今日は本社への仕事始めの挨拶の為、大阪の難波へ。
サクッと挨拶は済ませ難波界隈の神社へお参り。
まぁ、そうは言ってもほとんど参拝した神社ばかりなのですが、
何故か今まで参拝していなかった敷津松之宮 へ。
神社は難波駅から一駅の大国町駅近くに鎮座しており、
電車でお参りするので大変助かります。
所在地:大阪府大阪市浪速区敷津西1-2-12
御祭神:素盞嗚尊、大国主命
創建:神功皇后御代
札所:大阪七福神、南海沿線七福神
【由緒】
社伝によれば神功皇后三韓を平定せられ、凱旋の砌住吉の社を定めて鎮座の後、
浦伝いに武内宿禰等を従え敷津浜を航し給える時、宿禰荒磯の岸に打寄せるをみて、
今より後はこれを境にして潮満ち寄する事なかれとて松樹三本を渚に植え、
素蓋鳴尊を祀り松の宮と称したのが当社の起源とある。
清和天皇貞観8年(866)僧円如はじめて京都祇園牛頭天王を播磨国唐崎より勧請の途次、
松之宮に立寄ったところ当社の祭神も牛頭天王と同神であるところから、
当社を祇園または牛頭天王社と称したという。
維新の際八阪神社と改め、明治26年6月改めて敷津松之宮と称した。
なお当社のはじめて鎮座し給うた地は現本社所在地より、
南約1.6キロを隔てた区内四条ケ辻にて、現在地に移建の時代は不明である。
また境内摂社大国主神社は宝暦年問出雲杵築の大社より勧請したもので、
安置の神像は出雲大社と同様で甲子の日は開扉のことがあり、
木津の大黒さんとして非常の賑わいを示している。
戦災後1924年4月社殿の建築が完成、大国主神社も本殿に合祀をみているが、
区内橘通5丁33に御旅所があり現在同社西成社となった。
【鳥居】
【境内】
【拝殿】
【大黒天】
【狛犬】
【大国主神社拝殿】
【狛鼠】
【楠稲荷神社】
【狛狐】
【木津勘助銅像】
【狛犬】
【石碑】
これにて敷津松之宮の参拝終了。
境内はちょっと殺風景かなぁ。
事前チェックでこの雰囲気が分かっていたので、
今まで参拝を敬遠していた理由かな。
御朱印はございますが今回は御朱印帳を持っていないので、
いただきませんでした。
サクッと挨拶は済ませ難波界隈の神社へお参り。
まぁ、そうは言ってもほとんど参拝した神社ばかりなのですが、
何故か今まで参拝していなかった敷津松之宮 へ。
神社は難波駅から一駅の大国町駅近くに鎮座しており、
電車でお参りするので大変助かります。
所在地:大阪府大阪市浪速区敷津西1-2-12
御祭神:素盞嗚尊、大国主命
創建:神功皇后御代
札所:大阪七福神、南海沿線七福神
【由緒】
社伝によれば神功皇后三韓を平定せられ、凱旋の砌住吉の社を定めて鎮座の後、
浦伝いに武内宿禰等を従え敷津浜を航し給える時、宿禰荒磯の岸に打寄せるをみて、
今より後はこれを境にして潮満ち寄する事なかれとて松樹三本を渚に植え、
素蓋鳴尊を祀り松の宮と称したのが当社の起源とある。
清和天皇貞観8年(866)僧円如はじめて京都祇園牛頭天王を播磨国唐崎より勧請の途次、
松之宮に立寄ったところ当社の祭神も牛頭天王と同神であるところから、
当社を祇園または牛頭天王社と称したという。
維新の際八阪神社と改め、明治26年6月改めて敷津松之宮と称した。
なお当社のはじめて鎮座し給うた地は現本社所在地より、
南約1.6キロを隔てた区内四条ケ辻にて、現在地に移建の時代は不明である。
また境内摂社大国主神社は宝暦年問出雲杵築の大社より勧請したもので、
安置の神像は出雲大社と同様で甲子の日は開扉のことがあり、
木津の大黒さんとして非常の賑わいを示している。
戦災後1924年4月社殿の建築が完成、大国主神社も本殿に合祀をみているが、
区内橘通5丁33に御旅所があり現在同社西成社となった。
【鳥居】
【境内】
【拝殿】
【大黒天】
【狛犬】
【大国主神社拝殿】
【狛鼠】
【楠稲荷神社】
【狛狐】
【木津勘助銅像】
【狛犬】
【石碑】
これにて敷津松之宮の参拝終了。
境内はちょっと殺風景かなぁ。
事前チェックでこの雰囲気が分かっていたので、
今まで参拝を敬遠していた理由かな。
御朱印はございますが今回は御朱印帳を持っていないので、
いただきませんでした。