めてではない。
以前にも後ろ前に着ていたことがある。
その時は、仕事の合間に壁に寄りかかったら、
背中になにか柔らかいものが当たって、それで気づいた。
同僚にコブを見せて、ひとしきり笑ったのだった。
同じことを繰り返すとは情けない....
壁に寄りかかる暇もないほど忙しく働いていたという証拠だと、
働き者のフタコブラクダは一人言い訳をするのである。








揚げ物も冷めない距離 ヨメシュートメ

2019-12-02 09:42:44 | 日記
義両親の家に、私たち夫婦の家を増築して5年になる。

義両親の家の玄関の、
ガレージをはさんだ並びに
我が家の玄関がある。
中は、ガレージに続くドアと廊下でつながっている。
スープどころか、揚げ物も冷めない距離。
移住した当初は、増築する予定はなく、二世帯で楽しく暮らそうと全員が夢と希望に満ちていた。
けれど、現実は甘くなかった。
現役で大学教授だったシュートメは、常にストレスにさらされていて、
今よりもずっとピリピリしていたし、
何十年も二人きりで暮らしてきたペースが乱されることに戸惑っていたと思う。

私とて同じで、シュートメの機嫌を伺いつつ暮らすことに、ヘトヘトになった。
仕事がうまくいかなくて疲れている夫に、愚痴をこぼすのは憚られたけれど
他に言う人はいない。
いよいよ思い余って、それでも言葉を選んで夫に打ち明けた。
「私、おかーさんといるとリラックスできないんだよ」
すると夫が即座に言った。
「僕も」
へ?今、なんて?
母親の悪口は聞きたくないかと思って我慢していたのに。
それとも、半分は夫の思いやりだったのか。

ストレスがコップに溜まっていって、先に爆発したのはシュートメだった。

「あなたたちも、そろそろ、ホノルルに引っ越すか、日本に戻るか、
庭に家を建てるか決めたらどうなの、ってママが言っている」

と、義父に言わせたのだった。
ホノルルに引っ越すといっても、ホノルルに夫が持っていたコンドミニアムは先月売ってしまったし、
確かに夫は日本に戻りたい気持ちでいるけれど、
またいつかこちらの親が年取ったときに戻ってこなくてはならない。
じゃ、庭のあいているところに家でも建つか。

ということで、あっという間に話は決まり、シュートメの鬼の監督の甲斐あって
(やり手の女性の現場監督に、あなたたちのお母さん、半端じゃないわね、としみじみ言わせた)
私たちの住まいができたというわけだ。



私の叔母は、父の弟の嫁で、夫の親と同居したことがない。
叔母の息子が結婚して、家を2世帯に建て替えることになったとき、
叔母はいろんな決まり事を作った。
相手側の電話が鳴っていても、取らないとか、
毎週土曜日は2世帯で一緒に夕食を食べるとか、
雨が降っても相手の洗濯物は取り込まなくていいとか、そういったことだ。
そんなことを決めないほうがうまくいくよ、といくら私が言っても
決まりがあったほうが割り切って暮らせるからいい、の一点張り。

かくして、1階は親夫婦、2階は息子夫婦、キッチンとお風呂も別、の暮らしが始まった。
二世帯の暮らしはどうかと尋ねた私に、顔を曇らせつつ叔母が言った。
「土曜日に夕食を食べるんだけど、ヨーコさん、手ぶらで来るのよねー。
食材のかかりはみんなこっち持ちだし」
「私がヨーコさんでも、手ぶらで行くよ?」
「えっ、なんで?」
「だって下手に何か作って持っていって、私の手料理が口に合わないのかしらとか
思われても嫌だし、こっちの料理だって口に合うかわからんじゃん。
ごちそうさまですー、ってすましているほうが無難かなと思うさ」
「ええー、そうなのぉ?・・・・・・」
「合同の食事のときには1品持ってくるとか、決めればよかったんじゃないの」
私は意地悪な気持ちで皮肉を言ってしまったけど、
気心のまったく知れていない者同士、最初からうまく噛み合うわけがない。
しかし、うまくいくと希望に燃えて同居を始めた私だって、
叔母と同じなのである。



キッチンが別になり、顔を合わせることは前ほどなくなったけれど、
相手の気配だけはあるという暮らしは、1万倍も快適だ。
出かける時に、声をかけるべきかどうか迷ったのは最初の1か月。
一緒に夕食をとることも、3年目ぐらいから増えてきた。
押してみて、様子を見る。
引いてみて、様子を見る。
決まり事など、暮らしていく上で試行錯誤しながら、いつのまにかできるもの。
そしてそれは変わってゆくもの。

日本の叔母はどうしているだろうか。
最初の決まり事など、とっくになくなったはずだと思うけれど、
今度会ったら聞いてみたいと思う。