愛宕トンネルを抜け標高23メートルの愛宕神社の裏側へ。
江戸時代この辺りは松平家等の武家屋敷や寺町が形成されており、
非常に重要な土地でした。
今となってはそんな感じはしない無機質な街になっていますが、
寺町としてお寺が幾つか現存しております。
その一つに「こんにゃく閻魔」という閻魔様が祀られているお寺があり、
それが興昭院です。
東京には縄で縛られたり塩を塗りたくられたりする石像がありますが、
こんにゃく閻魔とはその名の通りこんにゃくを貼られているのだろうか。
ここは檀家寺で本堂と墓地だけといった小さなお寺で、
普通なら通り過ぎるんですが、珍しい閻魔様を拝みたくて訪れました。
所在地:東京都港区虎ノ門3-10-8
宗派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
創建:天文2年(1533)
開山:不明
【縁起】
興昭院の歴史は古 く天文2年(1533)本寺天徳寺が天地庵といって、
紅葉山(現皇居内)に創建されたことに遡ります。
慶長16年(1611)天徳寺10世の時、西窪の現在地に移転し、
そのころ智相院(興昭院の中心)も創建。
寛永8年 (1631)随養院(興昭院の1つ)が開山されたと伝えられています。
嘉永3年(1850)麹町5丁目より出火した火災で類焼、
無住の教受院は再建でき ず随養院と合併されました。
明治16年(1883)安政以来大破した随養院が再建され、
随養院と教受院との両寺名を取って随教院と変更されます。
大正12年(1923)関東大震災の時、智相院・随教院ともに焼失しましたが、
阿弥陀三尊・不動尊・過去帳は持ち出し無事でした。
昭和3年(1928)智相院と随教院とを合併して智相山随教寺興昭院となり、
昭和18年(1943)本堂上棟式を行い、以来都心には稀少な木造寄棟瓦葺の御本堂が現存し、
静かにその歴史を刻み続けております。
【本堂】
このような地味なお寺です。
本堂は残念ながら閉まっていました。
まぁ、想定内です。
【内陣】
画像はネットで拾ったものです。
【こんにゃく閻魔】
こちらにいらっしゃるようです。
閻魔様って地獄の番人ですが、
江戸時代には何故か眼病の方が願掛けをし、
治るとお礼にこんにゃくを供えたそうです。
関東大震災の際に火をかぶって顏はよく分からないけど、
憤怒の表情だそうです。
【寺号石標】
【地蔵尊】
【聖観音菩薩】
【椿】
これにて興昭院の参拝終了。
御朱印は対応されていないそうです。
江戸時代この辺りは松平家等の武家屋敷や寺町が形成されており、
非常に重要な土地でした。
今となってはそんな感じはしない無機質な街になっていますが、
寺町としてお寺が幾つか現存しております。
その一つに「こんにゃく閻魔」という閻魔様が祀られているお寺があり、
それが興昭院です。
東京には縄で縛られたり塩を塗りたくられたりする石像がありますが、
こんにゃく閻魔とはその名の通りこんにゃくを貼られているのだろうか。
ここは檀家寺で本堂と墓地だけといった小さなお寺で、
普通なら通り過ぎるんですが、珍しい閻魔様を拝みたくて訪れました。
所在地:東京都港区虎ノ門3-10-8
宗派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
創建:天文2年(1533)
開山:不明
【縁起】
興昭院の歴史は古 く天文2年(1533)本寺天徳寺が天地庵といって、
紅葉山(現皇居内)に創建されたことに遡ります。
慶長16年(1611)天徳寺10世の時、西窪の現在地に移転し、
そのころ智相院(興昭院の中心)も創建。
寛永8年 (1631)随養院(興昭院の1つ)が開山されたと伝えられています。
嘉永3年(1850)麹町5丁目より出火した火災で類焼、
無住の教受院は再建でき ず随養院と合併されました。
明治16年(1883)安政以来大破した随養院が再建され、
随養院と教受院との両寺名を取って随教院と変更されます。
大正12年(1923)関東大震災の時、智相院・随教院ともに焼失しましたが、
阿弥陀三尊・不動尊・過去帳は持ち出し無事でした。
昭和3年(1928)智相院と随教院とを合併して智相山随教寺興昭院となり、
昭和18年(1943)本堂上棟式を行い、以来都心には稀少な木造寄棟瓦葺の御本堂が現存し、
静かにその歴史を刻み続けております。
【本堂】
このような地味なお寺です。
本堂は残念ながら閉まっていました。
まぁ、想定内です。
【内陣】
画像はネットで拾ったものです。
【こんにゃく閻魔】
こちらにいらっしゃるようです。
閻魔様って地獄の番人ですが、
江戸時代には何故か眼病の方が願掛けをし、
治るとお礼にこんにゃくを供えたそうです。
関東大震災の際に火をかぶって顏はよく分からないけど、
憤怒の表情だそうです。
【寺号石標】
【地蔵尊】
【聖観音菩薩】
【椿】
これにて興昭院の参拝終了。
御朱印は対応されていないそうです。